▼未公開原稿

東京事変『大人』について

【解題】
現在、某版元に「縮むJポップ」という仮題の本を企画に出している。出るかどうか、わからない。異様な頁数だからだ。内容の中心は、05年度後期、早稲田二文でおこなったアーティスト別「Jポップ解析」講義の草稿。その本のため書き下ろしたのが、東京事変『大人』評だった。椎名林檎についてはアルバム別にずっと分析を続けてきたので、とりあえずはサイト閲覧者にもお目にかけておくことにする。
 なお、『大人』の分析は、06年前期の立教の「入門演習」でもおこなった。サイトアップが遅れたのは、その講義の生徒たちに、レポート提出前に以下のテキストを秘しておこうとおもったため。
このアルバムの分析は、これまでの林檎のアルバムでいちばん難しかったかもしれない。

東京事変『大人』について

大人になって弱って縮んだ私を見て

 椎名林檎が「縮み」はじめている。彼女が亀田誠治との共謀によってバンド=東京事変をつくってからとくにこの傾向が顕著になっている――そうおもう。一体どういうことか。まずはこの点を砕いて説明してみよう。

 彼女のソロアルバムでは――1st『無罪モラトリアム』が典型なのだが――1曲ごとに「歌の主体」が彼女自身コスチューム・プレイを愉しむように変化していった。それが歌唱の変幻自在性と有機的に融合していた。しかも当時の歌では、林檎の実年齢もあって、「主体」は、どんな精神性、どんな階層性、どんな恋愛状態にあろうとも、すべて「少女」の状態だった(「丸の内サディスティック」のように、主体に完全にOLが擬制されていようとも、それは変わらない=とくにあの曲はベンジー=浅井健一への恋情吐露によってそうなっていた)。

 つねづね主張するように、少女性は別の少女性を、その虚無の影までふくめて、あたかも機械運動の渦中にあるかのように無限連接してゆく。個人内のレベルにあっても集合のレベルにあっても、少女Aは少女Bと連なり、少女Bは少女Cと連なり……そうして少女性は全体で「領域」化し、それによって一人の/個々の少女の標的性=定位性が弱まり、それぞれ(の細部)が不可能な対象となって却ってその欲望客体性をつよめる、ということになる。むろんそうした少女性の「全体」はたえず新規更新の荒波に入り、それ自体が流砂化してゆくしかない。資本主義の目的論的な自己拡張運動と同じだ。

 その流砂のなかには一瞬、「少女像」がみえる。しかもそれは「一瞬」であることによって、「少女像」なのか「非・少女像」なのか弁別すらつかなくなる。それもまた、資本主義が自殺衝動的に「非・資本主義」の実質を自己進展のなかにちりばめるのと同じだ(ライブドア事件をみよ)。

 林檎『無罪モラトリアム』はその運動を90年代後半のJポップにおいて最もリアリスティックに(ということは最もファンタスティックに)体現した ――だから傑作だった。そして以上の指摘から分明なように――その運動性は、死の抑制をはらんではいても――熾烈なまでに拡張的だった――そうもいえるだろう。

 『無罪モラトリアム』、そして2nd『勝訴ストリップ』のプロデューサー(全曲の「編曲者」としてクレジットされている)がベーシスト、亀田誠治だった。亀田は林檎から提示された曲想にたいし、最適な「色彩」を付与する支え役だったといっていいだろう。林檎の希望も容れつつ録音には最適なミュージシャンが投入された。林檎の曲にはもともと幅があり、だからその幅に応じて曲ごとに色彩が変化すれば、ポップの要件、多数性も自然に実現できた。

 その林檎が「機械侵食」を受けたのが、オリジナル・フルアルバムとしては3rdに当たる『加爾基 精液 栗ノ花』だった。その打ち込み音で曲ごとの音世界を過激に刺繍したのは森俊之。そのとき別の意味で林檎の定位性=標的性がはぐらかされていって、アルバム全体が不穏な緊張感につつまれたとおもう。『加爾基』はその意味もあって林檎の新境地を開拓しつつ同時に一回性の傑作だったという判断だ。林檎自身が森のプロデュースと技術によって自身の another sideを示したい野心もあったのだろうが、多すぎる電子音のなかに浮遊する林檎の「声」は、侵食されることによって像の安定性を失い、それゆえ時に過激な「少女」となったのだった。ただしそれは林檎自身にとっては疲弊感を伴ったのではないか。

 そうして林檎はフロントに立ちながらバンドの一員であろうと試みる。むろんそれは林檎の存在力のせいで、バンドの衣の下に自身の像をちらつかせる=「後景に退く」ということにはならなかった。他メンバーが林檎をサポートする姿勢に、基本的な変化もない。それでも以前のように一曲の色彩の決定権を亀田一人がになわず、林檎をふくめた合同決定にしたのだとおもう。バンド音を「奏法の合議制」によって成員全体で確定してゆく際の、自発性の感触を温存すること。それは時に熱狂にいたるが、時に曲単体の色彩付与力を低下させる。だから東京事変の1st『教育』は以前のようなモコリや強弱の不統一感が解消されたとはいえ、演奏面では弱い面が部分的にあったとおもう(ただし、(6)「現実に於いて」-(7)「現実を嗤う」での流れにヨーロッパ/ドイツの色彩が雪崩れこみ、冷感症のインテリ女めいて音の体温が低下するくだりが見事だった=キーボードのH是都Mの個性に負うところ大だろう)。

 林檎がたえず求めている「連接」はどうなったか。単純にいえばそれが曲/演奏の共作となって現れたのだとおもう。林檎と、前述キーボード、H是都Mとの作詞作曲のクレジットは2例みられるが、シングルカットされた「群青日和」がとくに見事だった。そこでは作詞・歌唱で前面に出ている林檎が、作曲とバンド音のなかでは部分=破片化しているという二重構造がみられる。この二重性の同時生起は、ロック音楽における「没我」と高度な関連がある。林檎の音楽性は、その意味で性的にみたされたとおもう。

 『教育』の最も熾烈な局面に登場してきたのが誰とでも連接可能な娼婦性だった(これは少女性とは微妙に異なる)。娼婦性は演技によらず本質として体現されれば、当然「主体化」の契機をふくまない。無名化-匿名化する。『教育』はその最も芯の部分では恐怖効果をもっていて、その効果の付与を教育作用に隠していた(別の教育効果も併存しているので、単純な括りこみは慎まならなければならないが)。そしてこの無名化-匿名化が、「縮減」の作用を自己導入することにつながっていったのではないかとおもう。

 第一期東京事変からキーボードのH是都Mと美少年ギターの晝海幹音が脱退したのは、娼婦性を支持するというバンド構造の急進性に気づかなかったか、疲弊したかのどちらかではないか(脱退後の晝海のソロアルバム『文明交響型ウィルス』が、「旧い」歌詞用語を「新しい」肯定性でつないだだけの駄曲揃いだった点を勘案すれば、晝海については前者の可能性がつよい)。バンドマスターの位置にはずっと亀田がいるのだから、ギターが浮雲に、キーボードが伊澤一葉に変わってもバンドの骨格には変化がない。ただし、当然「人」が動いたのだから「色」は変わるだろう。

 さて、これから扱う東京事変の新アルバムは『大人』と命名されている。「アダルト」のルビが振られる。このネーミングには二重の意味があるだろう。アルバムを一聴してわかるが、多くの曲がアダルト・ムードをほぼ堅持している。ジャンルでいえば、ボサノバかジャズの歌メロ-コードが導入され、曲づくり自体には冒険がないものの余裕が窺われる。林檎自身の加齢がその導火線になって、「大人っぽい」歌を唄ってみました、という収録曲全体の「コスプレ」が実行されている。ロック要素はかなり低減し、エレキギターは装飾音のように演奏の裏面を縫う場面も多い(ただしむろんこれはCDアルバム対策だ――バンドとしてライヴ出場した場合には、バンドは演奏のたやすさもあって如実にロックを指向するだろう――その証拠として初回プレスのみに、最大限ロックバンド・アレンジされたアルバム収録曲「秘密」の別ヴァージョンがライヴ映像[DVD]として収められていたのだった)。

 収録曲からロック性を現状ありうるかぎりで脱色し、ジャズ-ボサノバ系列の曲を中心化してゆく――すると当然、「単調」が危惧されることになる(林檎の歌唱もこの点に関わって、後述するような微妙な変化を湛えだした)。その救世主に林檎は亀田を指名した。林檎が作詞をし、亀田が作曲した2曲「スーパースター」「透明人間」(それぞれが先メロで曲成立したのではないか)は林檎の指向するジャズ-ボサノバの「基本絨毯」に、別の金糸銀糸を縫い込んでくる、ジャンルとしては「ポップ」曲なのだった。

 以前なら林檎はこのような曲の混在を、自らの義務として果たした。それを今回は亀田に託した。バンド運営政策によってそうしたのだろう。自分の得手の曲は手ずからつくる――「ただし私のAnother Sideは今回はバンドメンバーで確保して」。一種の禅譲だ。ともすれば作曲能力低下の証拠ともされかねないこうした禅譲を林檎が許容したのは、それで保証されるのがバンドの一体性だという判断があったからではないだろうか。こうして林檎の、バンド「内部性」がより強化される。それを「縮減」だと名指したいのだった。

 林檎は、もう『無罪モラトリアム』の頃のように、限度に近づくように少女機械的=拡張的なのではない。考えてみよう――『無罪モラトリアム』の頃は、小室哲哉が領導したJポップシーン全体がバブリィ(根拠レス)なほど拡張的だった(この傾向はいまもavex音楽やR&B音楽に「錯誤」として引き継がれているが、これは余談)。だから勘のいい転轍器・林檎は、「別の型の拡張」を指し示す必要があった。現在のJポップシーンはヒットチャートが聴き手の耳の涵養という点で効力をもたず、ヒットチャート以外のミュージシャンの音楽の型も、おおむね「縮減型」がリアルで衝撃力をもつ――そう相場が決まりだした。だから林檎はここで「別の型の縮減」を、身をもって示した。これがネオ・ロック指向者の趣味とすれちがっただけだ。「歌」の本然的魅力をもとめる者には充分な魅力を各曲が湛えている。

 このとき多くの曲で彼女が標的にしてと聴き手の前に差し出したのが「加齢した自ら」ではなかったのか。唱法変化にそれがくっきりと感じられる(そのうえでの亀田作曲チューンの、狂奔的な童児性が対照化されているのではないか)。果敢な自己犠牲(注意すると、ここでは林檎の「つよさ」は「弱さ」として加工されている)。ただしギミックDVDをみると、ライヴでは「加齢した自ら」の差し出し方が変化するのだろう。羽根帽子、無表情、上体を動かさないこと、そして貫禄たっぷりの睥睨――そこではロックの歌姫と、たとえばディートリッヒの「立ちかた」の混淆が目指されている――そうおもうのだが。

 「大人」の語は、最終収録曲(11)「手紙」になってようやく具体的に出てくるだけだ。それでも聴き手は遡行的に気づく。すべての収録曲、その歌詞が、「大人」の様相・「大人」の武器・「大人」の処世・「大人」の恋愛・「大人」の陰惨をかたどっていたものだったと(その具体論については以下の各論で示す)。「大人になって」「弱って」「縮んだ」私をみて――それが林檎のメッセージであり、自己定位だ(だがその布置を亀田作曲チューンが巧妙に擦り抜ける点にも注意――そうなって、この林檎の自己定位が、このアルバムに限定的に仕掛けられたコスチュームの方向にすぎないと結論づけられるのではないか)。

 林檎の巧妙さ・バランス感覚は、大人としての自らを唄いながら決して「大人になれ」という「有機的=生産的」託宣をもたない点にある。たぶん彼女は年齢的に知っている――90年代前半、ここでは名前を明示する必要のない評論家たちによって、「大人になれ」の大合唱が起こり、その風潮が「新保守」として括られ、しかもそれへの反論のしがたさが彼らを醜く増長させてしまったことを。いまその時代の多くの論客が消えた。生き残った論客はもっと別の指針も内包していたのだ。AC(アダルト・チルドレン)に大人になれ、と御託を述べることは同語反復的な無意味にすぎない。あるいは却ってそれは彼らの幼児性を助長するだけだろう。林檎がこのアルバムでなしたことを端的に象徴化すればこうなる――「試しに大人に《なる》ことは一旦《大人の定位》であるかにみえて、そのじつ《大人-子供の弁別線》を炎上させることにほかならない」「だからやってみる価値がある」のだ、と。この事実に気づいて、林檎にしては比較的地味な曲が並ぶこの『大人』が、いい調子で耳に馴染んでくることになるだろう。以下は、収録各曲を細かく振り返ってゆく。

 (1)「秘密」=「何も云いたくない/今宵の口は」のメロ、ドレミでいうと“シーシーラーシーラーシー/ソーソーファファミーミー”は、CD劈頭のメロとしてぼやけている。ド・レを抜いたから、着地感を欠いているといってもいい。そのボヤケ=浮遊感の彩りにボサノバコードが使われ、アダルトなムードが漂ってくる。むろんこの程度の作曲能力は、林檎にしては自家薬籠中のものだ。

 ただし、効果は混淆的だ。ギターは音場の奥で火を噴きたそうな風情で小さく唸っているし、何よりも刃田綴色のドラムが、歌のジャンルに離反するようにドラムを連打してもいる。

 2聯「此処へ来てさあ早く」以下で、曲調がアレグロ化し、歌唱やコードに着地感の芯が入る。林檎はそこから、ブルージーな半音を探りあて、細かなトレモロも描きはじめる。曲のロック・モードが急上昇する。そう――A/Bの2パーツ構成の曲だった(そして、「淋しいのはあなたばかりじゃない」以下にCメロが現れる)。Bメロのバッキングの時点で伊澤一葉のピアノは、軽く転がりながら、ジャズ的な黒さを付加してゆく。ただし聴き手の眼床までが黒く暗むことはないだろう。この点が惜しい。

 林檎の歌詞全体は、『加爾基』『教育』時代の狂言綺語性からはずいぶん減退している(これを「縮減」の表れととるか、現在の聴き手のニーズへの正確な合致ととるか)。

 「歌の主体」は暗闇のベッドに裸身であらかじめ身を潜めている気色がある。部屋に入ってきたのが「教科書通りの慣用句」も操る、だが性的には「猛威を奮っている獣」。その獣にたいし、「此処へ来てさあ早く」と歌の主体が声をかける「誘惑の歌」だが、かつての「本能」(『勝訴ストリップ』所収)のようにセックスソング的な破礼があまり感じられない。ただ、この二人が禁忌上の仲だと考えるとヴィジョンが不意に恐怖的=美的になる。ふと重ねたのが、葛原妙子の次のような名吟だった――《ほのぼのとましろきかなやよこたはるロトの娘は父を誘(いざな)ふ》。「常套句」とは、世間常識の立場から女=娘を諌める言葉の謂だったのではないか。

 林檎の歌詞は、受容者を二重に設定しているだろう。つまり「淋しいのはあなたばかりじゃない」の一行が「俗情」に訴えるだろう点をそのまま放置している。だがむしろ問題は「夜」と「肉体」の扱いのほうだった。2聯の歌詞は、シンプルながら秀逸だとおもう。改めて全体を転記するとこうなる――《此処へ来てさあ早く/夜に食べられちゃあ勿体無い/誰も知らない内に/現在[いま]だけの素肌 引っ掻いてみて》。肉体は夜に侵食を受ける。それに抗うために、夜々の性儀があるということ。この身体観を何が支えているかは、2度目に到来したサビメロ=Bメロの歌詞でかなりはっきりしてくる。《身体[からだ]だけが証/夜を飲み込めば絶頂さ》。

 先に引いた歌詞と矛盾するようだが、そうではないだろう。夜=闇を自発的に飲むことと、夜=闇に、受動的に侵食を受けること、この二つには大きな径庭がある――林檎はたぶんそう主張している。

 少年犯罪や不可解な事件が起きれば、それをコメントする社会学者や心理学者、ジャーナリストは、異口同音に「心の闇」と合唱する。だが本当に闇なのは肉体だ。肉体の闇。その肉体はどのようにして救抜されるか。闇に囲まれ、それ自体が闇を放出し、闇と区別を失くす――「無化」されることによってではないか。そのようにしてこそ、魂を固定していた肉体の軛が消滅する。この歌の身体観とは、およそこのようなものだろう。

 肉体の闇の含有、闇の放出についての感覚は極東的だとおもう。荒木経惟『センチメンタルな旅』の被写体=荒木陽子や、80年代末期-90年代初頭、韓国のエロ傾斜した傑作映画がその証左となるだろう。そして身体への刻々の闇の浸透の捉えかたは、つげ義春の狂気の短篇マンガ「夜が掴む」を想えばいい。林檎はたしかにこれらの文化水脈に乗った、歌詞の提示をしているのだとおもう。となると、歌詞カード上の最終行《恐ろしい闇 無かったことにする為》が艶消しなのではないか。闇の到来は、悦びの到来と等価だ――それは一方が他方によって結果させる、陰惨な「自己消去」の絶対的な契機となるのだから。そうではないだろうか?

 間奏のリードギターはあまり買わない。「既存」フレーズの転用の域を超えず、発想が歌詞の隠しもっているものにたいしてチープという気がする。

 (2)「喧嘩上等」。チリチリとしたSP時代の針ノイズ、そして戦前のドイツの安酒場で流れていたようなピアノ(調律を微妙に狂わされている)の奥で、男の酩酊したような世迷言が漏れだしてくる。だが、歌詞カードをみると、これが男の「売り言葉」だとわかる。さらにドラムとベースが共同でビートを刻印しはじめると、林檎の歌唱がはじまる。ジャズとロックが理想的に相混ざったその歌唱は、「売り言葉」にたいする「買い言葉」。その歌詞の容赦のなさによって全体からパンキッシュな匂いも分泌されてくる。80年代のラウンジ・リザースが歌ものを演ったらこんな感じだろうか。林檎の声は金属的な掠れを伴っている。

 以後、歌詞は英語になる。英語歌唱は絶品だ。まず、試訳としてつくってみた訳詞を掲げてみよう。

悪いけど、あんたにはすごく腹を立ててるの
私をとりなすなら それに専心すべきよ
でももう遅すぎる あんたは最後の機会すら失くした――もう終わったの
あたしらのジレンマがどんなに酷かったか 一度たりとも気づこうとしなかったんだもの
やめて、図々しい!
何でわからない? 今度ぐらいは、私のやりかたに気づけよ
黙れ、悪ガキ、怒りんぼ
ホント あんたにはイラつく
いい? あんたをね、「キライ」なの

あんたは私をすっごく愛してるっていうんでしょ
たぶん それにはあたしも感謝しなくちゃ、だわ
でも、どれほど莫大な時間を無駄にしたか
あんたの言葉にはいつもまったく誠意が感じられないんだもの
お黙り!
やめて、自惚れ屋!
何でたわごとに付き合わなきゃならないのよっ
言ってること出鱈目、ウンザリ、支離滅裂!
トットと一人で(遠くへ)出ていくがいい
ホント あんたにはイラつく
いい? あんたをね、「キライ」なの!

 悪口雑言きわまれり、の感慨があるが、人が「大人」になるためには、たぶんこの能力が必須だ。相手にとっての自分を接近不能にさせなければ、「無駄」に翻弄されることになるためだ。教科書用語以外(ということは日本人には稀用語彙である)罵倒語が連打され、それが歌詞=発音の棘となり、ジャズパンクな歌唱の推進力ともなってゆく。列挙してみよう。cheeky=図々しい、naughty=悪ガキ、fussy=怒りんぼ、snooty=自惚れ屋、 iffy=あやふや、crappy=うんざり、scrappy=支離滅裂。むろん基底にある歌唱スピードも「暴力」になっている。

 アレンジの見事さは収録曲中、一、二を争うだろう。浮雲のギターのジャズ的な転がり。刃田のドラムは4ビートをドタドタやることでロック色に傾く。ギターと林檎のスキャットのユニゾンは墜落寸前の綱渡り感覚もあって、林檎が自らのジャズ歌唱に、アルバムを追うごとに磨きをかけている実感が灯る。

 むろん「逆説」がある。罵倒語を連打できるこのエネルギーは、むしろ相手への執着を問わず語りしているのだった。逆に考えるとわかる――真に嫌いな相手は、単に無視すればいいのだから。そう考えると、この曲の位相が「切なさ」にズレ込む。この二重構造を味わうべき曲なのだった。

 (3)「化粧直し」=70年代の女性二流ポップス歌手の、シングルカットされない、アルバム収録曲のような感触。何とは名指せないが、不思議な既聴感がある。むろんこの「不思議な既聴感」は、自らの不在性を聴き手への使嗾の根拠とする、ポップスの力学に則ったものだ。

 出だしの装飾フレーズののち、浮雲のアコースティック・ボサノバギターは、等間隔のストロークを柔らかく刻むが、この等間隔性が罠だ。実はスピードの「見えない狂奔」を内蔵しているのだった。林檎はその上に、声を延ばしながらではあるが、間歇的に歌詞の一音ずつを置いてゆく。これが気味悪いほど冷静で、演奏の加速欲求を減退させる動因となっている。だからここには奇妙な「ダウナー性」が嗅がれなければならない。あるいはこういえばいい――ここでは、「等間隔性のグルーヴ」と「等間隔性のダウナー」が、静かな緊張感を終始保ちつつせめぎあっている――と。だから演奏が高度だという判定が出る。

 林檎が設定したキーは限度的に低く、それゆえに中性的な響きをもつ。「ヒステリック」や「少女性」を減算したこの声をもちいると林檎の声はいつも松任谷由実に似てくるが、以前より艶が増した。というか、そういう形容では足りないほどの「静かな魔性」すら感じる。平凡にみえて大好きな曲(歌唱)だ。

 曲調はありがちなボサノバ。これも、林檎の作曲能力なら「想定内」。低い音域のAメロから、伸びやかなBメロへと歌が自然に伸長してゆく。朝、男が去って、部屋に残った女が孤独を噛みしめている。後朝(きぬぎぬ)の一旦の別れというより、「永訣」の雰囲気が濃い。女は前日の性愛の寝床で、自らの悪か裏切りか怪物性を証ししてしまったのだろうか。孤独に戻った女の視界が「異変」のように変化してゆく。もともと部屋は白壁だったのだろうが、女が「涙眼」となっているから、《白く濁っていく》。空間が時間に転位され、《過去は遥かな霧の様》。女は運命の変調にたいし世界の変調を越権的にもとめる―― 《今朝の別れが雨なら良い》。

 (1)「秘密」と同じように、「俗情」にたいして撒かれた疑似餌がある。サビメロの歌詞、《貴方に逢って孤独を知った/だから失って今更ながらまた貴方を識った》。失恋経験をもつ者なら通常にもつ心理機制だろう。だが、「不在こそ真の実在に転化する」という見解は、敗北主義者の自己防衛心理ではなく、自らの心理が同定性を失ってゆく段階で生ずる「恐怖の逆説」と呼ぶべきだ。失恋を、たとえば「私は初めて本当のひとり」と気づくための試練だと、この歌詞からリテラルに考えれば、それは「大人の処方箋」にそれ相応になりうるが、不在を実在と思い誤ることによって陥る暗闇はメランコリーか狂気にもなる。そうした両刃の剣を隠して、歌唱は「平静」や「通常」を装う。その「装い」に狂気の感覚が滲んでいるのだった。冒頭、《70年代の女性二流ポップス歌手のアルバム収録曲のような感触》とつい書いたが、とてもこうは唄えないだろう。

 この受容態度が穿ちすぎでないという立証は、歌詞のほんの一部からなされる。《馨る枇杷[A] 二人の庭はとうに朽ち傷んでいる[B]/何度もさようならを言い過ぎて[C]》。一読、「美しい」「凄愴美」といわれるだろう。だがBの一節から湧きあがってくる腐臭は、Aの濃厚な芳香と矛盾する。結果、嗅覚が狂的に行き迷う。CはBの部分の原因提示だが、実はここでは因果律が微妙にズレている。結果、聴き手の「理性」もまた狂的に行き迷うのだった。そう、この歌はこうした「小さな亀裂」を凝視すると、一瞬にして恐怖相が裏返ってくる潜勢を秘めている。この点が歌唱-演奏の方式と「パラレル」なのだった。その意味では、結果的に「平行」だけが抽象的に視覚化されている。だから、電子的なエフェクター処理をつかって「パレード」を印象させる間奏部分も、単なる白昼夢=「平行世界」にすぎない。

 (4)「スーパースター」。朝日新聞でのアルバム・プロモート記事に、この歌の「スーパースター」は、イチローでも中村勘三郎でもいい――認知されている「スーパースター」なら誰でも代入可能だという林檎自身の発言が紹介されていた。真に受ける者はいないだろう。「スーパースター」の位置に代入すべき者は実在しない。というか、「不在」こそが「スーパースター」の要件のはずだ。林檎は聴き手をいつも「場合分け」して虚言で自らを一旦飾る。だからナイーヴなインタビュー発言尊重者はいつもどおり笑いの対象になるだろう。音楽はテキスト主義者のように「ただ聴けば」いい。ミュージシャンの発言を事大主義的に導入してくる者は、往々にして音楽の物質的組成・展開をスルーする。

 冒頭、スーパースターの発言というより、その者のたたずまいから読み取られた言葉が、引用符つき、文脈の前提を欠いて、突然引用される。《未来は不知[しらん]顔さ、自分で創って[い]く》。これをローコードのオカズを入れたリズムギターだけで伴奏すれば、往年の名曲、「月に負け犬」の出だしと似た印象が完全に生じただろうが、亀田がアレンジに指向したものは、もっとプラスチックな人工性だった。だからジミ・ヘン型のバラードとは別の感触が生じてくる(よくできた展開の曲だとおもう)。「スーパースター」の託宣は2番冒頭にもある。《答えは無限大さ、自分で造って[い]く》。

 これらの言葉はふたつながらに、現実や時間への自己参入を促した、それ自体は「真実」「肯定的な」愛情発言だと受け取られるだろう。林檎は亀田の配したポップなメロに埋めた歌詞で、そうした「スーパースター」の対象肯定力にたいし、いまの《か弱い今日の私では/これでは未だ厭だ》と、気弱な自己否定を重ねてゆく。《枯れ行く葉が相変わらず地面を護っている》。「それでも」《そんな大地蹴って歩いては声を探すの》という自写像。ここでは「けなげ」「求道的」といった、同調的な称賛が割り込む余地もある。アルバム全体の「大人」の主題と照準を合わせれば、青年期にありがちな自己否定から脱し、自己肯定=行為への参入を実現して「大人」になる道が説かれている――そんな解釈すら出てきそうだ。

 だがそれでは亀田が領導した「ポップ」が受容から抜け落ちてしまう。このアルバムの「大人」の多くは、皮肉な二重構造のなかに置かれている――この点を再想起しなければならない。「スーパースター」の位置測定が問題なのだった。たとえばそれが雲のうえにでもいるなら、歌全体が「宗教者」の自戒となる。その「スーパースター」も「歌の主体」=「私」の心のなかに「実在」しているだろう。ところが、この歌の「スーパースター」は、たまたまTVのなかに現れている「私」にとっての「偶有」だと最後のタネ明かしがおこなわれたのだった。「それ」は「私」にとって実在していない――これが第一の皮肉。だがその非在性によって「私」はそれを遊戯的に指針とできる――これが第二の皮肉(TV的現代から「私」は毒を注射されているが、もうそれを「所与」としている)。そして神=「スーパースター」の要件とは、いつでもその非在性にほかならない――この見極めが第三の皮肉となる。ここに第四の皮肉があるとすれば、歌のいちばん奥まで捲れば生じてくる絶望的なヴィジョンが、ポップな糖衣にくるまれている点だろう。ただその「ポップ」は一元的には歌中の「スーパースター」の人工性を仄めかしているのだった。

 (5)「修羅場」。TVドラマ『大奥』(連れ合いが、内山理名・小池栄子・藤原紀香・江波杏子・高岡早紀・北村一輝・谷原章介らの演技を絶賛していた)の主題歌につかわれ当アルバムのリリースに先行してシングルカットされたものとは別ヴァージョン=adult ver.となっている。元来のハードロック的色彩に代わって導入されたのは、ここでもバンド演奏に可能なレベルでの人工性。浮雲のギターは、人工的な音色で、人工的な奏法(細かい4音を間歇的に歌バックに織り込む、など)を目論む。亀田のベースも、チョッパー横行時代のファンキーを、構成音無視で貫いているように、筆者の年齢の耳には聴える。

 TV局の番組Pが、林檎のこの曲を得て、「大奥」の世界との見事な合致を手放しで礼讚していた新聞記事をTVで観た記憶があるが、この曲に接した者は情緒的・認識論的な混乱に陥るのが正しい反応だろう。なぜなら――ドラマの「江戸」にたいし、「通い婚」の横行した(しかも男性=殿上人が女性=官女より徹底的に優位にあり、しかもその貴族社会の外側では純粋恋愛が成立していなかった)「平安ピリオド」に、舞台がなぜか設定されているためだ(そのうえで、不安定な古語の使用がある)。平安的「妄想愛」――しかも「恐怖」も宿るそれを愉しめ、という誘いが、ここでは「大人」に向けられた処方箋となっている。

 たった一度、御簀の向こうにみた「貴方」の腕の白さに、女が妄執する。その妄執は限度を知らず、やがては実在の「貴方」の首筋までもを透明化させてゆく。男は女の恋を羽化直前で腐らせるサナギだ(手塚治虫『どろろ』にそんな化け物が出て来たような錯覚)。それほどの「懸想」なら、女が積極的に対象に向かえばよいのに、そうはならない。むろんひとつの要因は平安ピリオドの時代的な抑圧だが、この「歌の主体」はそうした禁制を自らの恋愛のロマン化に悪用する現代女にすぎない、と読む必要もある。「私」は、「貴方」に会うと、言葉を使う「私」の喉から「貴方が零れ出て溢れよう」と恐れをなしている(この姿は、麻酔を受けたら秘めたる不倫の思いをうわ言で口外してしまうと恐怖する――だから手術を自分の命に代えてまで拒否する――鏡花『外科室』のヒロインとかよう)[※ただし《喉を使えば貴方が零れ出で溢れよう》はリテラルにはフェラチオの表現としかみえない――このアブナさによって、女が「現代の」「妄想女」だという認知が生じてくるのだった)。

 歌の時代=舞台設定の錯誤は、「娑羅双樹」の語にもみえる(《仰いだら――・灰色に誘[いざな]う娑羅双樹/一層この侭繁らないとて厭わない》という歌詞の自己縮減、見事に不気味だ)。『平家物語』の冒頭によって親炙したこの語句の時代指標は「平安以後」だが、やはり江戸ではない。「江戸っぽい」のは実は、人の移動が顕著になりだした点を前提にした、「(編)笠の雪」の語だけかもしれない。むろん歌の全体主題=「忍恋」も歌合わせの題となるほどの新古今時代の大テーマだった。

 林檎はなぜこのような「時代錯誤」を仕込んだのだろうか。筆者と同じように林檎も、アナクロを積極推進するが、レトロを毛嫌いするという心性をもっているのではないか。たとえば現在、Jポップのひとつの潮流となっている「昭和歌謡」。60年代末期-70年代中期の日本の歌謡曲=ポップスはむろん歌メロのうえでは強烈だった。それは歌詞の言葉数の少なさによってその時代のメロディが、いまとちがい「無理なく」飛躍できたことが要因だし、職業作曲家のプロフェッショナルな技術力に負うところも多いだろう。そしていま不在で当時肝要だったのは、ポップなメロディを、そのどこかで日本化する抜群の平衡感覚だった。宮川泰・すぎやまこういち・筒美京平などの才能を考えてみれば、この点が自明だろう。

 林檎は当然、「歌舞伎町の女王」によって、この昭和歌謡の趨勢に先鞭をつけた。そうして生まれた潮流の最大果実が、クレイジー・ケン・バンドだったり、GO!GO!7188だったりしたというのが相場的判断だろう。ただ、それらの音楽は60年代ポップスの「パンチ」を蘇らせる効力をもったとしても、音楽の着地点がほぼ連想可能な安全圏=「ノスタルジー」なのだった。「歌舞伎町の女王」のような歌詞の毒に達していないからそんな事態が惹起されたのだとおもう。しかも、こうしたノスタルジーは「ラーメン博物館」や映画『ALWAYS・三丁目の夕日』などを嚆矢として、いま資本にますます恣意的に操作されている。ならば――ノスタルジーと似て非なる毒、「アナクロニズム」を持ち出さなければならない――林檎はそう考え、この「修羅場」にアナクロの混乱を盛ったのではないか。

 混乱はとくに擬古文によった1番・2番の歌詞冒頭に顕著だ。《・短夜半夏、嘘を眩むとぞ・/疑うなんて浅ましいです》《・笠の雪の、自然が災ひや・黒ばむ前科[まえ]に労働[はたら]きます》。前者は、「一年の季節、夜の最も浅い夏至に、その浅さに乗じて貴方の真心を疑うことこそ浅ましい――と心に描いた自分の気持の嘘が、早くものぼり染めた朝日に眩んでいる」くらいの、懸詞を介在させた註解が必要なのかもしれない。後者はどうか。これも試みの解釈。「旅の編笠に黒ばむほどに顔を隠し諸国をさまよっても、傘に積まれた雪が私の恋心をしるく表してしまう――そのことによって私の恋の前科が痛むのだが、この痛みによってこそ、諸国を歩くという私の労働に拍車がかかるのです」ぐらいか。ただし、「林檎語」の極みはいつも解釈の多元性を呼びこむという事実を忘れてはならない。

 歌メロの分析を飛ばしていた。導入されているのはやはりボサノバ調だ。ただし「化粧直し」に較べると、ボサノバの「正統」よりさらに「歌謡曲」の混入度がつよく、時に入る林檎の歌唱のスラーにわずかに「ロック」色が揺曳する。確かに林檎は、中庸を保ちつつ気持よさそうに唄っていて、それで歌唱の細部のニュアンスが小さな幅で縮減的に出ている。眼でいう凝視に耳の聴取が値する。そして曲が進むにしたがって、浮雲のギターと、伊澤の電子ピアノが、ジャジィ/ファンキーへと傾き、フレーズの砕片を散らしてゆく。うまい演奏だとおもうが、どこかで「悪達者」ゆえに心に響かない憾みものこす。シングル・ヴァージョンのほうがこのみだが、曲の「罠」の明示のために必要だったヴァージョン変化だともおもう。

 (6)「雪国」。前曲から「吹雪」の擬音を受け継ぎ、曲間否定で演奏・歌唱が開始される(言い忘れていたが、曲間否定はこのアルバム全体の法則だった)。コロコロ舞う伊澤のピアノの支えを受け、林檎の伸びる歌唱が入りこんでゆく。マイナーコードの、陰翳を帯びた展開(Bメロ中、「女は泣けば」の「ば」の部分の、意表をついたブルージーで極点的なコードのズレが、この歌の作曲達成の中心だろう――続く「男が逃げる」の「る」には久方ぶりに林檎風「巻き舌」が混在している)。といえば、曲の「印象モード」がすぐ判明する――シャンソンだ。

 題名は「雪国」だが、雪深い宿の女、「駒子」と通い客の性愛の進展を追った川端康成『雪国』とはほぼ関連がないとおもう。歌詞の主題は前曲から継がれ「女の妄恋」。だが「邪恋」といったほうがいいかもしれない。

 林檎の歌唱はしかしドラマチック・シャンソンの逆をゆく。ここでも可能なかぎり自身の「個性」を矯め、小さな幅で小さな情感の兆候を細かにちりばめてゆく(この林檎を聴き、政治的なアジテーションから遠く、最も発声を固定するように唄ったときのダグマー・クラウゼを想起した――ただしやはり林檎の声は曲が進むにしたがってより金属的な掠れをつよめてゆき、最後には自分の歌唱の印象モードをパンクに移す――演奏もまた、それにほぼ従う)。しかし最初に出現した、この「小ささ」が、逆に濃さ・奥深さに転位する。題名「雪国」の地圏は、まさにそうした印象にこそ接合されている。

 混乱の印象と多義性の解釈を呼びこむ「林檎語調」。ただし歌詞全体は、次のような布置を前提すれば把握が可能だろう。南下していった男がいる。旅鴉か。春先の季節。「南」ではもう梅の花が綻びている。女は雪の「結界」のなかに残された。そんな仕儀になったのも、女の執着がつよすぎ、男が逃げ出したためだ。女はいったん関係修復を心願した。いちおう小田原が二人の落合い場所。ただ、女は、《取り返す様な無粋はしないこと》とすでに覚悟を決めている。そう、女は、男の殺害(無理心中)をいつしか思い描いていたのだった。そうしないと、「雪の結界」のなかで徒らに凍え死ぬだけだからだ。

 「恋の成就」による関係継続と「相手の消失」による無関係継続は、その継続性において変わりがない――そうした人生解釈の柔軟性を、この歌は「大人の処方箋」としているのかもしれない。ずいぶん破壊的な見解だが。あるいは愛恋の拘束によって自由を奪うと、相手のやくざな男が、相手ではなくなってしまう――そんな良識も働いているのかもしれない。ただし女の「犯罪」はこの歌の終結時には「未然」だ。その「未然」性のなかには、密かな救抜も忍びこんでいる。「歌の主体」は林檎の分身ではない。林檎はむしろその主体を「鳥瞰」している。

 さて、この歌に設定された時代はいつか。こちらは江戸ではないか。「溢(こぼ)れ梅」などの古語、また登場する地名「小田原」も、箱根の関の手前、「出女に、入り鉄砲」のころの江戸の「限定的」地勢を印象させる。「咲(わら)う」はむろん古語の用例に準拠したもの。往古においては、「咲く」=「笑う」には、弁別が設けられていなかった。つまりそのように、幸福でアニミスティックな自然観が人心を満たしていたということだ。歌における女の述懐は、そうしたアニミズムの側に彼女自身がいる点を示す。そうした感性の時(代)差が、男との齟齬、その殺害を志す女の悲劇を呼んでいるという整理も可能だろう。それは「現代」の到来によって埋められたのか。判断はしないが、このとき、「女の側にアニミズムが残っている」という多くの人間の信念そのものが審問に付されることになるだろう。

 前言したように、林檎の歌唱は、静かな抑制のなかに、つよい情感をはらんではいる。ただ、この曲はアルバム全体のシンメトリー構成のなかで、中心線に位置する曲にふさわしい豊饒な内容をふくんでいない。だからこのアルバムは曲タイトルの並びの字面にシンメトリー構成が相変わらず墨守されていても、シンメトリー上の位置的対応曲が照りあって、曲の意味が乱反射的に増大してゆく以前のような構成美学が不在――そう感じた。

 アルバムの時空間の組成において厳密さをこのように断念したこと。同時に、収録各曲が速効性の強度ではなく、遅効性の純度に傾いたということ。ただし、アルバムの曲の並びによって全体の解釈がゆるやかに到来する以前のような美点と、曲自体が聴き手にゆるやかに迫ってきて、その真髄をおもむろに結像させる現在の傾向には、実は大きなちがいもないのではないか。要するに、双方ともにリピート再生が利くのだから。

 林檎自身の「現れ」は、その分でたしかに弱くなった。それは繰り返すように、現在の音楽シーンでは「縮減」の語で好意的に括られるべきものだとおもう。

 (7)「歌舞伎」。前曲終了時の狂奔をこの曲の冒頭がそのまま受け継ぐ。ボコーダーをかけられ変形した林檎の声が、パンキッシュな演奏の裏側で囁かれ、歌詞が蕩尽されてゆく。パンクと80年代ニューウェイヴを「合体」させ、そこにサイケな歪みを介在させたような演算だけの演奏。曲調が速いだけではなく、崩壊図式を内包させてもいて、実は、英語曲というハンデがあるものの、収録曲中1、2を争ってフェイバリットなのがこの曲だった。80年代ニューウェイヴの女の子たちの――「身体改造」手前の、黒い衣服による「黒い縮減」(それ自体はエレガントだった)が感じられる。まずは英語歌詞(試訳)を左記しよう。

何か冷やっこいことしてみませんこと?
後ろ暗いことでもあって?
ヒメゴトをお知り遊ばせませんこと?
嗚呼、もうあたし、記憶なくしちゃってますわ

おお来ますわ、ぐんぐん来ます。
どうぞ止めないで ――って、あなた、どちら様だっけ?
とても疲れましたわ、あなたウンザリさせるんだもの
でも気にしてない、私たちってアマーイ仲、さうぢやなくて?

もっとしてみませんこと? どうかしら?
たれかお嫌いな方、おあり?
ヒメゴトをお知り遊ばせませんこと?
うっぷい! 御免遊あせ まだ何も起こっちゃなかった。。。

おお来ますわ ぐわんぐわん来ます。
どうぞ止めないで ――って、ファック野郎のあんた、誰?
とても疲れましたわ、あなたウンザリさせるんだもの
でも気にしてない、私たちってアマーイ仲、さうぢやなくて?

あなた、私らの仲間に入りなさいよ、いらっしゃいな、来なってば 来い!
恥しがるなんて滑稽 ――って、あなた、どちら様だっけ?
さうよ、イイ感じ、このゾクゾクなゴージャス感
ねえ お聴きになって――私たちってまるで「事変」じゃありません?

(誰が?)
(いえ、いえ)
(さうよ 来て来て)

 この試訳で判明するように、「歌の主体」は誘惑者だ。「悪」(主に性愛に関わるようだが、麻薬の匂いもかすかにする)を使嗾している。しかも誘った相手自身を、時に不安定に同定できなくもなる。ということは女=「歌の主体」は、アルコールかドラッグによって脳神経なり思考力なりを犯されているという判断が生ずる。これが「大人の惨状」。ともあれこの曲こそ、このアルバムの頽廃の最大振幅だった。

 この英語歌詞は発声される最終一行で逆転する。「見立て替え」がここで促され、これまで追ってきた歌詞に、遡行的な意味変貌がもたらされるのだった。その一行――《We are all “incidents"》。字義どおりの解釈をすれば、「私たちなんて事故のようにもたらされた偶然の仲にすぎない」という謂だが、“incident" はバンド名「東京事変」の英語名“Tokyo Incident”のincident=「事変」でもある。つまりこれは聴き手に“Join the band”と誘う、バンドテーマ曲としても機能するのだった。ただし念頭に置かなければならないのは、東京事変が頽廃バンドとして(フィクショナルに)設定されているということ。その歌姫=林檎もジャンキーなのだった。《We are all “incidents"》のフレーズ自体は70年代末期、一世を風靡した機械文明のサイボーグパンクバンド、DEVOのバンドテーマ曲の一節、“We are devo. D-E-V-O”(俺たちゃ「退化」)と印象がカブる(そういえば、この曲のギターにはテクノ・シンセサイザーのような響きをもたせている)。林檎の英語発声の不良性が絶品だ。

 題名「歌舞伎」とは何か。「歌舞伎」の語源、「傾(かぶ)き=不良性に傾くこと」が意識されているだろう。そうした気概どおり、曲は展開に欠落を抱えたままの畸型性を押し通し、最後、キでハナを括ったようなカデンツァ・エンディング(崩壊感覚が見事)、アメリカン・ミュージックの終わりを「安っぽく」模倣する。その瞬間まで「粘る」ように持続してゆく疾走性が凄い。

 (8)「ブラックアウト」。曲想が弱いとおもう。設定も卑俗。OLとサラリーマンがいて、終電ギリギリで山の手線に同僚たちとともに乗るが、女は男に、抜け駆けしてラブホにでも連れてってとこっそり誘っている。「大人の惨状」だろう。酩酊に任せてのことだ。だが男は煮え切らない。「哀しく汚され何時もより撓やかに忘れたいのさ」と歌中にあるが、「哀しく」であって「美しく」ではない。そしてここでは「ブラックアウト」という存在の消去に関わる語が、「抜け駆け」の意味しかもちえない。曲は「昭和歌謡」(ホザノバ・コードの)。スピーディな演奏が試みられている。だが耳底がざわめかない。かつての「やっつけ仕事」にあったフレーズ、《銀座線 終電何時?/然して問題じゃ無いか》の、期待と自己放棄を綯混ぜにした「哀しさ」がないのだ。林檎は「人形」めいて唄う。演奏は単純に及第点を出す心づもりでそれを追う。チェンバロめいたキーボード音が転がっても、最初からの掛け違いは戻らない。

 (9)「黄昏泣き」。グッドオールドタイム・ジャズ、あるいはガーシュイン音楽の参照。ここではカクテルピアノの軽い転がりはガラス製の上質を想わせるし、嵌め殺しの、高層の大きなガラス窓からは、夜景がゴージャスに瞬いているような、視覚性も伴われる。

 歌は、単純な「大人の」ラブソング-「関係密着性の恐怖」-「母子関係の描写」、その三層として把握されるだろう。2層目については以下に注目しなければならない。1番-2番の細部対応のなかにある、「関係性逆転」の対句がそれだ。いわく――《最初からあなたには/わたししかいない》-《最期までわたしには/あなたしかいない》。この逆転可能の構造が、相互の過度の(窒息的な)関係密着を問わず語りする。1番目の結句《嘘も闇も眠ってしまえば直(じき)/還りゆこうや》、2番目の結句《身も心も宿ったその生命へ/注がんと》、ともに安寧にみちた関係性への提案ともとれるし、「死」の誘いともとれる(だからこその「最期」の用語か)。そのように林檎は意味の結像性を注意ぶかく曖昧にしている。

 冒頭、《茜色が誘っている泪を拭いましょう》(このフレーズからタイトルが由来している)には自然の時間進行そのものが、馬齢を重ねた者には催涙的だという認知も入っているかもしれない。そして前述《身も心も宿ったその生命》のみを顕微鏡で拡大すると、歌が描いている男女関係が、母子関係をふくむものではないかという判断可能性も生まれる。そう、林檎『加爾基』以来のテーマだが、ここでは深追いしない。

 冒頭の「茜」の語は、林檎ファンには《偶には怖がらず明日を迎えてみたいのに》などの不安も表明する「茜さす 帰路照らされど―――」(『無罪モラトリアム』所収)をふと想起させるだろう。「黄昏泣き」の林檎の歌唱は微妙だ。童女の真摯(声がダウン気味になっている)と、大人のゴージャスと、母親の落着きが、それぞれ混淆されているのではないか。カラフルに聴える。それで定番とはいえ、コード進行の安定に下支えされた名唱になったといえるだろう。いずれ林檎は、サラ・ヴォーンのような下半身溶解力で、この手の歌を唄うのではないか。

 (10)「透明人間」。ポップチューン。速度にもコード進行にも、使用楽器の配合にも、奏法の配合にも解放感がある(最初、ゴリゴリ響く亀田のベースは80年代的な色彩を湛えている)。デビュー時の林檎がたえず比較された戸川純=ヤプーズの音楽に、意図的に近づこうというイタズラ心が隠されているかもしれない。

 この歌の林檎の発声は「可愛さ」全開だ。年齢詐称的といいたいほど(笑)。むろんこの歌で初めて、「歌の主体」に「僕」という男性代名詞(しかも少年か幼年)が選択されての措置ではある。ともあれ「大人の女の諸相」がさまざま展覧されてきたこのアルバムに、予想できなかった「奇妙な異質」がここで初めて混入したことになる。これは意図的なのか? 不注意なのか? その判断次第で、アルバム全体の出来判断が左右されるような、これはアルバム随一の重要曲なのではないか(そして大好きな曲だ)。

 ともあれ、「歌の主体」=「僕」は、「透明人間」だと最初にマニフェストされる。もう「透明人間」の語は、「酒鬼薔薇聖斗」の神戸連続児童殺傷事件を経由した以上、その犯行声明文中の「透明人間」を想起せざるをえない。当時の識者は、その語=「透明人間」を、社会疎外者=学校疎外者特有の立脚や署名の不能性と受け取った。筆者自身は、それは証拠をのこさぬ犯罪への無限の出没可能性と字義どおり受け取ったほうがいいと当時主張した。ただ、この歌での「透明人間」には、天使にちかい至純と、同時に人間的な切なさ――その双方を感じる。本質的に「酒鬼薔薇」と同質なもの、同時にそれとは分離的なものとで二重構成され、しかも「悪人正機説」ではないが、「神に近い」=天使性もある、のだった。

 主体の設定把握はやや複雑な過程を辿らざるをえない。まず歌詞を引用なしに散文的に読解してみよう。

 (狂気も手伝ってか)「透明人間」と自称する少年。風景のなかでの自分の稀薄感に喘いでいる。そうした自分の属性は、同じく稀薄な人間に見抜かれてしまうだろう。街はおよそそんな人間であふれかえっているのだ。

 ただ「僕」が「僕」であるために――「僕」は、自らの稀薄さを受け止め、呼吸さえ気づかれず、足跡さえ残さず、街を通過しなければならない。秘密は街のそれぞれの住人がもっている。ただしそんなものはすぐに「野晒し」になってしまう(公にされて、最後には人の口端に上らぬほどに陳腐化してしまう)[「僕」のような「透明人間」だけが秘密を保ちうるのは、やがて短期間で本当にこの世から消失してしまうからなんだ]。

 で、決定的に肯定的な歌句が来る――《好きなひとやものなら有り過ぎる程有るんだ 鮮やかな色々》。この部分(歌メロがもう、限度的に「可愛い」)、2番では次の歌句に照応する――《一つ一つこの手で触れて確かめたいんだ 鮮やかな色々》。稀薄な者、「もうじきおのれが消失するがゆえに、自分のいる世界の価値を知る者」こそが、世界の価値=「複数性」「同時性」、そして《何かを悪いと云うのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ》というべき「絶対肯定性」を手中にすることができる。そのままでは「僕」は「絶対」になる。だが世界進行のバランスがそれを許さない。だから「僕」は「中途で消える」。

 《好きなひとやものなら有り過ぎる程有るんだ 鮮やかな色々》は林檎の1、2を争う名曲、「月に負け犬」(『勝訴ストリップ』所収)の冒頭一節、《好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ》を即座に想起させるが、周到に肯定性へと逆転されている。ところがこの「肯定性」が「ケナゲ」とかいう以前に、もう前提として催涙的なのではないだろうか。たとえば印刷されているこの歌の最後の聯は、こうした催涙性にこそ接続している――《恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら/濁りそうになったんだ/今夜は暮れる空の尊い模様を真っ直ぐに仰いでいる/明日も幸せに思えるさ[…]》。

 ただ、こうやって歌詞をみてきても、まだ「大人の、時に凄惨な生の諸相」を展覧するこの『大人』に、この歌の主体のような、少年=透明人間≒天使がなぜ現れるのかが分明にならない。それはサビメロに注視することで可能になる。1番《あなたが笑ったり飛んだり大きく驚いたとき/透き通る気持ちでちゃんと応えたいのさ》、2番《あなたが怒ったり泣いたり声すら失ったとき/透き通る気持ちを分けてあげたいのさ》。そう、ここで生ずる二人称「あなた」こそが、歌の第一の主体「透明人間」によって照射された第二の主体――つまりこのアルバムがずっと追ってきた「大人(の女)」なのだった。

 詳述はしないが、歌詞を読むと、「透明人間」到来の意味は、「大人(の女)」にとっては恐怖の漸減にあるとわかる。この透明人間にはべつだん天使性があると考えなくてもいいのではないか。つまり「親密で」「慎ましやかで」「目立たぬ」者から「反照」を受けてこそ、人は初めて「恐怖」を分離した「大人」として定位される――この歌のメッセージはこの点にあったのではないか。そしてその「大人(の女)」は「透明人間」の「僕」がすでに気づいているように、世界の価値=「複数性」「同時性」「絶対肯定性」に気づくよう善導される。そのように世界の多数性を手なづければ、「大人(の女)」ももう《好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ》といった、「同調力」をもつ聴き手の胸を抉るような、哀しい(存在論的)嗟嘆を漏らすことがなくなるだろう。

 この「透明人間」が「透明」なのは、その位相に無限の誰もを代入可能だからだ。「定座」はそのように透明化されていなければならない。ならばその反照によって大人を世界の複数性へと導く「透明人間」は、その当該の大人の恋人・伴侶・友人・息子・娘――そう、何でも「ありうる」ということになる。アルバム『大人』は「大人」をずっと展覧してきたが、実際の「大人」にたいして複雑な判断留保性ではなく、実定的なメッセージを発するのは実はこの曲だけだろう。

 そのとき「逆説」があった。「歌の主体」をそのまま「大人」にしてしまうと、その歌はメッセージ発信体として自同律を病むことになるのだ。だから、この歌では別の主体として最もニュートラルなもの――すなわち、「透明人間」が持ち出されたのではないか。

 ただし、歌は「歌の主体」=「僕」の絶対的固有性を最後のフレーズでまた滲ませる。だからこの明るい歌が「泣ける」。「透明人間」はいう――《またあなたに逢えるのを楽しみに待って/さようなら》。この「さようなら」には実は「永訣」の予感があるのだった(林檎は感覚の逆説性を利用している)。彼は二度と再び帰らない。「二度と再び帰らない」ことによって、「定座」の透明な、無限の代入可能性が解かれ、「かけがえのなさ」「代替不能性」「唯一性」 ――つまり「この世に存在した者、そのひとだけの特有の息づかいの実質」(何物にも代え難いもの)が滲むように――痛ましく浮上してくる。そしておそらく ――そう気づいたとき「その対象」はもういない――それが人の世の常ではないだろうか。曲調が明るいだけにかえって哀しみが極まるこの曲の達成は、高度というほかない(リピート聴取すると、拍手の電子的効果音や電子的ピコピコ音を模すギターフレーズ、あるいは演奏終結寸前のフレーズの遊戯性ですら催涙性へと変貌する)。このアルバムの収録曲全体を「締めあげる」メタの位置に立つのは、この「透明人間」だけではないだろうか。

 (11)「手紙」。最終曲。かつての『加爾基』の最終曲、「葬列」が(ほぼ)そうだったように、この歌は手紙文を林檎が唄うという形式によっている。そして曲調の優美もそのまま映されている。筆者は「葬列」にかんして、「エディット・ピアフは電話帳を唄っても聴衆を泣かすだろう」というコクトーの言葉をかつて紹介した記憶がある。林檎は「葬列」同様、そのように唄っている。バッキングは、「イスエタデイ」や「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」のように、弦楽4重奏の色彩が実現されている(これも「葬列」写し――むろんシンセにより模されたものだ)。

 通常の聴き手は、この歌にこそメタ・メッセージ性をみるかもしれない。呼びかけられる二人称「貴方」には、このアルバムが展覧してきた「大人」を総合する気分が籠められているとおもう。そして手紙文の主体=「私」も「大人」なのだが、「私はずっと唄っている」というフレーズがあるので、林檎自身と擬制されても構わない――そういう作り手の意志もここにみえているのだった(この歌は作詞・編曲が林檎、作曲がキーボードの伊澤一葉)。

 「貴方」は恐怖の渦中にかつて(このアルバムを聴くまで)はあった。ところがいま「貴方」は勇をみずから鼓し、道を進もうとしている。もう悲哀によって手で眼を被っても、眼は手の向こう、遠くの真実の所在を感知している。「自己=自己」の逼塞を、貴方は解かれた。そのことにたいして「私」は―― 《祈ってるよ。貴方の色が、どんなに酷く澱んだって変わらないさ。伝えたこと、遥か遠くで方位を失っても、どうか憶えていて》。もう完全に、アルバム終結に際しての別れのメッセージなのだった。

 ただ若干の危惧を覚えるのは、そうしたメッセージ伝達の前提になっている、「聴き手⇔演奏主体」の対照定位がわかりやすすぎるという点ではないだろうか。たしかに綺麗な曲だ。エンディングにふさわしくもある。しかし本当は、ここで再度の「攪乱」がほしかった。むろんそれは椎名林檎=東京事変という、本当の「音楽の可能態」こそへの注文にすぎないのだが。

 端的な総括をすれば、東京事変は派手さを欠くが、「縮減」について考えぬいた傑作『大人(アダルト)』を、前作『教育』に続き、また放った――そういうことになる。

(書き下ろし、06年2月)

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