▼講義草稿

近藤聡乃『はこにわ虫』について(講義草稿*立教文学部:06/10/2、早稲田第二文学部:10/11)

【解題】
立教と早稲田で06年後期のマンガ講義がはじまった。線、画柄、コマ割を分析する表現論と、描かれている内容に対する主題論を緻密に結び、全体的・物質的なマンガ(可能性)論を、新旧の名作とり混ぜた対象でやろうとおもっている。一回一回の講義は作家・作品別。基本的に両大学では同一の講義内容を予定しているが、もしかすると学生たちの具体的なリクエストによってはそこに例外も生ずるかもしれない。

 で、例によって、最初の講義草稿をサイトにアップします。以前の解題の繰り返しにもなるが、講義に裏打ちされていた論理的思考を受講生たちに等しく開示し、そのありようから、期末レポートに向けての着眼を早くから育ててもらいたいがためだ。僕としては、具体的な論理性のあるこのようなレポートを期末には望んでいます。

 ところで某社に出しているマンガ評論集(去年の早稲田でのJコミック講義の草稿を中心にした、作家別・作品別の評論集)の企画がなかなか具体化しない。それが陽の目を見、かつ以下の草稿も読まれれば明らかになるだろうが、今年の講義ではより内容に思弁性を高めたいと考えている。最近話題になっているマンガの記号論『マンガは欲望する』がアカデミックだが実は俗で雑駁な切り口なのにたいし、僕が展開するマンガ作家論がよりラディカルだとしめしたいと決意したからだ。映画論の現状をマンガ論にも投影したい、ということでもある。作家別具体性あっての原理的思考が、現在のマンガ論でも示されなければならないのではないか。ドゥルーズの『シネマ』に相当するものならともかく。

 むろん、以下の講義草稿は、通常のマンガファンにも面白く読まれるとおもうので、ぜひ眼を通していただければ――。近藤聡乃『はこにわ虫』(青林工藝社刊)、大傑作です。

近藤聡乃『はこにわ虫』について(講義草稿*立教文学部:06/10/2、早稲田第二文学部:10/11)

「見えない直線」の領域を曲線が代位する

近藤聡乃[あきの]は自分が作成するマンガ空間を、運動感に満ちた「少女性」の転写へと絶えず差し向ける。自分の所属する性への、表現上の強い帰属。その意味でマンガの「私性化」が一貫している、特異な表現者といえるだろう。

 80年生。多摩美在学中の2003年ごろから、絵画、アニメ制作など複合的な表現活動をしていたが、その一環にはマンガ表現もあった。やがて雑誌「アックス」へのマンガ投稿作が新人賞を受け、04年11月には早くも「アックス」の版元・青林工藝社から初のマンガ短篇集『はこにわ虫』を上梓した。早熟な才能といっていい。

 また、今年(06年)7月には『はこにわ虫』集中の1作「てんとう虫のおとむらい」を自由培養したようなアニメ作品(それは彼女の美大在学中の作品を大きく修正したものだった)、その原画展示を主軸にしたミヅマアートギャラリーでの個展「てんとう虫のおとむらい」も開催した(この個展についての詳細は阿部のミクシィブログを参照)。そこでは近藤の表現的主題=「(少女性)メタモルフォーゼ」が、鑑賞者のさらに前面に開花してくるような趣があって、これまた圧巻だった。

 近藤のマンガ、『はこにわ虫』に注視してみよう。一瞥してまずわかるのは、彼女がフキダシ内にもフキダシ外ネームにも全て写植文字を嫌い、一貫してグラフィックな手書き文字をつかっている点ではないだろうか。その書き文字は一時期(80年代後半)、少女世代に流行した「丸文字」ほど円の形象が活用されていないが、それでもそれらは全て丸い=柔らかい。男性性の直線に対する、女性性=少女性の曲線。

 丸さ=円形への「歪み」は近藤の画柄の特徴でもある。たとえば『はこにわ虫』所収「美しい町・最終話/美しい町(ゆかり)」の1頁目(『はこにわ虫』111頁)。そこでは甘味屋のかき氷のメニュー札の並びが魚眼レンズに捉えられたように丸く歪み、あるいはセーラー服の女学生と同席する同級生の少年のあいだにあるテーブルも丸く「翻っている」。あるいはその頁の同じ最終コマ、少女の足許手前からは仰角で少女の組足が捉えられていて、その脚の輪郭線にも丸みが必要以上に強調されている。

 [※ついでにいうと、この頁のコマは上下に3分割されていて、その中段には実在風景の転写ではなく、黒ベタをバックに、歩道橋か何かに乗って、少女=ゆかりが周囲の友達を意地悪に嘲笑する「主観モードの」=「本当には外景化されえない」コマが挟まれている――ここでのみ悪魔のような笑いの形象=表情が最低限の線で少女の顔に描かれているのだった。残りのコマ(上1段/下1段)においては、少女の顔も少年の顔も、眼を描かれるなど具体的な形象化が回避されている点に留意すべきだろう(横顔/後ろ姿/手前の遮蔽物/前髪等によって人物からは顔のパーツの具体性が消去される)。

 ――この理由のひとつが、「夢のモード」の実現化だろう――人物同士の社会的な関係性の描写ではなく、記憶内であったり超・主観的であったりしてもいいのだが――そういう「社会性以外」の人物同士の関係性が描かれるときには、人物から目鼻が消えていい――ということだ――これは人物の表情を捉える、社会性を前提された関係性が、結局は視覚偏重なのに対し、それと逆の関係が「皮膚感覚的」「皮膚分散的」だという対照を描くためだろう――容易に気づくことだが、この後者の関係では人物間の距離も、夢想当事者にとって可変的となり、結果、「嘘の密着」とか「距離の窃取」とか「中間の歪形」とかさまざまなメタモルフォーゼがそこに付帯することになる]。

 [もう一つ気づくべきは、伝統的な甘味屋が町なかからほぼ姿を消しつつある現在、111頁の画は「昭和ノスタルジア」を如実に醸しだすという点だ ――近藤聡乃の画は大正期(5頁~「小林加代子」から現在[たとえば161頁~「雨の白シャツ」]まで、作品によってその時代指標を細かく変化させるが、たえずその時間も客観的でなく主観的だから――「いまではない時間」といった疎隔感を伴った脱直截性のヴェールに、作品の時制全体が包まれることになる]。

 直線/曲線。単純な世界観では、直線は、あらかじめ完成されたもの――「すでに終わった」ものに特徴的な形象だ。逆にいうと曲線はその線の一旦の外在化にも変化が孕まれ、線自体がまだ生成途中だという点を示すために「直線へと決して単純化されてはならない」のだった。つまりそれは結果ではなく、「渦中」「動勢」「撓み」「一連運動の積分」の暫定的な表現。直線が男性側にあり、世界や組織ヒエラルキーの硬直を世界居住者へ強圧的にあたえるものなのに対し、曲線は女性側にあり、外側/内側の転覆や、「一旦の硬直の無化」「蘇生の可能性」をこまやかに指し示す恩寵的な指標となる。

 直線は野望的だ。ゴシックの直線は針葉樹林状となり上へ上へと伸びようとした――結果、無謀と名指されるだろうそこで、「有限」が逆に刻印されてしまう。

 一方の曲線は極端な場合には潜在に終始することすら可能だ。あるいは曲線は他の曲線と無限に交ざりあうこともできる。よってそれは「終わらない」。だから曲線に依拠するバロックのほうが、神性を無限として表現する美術様式として末長く延命することもできたのだった(それは形をかえ現在も存続している――いっぽうゴシックは「死の表現」へと徐々に定位を変えていった)。その曲線の神性を、少女個体へと矮小化しつつ、同時に少女個体には逆に変身の無限性を付与すること――抽象的にいえば、それが近藤聡乃の「表現上=主題上」の野心ということができるかもしれない。

 直線の本質的な孤独/孤立無援に対し、曲線は他の曲線同士と干渉しあい融合し、それ単体で把握するのがむしろ間違いだといった禁止命令をあたえる点で、直線の上位にある。「見えない直線」の領域を曲線が代位するということだ。むろん直線は交錯し、たとえば透視図法や展開図や分光などを描くだろう。だが関係性の図示に全てがとどまってしまう。一方の曲線は「自己」を消失し、他の曲線とさえユートピックに「交ざってしまう」。

 このとき近藤マンガには特異な事態が発生する。文字が丸い――人物が丸い――この丸みの並立性によって、文字/人物の相互侵食が起こりだすのだった。マンガの通常性――画(人物)を文字が「修飾」するが、この「修飾」のためにむしろ画/文字はその相互の領域からの出自を保証されるという通常の約束事を、近藤マンガはそうして簡単に侵犯してしまうのだった。

 結果、コマ内の「文字の出どころ」という点で、近藤マンガは、経験したことのないほどヴァリエーションたっぷりの逸脱を演戯しつづけることになる(当然、こうしたマンガ技法/記号表現の拡張へと皮膚感覚的に接する喜びが読者にあたえられる)。その幾つか特徴的なものを以下に例示――。

 ・38頁、「はこにわ三部作/第一話・ベッド」。その1コマ目では人物の輪郭線、あるいはその人物の「領域」の輪郭線に沿って文字が「ひらひら」と書かれ、波形に(輪郭線と二重状態で)文字が分布することで、輪郭線自体の補強/無化がおこなわれている。線(曲線)の領域固定能力が、文字にも与えられている――逆にいうと、文字には意味以外の領域拡張が施されているのだった。

 ・24頁、「2001年版逆さの思い出」。その1コマ目では描かれた空間の絵画性を文字性によって侵食する道具として、非現実的なリボンの帯状が「悪用」される。文字はそのリボンに乗って人物群の手前や背後を数条、流れだすのだった。具体的にはここでは、満員電車に乗る少女たちがいて、リボン帯のうえの文字は「デデンデデン」という電車走行の擬音をかたどられている(「ガタンガタン」といった凡庸なものでない点に注意)。

 ・80頁、「美しい町・第一話/通学路(良介)」。文字を配されたリボンがコマ内の画の空間に侵入するのみならず、それがフリルをつけ少女性に変形され、それ自体がコマの囲い線の役割を演じる場合もこうしてある。ここでは小学生時代の「良介」をヒロイン「ゆかり」が意地悪に回顧する状況が描かれていて、よって書かれる文字は「クックックッ…」という忍び笑いの音の連鎖だ。そのコマの左下には笑い声の当事者として「ゆかり」の顔が小さく描かれる。黒地-文字白ヌキの帯を輪郭どる白いフリルの「機能」については少女性を付与する機能があると前言したが、ここではさらに、少女「ゆかり」の主観(内心)をしめすフキダシの変形-拡張使用という性格づけも可能だろう。

 ・87頁(同じ短篇)。左の、まだ戦後すぐの――未整理な商店街の形状、その描写にまず注意。いちばん手前にあるのは駄菓子屋だろう。「タレぱんだ」めいたお面が店の囲いのうえに商品展示されているほか、その幟や商品札には夏の暑さ=蝉の鳴き声をしめす「みーんみーん」が所せましと書き並べられている。商品名表示のあるべき場所に、擬音が侵食している――そう受け取っていいだろう(正しい商品表示の例は、同じ連作の「第三話・商店街(加代)」中、 104頁の最終コマなどに典型的に窺われる――なお、ここに出てくる商店は5頁~「小林加代子」に描かれた商店がより実在に近づいた姿と考えられる)。

 87頁の1コマ目に話を戻せば、ここに描かれた商店街の凶々しさ・強度がすごく印象的だ。「コマ全体の余白だらけの構図のなかでそこだけに強烈なベタ、もしくは濃度の高いスクリーントーンの用いられていること」「画柄の密度も暴力的に高いこと」「近藤特有の曲線を指向した歪形があり、その引き換えに遠近法に異様な狂いのあること」などがその要因だ。

 ・11頁、「小林加代子」中の1コマ(頁の2コマ目)。擬音は帯に描かれて、ヒロイン「加代子」の閉じこもる部屋の襖の隙間から、「帯」として漏れ出してくる。向かいの「電球屋」(=この作品で描かれる商店は、加代子の「スリパ屋」もそうだが、単一品しか商いしていない)=「マエダデンキ」の息子が「スリパ」ではなく「サンダル」(両者の区別は足指が見えるか否か)を買いにくるときの音だった。「フンテン」「トントン」の擬音はノック音ではなく、サンダルで往来やスリパ店内を歩く際の音の表示だろう。この擬音に至って、(リボンに示された)音が空間の通例性を超えて、霊的に「こちら」と「あちら」を接続させる「架橋」の機能を帯びたものとして組織されてくる――そういえば「訪れ」を「音連れ」と表記する泉鏡花の小説では「訪れ」にかならず具体的な霊音が伴われてもいた。近藤はそうした感性の共有者なのだった。

 「蜂鳥微動」という、青林工藝社系のマンガ作家、あるいはアート系表現者のインタビューを掲載する先鋭的なミニコミ誌があって、その第一号で近藤聡乃は自分のマンガの創作方法を語っている。興味ぶかいのは、まず第一に、自分のマンガを描くとき、彼女が紙一枚を最初にコマ割で分け、その1コマ1コマに画や文字を描いてゆく作法を採っていないという点だろう。彼女は画を一枚一枚描く。それをスキャンして(時に縮小や拡大をして――ただし彼女の描く画は概して小さい)コマ割状態を実現するべくペーストしてゆく――そう語っていたのだった。

 つまり彼女にとってマンガの表現空間自体が直線であらかじめ分割された、決定性を帯びた空間ではなく、それ自体がペーストや伸縮自在の、可変性を導入できる可塑態だということ。彼女のマンガでは直線はほぼコマの輪郭線に限定されるが、それは「事前配置」の痕跡なのではなく、ペーストの単位を付帯的にしめす事後性の単純な「滲み」なのだった。彼女の画のうえのメタモルフォシスの乱舞は、マンガのこの「変型的な」成立過程と相補的だともいえる。

 むろんそうはいっても彼女はストーリー(ネーム)をそれなりに構想している。この意味で彼女はストーリー性の作家だと自身を定義づけてもいる。だが多くの読者は彼女を、(少女性の)奔放なイメージを展開するほうに傾いた「非ストーリー作家」と捉えていたのではないか。

 そこには一種の用語の齟齬があるだけだ。彼女にとって「ストーリーを動かすものの単位」が他の作家とちがう――それだけのことではないか。人物 ○○がどうしてこうして…ではなく、図像要素●●がこのように変化・展開してゆく――あるいはその流れのなかでコマ運動がどのように有機的な付帯運動をかたどるか――この点が彼女にとってのストーリーの内実なのだった。プロパーなマンガ家志望者ではなく美大出身者にならありうる事態だろう。ただし高踏性に近藤はテイカイしない――そのマンガがたえず、同世代から年少の同性マンガファンを益する「少女性」考察と綿密に結ばれるためだ。

 それともうひとつ、彼女の着眼には独特の奇想があり、同時にそのネームには素晴らしい詩性もある。ナレーション(人物の内心)的な場所から出現してくるナレーション・ネームは画柄の直截の説明ではなく、それを包含するかその「斜め」の領域を指ししめすように、実は画と「擦れ合う」。この技法がつげ義春を嚆矢とする、「ガロ」-「アックス」系の詩的ネームの発展形だという点も、容易に把握されるだろう。

 彼女が描く少女のエロチシズムにも「ガロ系」=すなわち和風の刻印がある。目・鼻・口――顔の構成要素は「引き目鉤鼻」といえるほど小さくまとまっていて、顔全体に余白感がある。あるいは裸身自体は『はこにわ虫』にはさほど登場しないが、個展「てんとう虫のおとむらい」では数多く露出されていて、そこでも撓んで円い輪郭線で囲まれた裸体がその撓みによって動勢の一瞬を閉じ込められているのだが――通常のマンガにおける顔-身体の比率に対して身体が大きく描かれることから、身体のほうに顔以上の「余白」が封じこめられることになる。よってそれが「白化」する。その「白」こそが無謀な運動を繰り広げるのだった。

 特徴的なのは、乳房にほとんど性徴の膨らみが認められないのに対し、腰から膨ら脛までの線が魚体の輪郭線のように一体化され、かつ必要以上のボリュームをもって描かれる点だろう。太い脚の魅惑。それが躍動的メタモルフォーゼの原動力となるほか、少女の「無脳性」「弱脳性」を示唆する暗喩の暗礁ともなる。この点と少女の邪悪が関連をもつのだった(この近藤と同等の「少女形象」を実現するマンガ家に、『紺野さんと遊ぼう』の安田弘之が確かにいるだろう)。

 少女の眼を大きく描く――しかもその瞳に星をちりばめるといった――マンガ的意匠の約束事に全く乗らない近藤の画柄のなかで、描かれる少女には日本的身体の真実、「和風」が必然的に降臨する。そこにこそ生々しさが出現するという信念もあるだろう。ところがこれは60年代の「ガロ」周囲の表現者の発見項目でもあった。たとえば『はこにわ虫』71頁の最終コマ(短篇「おしゃれ」内)だけを取り出したとき、その描き手は誰といわれるだろうか。ある程度の年齢の者なら、画柄の共通性からいって、佐伯俊男の名を出す例がかなり多いのではないか。

 まずはその「おしゃれ」(63頁~)を概観してみよう。主題は小池昌代の詩、「机上の汚水」(『小池昌代詩集』62頁=「阿部嘉昭ファンサイト」中「論集:小池昌代詩集」での阿部の執筆部分参照)と若干の共通性もある。「少女の身体の分泌物」が主題となっているためだ。表紙に当たる63頁、続く 64頁のネームを抜き書きしてみよう――《誰が何日休んだか/キナコの厚さで/すぐわかる//三日も欠席していると、/[その不在の机に]キナコが三ミリ降り積もる》。当然、欠席者の机には埃が積もるばかりとなる――この埃の位置に超現実的にキナコが入り込んだ――そんな読解がここでまず生ずることになるだろう。

 世界の一つの場所の不動性、それはその位置にいるべき者が不在だということによってもたらされるわけだが、64頁の最終コマにあるように、キナコは居眠りをする女子学生の不動の頭部にも降り積もるのだった。否、その頁の2コマ目、3コマ目では実は動いている女子学生たちのそのセーラー服の上着の裾からも袖からも、流砂状でキナコが夥しく流出している。そうして2コマ、3コマそれぞれの画面では、その余白に凶々しくキナコの「砂絵」が侵食しだしていたのだった。そう、最初から「矛盾撞着」が起動している。

 その決定的な証拠が、65頁最終コマ――《ひどい/ひどい》と嘆きながら歩く少女の後ろ姿に露呈している。このコマでは少女はそれ自身が砂時計であるかのように、水平に捧げた手から大量のキナコを零し、なおかつ画面奥行に向け歩きだしているのだった。このコマで起こっていることは以下のように要約できるだろう――「少女は少女性を、その在/不在にかかわらず、刻々漏出(喪失)していて、それによってその者の少女性が逆に補強されている」と。キナコは少女に装填されていて、少女の存在はキナコの「自己流出」=「漸減(ぜんげん)」というマイナス運動によって規定されるということだ。

 そうして少女は自らの余白を、自らの反映物で埋め尽くすことになる。ということは、この短篇「おしゃれ」では、少女の身体の余白に、少女性がどのようにして形象化されるか――この運動の軌跡を刻印することが全体眼目のひとつになるといってもいい。

 その全てが矛盾たっぷりで異様なのだった。ここでも65頁最終コマが象徴的だ。通例に反し、少女の「悲嘆」(あるいは64頁最終コマなら「怠惰」)に十字星の輝きが与えられ、少女の反-存在性がまず示唆される。そして前言した文字のデザイン化の突出よろしく、身体からのキナコの流出音《ざざざざ…》がフキダシとも、意匠化された超現実的な雲ともつかない状態で、構図の余白に描きこまれる。それらもみなキナコの「砂絵」の変化形だ。

 ところが別次元の「余白充填」がここに介入する。まずは65頁2コマ目、「戦前右翼」の特徴的な形象である「旭日デザイン」(放射線状態の太い陽光形状の延長)が、ヒロインの顔の後光形成部分、そして4人の学友の同様箇所に二重化される。ここでは「意味」が分離的なので、作者の政治的意図を具体化することなどできないだろう(だから読者はこれを、単に「アナクロ」の乱入と受けとるのではないか)。

 66頁では迫力ある1頁大の1コマが到来する。そこではヒロインの周囲に、非常にグロテスクに形象化された蝶というより蛾が集まりだし(「少女」は一種の誘蛾灯なのだ)、落下傘に近い状態で広がった少女のセーラー服スカートの下部では、砂絵状の地紋のなかでキナコの漏出音「ざざざ…」が怪奇マンガのモードで描きこまれている。ネーム《あぁ!!甘い香りに誘われて、背中に虫がやってきた!!/なんだか楽しい!!/良かった キナコで!!》。しかもこの喜びを表現するネームと、ここに描かれた少女の表情/姿態には「対応」関係が一切ないし、しかもその仏像をおもわせる手振りが「意味の脱臼」をさらに複雑化している。

 ――マンガ史全体を視野にしての作者・近藤の「転覆」の意図も明らかだろう。少女マンガでは「花のような」ヒロインの余白に、その花の性質を反映・補強する同質物として花の形象がアラベスクめいて描かれる伝統的な約束事があった。これに反して、近藤のこのマンガでは、キナコを内包するヒロインが「昆虫を集める」という「花の性質」を具備されながら、その余白にはそれに吸引させられる「無気味なもの」が溢れかえるのだった。つまり近藤のマンガでは旧来の少女マンガと異なり、余白反映の法則が全くちがう、ということになる。同質物同士の反映――これが少女マンガなら、因果関係による異質物の衝突―― これが近藤マンガなのだった。

 しかもそれは一見のこと。つまり描かれた蛾の無気味さは、「同質性」の転写として少女自身の無気味さへとここでさらに逆-反映されだす。こうしたイメージの相互往還の「運動」が、組成がプリミティヴな伝統的少女マンガで起こることは、ほぼないだろう。

 このコマではキナコが「甘い香り」と表現されている。ところがキナコはそれ自体は香ばしい匂いを放つが、砂糖が混入されないかぎり、それ自体「甘くない」。つまりはネームには錯誤があるのだった。作者の不見識をあげつらっているのではない――錯誤そのものが意図されたものだろうから。その証拠が喜びを表現するネームに、喜びを表現する画柄が付帯していない点に現れている――そういうことだ。

 細目の上目遣い、一筋の髪のほつれ、おかっぱ髪全体の動勢を刻印された乱れ、スカートの不自然な翻り――少女の形象自体に意図されているものがエロスだという判断がすぐ生じるが、そのエロスが蛾の無気味によって「反映的に」増強されている点が眼目なのだった。その「反映の法則」に小さな狂乱のある点に、少女性エロスの本質が露呈している。

 「反映の狂い」という点では、「美しい町」第一話「通学路(良介)」の表紙絵(77頁)が特徴的かもしれない。ここではヒロインゆかりが良介のもつ黒い日傘によって夏の陽光から守られている(二人は同道している)。二人の足許にはその日傘によってできた影がある。日傘はその円形の縁部分が装飾的に刳り貫かれていて、その空白の装飾模様は足許の日傘の影にも「反映」しているのだが、日傘全体の影はありえないかたちに歪形化されていて――結果、影そのものが影に見えず、水たまりのようにみえるのだった。つまり近藤マンガでの「反映」は、現実=リアリズムではなく、夢=主観=悪意の法則に乗っている―― そう指摘することができるだろう。

 「おしゃれ」に話を戻せば、継続欠席者のように「生きながら不在」であるヒロインは、授業中の居眠りによってその躯のうえに埃ならぬキナコを降り積もらせることになり、それで耳穴をキナコで満たす(それで中耳炎になる)。ところがキナコの「甘い香り」に誘われ耳穴に触角を伸ばすため蝶(今度は明瞭に「蝶」として形象化されている)が耳殻のうえに居つき、それがイヤリングの役割を果たし、ヒロインが(「なんだか」という自己分析の不明を伴わない)真の喜びにいたるという逆転的なオチの付与で終わる(68頁=このときは小走りするヒロインの足許を白抜きではなく縁どりされた「らららら…」の文字が放射状に書きこまれる)。それがヒロインの「おしゃれ」意識を満たすということで、タイトルの由来も判明する。

 だがヒロインの水平に伸ばされた腕から上の余白では、相変わらず「キナコ流出」に伴う重たい怪奇調の砂絵が描かれてもいて、ラストが単純な大団円にならず、分裂的だった(その分裂性が少女性と等号で結ばれた――68頁の最終コマは円で刳り貫かれた二つのコマの乱入がある――それらは鏡を前に、おしゃれな「蝶のイヤリング」をつけた少女の気取りの表情集といった趣がある――むろんそこでは往年の少女マンガや塗り絵の構図への悪意が発露されている ――この悪意の具体的な形象が異様に羊歯的なデザインと増殖を施された、蝶の前肢部分だった)。

 いずれにせよ、この短篇で逆転的に称揚されたものがあったとしたら、それが少女の「怠惰」「不在」、ならびに「自己認識の錯誤」だった点が銘記されなければならない。

 少女的な「自己認識の錯誤」、それが世界の現れの変化までをも結果する――つまり少女が世界の中心にいて世界変容の極点にまでなる――こうした直感を少女の主観の位置から描き、その結果、作品全体が「判断の埒外」へと飛び出てしまった傑作が149頁~「22」第一話「タイミング」だった(「22」全体の扉絵は黒地に白抜きされたドット模様が手書きながら機械的に整列しているという眺めだが、ドットが少女性変容の触媒となる点は、129頁~「てんとう虫のおとむらい」に明らかだろう――それは少女自身がその躯を曲げ回転することで自ら「円」になろうと画策する欲望と対応している)。

 149頁下段が素晴らしい。横並びの5コマでは同じ表情の少女が均質のポーズのままに連鎖しているが、背景が異なる。奇数位置のコマのバックは黒ベタで、それに挟まれた偶数位置のコマは余白――しかもそこに「ぱ」の擬音が書かれている。つまりそれは少女のいる空間の電球の点滅を表現しているのだが、これが時間的に数瞬を表現したものなのか、一定時間を表現しつつ間歇的な画柄が抜き出されたものなのか一切その指標がないために、付帯的に時間の迷宮性が滲みだしてくるのが素晴らしいのだった。

 先に例示した「おしゃれ」のようなグロテスク趣味はこの短篇では影を潜め、コマの運び自体には上品で静謐な感触がつきまとう。これは「時間はそれ自体が静謐に流れるもの」という信念に則って描かれた短篇といえないだろうか。

 ――計4頁の作品。分量も少ないので、短冊型のフキダシ(ナレーション・ネーム)全体をここでまず抜き書きしてみよう(のちの説明のため、便宜的に文節変化の前に数字を打つことにする)――《(1)深爪をしたせいか/いつもより月がひとまわり大きくみえた//(2)まぶたがけいれんばかりした日、/電球が切れかけた//(3)つき指した日は、/誰かに思いきりつきとばされた//(4)しゃっくりがとまらない日には、/地震がきたり//(5)髪の毛を乾かさずに寝たら――/次の日 雨だった//そんなことが最近重なったので//(6)大切にしていた金魚が死んだ日、/初潮がきたことを思い出しました。》。

 (1)の不思議な因果関係は、爪を切っている少女の手許のアップ構図と少女が三日月を戸外で見上げている構図――この切り返しで表現される。切った爪の形と三日月の形状の相似性は誰にでも印象されることだろうから、ここでイメージはすぐに結合するが、たった一人の少女の肉体に起こったことが、「気象(空)」全体に越権的に敷延されている不穏さに気づかなければならない。少女中心主義。それが少女の住まう具体空間に降りて(2)が到来する。ここでは「電球-少女の眼球」「電球の点滅-少女の瞼の痙攣」といった、ここでも結びつきやすい対応がある。

 (3)でこの対応関係が「狂乱」する。「突く」という動作が原因-結果双方に分与されるのだが、「私」固有の(自己再帰的な)出来事が「私」を目的とした突発的な出来事に跳ね返り、結果的に「対応の美しい不思議」ではなく、「私」の理不尽な不幸の加算が因果関係の最後に成立してしまう――「対」関係ではなくこれは「降り積もり」なのだった。ところが(4)では個的な「しゃっくり」-共的な「地震」が「揺れ」において結合し、(5)では「髪の濡れ」が「翌日の雨の濡れ」に結合する、越権的な少女中心主義が舞い戻る。ということは(3)の因果提示だけが例外的、つまり(1)-(5)の論脈上の「ノイズ」を現象しているということになる。

 ところがこれらは全て、続く(6)を呼び込むための前哨戦だった。「大切にしていた金魚が死ぬ」=「初潮が訪れる」、この二つには因果関係のうえでの形状的(/動作的)な類似性(反方向性)がないのだが、詩的な因果関係なら即座に認められるのではないか。「金魚の死=赤色の喪失」→「初潮の到来=血の赤色の再臨」という図式。それで付帯的に「大切にしていた金魚」に、「それまでの自分自身」と等号が結ばれ、結果その自分の属性に、「自由に泳ぎ回っているように見えても透明な水槽に閉じ込められていた」という性質までもが付加されることになる。

 先にネームを抜き書きしてはっきりしたように、ここで近藤が配していたネームには「ひらがな」が通例を超えて多用されていた。だから「初潮」という漢語が登場したとき、とりわけそれが衝撃になる。つまりそれまでの少女性を中心にした不思議な「因果」列挙も、この「初潮」の語の出現を待ち構えていた ――そういうことになる。

 ここで「赤の消滅→赤の再臨」の図式が対応的か、その吟味にこの短篇の真価が問われることになる。それで152頁の上下2コマ(そこには「部分拡大」-「全体提示」の「対応」がある)、その画柄を具体的に吟味する必要が出てくる。初潮の到来と金魚の死――その二重の脱力感で机に打っ伏しているとおぼしいそのセーラー服の少女は、読者の側に顔を向けているのだが、その顔の手前には遮蔽物として金魚が不在になった水槽が置かれ、結果的にいうと少女の顔が消されていたのだった。つまりそこでは「金魚の不在」「少女の顔の不在」――このかたちで「不在」が二重化されているということになる。

 だから読者の印象は結果的に、結論としての「赤の再臨」を文字どおりに受け取らない。「赤は再臨していても不在――初潮の血は赤くみえて本質は透明」というふうに印象が変転するのではないか。ここでも「少女性」を保証する経血が刻々とその流出をかたどることで「少女性」そのものの流失を結果しつつ、けれどもむしろその少女性の「漸減」によって少女性が固定されるという、短篇「おしゃれ」で示されたのと同様の「逆説」が最後に滲みだしたのだった。

 この短冊に入れたナレーション・ネームによって、因果関係を間歇的に綴ってゆくという手法は、153頁~「22」第二話「Three Times」へと受け継がれる。ただしそこでは力点が移る――フロイト論文『無気味なもの』のように、相同体験の連鎖の気味悪さが隠し味になっていたのだった。俗言「二度あることは三度ある」が実際にヒロインの内心を表現するネームとして登場するが、「三」の反復は「聖ペテロの三度の否認」のように破局的でもある。作品はそのような奥行を伴いながら、「二度の喪失」ののち「三度目の喪失」の来ない気味悪さをまず印象させ、しかもその不到来が「到来の不認知」ではないかとさらに不吉な託宣をおこなう逆転力を秘めていた。

 そうだ――全ては少女的「私」の心許なさに関連している。この点に近藤が肯定性を貼りつける。この「逆転」によって少女がその本来性に向け賦活されるというのが近藤マンガの力学だった。そうして自己を自己に固定する記憶も再審に付される。「私」の記憶もまた、「私でありえた者」の記憶へと変貌してゆく――あるいは「私ではない私」の記憶へと。21頁~「2001年版逆さの思い出」はそうした主題系への、一つの達成だった。

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