▼投稿原稿

椎名林檎 「正しい街」論 (浅井秀一)

【解題】
 現在、日芸在学生数名と僕との椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』の分析を目したメール座談会が実は密かに進行中なのだが、文芸学科3年の浅井秀一君は、その「言い出しっぺ」であり、司会進行役なのだった。彼はその座談会開始にあたり、自分の椎名林檎への見解を明らかにすべく、椎名林檎の重要な曲について、個別の見解をメールしてきた。それらを順に、当サイトの「投稿原稿」欄に公表してゆくことにする。まず第一弾は、『無罪モラトリアム』の第一曲「正しい街」にかんする論考。僕はこの曲については、「文藝別冊/総特集=宇多田ヒカル」に発表した宇多田論の冒頭にまず解釈を書き、その後、その訂正版を『実戦サブカルチャー講義』の椎名林檎の第2章目に書いた。そこでは部分的に浅井君の解釈と異なるところがある。たとえば、「赤い嘘」の「赤い」に僕は月経の血やヒステリーをみているし、「君が周りを無くした/あたしはそれを無視した」でも浅井君の出したふたつの読解方向性のうち、浅井君の採らなかったほうを拾い、しかももっと世俗的な読解をおこなっている。ということは、この浅井君の投稿は僕の論考と離反しているという意味で、僕自身が評価をしてはならないということになるのかもしれない。けれども保証する――これは素晴らしい原稿だと。僕が最もこの原稿を「買う」のは、林檎の歌を彼がよく「聴く」ことで、原稿の分析性が増大している点だ。とくに歌詞カード上に表記されていない、林檎の歌唱のなかにある声の余韻や間投詞的な声の漏れを認知することで、歌詞カード上の言葉が変質する契機を浅井君はよく掴んだといえるだろう。その醍醐味こそが、この原稿の最大の贈り物だとおもう。
(阿部)

椎名林檎 「正しい街」論 (浅井秀一)

椎名林檎「正しい街」における「ねえ~」のひしゃげた否定と、
「あ~」のノイズの肯定について

 確信犯的に仮面を描く、ベルギーの出身の画家アンソールの構図は、そのまま【椎名林檎】の『無罪モラトリアム』のジャケットに被さるということを、内田将二の撮影した写真は暴露しているのかもしれない。『無罪モラトリアム』と書かれた垂れ幕をもって裁判所から出てきたであろう男に競いあって記者やカメラマンがマイクやカメラを向ける加熱報道の様子が捉えられている。報道記者たちはここではアンソール絵画的な「多数の仮面」というべきだ。蝟集者のほとんどが男で、だから唯一女性の【椎名林檎】だけが際立つ。ここで問題なのは【椎名林檎】の目線が、内田将二のカメラを射抜くようにしてあることだろう。その視線はジャケットの静止界面を飛び越えて、CDを聴く側――ジャケットを見る側に直截に訴えかける。架空の裁判所で審議に付されたものとは何か。「モラトリアム」だ。第何審かは不明だが、とりあえずその判決は「無罪」だった。これら全体がその一枚の写真でトリッキーな作劇を構成している。アンソールも裁判官を戯画化して描いているが、そこでは、人間の生きるべき方向性を決定付ける権力的な者達という批判色が加味されていた。その超越的な権力者がひとたび「モラトリアム(アイデンティティの確立前に様々な自分の可能性を摸索するため社会的・文化的に、青年期に特有的に猶予が与えられていることの意――エリクソンの論考で一般化した用語)」を<有罪>ではなく<無罪>と決定したとき、その法を管轄する権力者自体が「モラトリアム」化する―――そういうことにならないだろうか。

 【椎名林檎】は逆転的な発想の持ち主だ。このトリッキーな作劇はだから即座に以下のように反転する。つまり「モラトリアム」を訴えること自体に、モラトリアムの有罪性が包含されているのである。そして、CDケースに挟み込まれた冊子。その表1をめくると、新宿(荻窪)と池袋を大きな蛇行を描きつつ結ぶ、地下鉄丸の内線の路線図が出てくる。そしてその丸の内線の経路のほぼ外周にある山手線、その<東京>から<新宿>までの航路のなかに、駅名空白の代わりというように、アルバムが収録する曲名が列挙されているのである。この図案を作成をしたのは、PV製作者でもある木村豊。この<東京>→<新宿>の楕円中の半円部分にしるされているのは以下の駅名(曲名)だ。<東京駅>→ 1・正しい街 2・歌舞伎町の女王 3・丸の内サディスティック 4・幸福論(悦楽編) 5 茜さす 帰路照らされど・・・ 6・シドと白昼夢 7・積み木遊び 8・ここでキスして 9・同じ夜 10・警告 11・モルヒネ →<新宿>駅。

 このような布置の明示から知れるように、このアルバムに次々と現れる曲は、全体的に<東京>→<新宿>への地勢ベクトルをほぼ描くといっていい。この鉄道路線地図の遥か埒外に【椎名林檎】の生まれ故郷福岡が存在する。そこまで含めると、この地図では、福岡空港(郊外・地方)→東京(中央)→新宿(都心)という運動線、つまりある型の「上京」を透かし彫りにしているということになる。

 これらの前提によって一曲目「正しい街」のもつ位相が明確化するのだ。「あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね」という唄いだし。詞中の「あの日飛び出した此の街」には椎名林檎の経歴を知らなければまずは抽象的な郊外が意識されるだろうが、歌詞細部に埋め込まれた地名は、街を即座に「福岡」と指標しはじめる。

 此の街=福岡=君「が正しかった」の後には、「のにね(ぇ~)」という、ひしゃげたねじれが加えられる。「正しかった」という意味は瞬時に相殺され、不協和音的な否定や懐疑にすぐに席を奪われてしまう。ここには以下の図式もある。過去は「正しかった」。「のに」、現在の東京から俯瞰する福岡には「ね(ぇ~)」と揶揄や否定の尾ひれが付属する。「街」のイメージが変容したのだ。歌詞の以後を斟酌すれば、さらに状況設定が明確化してくる。かつては自分が一体化していた「此の街=福岡=君」に、現在は「不愉快な笑みを向け」る。「長い沈黙の後更に態度を悪くした」。「正しい街」(郊外)にいまもいるのが「君」であり、歌の主体は中央にいる。つまり歌が描くかつての恋人同士は、いまは相互に異なる場所で暮らしている。歌は、立ち位置(郊外/中央)の齟齬・亀裂を描くのみではない。意図してマジョリティ(中央)からマイノリティ(郊外)への高圧的な態度をえぐっているのだ。同時に、このマジョリティのマイノリティとの対決は、マジョリティのマイノリティへの裏側の郷愁を分裂症状気味に語ってもいる(高圧と郷愁はここでは反射作用的なものとして考えられているだろう)。<冷たいアスファルト>は都会の代名詞的な役割を果たす。もっとも郊外の東京化・都市化が進む中で、<冷たいアスファルト>の獰猛な越境は続き、東京と福岡に<冷たいアスファルト>の境目が存在するかどうかの判断が困難になりつつある。ともあれ「あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね」以降の展開はメジャーからマイナーへのシフトであり、マジョリティからマイノリティへの場面転換を示唆しているように思える。

 そこでさらに明らかになる図式を整理してみよう。対比軸がある。「<不愉快>/<長い>/<態>度(AIの(愛・哀・逢い)韻を踏む)=私・東京・中央」VS「<冷たい>/<額>/<期待>(同形で韻を踏む)=君・福岡・郊外・地方」。【私】には以下のマイナス感情や負性がまつわっている。「<不愉快>→な笑みを向け<長い>→沈黙のあと態度を更に悪くしたら」。

 この沈黙のあとの「態度を更に悪くしたら」には感情のうねりがある。「長い沈黙」の後というところは、おそらく、【私】が探り合うように「君」への探査を続けたという事実を示唆しているはずだ(【林檎】が観察家であることの暗示……)。これがあるから歌の後の場面では、空港付近のどこかで会った瞬間に、歌の主体とその(元)恋人のあいだで、様々な感情がうねる瞬間が一種の詩的情景として思い浮べられることになる。長い沈黙は一年という期間に方向を違えた互いが描き出した亀裂の距離をむなしく示す。そこには決して埋まることのないほどの溝が出来ているという認知があるばかりではない。歌の主体は、悲しみを覆い隠すためそこに歪んだ性格を代位させるのだ。それが、「態度を更に悪くする」という歌詞に凝縮されたものだろう。

 その姿を歌の主体はまるで鏡を見るように客観的に俯瞰している。空港か何処かにある窓ガラスに映って見えた世界なのかもしれないが、離人症的な感覚が薄く察知される。「鏡面性」も危うい作用をする。「君」自身が鏡に映し出されたように、【私】も<冷たいアスファルト>に額を擦らせる――というように。本来は【私】の額と「君」の額が「擦りあう」ことで愛の交流が生まれるはずだった。なのに、「君」は<冷たいアスファルト>に額を擦らせている。もしくは<冷たいアスファルト>化した【私】の額を擦らせているのかもしれないが、そこで、「君」が「期待はずれの【あたし】を攻めて」いる。

 ここで、まず歌詞は第一段階のピークを迎える。埋まらないままの世界に、ちょっとした匂いが入り込むのだ。筆者は「君が周りを無くした あたしはそれを無視した」という2ラインをとりあえず以下のように解釈する。「君」は、【私】の上京で、<東京>の情景を無くした。そして、【私】は、その<東京>という情景が無くなることを「無視」した――というように。このような分解をおこなえば、歌詞の地勢的意味は極度に感傷的で切ないものと映りはじめる。

 すでに「さよなら」は一年前に告げられている。なのに「郊外」と「中央」に引き裂かれた関係は一年後、再度のキスに導かれる。そのふたつの時制のあいだに、挟み込まれた詩句が、「君が周りを無くした/【あたし】はそれを無視した」だった。挟み込まれたものはすれ違いを意味しているわけだから、その後の文脈とは、和解なのだが、それは女性が一瞬だけ、「君」を許していたということになるのかもしれない。一年後の一瞬の「許し」は、その前の「すれちがい」がごく僅かに包含していたものではなかったか。ここではそんな時間軸上の鏡面反射が感じられる。一年後の「君」は、前と同じように、【私】が飛び出し、捨てた「此の街・福岡」とイコールで結ばれていたはずだった。ところが額を擦らせているうちに、「君」自身が、溶け込むようにして、【私】に迫ってきた。それが不可解で、だから「君」自身にどのようなことがあったのか、【私】の気にかかり始めた――詩行の裏にはそんな感情の揺れが認められないだろうか。

 それが「どういう気持で」の詞に反映している。つまり「どういう」とは、それまで不愉快な表情をし、そして態度を悪くさせていたのに、突如として、不安になり、そして、また相手に対する再度の関心や興味が発露し、いつの間にか否定や懐疑を覚えていた「此の街」に、<東京>が急激に、一瞬にして塗りつぶされていくという感情変化の動揺をしるしているはずなのだ。しかも【私】はその理由がわからず、さらに心が揺らいでいる。

 「正しい街」は【私】の心理の不透明性を徹底的な描写力によって客観性の枠組で捉える。そのときの自己の突き放し、自己執着の放棄が凄まじいのだ。むろん表面的には、「【あたし】はそれを無視した」は、「「君」を無視した」と取られかれないが、「それ」が「君」を示すのか<東京>を示すのかは再問されなければならない。筆者は後者とそれを受け取った。

 ここでの【私】は、「君」には伝えられないほどの、不愉快な笑みを浮かべて会わなければいけないほどの「疎外された本音」を抱えていた(会わなくてもいいのに)。その「疎外」というテーマは、都市的「疎外」というテーマにも繋がる。絶対的な地方否定論者の顔をした【私】こそが、その地方をもっとも愛しながらも地方と相容れない関係を築きあげなければ生きてはいけない――しかもそのことは隠さなければならない。「短い嘘」はそんな「仮面」の哀しさを表現していると考えることも可能だろう。

 その後に「<短い>(あ~という小さいノイズの林檎の声が意味深に導入される)<赤い>(あ~)<疎外>(あ~)(再び韻を踏む)【私】」「<足らない>(あ~)<近い>(あ~)<理解>(あ~)(同形で韻を踏む)」が歌われる。これは、「<不愉快><長い><後態>度」と同じメロディーラインになっているが、「あ~」のノイズの導入は見過ごせない。

 ならば「<足らない>→言葉よりも<近い>→距離で<理解>→できた様に思うが」の詩行の流れはどうか。言葉を使いつつ、肌と肌の触れ合いなしに、結局はすれ違うよりも、言葉無しに、肌と肌を触れ方が、相手をより近く、そしてより確かに理解できたように思うという見解がここに圧縮されているのではないか。しかもこの述懐は、それ以前の、「冷たいアスファルト」化した<額>を擦り付ける行為によって、到来したのではないだろうか?

 また韻を踏む「<短い><赤い><疎外>」中の「赤」には、興奮を高める色という一般認知があるだろう。実際「赤」く塗りつぶされた部屋にいると心拍数が上がるといわれている。「疎外されていく本音を伏せた」は、そのような興奮とは裏腹の冷めた感情が存在し、その逆感情を伏せつつ、自らの「赤」い興奮に飲まれていく女性感情の常態が前提されていないか。その渦中に、感情の深部からつきあげ、こみあげてくるものがある。それは言葉にするより、「涙」することによってより有意味化される。それが「本音」を露出することだ。だからこの韻の後に導入された「あ~」のノイズは、女性の言葉にならない言葉を、多感情的に現しているとみえてくるのだ。歌唱は、歌詞カード以上の意味をつくりあげてゆく。

 恋愛(性愛)を永続性と刹那性、そのふたつに価値区分するとすれば、瞬時性の愛に【椎名林檎】は傾く。彼女の「大それた夢」は結婚とかではないにしろ、瞬時的な感情から一歩踏み出した持続性の愛ということになる。それは彼女にとっては「大それて」いて「夢」ということになるのかもしれない。

 ならば「可愛いひとなら捨てる程居るなんて云うくせに/どうして未だに君の横には誰一人居ないのかな」は何を意味しているか。それは、対立を意味しているはずで、そこでの対立も、さらに一般化するのではないか。つまり、≪「君」が捨てる程いる「私」を含めた多数の女性》VS《【私】を含めた多数の女性が否定した君≫というように。しかし、脱却できない相互の思い合いによって、対立の瞬時性が超越されてしまうことで、思い合いそれ自体が「大それた」「夢」に変貌するのだ。しかし、そこで瞬時的な否定が、まさに夢から目覚めたように声をリアルに上げている。

 【私】は、実は、東京という中央さえ捨て去り、海外(【椎名林檎】のイギリスへの生活の反映か?)へ行こうと空港に行く。何重もの同化否定。君=正しい街と同化しそうだった私は、その双方を捨てた。そして中央と【私】は同化しようと試みた。その中央をも私は捨てた。そのとき同化の起源だった「君」に最後の不和を投げかける。こうした歌の主体の行動原理は、おそらく、その空港の向こう側での世界でも、同じような運動の無限反復をかたどるだろうと予想される。だが、同化しそうな瞬間に断絶を組み込むことこそに、やはり【椎名林檎】の美学らしきものを見てしまう。

 「正しい街」の「ねえ~」のひしゃげた悪意の声と「あ~」の忘我や快楽のノイズ。「ねえ~」は凄まじい否定の声であり、そして「あ~」は、その否定すらをも「忘我」させる肯定の声になっている。その不連続的な絡み合いの中で、歌は最後に、冒頭の「あ~」という不安定な声の始まりに戻っていく。

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