▼未公開原稿
七尾旅人『蜂雀』評
【解題】
河出書房新社から04年1月にJポップ本を出すことになった。内容は出てのお愉しみ、ということにしよう。既発表原稿と書き下ろし原稿の二面構成にはなっているのだけれども。ただ、既発表原稿部分が膨れあがりすぎ、予定していた書き下ろし部分が大幅に少なくなってしまった。そうして収録を断念したひとつが七尾旅人『蜂雀』評。発表する機会を失うのも惜しいので、以下に掲載することにする。この『蜂雀』、すごい傑作だよ。未聴のかたにはぜひ購入をお薦めしておきます。
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七尾旅人『蜂雀』評
中間性の魔力/夜盗の孤独
七尾旅人(たびと)があのメリーゴーランド的な夢幻サウンドを手放した――03年五月に出た新譜『蜂雀』のことだ。「ひきがたり・ものがたり vol.1」と副題されているように、このアルバムでは弾き語りの可能性が、音響派の概念も援用しつつ追求されている。題名「蜂雀」は、5曲目「まほろば」を聴くと、「ハミングバード」とも発音する(意味する)とわかる(7曲目「七日間」では「はちすずめ」と発音されている)。ただ、「蜂(昆虫)-雀(鳥)」という語の合成形態から自明なように、筆者にはそれがアルバム全体の描く世界の曖昧な中間形態をも含意しているようにもみえる(それは吉田喜重がそのメキシコ紀行『メヒコ 歓ばしき隠喩』でかつて詳細に言及した「ハチドリ」を想起させるネーミングだ――「中間性」はそこでは「把握不能性」や「カラフルさ」にスリかわった)。だがここでは、七尾的音楽世界の「男性性」-「女性性」の融合がとくに意味されているだろう。同時に、「蜂雀」が「雀蜂」の倒立形でもあることから、やはりアルバム全体は、七尾的な「倒錯」をも指標しているようにおもう。そしてこの場合の「倒錯」は、後述するように、ファンタジックな「音の誘惑」がファンタジックな「悪の使嗾」と同時出来してしまう、旅人の音楽の特異な様相から導きだされるということになる。
七尾旅人は、ギター、鍵盤楽器のみならず、さまざまな楽器を使いこなすマルチミュージシャンだ。そして宅録派。つまり、コンピュータを駆使して、自分の演奏を貼り付け=サンプリングすることがこれまでは多かった(アルバム参加ミュージシャンの数はその意味で最小となる)。その彼の以前のフルアルバム『雨に撃たえば…! disc2』や二枚組フルアルバム『ヘヴンリィ・パンク・アダージョ』は、印象的にいえば、シンセを中心にした鍵盤楽器が、楽曲の中心にあるような感触があった。ただ、単音ではなくコードを奏でる鍵盤楽器は、それだけで一個の「音宇宙」をつくってしまう。それでは構築的すぎる(そのため絶頂期――70年代後期――のデヴィッド・マレイがピアノのコンボ参加を嫌ったのもある程度有名な話かもしれない)。それで結果的には旅人は今度のアルバムで、歌伴奏としてのギター演奏にのみ、楽器使用を絞った(音響派的なサンプリングを除外していえばそうなるだろう)。しかも曲によっては演奏音の構成が、歌メロのそれをふくまないような配慮も払われている。それで、「歌+ギター演奏」の加算式が明瞭になり、歌とギターのギリギリの最小要素で音宇宙が確定するようになったのだ――しかも複雑に。
これはたぶん弾き語りの可能性を音楽的に追求する意図から出たことだとおもう。そしてその音の最小性によって、歌のもつ肌触りがこれまでのアルバムよりもさらに前面化した。歌が直截に迫ってくる(それに以前のアルバムでは彼の発声のほとんどが夢幻的/夢魔的「ウィスパー」だった)。すると旅人の意外な「男らしさ」もが際立ってくる(その歌唱方法には友部正人との共通性がある)。筆者はそれで彼の今度のアルバムが、同じ宅録派=弾き語りのパラダイス・ガラージ=豊田道倫の肌合いと似ているとさえおもった(豊田はローファイ指向だが)。だから今度の七尾の歌/演奏音は、筆者が「ユリイカ」でパラダイス・ガラージを語るために援用した谷川雁の一節をも想起させるようになる。端折って再録しよう――《聴衆がきいているのはどうも音そのものではないらしい。弾奏と朗誦をぴったりあった二枚貝にしようとする、そのすきまからこぼれおちる生の悲哀に耳をかたむけているのだと言いたいほどです》(『意識の海のものがたりへ』)。
ただ、誤解なきようにいえば、そうした弾き語り発想を重視したからといって、七尾旅人が「フォーキー」な領域に頽落してしまったわけではない。彼の天才的な作曲能力はこれまでと同様、聴き手を――それが男性聴取者であっても――「少女のように」陶然とさせる。旅人の以前のアルバムではそうした作用「のみ」に聴き手の躯がくるまれるような感覚があったとおもう。ところが今度はほぼ、「歌+伴奏ギター」のシンプルな加算式で押し通されるから、そうした陶酔感になお、余禄が生ずるのだ。
まず、音のつくりが単純化され、同時にアルバム全体の構成(曲の並び)も単純化したことから、曲発想の美しさがよりはっきりした輪郭で感知されるようになった。そして曖昧で黒魔術(白魔術)的な濛気に包まれていた旅人の「存在論」も、はっきりと孤独な焦点を結ぶようになった(曲によっては歌詞の意味結像性が相変わらず「意図的に」低い曲もあるのだが)。旅人の音に「天使の羽毛」的なやわらかさがあるのを承知のうえでいうが、そうした意味では今回の『蜂雀』はジョン・レノン『ジョンの魂』的な正面性をもっている。なおかつ、旅人の使用するコードは美の印象とストレンジ感をこれまでと同様に保ちつづける。しかも、ほぼ同時期に出た二階堂和美『また おとしましたよ』と同じく、音響派的アプローチの今日的発展のかたちが追求されてもいる(みな、ジム・オルークをそのようにして血肉化しているということだろう)。そう、もうおわかりのように――「ギター+歌」というシンプルな加算式なのに、ここでは以上述べた意味で複雑な諸効果が図られているということになる。アルバムタイトルにみられる、蜂-雀的な「中間形態」とは音楽的にはこうした領域を指示しているのだろう。
この点、何度聴いても筆者は感嘆してしまう。このアルバムをこれまでの旅人のアルバムでも最もよく聴く理由も、そんなところにあるのだろう。「歌の力」「歌の翼」を筆者はずっと求めていて、彼の『蜂雀』はその要求に合致したのだった。邦楽にかぎっていえば筆者がよく聴いている今年発表のアルバムは、ほかにふたつある――椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』と、先述した二階堂和美『また おとしましたよ』だ。つまり、うち2枚が「音響派的アプローチ」ということになる。その意味では何か、旅人とニカちゃんで、「音響派」の秘密と威力がついにしめされたという気もする。「音響派」はそれ以前は筆者にとってそうではなかった。ジム・オルークにしてもジム・オルーク参加のソニック・ユースにしてもジョン・ファーヘイにしても、筆者は2度3度聴いたあとはCD棚にうっちゃっておくということが多かった。つまり「音響派」音楽は加算される何かをずっと待っていたのだ。その「何か」とは――つづめていえば、本然的な歌や声、ということになるだろう。
シンプルな音の構成をとったということで、楽曲の美しさの輪郭がよりはっきりするという点を指摘した。使用コードを計測したわけではないが、単純な印象のみをいっておこう。七尾旅人の曲の夢幻性は、メジャーコード/マイナーコードの、非フォーク的(つまり楽理的)な点滅にある。旅人は曲の進展に応じ、メジャーコード/マイナーコードに非常に微妙な展開をもたせるのだ。しかもひとつのコードは、直前コードからの「反映」を受け、陰翳をも帯びる。その陰翳が、当該コードがメジャーであってもマイナーと錯聴させる効果を導きだす。そしてその翳りの刻々の進展こそが、メリーゴーランドの回転――夢幻性をもたらすということだ。
この点、七尾旅人の音楽の美しさは、明瞭にビートルズという先例をもっているということになる。とくにマッカートニーの「ミッシェル」やレノンの「ビコーズ」のように、とりわけ複雑な楽曲。「ミッシェル」では曲中コードが楽理上は1フレット、ズレているのではないかという指摘や、その構成音がメジャーコードかマイナーコードか、どちらか判別できないという音楽的指摘があった点が知られているとおもう。ただ、そうした「ズレ」が現代的な聴覚にとってより美しく響くのであれば、楽理からの容喙など不要だ。主眼に置かれるべきは、手探りでみつけだした「雰囲気」の正しさのほうだ。ポール・マッカートニーは譜面読み/採譜ができないらしいが、七尾旅人はできるだろう。つまり旅人の作曲能力の秘密とは、マッカートニーが手探りで発見した「雰囲気」を、楽理化し、それを譜面反映できる点にあるのではないか。
それと旅人のアコギのギター奏法がどの程度の達成をしめしているかも一考されなければならないだろう。たぶんそれはピアノ発想で導きだした音を、ギターのフレット上に還元してゆくという方法を採っているとおもう。だからそれはマッカートニーの「ブラック・バード」、ジェイムス・テイラーの「スウィート・ベイビー・ジェイムス」、あるいは幾つかのポール・サイモンの曲のようにオリジナルなギター発想によるものではない。ただ、ピアノ→ギターという経路からギターではじきだす音を導くという発想が、ギター・ストロークをただコードによって当てはめてゆくフォーク類型に、旅人の曲を近づけない歯止めとなっている。たとえば彼のはじくアルペジオは、音としてはごく単純なのに、それをコード還元するとすごく複雑になる。このときの「ピアノ-ギター」の相互往還が、実は奏法に中間的な色合いを帯びさせる。その中間性だけで演奏のほとんどがやれると考えた旅人は、英断をしめしたといえるだろう。つまり、だからこそ、ギターの透明な中間性のうえに、歌がシンプルに乗りながら、非フォーキーな美しさをそこに発現することができたのだった。なお、「ピアノ-ギター」の相互往還が逆の目をもたらすことがある――ギタリストの弾くピアノがそれだ。このときはピアニスト的発想から離れたそのピアノが、非ピアノ的という意味で、これまた中間的な美しさを生成してゆくことになる――たとえばジョン・レノンの「セクシイ・セイディ」のように。
*
これから収録されている全7曲を、一曲ずつ手短に追ってゆくことにしよう。
一曲目「線路沿い花吹雪」。アコギのストロークからはじまる。そのさいのコード変換自体は、やや複雑とはいえフォークにもありうるものだ。やがてギターは単弦奏法となり、ここにフォークではありえない(発想力ある)メロディアスな歌メロが乗りはじめる。そして歌がコーラス部分にいたると、ギターはデミニッシュコードを駆使したストロークへとさらに転ずる。この曲のメロディはずっと似た感触でつらなるが、細部が多様に変化している。Aメロ-Bメロ-Cメロといった区分が成り立ちにくく、ずっと分裂症的に「展開」してゆくのだ。
歌詞。女の子が歌の主体だ。恋人との別れが、相手との同棲部屋からひとり離れてゆく姿をとおしてまずスケッチされる。少女はやがて線路際を歩みはじめる。「蒼天(ブルーヘヴン)」という、旅人的なタームが美しいメロで唄われる。しかもそれが一種の「ジャンク」感と結びつけられるがゆえに、そこから微妙にふるえる美が感知されだす。《最低の声がたちのぼる 息をつめる/ポケットはビスケの粉だらけ りんぷんのよう/ちょうちょの羽 わたしもほしい/それを こちらに投げつけな》。この粉状のものの「ポロポロ」感が、唄われる存在の「ジャンク」感を一方では印象づける。「最低の声」とは嗚咽を我慢する呻きだろう。他方、「ビスケの粉→りんぷん→羽」という詩句の聯想的連鎖、そこにまつわる視点の定まらなさもまた、美しい「ジャンク」感として機能する。詩の着想の横ズレ――そこに微かに滲む崩落感。季節設定は夏だ。「最悪の季節」という述懐が入る(「夏に疲れて」という、シェーンベルクの関わった暗く美しいドイツ・リートを憶いだす)。
そしてやはり旅人の歌だけあって「天使」が登場する――《あのこたち/光の乱反射のように/鋭角に飛ぶよ》。そうして叙される景色のなかで、線路際を歩む少女に花吹雪が舞う。この花は何か――桜だろう。夏に季節外の花弁が舞うという幻視の状態が唄われているのだ。七尾旅人が歌手なら、そんな判断が生ずる。そして終わりのほうの《震動がやって来る/震動が近づいて来る》。一見、「予言」風に響くこの詩句は、実は枕木のうえを歩く女の子に、列車が近づいてきているという情景を描いたものとおもいなおされるだろう。しかもそれには「姿の見えない列車」という限定辞がつく。歌は最終的に設問する。そんな列車が近づいてきたとしても、女の子は鉄道自殺をするため、線路を離れないのではないだろうか、と。しかもそれは「姿の見えない列車」であるかぎり、象徴的自殺の域に終始するのだ。
二曲目「月の輪」。アルペジオと短いリフが曲想の変化するまでつづく。ちょっと竪琴に似た響きに音が変化させられていて、そこに呟くような旅人の歌が乗る。空から落ちてきたゴーレム(ドイツをふくめた東欧民間伝説の怪物――詳しくはグスタフ・マイリンクの傑作怪奇小説『ゴーレム』や、種村季弘の諸論考を参照――巨大な一種の泥人形だが、額に「真理=エメス」の文字が書かれたため、魔術師の操縦に委ねられるようになった)が歌の主体。ゴーレムにもむろん「ジャンク」感がある。しかも彼はその巨大な駆をもって歩くだけで人間の地上を破壊するという哀しみももっている。これを抽象化すれば、ここではあらゆる者の、「肉体をもつ哀しみ」が唄われているといってもいいだろう。《招かれもせず、パーティへ》の一行の疎外感。しかも彼は敵に囲繞される。そのときの懇願《銃口を、下に向けないか》が、すごく美しいメロディで唄われて、戦慄が走りだす。《屋根の群れ、綺麗綺麗綺麗…》にある「綺麗」の連打には、筆者はツジコノリコ「TOKYO」と同じ用法をおもった。最後、ゴーレムは撃たれる。しかもそののち、「天使」への呼びかけが入り、「線路」の語がまた召喚されることから、ここで1「線路沿い花吹雪」との連接をみることにもなる。このさい、ギターの向こうにサンプリングによって音階化させたのだろうか、マラカス的なリズム音が入ってくるのだが、この音とギターの加算がまさに「音響派」の発想だ。これもすごく美しい。
三曲目「ぎやまん」。歌詞は古語的な奥行をもった語が多用され、筆者は四畳半フォーク時のケメ(佐藤公彦)を少し聯想した。ただ、音楽性はぜんぜんちがう――むろん旅人のほうが高い。どういうことか。この曲ではちょっと琵琶風に響きを変えたギターアルペジオが奏でられるのだが、その分散された音を小説単位で和音化すれば、不協和音になるのだとおもう。しかもそこに三味線が入ってくる。この三味線ははじめ打楽器的な奏法を打ち出すのだが、曲の進展につれて、津軽三味線のようにロック的なアドリブフレーズをちりばめてくる。しかもこのギターアルペジオ-三味線-歌メロには相互の音階を相互が含みあわないような併置が意図されていて、それで結果的に出てくる音が複雑な不協和の美しさで全体化してくるのだ。現代音楽的、つまりものすごく複雑な楽曲のはずなのだが、歌/演奏の刻々にはギター-三味線-歌と、三つの単音しかないので(そこが音響派だ)、そうは感じさせない。このアルバムは優劣つけがたい佳曲ぞろいなのだが、演奏の「冥府的な緊張度」という点で、この曲はアルバムの白眉を形成するだろう。
歌は「結界を踏んで」森深くに踏み迷った男が、「ぎやまん」の声をもつ「あやかし」に誘惑されるという危機的状況を描いている。歌は、その男の姿と、女の使嗾の科白の二部構成だ。つまりこの古語満載の歌は、描かれた世界としては、オデュッセウスとセイレーン、そのギリシャ神話的な世界に依拠していることになる(オデュッセウスはセイレーンの歌声の誘惑から身を守るため耳に蝋を詰める)。実は、このアルバムの裏表紙部分には旅人が自ら記載した曲ごとの「配役表」がついている。それによるとこの歌で描かれる人物は、「呼び声を辿る侍(人斬り)/ぎやまんのような声を持った女」となっている。秋成『雨月物語』中の「蛇性の婬」のような怪奇が意図されているのだろう。
あやかしの述懐、《絹雪洞の灯が落つる/硫黄の湯気が忍び込む/わたしの閨までいらっしゃいな…》のとき、歌メロは、無調から調性に復帰し、和音階をかたどる。その瞬間の、これまた戦慄的な美しさ(ここで演奏の構成音と歌メロの構成音がはじめて「合致」をみる)。その歌声によって、「侍」も変調する――《わたしはうたってる/うたうたびに/わたし/鳥になれた》。これは、歌世界における侍の述懐でありながら、同時に七尾旅人自身のそれでもあるだろう。彼は唄うことで「鳥」になるのだ。そしてこのアルバムにあって「鳥」とは「蜂雀」=中間性のことでもあるだろう。ところが侍はそうなりながら、「切り捨てようか 連れてゆこか」という択一命題に引き裂かれてゆく。「択一」に逼迫しながら接近してゆく構造は1「線路沿い花吹雪」のラストと同じ。最後、歌は発声する――《こっちにきや》。当然、語調からいってこの科白は「あやかし」のものと判断されるだろうが、一瞬、それは侍の発語ではなかったかとも錯視される。となればどっちでもいいのだ――その発話者は。そうおもった瞬間、歌にちりばめられていた男性性と女性性が「融合」をみる。
四曲目「冷えた高み」。音を殺した、(これもやや竪琴調の)アルペジオ(エコーがかけられている)のうえに、美しい歌の旋律が、切れ切れの「間歇性」によってつながってゆく。途中からバック遠くにエレキギター的なシンセ音が響きはじめる(音響派的に)。「天使性」を感じさせるという意味では、最もこれまでの七尾旅人調といえる曲だろう。この曲では意味の結像性が低くなるように歌詞が磨かれている。空にいる自分(歌の主体)が地上の君を瞰下しているという設定は理解できても、「空にいること」が飛翔と離人症と死、そのうちの何を意味しているのかが不明なのだ。旅人のこれまでのアルバムでは離人症と親和的な曲が多かったが、一方このアルバムの「配役表」をみると、「成層圏も越えて、昇ってゆく少年」とあり、「昇」の字が「昇天」をおもわせる。だから死が暗示されているように判断される。ただこの「昇天」は、自己の才能によって恍惚となる危険な状態をも意味しているだろう。曲名「冷えた高み」はこの次元にリンクしている。途中「絹の花がよく似合う」の一節で三連符によるオーロラのような夢幻性が印象される。コクトー・ツインズ調。そしてその予感は六曲目「おやすみタイニーズ」で完全な顕在状態へと変わる。
五曲目「まほろば」。空気公団の山崎かおりと七尾旅人の歌唱が交互に来る。往復書簡(応答)形式の歌詞によるものだ。アルペジオによって、ゆるやかで静か、(かつ山崎の場合は透明感のある)歌声の流れるこの歌の感触は、渚にてのそれに似ていると誰もがおもうだろう。山崎の声質の「懐かしさ」が渚にて・竹田雅子に似ているのだ。ただ旅人の作曲能力は、渚にての柴山伸二や竹田とはちがう。たとえば三行目、《私の手紙 もうすぐ海を越える》の「海を越える」の部分は、やさしい旋律ながら、別の領域に旋律が触手を伸ばすような感触がある。ここでちょっとした転調がかたどられるとすれば、この部分、ジョン・レノン「ジュリア」をおもわすのではないか。やがて、旅人の単音奏法にオルガンの音が薄くカブせられてゆく。
女-男-女-男-…と連鎖してゆく往復書簡では、近況が唄われながら、対象への感情が唄われない。単に叙景がなされるのみだ。そしてその叙景の質がモダニズムとの親近性を打ち出している。人工的(プラスティック)なものにたいする憧憬があるのだ。
歌詞中、とくに《屋根裏部屋は太鼓の中みたいさ》の詩句が美しいとおもう。「内部性」という概念に、音=夢がここで貼付される。その音=夢は、以後の詩句で、《鼓笛隊の葬列/世の中がまわる、まわる》《君のお手紙、譜面立て》《風の唄、空気、空気》というふうに縁語的な連続性をもちだす。つまりこの歌では、森羅万象が音楽化してゆく道筋が、往復書簡のなか、透明に唄われているといってもいいだろう。この書簡当事者の静謐な均衡のなかに、「蜂雀(ハミングバード)」が入り込んでくる。ここでの旅人の「ハミングバード…」という囁きは鳥の囀りそのものを模しているのではないか。
そして歌は歌詞《ゴーレム降りた》で2「月の輪」と連動、凄惨な様相を歌メロの無旋律で描きだすことになる。《大きなまちは、火の海だ/僕はオルガンをけっとばす/僕は僕でなくなる》。最後の一行などは、電子音処理化され早口になった囁きだ。地上の異変によって、「僕」の自己同一性も破壊されたという認知。そのとき別メロがはじまり、それでも「君の手紙を待つ」という境位が新たに唄われはじめる。しかしなぜ「僕」は「君」の手紙を「待ち続ける」のだろうか。それは「君」が地上の異変によって死んだからではないか。だがそのときもっと前提的な何かがここで覆される感触が生ずる――つまり、「君」はもともといなかったのではないか、というふうに。そうして「太鼓の中」に似た「屋根裏部屋」にいた「僕」のひきこもり状態に、急に酸鼻なものが感覚されだすのだ。しかしこの部分ではバックに入る山崎の歌声が天使化していて、印象は混交的な高みにまで昇りつめてしまう。曲が終わって、スタジオにいるとおもわせるかたちで赤子の喃語などが入る点で、この曲はスタジオライヴの一発録りを模している。
六曲目「おやすみタイニーズ」。三連符的音な歌声の連打によってオーロラ風にゆらめく曲調がコクトー・ツインズ的だという点は前言した。三拍子。ギターは一拍目でベース音を弾き、二、三拍で中指・人差し指で上の二弦をはじくというかたちではじまる。歌詞のみを虚心坦懐にみれば、子供たちにおやすみを告げ、安寧な睡眠を約束する男が歌の主体となった、美しい着想の曲と誰しもがおもうだろう。ところが「配役表」をみると、人物は「殺人鬼アシュカ・ネルソンと子供達」というふうに記載されていて、そのことによって歌がとつぜん恐怖化する。ランディ・ニューマンの「セイル・アウェイ」とも似た発想だし、描かれた世界もチャールズ・ロートンの童話的恐怖映画の傑作『狩人の夜』と通底するだろう。
《揺れている 揺れている/それは君のベッドさ》でまず「揺動」が唄われ、以後も「揺り椅子」「揺りかご」まで「揺れ」はつづく。その「揺れ」の正体を探ることこそ、この歌がどんな恐怖を描いているかを体感する手立てとなるだろう。ベッドの揺れは、ここではポルターガイストによるものでもSEXによるものでもない――それは児童扼殺者が子供たちを眠らせるために必要な儀式として描かれている。揺動そのものは世界を美しくざわめかせ、点滅させ、童話的な愉快さすら約束する。約束しながら――それが殺人のための前段の儀式を含意しているということ。ここでは就眠の外景に雪と音楽が配され、就眠が楽園に入ることとも保証されながら、そうはならない。《明日になったら[眠りから醒めたら]/すっげえところに連れてってあげるよ》の「すっげえところ」とは死後世界の謂なのではないか。そんなふうに歌の世界の全体が朧げにみえはじめたとき「ゆらゆら」「ひらひら」「きらきら」といった、揺動や点滅を表すオノマトペがものすごくキレイな旋律で唄われる。それは地上にある者の常態的なブラウン運動などをもう指してはいない。そこにはもう、超越者が死の世界にひとを連れてゆく意志、その運動感を描写した恐怖のオノマトペだというつよい把握が生じるはずなのだ。
七曲目(最終曲)「七日間」。実はこのアルバムではすごく瀟洒な歌詞カードが挟まれていて、各曲の歌詞にたいし、角の丸い正方形の地に童話風の絵が置かれていたのだが、この曲のみ、その絵が空白になっている。これは、絵画還元不能の異世界がここで唄われているという暗示だろうか。はっきりとマイナー調の曲調。ギターは早口の呟きをおこなうように爪弾かれる。これらから少し「チム・チム・チェリー」との類縁性が意識される。そして、《サーチンソウル アゲイン》以下、転調を繰り返すコーラス部分の歌メロの美しさ。バロック調の旋律という点ではレノンの「オー・マイ・ラヴ」を瞬時匂わせたりする。
この曲名「七日間」とこのアルバムの全曲数「七」がここでリンクする。つまりこのアルバムが一日一曲ずつというかたちで配置されているとするなら、ここでアルバム全体への「回想」機能が生ずるということなのだ。《私のうた/届け 届け/君のうたを解き放て》というのは、ここでの旅人にふさわしいマニフェストだろうし、ここではそうした解放ののち生ずるヴィジョンも唄われている気味がある。しかもそれが、アルバムに収録された従前の歌を反復するのだ(その意味でこのアルバム全体が永劫回帰構造――ウロボロス構造の魔法に準拠しているということになる)。いわく《深い森の中》《けものみち》《ちいさなおうち》《ベッド》、いわく《深い海の底》《離れ島》《小さな惑星》《線路》。対応関係は以下のようになる。1「線路沿い花吹雪」=「線路」。[2「月の輪」+4「冷えた高み」]=「小さな惑星」。3「ぎやまん」=「深い森の中」(その類縁で「深い海の底」もここに加わる)。[5「まほろば」+6「おやすみタイニーズ」]=「小さなおうち」「離れ島」。
そしてアルバム全体を手短に周覧したのち、メロディが変化したくだりで七尾旅人は、唄い手としての自らの「位置」をおもむろに開陳するのだった(それがこのアルバムが刻む最終の歌詞になる)――《夜盗が来る前におやすみ/夜の果てで/驚きに出逢う/君の顔を/思い浮かべているだけだよ》。七尾旅人自身がこの「夜盗」と、アルバムを聴き終え寝入る相手の顔を思い浮かべる者とのあいだで分裂している。その分裂性はナルシス的な者がたどる必然にすぎない。その彼は美しい歌で聴き手(とくに少女)に「夢」をあたえつつ、相手を支配する罪深い存在なのだと自覚しているのではないか。その自覚に「孤独」の疼痛がある。ただ、彼の誘惑の歌が美しさを武器にしている点こそが、最も恐怖の機能に関連しているのだった。このアルバムは「弾き語り」の価値を引き出したという点では前2作から大きな変容をかたどっているが、ここまで来ると、唄い手の自己定位が前2作から不変だとも知れる。いずれにせよ、大した傑作だとおもう。
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