▼講義草稿
山本英夫『ホムンクルス』について(早稲田大学第二文学部講義草稿:05/04/20、27)
【解題】
早稲田大学第二文学部でのサブカル講義が始まった。内容は「Jコミックの様々な作品について」。ここではとりわけ、OHPを駆使してコマ単位で構図、描線など、マンガの細部をスクリーンに召喚、記号論的なテクスト解読をおこなってみたいとおもっている。
さて、この第二回・第三回講義(05.4.20+4.27)の草稿をここにアップしてもらう。そうするのは、早稲田二文の大量の学生にたいし、期末レポートに向けたマンガへの着眼、分析方法などを具体的に示唆したいとおもったためだ。つまり、ここではマンガ・テクストにたいし、主題解読・記号解読・描法解読・間テクスト性解読・社会性解読が総花的に導入されている趣があるとおもう。この手法を身につけてもらい、講義の間に間にJコミックと馴染んでほしい――そういうことだ。第一回講義で語ったように、この方法には、僕の映画評論の方法が転用されてもいる。いずれにせよそれは、ストーリー要約のレベルからは大きく離れたものとなっている。
ともあれ受講生の皆さんはこの草稿を読み、「方法の刷新」を心がけてほしい。
山本英夫『ホムンクルス』について(早稲田大学第二文学部講義草稿:05/04/20、27)
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澁澤龍彦の『毒薬の手帖』をひもとくと、ホムンクルスとは一定の条件によってつくられた、人造人間の一種だとわかる。母胎(卵子)とは出会わせない(受精させない)まま、何らかの操作で精子だけに変容を加え、単性生殖を導いて生まれた子供――単純には、そんな定義でいいだろう。特徴がある。それはビーカーに入る程度の「小人」なのだった。古来、人造人間はさまざまな神秘術によってつくられてきたが、ホムンクルスをつくったと伝説されるのが、錬金術と近代医学、その懸け橋の役割を果たしたルネッサンスの知的巨人、パラケルススだった。彼の四大元素に関する詩的想像力が大ゲーテにいかに影響を及ぼしたか、など、澁澤の能筆は例のごとく縦横無尽な領域踏破をおこなっているが、本題から外れるのでここでは割愛する。
ところが、話題沸騰中の山本英夫のマンガ、『ホムンクルス』(「週刊ビッグコミックスピリッツ」にて連載中/単行本は現在、第5巻まで発売)の「ホムンクルス」は、全然、別のものに依拠しているとわかる。第3巻で、主人公(彼の苗字はのち「名越[なこし]」と判明する)に「トレパネーション」手術をした医学生・伊藤が、主人公に以下のように語るのだった――。
《現代では「ホムンクルス」という言葉は、「脳の中の小人」という意味で使われています。[と、彼は「ホムンクルス」の絵をみせる]これは脳科学の分野では有名な「感覚ホムンクルス」というものです。例えばこのグラスを触ると冷たいですよね? でもこの冷たさは、「指の先」で感じているようで、実は脳で感じているんです。ということはですよ、脳の中にも「指先」があるということになります。》(第2巻9-11頁=以下「2・9-11」のように表記)。
つまり固体的・全体像としての「人間」があったとして、その人間の個々の感覚器官にたいする縮図のようにして、諸感覚の連続的布置をしめす、その人間よりさらに小型の同型人間が脳のなかに存在している――そういう説ということになる。
これは精神分析医ではなく、まだ脳生理学者だった初期フロイトがぶつかった問題を即座に想起させる。19世紀後半のあるとき、フロイトは、脳の記憶システムを、幾らでも重ね書き・消去が可能な家庭用メモ家具「マジックボード」をつかい、説明したことがあった。マジックボードは板部分とそのうえの皮膜部分に二分されている。その皮膜部分に字を書くと、それが下の板部分と密着し、その字として判読できる――けれどもふたたび、その皮膜部分を「剥がす」と、それは消えてしまう――そんな、一種の「幻惑」的なシステムに拠っている。その字の書き込みを記憶の刺激、その皮膜の剥がしを忘却とし、この忘却こそが記憶の自衛作用だとフロイトは説明したのだった。つまり、マジックボードの皮膜の引き剥がし作用と同様のことを人間が無意志的にしているから、記憶も脳に蔓延・爆発することなく自然消去され、脳活動が維持される――それがフロイトの脳生理学の学説の主唱部分をなしていた。
この学説は即座に当時の学会から反駁を受ける。つまり、このフロイトの学説では、「記憶を書き込む主体」「記憶を書き込まれる主体」と同時に、「その記憶を存続させるか否かを判断する主体(抽象的であっても)」が、鼎立的に同時存在することに、まずなる。ところがそれはひとつの脳を舞台にした「重ね書き」として「実演」される。となると――「論理的には」人間の脳のなかには、ホムンクルスのなかにさらなるホムンクルス――そのホムンクルスのなかにもさらに小さなホムンクルス――というように、無限に小さなホムンクルスが入れ子構造として連続内在してゆくことになってしまう。その矛盾を、当時の脳生理学者たちが突いたのだった。これを「ホムンクルス問題」という。フロイト自身、この「ホムンクルス問題」の矛盾が解けなかった。それが彼をして精神分析の分野に移行させる直接原因となったのだった。
まあ、こんな雑知識などはどうでもいいのだが、人間のなかにその人間自身を判断する「内在的人間」が想定できるのは確かだ――対象が記憶であっても感覚であっても、あるいは善悪の判断とかのレベルであっても。ところがその境域はその人間の外在性にたいし、「内属」「一致」「超出」、どんな言い方をしたとしても確定的とはならない。それは、揺れ動く幻影みたいなものであり、つまりはその人間全体の「定義不能性」にすら抵触するものでしかない――そういうことになるだろう。
山本英夫『ホムンクルス』はそんな不安・不定型性を、感覚論の分野で展開している点に新機軸がまずあった。「トレパネーション」手術を受けた主人公――その左目は、対象が人間で、その「無意識」が痛みや抑圧を感じているとすると、それを、デフォルメをかけられた一種の暗喩的図柄・構造として捉えてしまう――そんな「異変」を生きはじめるのだった。しかもその構造の「質感」が無機的なものだから尚更始末が悪い(このことを予言する主人公の科白がある ――《今の世の中、人間のほうが機械よりかよっぽど機械っぽいんですから》[1・31])。当然、人間の「約半数」がそんな異変をともなって見え始めた主人公には、葛藤――もっといえば感覚の恐慌に苛まれる次第となる。
ここで、これまで不問にしてきた「トレパネーション」について、作品内で説明されている事柄を整理する必要があるだろう。1・59-63、1・ 140-144で述べられていることから「総括」すると以下の定義になる――「トレパネーション」とは、脳自体には損傷をあたえずに、頭蓋骨の額中央部分に小さな孔を空け、それで脳への閉塞圧を解放、子供時代のような良好な脳の血行状態を人為的につくりあげ、それにより脳の活性化、「第六感」の獲得を助長するというもので、実は、古代から施術が繰り返されてきた――と。つまりそれはロボトミー手術の逆で、「超人」育成を幻想させる設定なのだった。これが読者に、キナくさい幻想や追随者・模倣者を呼び出す危惧は充分にある。だから単行本の帯や奥付手前には、《※作品中の『トレパネーション』は極めて危険な行為です。絶対に真似をしないでください。》という文言明示がある(このような表示強迫性は、実際に低劣な模倣事件が起こった可能性を暗示している)。ともあれ、そのような「危険物」(人類史の暗部にあるもの)を扱ったから作品が衝迫性をもつにいたったのは事実だ。それが作品の「前提」なのだから、このことに対し、良識派的に目くじらを立てるのも愚かなことだといわざるをえない。
主人公「名越」が「トレパネーション」手術を受けるまでは、このマンガの「物語」は速度感たっぷりに進む。前提確認をしておこう。「名越」は若年にして経済VIPだったと思しい。現在年齢は34歳。ところが何らかの理由でその職から離れた。妻子など家族関係については一切物語られていない。彼は新宿高層ビルの林立を間近にしたとある公園に起居している。ホームレス社会と半分接触するような恰好だった。つまり、彼は、ホームレスの人間から食事の世話を受ける代償に、彼らに持ち金からアルコールを提供していたのだった。
「名越」とホームレスたちには薄い境界が張られている。「名越」は就眠を自前の愛車のなかでおこなっていた。しかもホームレスたちに提供された食事が、抜群の調理法によって残飯を煮た、それ自体はゴミの拾い喰いから離れたものであっても、一旦それを口に入れたあと、密かに公衆トイレで吐くことを励行している。ホームレスの間際にいてホームレス社会のなかへと転落しない――そんな「中間性」がこの名越には付与されていて、医学生「伊藤」はそのどっちつかずの冷静さに興味をもち、70万円の報酬と引き換えに「トレパネーション」の実験台にならないかと話をもちかけたのだった。
「トレパネーション」の効用を聞きバカバカしいとおもった名越は、一旦はその申し出をむげに拒絶するが、クルマのガソリン欠、レッカー車にクルマをもっていかれたこと(実はそれが伊藤の策謀だった)など進退窮まったこともあってついに承諾する(それと彼には生存願望がもともとなくなってしまってもいる――1・133参照)。そこまでの「流れ」は序破急の「序」をなすものとして、快調に進行したといっていいだろう。――そして、作品の驚くべき「倒錯」が開始されたのだった。
「驚くべきこと」――それは何か。以下、急激に物語スピードが低減したのと引き換えに、作品は名越の左目の視界変化の描写に淫するようになる。それは最初の段階では「人物たちの通常の外見」-「名越の左目が捉えた真相のデフォルメ構図」といった二分法で処理される。ところが、作品がやがて、指詰めのトラウマをもつヤクザ、あるいはブルセラショップに出入りする普段は優等生の女子高校生を物語の拍車材料として具体的に召喚しはじめると、それまでは静止的にしめされていた「名越の左目が捉えた真相のデフォルメ構図」が、刻々の変容過程に入りだす。しかもそれは、山本マンガ特有の「ベコッ」「サササ」「ボッ」「ドシャッ」などの「オノマトペ」が介在するものの、極力「運動線」を廃して表現される。つまり、人体の真相的眺望の変容は、「コマ」から「コマ」へと辿る読者の視線、その移動過程に「想像的」に宿ってゆくような方策が如実にとられはじめるのだった。
「アニメ化」の期待が仄見える。同時に、セルによるアニメではなく、この山本のマンガ自体が、紙媒質のうえで自らアニメたろうとしている――そんな「気色」が窺えるのではないか。
山本マンガに注目をしはじめたのは、マニア一般とは相当遅れ、『殺し屋1』からだった。そこではヤクザ社会を舞台に、「泣き虫」殺人兵器たる主人公イチが、さまざまな殺戮機能を装填させた一種の甲冑に身を包み、ヤクザ社会の壊滅に向け、作動する様子が活写された。まずは人間性/(殺人)機械性の二分律の境界が、そこでは曖昧になり、同時に活性化され、結局は人間と機械との価値転覆的な合体が生じる。それは当然、副産物をも呼んだ。それがサディズム/マゾヒズムの、これまた境界溶融だった。たとえばそこではマゾヒズムが勝者の領域に移る。マゾヒズムがサディズムの逆転的宰領者ともなる。そしてサディストたちはマゾヒズムの枠組に置かれ、その叫喚によって倒錯美を刻々と生産しはじめてしまう。こうしたサディズム/マゾヒズムの布置においても、『殺し屋1』は逆倒的運動を、延々連続させ、それでそのテクストの内実を織り上げていたのだった。
翻って、『ホムンクルス』の「逆倒」はどういった点から生じているといえるだろうか。ひとつは、(いま述べたように)「マンガ」「アニメ」といった媒質的境界線を一挙に無効にし、マンガという土壌に、真の意味でのアニメーション的想像力を堤防決壊させた点だろう。これはすぐれて、テクスチュア的な問題を形成する。ともあれこの達成が見事なので、『ホムンクルス』は現状の屈指の傑作と映る。
もうひとつは、「換喩(メノトミー)」であるべきものを「隠喩(メタフォア)」に置き換えるという蛮行を臆せずおこなっている点に「逆倒」が認められるだろう。つまり、名越の左眼が感覚した、手近の人体の眺望変化は当初、隠喩的な操作を加えられていて、換喩性をもっていない――この点を「異変」と感じなければならないという主張をここでおこないたいのだ。
辞書的な定義をするならば、「換喩」とは以下のようになる――《あるものを表すのに、これと密接な関係のあるものを以てすること。角帽で大学生を表すの類》。一方の「隠喩(暗喩)」はこうなる――《表現上はたとえの形式をとらない修辞法。即ち、「如し」「似たり」などを用いない。白髪を生じたことを「頭に霜をおく」という類》。
テクスト生成においては、「換喩」と「隠喩」とでは、必ず前者を重視しなければならない――これが鉄則だろう。「換喩」が部分をもって全体を指示する機能だというのは上記辞書的定義に注意すれば理解されるとおもうが、まずこの指示機能というのが実は不安定極まりない。角帽が大学生に結びつかない「惑乱」をもそれは領示している。
なおかつ「換喩」はテクスト読解においては常に生じている。なぜなら「いま読み進めているそこ」はテクスト全体においての「部分」だという関係が常に保たれるためだ。先刻綴ったことは、そのテクストの先端が、テクストの全体を指示する保証をもたない――そういうことでもある。
一方の「暗喩」はテクストにおいては自己回帰的――すなわち、譬えの「回答」をもとめて内部穿孔をおこなう――その意味で「膠着」を呼び出すテクストの非生成要因ともなる。塚本邦雄の《革命歌作詞家に寄りかかられて少しづつ液化してゆくピアノ》が暗喩解読が終了したのち何も生産しなくなるのに対し、正岡子規の《鶏頭の十四五本もありぬべし》が、常に感覚の先端の表象として意味完結しない不気味な構造をもっている点をまずは想起すればよいだろう。
尚かつ、「換喩」は実生活上の感覚において、常に人が駆使している感覚でもある。ある少女の指をみて、それがその少女の全体に「似ている」かどうか――その判断には小説の先端に刻々と遭遇してゆく読解体験「同様の」感覚が働いているのだ。換喩とは人体をテクスト化する際に駆使される想像力の型をもしめしているのだった。
たとえば――「換喩」は「矛盾」を認めた瞬間から能産的な機能を開始しはじめる。対象に現れた矛盾A-矛盾Bをつなぐ媒質として「全体」についての考察が召喚されるとするなら、その作業は「換喩」に逆の方向から直面することにほかならなくなる。ひとの例でいおう――「あの少女はあるときはやさしかった」「別のときには残酷だった」――このふたつの矛盾をつなぐ媒質として、少女の全体=身体=テクストが出現する――そういうことだ。だからテクストの読解の一方向を指標する「暗喩」にたいし、「換喩」機能の全体的な重要性が尊重されなければならない――そんな機制が生ずることになるだろう。記号/論理学的な知見の披露はとりあえずこのくらいで終了する。
『ホムンクルス』に話を戻そう。まず、A「人物の外見の平板描写」とB「その人物の暗喩的構造の真実描写」が静態的な二分法に提示された好例として、「2・28-29」が挙げられるだろう。主人公・名越と高級洋食店に来て、まずは「トレパネーション」を施された名越が自分の感覚異変を、その施術者・伊藤に報告する場面。AとBは、ほんの僅かな時差を介在されて見開きのなかに同時に収められるから、読者はちょうど「間違い探しクイズ」のように両者の仔細・差異を検討するよう導かれる。
以下は対照表的に。
「A1:構図の左端、恋人と連れ立って入店してきたらしい男→B1:その頭部が宙に浮き、彼はそれを自らの手で前後方向にグルグル回転させている(アタマがバカという隠喩)」。
「A2:画面中央よりやや左、連れの同世代の中年女と談笑している、帽子・色眼鏡を着用の中年女→B2:首全体が胴に陥没している(その理由はマンガのなかではだいぶあとになって判明する)」。
「A3:ポマードでオールバックの髪を固め店内中央を移動している礼服着用の男性給仕→B3:駝鳥の頭部のみがその人間の首に置き換えられた姿(容姿自慢と慇懃無礼を暗喩している)」。
「A4:面前の同年齢の会社員と談笑をしている後ろ姿の初老男(その隣に妙齢の美人がいる)→B4:彼の股間からは巨大蝋燭が立ち上がり、しかもその蝋は無限に溶けて彼の下半身全体を覆っている(これが隣の美女に「発情」している暗喩となっている)」。
これらの外貌変化は、喩として直截的すぎ、「解答」が近接的すぎるため、あまり妙味がないとおもう。
この意味でいうと、名越の左眼に生じた感覚異変を最初に見開き大で示した場面(1・220-221)のほうが妙味があるかもしれない。彼は歌舞伎町繁華街を歩いていた。往来の人間の約半分が異状を呈している。○躯が正中線に沿って精確に左右分断され、しかもその左右が入れ替わって、両者が手をつないで危うく歩行している男。○スーツの細部は正常配置なのに、そのスカートから首を下に出し、その袖からは足が飛び出し、脚の代わりが腕となって倒立して歩いている若い女。○躯全体が樹木に変貌しているのにハンドバックをぶら下げ、ケータイで話ながら歩いている、若い女(のちのコマではこの若い女の「幹」部分には「うろ」があり、それが女陰の縦穴=裂創をそのまま連想させる)。○頭部全体が熱帯魚になってしまった男――。
さてここらで、これらの描写が山本英夫自身のどんな描法特性から可能になっているかを考えてみよう。
●彼は人物を「同型」林立させない。個々の造型には必ず、顔貌・背丈の別・肥痩・服装などで差異性を盛り込む(だから人物判読が読者の側で多彩になり、それが個々人をしてA-Bの見え方にどのような差を起こしているかをさらに解読させる前提ともなってゆく)。
●山本はたぶん、人物の眼の表情付与にとりわけ眼目を置いている。その瞳は冷めた透明性を付与されながら、瞼の開き具合やその自体的な光によって、多くの感情・表情を分泌し変える――しかもそれが倦怠・不如意・恐怖・焦燥・憤怒といったマイナス感情内での細かい「目盛り」を形成するのが見事だ(むろん「内省」といった、それ自体は正負の価値に振り分けならない眼の表情がしめされることもあるが)。
そして眼が、作品内で描写される諸事物のうち強度の刻印を如実にしるすものとなる――たとえば1・181では、「トレパネーション」を受けてまだ間もない名越が、外界(この場合は幽霊トンネル内上部)を見回しても、その視界に何も感じられない様子が、その名越の眼自体を大きく描くことでしめされる。そこでは眼の描写の質によって、眼が捉えているものの内実が暗喩されているのだ(その意味性が「強度」を形成する)。
その一方で、作品でのさまざまなその眼が印象的・複雑に変化する医学生「伊藤」(ピアッシングをさまざまに施し、唇に水腫めいたもののある彼は、眼の下に涙などの化粧も施している――両眼が離れ、しかもその鼻が獅子鼻として正面構図では平板化される彼は、時にその顔の造型が極度に魚類的なものにまで不気味に近づけられる――たとえば、2-25)。彼は、この1・181では双眼鏡を通してトンネル内部を離れてみているという「対照」が強調されている。つまり、彼の眼は「消されている」。この「消されている」強度がまずあって、それが反転的に、名越の「何もみえない眼」の強度を補強してもいる――そんな分析ができるだろう。
●山本マンガの人物(とくに主要人物)の眼の「水性」(水分含有量)は、高く感じられる。それでその眼は、外界を鏡のように「反射」するようにもなる。これは通常、その人物の表象に「美」を印象させるマンガ特有の方便だが、彼の場合はここで完全な「領域突破」に達する。たとえば5・94ではケータイ返却のためブルセラ少女の自宅に深夜に戻った名越が、期せずして彼女を同乗させ、深夜の東京のドライヴにおよぶ経緯が描かれている。頁下の2コマが、クルマのフロントグラス越しに入ってくる繁華街の流れゆく夜景(ネオン)、その反映が名越-少女両者の眼を輝かせている様子が描かれている。
ただこれが、人物の「人間味」の表現か否かは吟味されなければならない。前言したように(1・31)、主人公は《今の世の中、人間のほうが機械よりかよっぽど機械っぽいんですから》と表明しているのだ。ふと気づく――たとえば、1-163。「トレパネーション」施術ののち外出する伊藤が部屋にのこした名越を「監視」するビデオカメラのレンズ(接写構図)。これもまた、こうした主要人物たちの眼と同等の描法によってもたらされているのではないか。となると人物群の瞳、その水性、好-反映性とは、彼らの身体細部の機械性の証――そう受け止めたほうがいいだろう。
●気になるのは、この5・94の下2コマに描かれた瞳の内部=流れゆく夜のネオンの反映が、具体的にどのような技術で描かれているかという問題だ。ビデオ画像から取り込んだものを曖昧化し、それを線数化し、さらに貼りつけているのではないか――そんな「疑惑」がもたげる。山本英夫の画柄ではスクリーントーンの貼付が頻出する。強迫的、といっていいほどだ。それが人物衣裳の差異の保証となるほか、画面細部の陰翳・質感の多義性へも発展する。だからカッターの刃先で一旦貼ったスクリーントーンを丹念に傷つけるといった画柄確保の領分(アシスタント領分)も肥大している。
ただそれと一緒に、コンピュータ作画がここぞというとき不穏に混入しているのではないだろうか。例としては公衆便所、主人公の隣で小用をおこなう初老ホームレスが、全体が卵型、反射性に飛んだ金属球となって「見える」場面(2-8/その球面、円形に刳り貫かれた箇所から小便用に男根が突き出され、のち、円形の穴が球面にさらに生成し、そこからは「眼」も出現する)。この2-8の最初のコマなどは絵の具で描かれた陰翳の緻密な製版というより、やはりコンピュータ作画なのではないだろうか。その点では「金属性」「反射性」をしめす画面はみな怪しい。ほかにも、エレベータに乗った名越が扉が開いた瞬間に怪物に出くわす2-52の1コマ目、あるいは単純に外景描写に乗り、伊藤が戸越に食事を供するため二人が新宿のホテル玄関に後ろ姿で立つ場面がある(1- 97――のちホテルに入るや否や、ホームレスになる前の名越がそのホテルの上客だった点が判明する)。そこでも回転扉その他ファサード部分の硝子が外界を反映している描写が極限的に細かく、それでそれが写真をコンピュータに取り込んだのち貼りつけた画ではないかと想像させる。
●このようにみてくると、山本英夫の画には繊かさと密度の粗さ――それが不測的に分布しているという全体把握が生じるようになる。人物の顔はその表情付与がマンガの趨勢に即していないとはいえ、一応はデフォルメの華々しい痕跡がある。一方の風景では描線・陰翳線が細かく施され、リアリスティックな質感を導きだされている。そういう布置のなかで「悪趣味」な浸透が起こる――それが山本マンガに特有的に生ずる事態だとおもう。
通常は無筆(白)分布の高い部分として定着されているはずの人物の顔に、一種過剰な「空白恐怖」が作動しだすのだ。ホームレス社会のリーダーめいた老人の横顔を捉えた1-79では、彼の顔に深く刻まれた皺がすでに「逸脱」の域に達したさまがみてとれる。その直後の1ー85、自分の愛車がレッカーで運ばれ、半ばアイデンティティを喪失した名越は不安によってその顔に汗を滝のように流している。これも通常のマンガ記号上の「汗」の表現から離れていると銘記する必要があるだろう。
山本マンガの画柄の説明に多量の字数を使いすぎたかもしれない。その前の話題は、A「人物の通常の外見」-B「名越の左目によって見られた人物の無意識の構造的外見」の差異が暗喩によって結ばれすぎる嫌いのある点に不満を表明していたのだった(その後は、そういう描写の可能な山本の画柄にはどんな特徴があるかをしめしていた)。その端的な証明となるのが、前述したように、新宿歌舞伎町の路上を歩いていた名越が、他の女の「見え方」の異変に気をとられて、飲んでいた缶飲料の中身を誤って背広の前にブチまけてしまうという――最悪の(つまりはイチャモンをつけられるという)かたちで遭遇したコワモテのヤクザ組長だった(1・227参照――短髪、陥没型のそのゴツゴツした顔のそれ自体の造型は素晴らしいとおもう)。名越はこの彼に対し、彼の左眼にみえた真実の姿だけに語りかけ、そうして「小指を詰める」「殺す」とまでいった勘気を買ってしまうのだが、その姿だけに語りかけたことで逆に彼を停めることの不能な流涕に導いてしまう。そして2度目、彼の事務所に連れてこられたとき(2・78-169)にはついに彼のトラウマをえぐりだし、その幼少体験とわたりをつけさせることで(具体的にはそれがヤクザ社会から組長が離脱するための指詰となる)、組長を救抜するのだった。
この長いエピソードの物語的詳細は追わない。ただ、その組長が名越の左目によってどのように捉えられたのか――それのみを端的に整理しておこう。
組長は、金属板がフル装備されたロボット(鉄人28号-ジャイアントロボ系)としてまず幻視される。これは彼がコワモテである点の喩だし、同時に彼が弱い「内面」をそのゴツゴツとした金属板で高度に鎧っていることの喩でもあるだろう。そしてそれはロボットであると同時に確かに、人体が装着できる鎧でもあった。その人体の顔が頭部部分から出現する。そして結果的にそのロボットを鎧っていたのが、少年時代の組長自身だったとわかる。子供として描かれたその彼は、泣き出す寸前の逼迫した表情を多くしていて、しかもロボット鎧の「袖」部分から素手を露出させ、自分の小指を鎌で詰めようとする寸前の動作を繰り返している(そういう相手の様子をみている本人自身は、実在の組長のドスによって指詰を迫られているという錯綜が表現される)。
事務所にいったとき、名越は組長の躯にじかに触れる。そうして彼は組長の小学校時代のトラウマを引きずりだしてしまう(のちにはそれは像の変遷としてマンガ展開に嵌入してくることにもなる――畑か草原で草刈り遊戯を学友とやっていた組長が、自分の鎌で誤ってその学友の小指を落としてしまい、しかも彼は怖くなってその場から逃げ出したという記憶だった)。これが、男が長じてヤクザとなり、さまざまな敵対者・不始末者の指を次々と詰めていった作動要因となったと説明されてゆくことにもなる。
ロボット鎧の像は最初大きい。しかし2・132では余分な防御部位が外れて、少なくなった鎧に少年時代の組長自身が裸で鎧うだけの侘しいものになる(ロボットの背丈もここで少年自身の背丈となる)。そして2・136では、鎧の金属はすべて解体離脱し、少年時代の組長の裸身が直截、画面表象されるようになる。組長は(したがって名越の左目に捉えられた少年の組長も)泣いて手をつき、躯を前屈させている。このとき少年時代の組長が誤って鎌にかけた「ケンちゃん」の姿は、金属パーツが再構成され、子供の背丈の鎧となって表象される(2-146)。その「ケンちゃん」に、子供-裸体の組長が泣きながら土下座することで、名越の左眼の幻視変容が終焉を迎えたのだった。
これは明らかに、「トラウマ」という取扱い注意の案件を安直に絵解きしたものといえる。しかも、像の変容が圧倒的であっても、その変容の動因がすべて「暗喩」によっていて、構造提示に不可知性をも包含する「換喩」にはよっていないのだった。トラウマは、人間の「決定論」「過度の物語傾斜」「自己伝説化」「精神分析の自己再帰性」「不在の実体化」などを付帯させる、欲望社会特有の概念装置であるにすぎない(あと50年後には効率的な施策から誰も口にしなくなるのではないか)。つまりはこの場面は、そんな「トラウマ」幻想をイデオロギー的に補強する展開にすぎない。このとき「暗喩」が用いられるのも象徴的だといえるだろう。総じていえば、「トラウマ」それ自体も嘘の暗喩なのだ。嘘ではあれとりあえずは暗喩だから、それは人それぞれの実際の心傷が解答化できるという擬制を生む。だが本当のところ、答は精神分析の自己再帰性以外のどこにも到達しない。だからこのくだりを描いた山本英夫は社会正義的なレベルでいうと、「悪い」描写をおこなったと総括できる。この場合、「わかりやすさ」が伴われているので、さらにタチが悪いともいえるだろう。
この失敗があったから、その後の、ブルセラ少女(彼女は砂の固まりとしてまず名越の左目に捉えられ、のち流砂化して、ものすごくラジカルに形態変容する)の像の変転が素晴らしいという対照がおこったのではないか。そこには「暗喩」専一性がない。とりあえずは「暗喩」と「換喩」が等分にその変容に関与している。だからそれは倫理的な表現であると同時に、少女性の本質をえぐりとるものともなったのだった。その具体的分析・例証は次回講義で――。
(05.4.20)
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村上龍が『ラブ&ポップ』で、109(マルキュー)やセンター街等に屯する渋谷ギャルの「記号性」を小説空間に転写したのが、90年代中葉だった(それを庵野秀明が98年、原作以上に見事に映画化した)。――ひとりの少女が宝石店で売物のトパーズの魅力の虜になる。どうしてもそれをゲットしたい。しかも彼女は、今日ゲットしたいとおもったものを即座にそうしないと、翌日にはもうその欲望の「ときめき」すら消失してしまうと知っている。そうして自分をやりすごすのは結果的には自分を殺すこと――「死ぬこと」だ。だから最初は仲間の少女たちの助けを借り援助交際(これはカラオケ同行のかたちをとる)をつうじ金稼ぎをする。それでトパーズの購入金ができた。
けれども義侠心というよりも、欲望にたいする自分の自立性、その必要を感じたヒロインは、折角のカネと友達の善意を前にしながら、もういちど自らひとり援交で稼いでトパーズを買うと宣言する。その過程で彼女はラブホに行き、そこで究極の「他者」に直面し恐怖体験をする――大雑把にいうと、『ラブ&ポップ』とはそんな枠組の小説だった。
これが、ブルセラ、援交、ルーズソックス、ピッチなどが女子高生のキーワードとなっている時代に書かれた。だからそれは当然、村上龍ならではの「女子高生論」というサブの枠組をもっていたともいえる。
物語の経緯を措いて、小説に現れた構造を考えてみよう。舞台のほとんどは「欲望の街」SHIBUYA。少女たちには商品=欲望が、街の景物や商品棚をみるだけで刻々と植えつけられてゆく。同時に彼女たちは男どもから欲望される「商品」でもある。この構造によって、「トパーズを欲する者がトパーズになる」。もっと言い換えると、「商品を欲する者が商品となる」。商品性が転写を繰り返す熾烈な運動を表面化している街――それが渋谷というわけだ。むろん村上龍は少女好きだから、そうした構造提示によって、少女たちの側にはまず「切なさ」の印象をあたえ、同時にそうした循環性・好反射性の亜地獄に対処するにはひたすら新鮮でつよい意志が必要なのだとした。僕自身、そうした村上の世界観の置き方が好きだ。
実は僕は去年後期の立教大学の大教室講義においては「少女性」を一貫テーマにした。キーワードが「少女機械」。講義そのものはこの概念をもちい、小説・コミック・アート・音楽・アニメ・写真につき、その作品・作家を各回で個別的に分析する手続によった。
実はこの「少女機械」はドゥルーズ=ガタリの怪物的大著『アンチ・オイディプス』で分析される「欲望機械(欲望する諸機械)」の概念流用にすぎない。簡単にいってしまうと、僕がデッチあげた「少女機械」というのは、「少女人形」のようにそのまま対象化ができる固形物=存在なのではない。ある「領域」、その変貌=運動のことをそこでは指していたつもりだった。
ここで僕は少女にたいする村上の把握と似て非なる把握をおこなった。どういうことか――少女を欲望する者がそのまま少女になってしまう「事実」に僕は注目させたのだった(その発見を最初に明記したのが、大塚英志の80年代末期の好著『少女民俗学』ではないかとおもう)。
たとえば少女にたいして凌辱を加える性犯罪者なら、自分自身が犯している暴力を取り払ったとき、そこから都合のいい自己中心性だけが浮上してくるが、その自己中心性が対象たる少女から借り受けた「少女性材質」で織り上げられている点は、皆さんも経験則的によくご存じだとおもう(例・宮崎勤/この点では少女性の転写が男女性差を「跨いで」生ずる点が脅威だ)。あるいは少女たちは「自分を可愛くみせる」アクセサリーや衣服で身を飾りたがるが、そこでは少女性の肉体の持主たる少女が、少女性の細部をもつこれら様々なものを自らに累乗化させることで、複雑な内部反射を遂げているさまも見てとれるだろう。それで少女が個体ではなくなる――「領域」となる。こんな彼女たちがつるんで歩けば、そこからもまた、相互差異が消滅してしまう。あるいは少女たちの欲望の街・SHIBUYAと、欲望の対象たる少女たち自身の質的差異すらもがみえなくなってしまう。
いま僕がアト・ランダムにおこなった例示――これらを総合するとこういうことになる。少女は自らに隣接しているモノ/領域を刻々と少女化する。そうして領域拡張する。しかも、その少女化は、本来的には少女性と無縁なものにたいしても成立する。それで結局、個別化が不可能な幻惑的領域までもをつくりあげてしまう。この作用を僕はまず、「少女機械が作動している」と表現したのだった。だからそれが個別性ではなく領域としてか認知できない。
そしてこの「個別化が不可能な幻惑的な領域」とは簡単にいうと、まさに「資本主義」が自らの内在物とし、対象物とし、否定物として、自己完結的に自らを回転させてゆくための「原資」となっているイメージだった。資本主義は「矛盾」を飲み込む――その飲み込み方で自らの「矛盾」を提示し、しかもそれでさらに強固な「資本主義」となってしまう。言い換えると、資本主義の原資とは本来的には「虚無」だということでもある。
こうした把握をしたとき、「欲望する主体がそのまま欲望の対象となる」という、少女的な存在形態そのものが、優れて資本主義の動力イメージに相応しい点がわかってくる。同時に、性交を望まれる処女は、その性交の渦中に論理的に既に処女ではなくなってしまう――この事実によって、少女は刻々と逃げ水のように遠のき・更新化される欲望領域だという点も理解されるとおもう。この「更新」が予定として繰り込まれた領域もまた、優れて資本主義的なそれだといえるだろう。駆け足ではあるが、以上しめしたことによって、資本主義の先端がまさに少女性にこそ出現する実態が理解されるとおもう(むろん彼女たちは消費しかしない)。だから空間が高度情報資本主義を自己演出すればするほど、そこに「少女記号」も蔓延することになる。
その少女性のひとつの特徴としては、それが可塑的で変幻自在だという点が挙げられるだろう。上述の言い方で容易に理解できるように、オッサン・オバサン・商品・街をふくめた「あらゆるもの」が少女になりうるということは、そもそも少女性が無限の変幻自在性をもっているということなのではないか。この変幻自在性は少女のなかで内在的に起こる事柄でもある。AVを想起してみよう――そこでは相手の股間をしごく少女の手が相手自身の手の転位にすぎないといったレベルを越え、相手の前に恥し気に突き出された少女の裸の尻が少女の顔となり、性感帯として発見された少女の背中が少女の性器となるといった、無限の「変貌」が遂げられてもいる。とすれば、AVに接した瞬間に起こる感慨とは、あらゆる変貌にまつわる「予感的な」恐怖だということができないだろうか。しかもそれは別にパッケージ化された商品にのみ起こるのではない。すでに、人と人の出会いにもそれが転写されるという領域逸脱すら起こっている。
そう――前段が長くなったが、山本英夫『ホムンクルス』は第三巻にいたり、対象固有の恐れと渇望が描写されるとはいえ、内実は徹底的に「渇いた」記号の流砂性に過ぎない「生セラ」美少女を、主人公・名越の「ホムンクルス」の「共鳴」材料(3・94-95)として作品に召喚させて以来、マンガの展開、その「刻々」がAV以上に蠱惑的になったのだった。いま「刻々」といった――つまりそれは、前回講義で予告したように、マンガの瞬間瞬間がまるでアニメのように「動きだす」――そんな性質の「蠱惑」が演じられたということでもある。そしてこの点が成立して、作品は「ある対象の通常の外観/その対象を名越の左目がみた際の対象の無意識の疎外提示」という二元対置からも見事に外れだしたのだった。
いうまでもないがこの場合の「二元対置」は、静態構造に収まるばかりではなく、対比されるAとB同士の関係を暗喩でも結ぶ。ところがこの「生セラ美少女」が登場してきてからは、その変貌についての解釈に、暗喩解読特有の思考が導入されるとはいえ(例えば、3・153、「この砂は渇いた心……すなわち愛情不足を象徴しています」という伊藤の科白)、マンガのコマの刻々が「運動の先端」「変化する渦中」の感触を極端につよくしてゆく。新規化の驚異。その「運動の先端部分」とマンガの「全体」との関係を、前回、僕は「換喩」関係と語ったのだった。だからこの結果、マンガ『ホムンクルス』は、暗喩への単純傾斜から、暗喩/換喩の複雑な相互並立へと、その様相を変化させ――作品も画期的傑作へとそのステップを進めたのだった(何しろそれは自らが紙媒体の上のアニメたらんと欲望している)。このとき、少女性そのものの無限変貌性を主題として描くことで、山本のコマの連関が自然と「自らアニメたる欲望」を呼び込み、「運動化」しだしたともいえないだろうか。そう、ここでも、「対象を欲する者は対象となる」という、ミダス王の神話にも匹敵する熾烈な原則が生きられていたのだった。
ただし流砂的な運動性そのものが、安定性堅持の見地から、そのまま非難対象となるわけではない点に留意が必要なのかもしれない。その理想的な達成が、安部公房『砂の女』の発想源となったとされる花田清輝のエッセイ「砂のような大衆」だろう(『大衆のエネルギー』所収)。彼はそこで、大衆の本質が「非定型(アンフォルメル)」だとする。だからどんな政体の下にあっても自らの姿を変え、狡猾に政体適応できる柔軟性を備えている――花田はそれを、卓抜な例示を混えてまずはしめしてみせたのだった。それは大衆のもつ体制転覆力の予告だ。ところが花田の複数的な視点は、同時にその大衆の可塑性に、文字どおり「砂を噛むような味気なさ」「虚無」をも噛みあててしまうという、彼特有のオチもつけた――そんな記憶がある。
というような前提説明があれば、『ホムンクルス』第3巻以降についてのこれからの説明も、より理解容易となるのではないか。それでこれから、作品が見事に前面化させた「生セラ美少女」の流砂的運動(の意味/意義)につき分析を加えてゆくことになるが、その前に二、三確認をしておいたほうがいいディテールもあった。
医学生・伊藤の案内によって主人公・名越が「生セラ」ショップにゆく(3・96-112で案内されるように、そこでは番号をつけられた制服姿の女子高生がマジックミラー越しに生身で陳列され、それで着用している直のP[パンティ-]、B[ブラジャー]、L[ルーズソックス]、D[不明]、S[スクール水着]、ブ[ブルマ]が提示されたままの金額によって販売に供せられる――また彼女たちが身につけたそれらを買わなくてもマジックミラー越しに彼女たちの「キスの瞑目顔」「座って開脚しその制服のミニスカからパンティをちらつかせる姿」「後ろ向きで四つん這いになり、やはりそのミニスカからパンティをちらつかせる姿」を見る[ケータイで撮る?]ことができる)。
ところがその前に主人公は、伊藤の先輩が開業する心療内科に行き、名越の「共鳴対象」と期待される通院患者をマジックミラー越しに見てみる実験を促されていたのだった。果たして彼らは、名越の感じる「ホムンクルス」の姿そのままに、対象の無意識の抑圧がしめす、存在の暗喩的構造/運動/図柄を名越の左目に露わにするのだろうか――結果(3・86-90)はしかしたぶん読者の予想に相違して、何の異変も表さなかった。
これを何故か、と考える必要があるだろう。個人的な考えでは、彼らはすでに患者として「完成」されていて、そのかぎりでその無意識が無葛藤なのではないか。「ホムンクルス」は無意識の疎外が暗喩的図柄・運動として名越の無意識部分たる左目にまずは動勢として出現する謂なのだから、この場合なら動勢ゼロの状態――つまりそのままの外観と同じにみえるしかない――そんな暫定的結論が導きだせそうな気がする。ここが伏線となる。
3・96-97は「生セラ」少女合計10人が「陳列される様子」を、迫力たっぷりの見開き1コマで収めたものだった(その奥行中央に医学生伊藤が執着する、普段は品行方正と信じられている男性未経験の美少女がいる)。やがて少女たちのなかで、伊藤が関心をしめしたその少女だけが、名越の左目にとり「異変」と映る――つまり名越は最初、その少女が「砂」によって組成され、同時にその組成が部分的に綻びるように「サララララ」「ササササ」「ススス」といったオノマトペとともに、自ら「砂を流す様子」を知覚したのだった(その流砂状態には原則として「運動線」の補足がない――ということは、読者の運動性幻視はコマからコマへ視線を移すとき生ずる読者側の想像力に、マンガ空間側のオノマトペが作用するという単純原則に負っていることがわかる)。
ところが他の少女たちは、「生セラ」ショップに出入りしている点で病的状態にいると明らかなのに、名越の左目には異変的状態を捉えられていない。その理由が――先の心療内科の通院者の挿話から類推可能になっているのではないか。すなわち、この彼女たちも明らかに資本主義下の病的な疎外存在でありつつ、その「病」がもう完成され存在全体が無葛藤となっているため、暗喩的な構造異常をしめせなくなっている予想が立つ。つまり名越は葛藤の途上にいる対象にホムンクルスをみることができても、「アガリ」となり異常状態のまま静態に収まってしまった対象にはホムンクルスをみることができない――ということになるだろう。ならば、一人の少女だけが砂の組成として現れた点は、その少女だけにまだ「希望」が残存している暗示を問わず語りしているとも考えられる。
注意しなければならないのは、恐らくコンピュータをつかって他の少女の外観に異常が付与されるくだり(最初の現れが3・109の最終コマ)があるのだが、これを別問題として考えなければない点だ。実は医学生・伊藤は名越の左目にとっては「無=透明」にしかみえないというホムンクルス的型が提示されていた(最初が2・44)。しかも伊藤のホムンクルスの透明は、伊藤が「欲望」を感じると、その透明なからだの向こうにあるものを、2・44のロココ調の椅子とはちがってそのままの外観でみせなくなるらしい。つまり、彼の体表の凹凸に即するように、その向こうの対象が「屈折・歪形・重複」等をかたどるようになる。言い換えると、2・44の段階では伊藤のホムンクルスは空気のように感知不能だったのだが、3・109以降ではそれが透明であってもゼリー状という擬制を伴うようになるのだった。
実はこの伊藤のホムンクルスもまた刻々の変化を遂げてゆく。それは作品が中心的に対象化するようになる「生セラ少女」の「砂の運動」の変化と同等の幻惑性(恐怖感)をもっていた。つまり、伊藤の欲望が昂進してゆくと、そのゼリー状の透明が「コポ」などというオノマトペとともに水泡を生じはじめ(その最初の現れが3・171)、伊藤が「パターン介入」(決められたパターンを演じている対象の自明性を壊すことでその相手の不意を突き、相手を思うがままにする)に成功し、彼女と「セックス」するためまずはカラオケボックスへ強引に連れてゆく。伊藤のゼリー状の「透明」はそこで表層のどこかが破裂し、噴水さながらに水を噴き出すようになり(3・81-82)、ついには身体接触が開始されると、彼のホムンクルスは全体で滝にも匹敵する流水状態になってしまう(4・88/91)。少女の砂的アンフォルメルにたいして、伊藤の水的アンフォルメル。両者が出会うとそれはそのまま濁流のように描写されることになるが(とくに4・106-107の見開き)、それを左目でみている名越の述懐どおり、結局は少女から伊藤への「浸食」(4・91)を結果してしまう。なぜそうなったのか。少女が「処女」であるのと同様に、医学生・伊藤もそのオタクまるだしの属性が祟ったのか童貞だったらしい(4・112で少女はそのように見抜く)。童貞/処女の対峙では処女のほうに最終的な攻撃性が付与される――それが少女性が欲望面ではたえず勝利を繰返す「現代」だろう。
それとともにこのようにして「童貞」が見抜かれる前、伊藤の「動揺」が彼の身体表面に徐々に顕在化してくるのも素晴らしい。彼は天然痘患者のように――豹のように――首-顔-手(全身)へと、斑点をその皮膚に描きはじめる(4・97-115)。これはホムンクルスとしての彼の異変なのか、あるいは客観的に単純な彼の外観変化なのかは読者には俄に了解しがたいのかもしれない。ところが4・114ですべてが完全に明瞭になる。つまりその3コマ目は、映画でいうところの名越の後頭部ナメの構図になっていて、その限りで名越の「見た目」の画柄ではなく客観的な画柄だという点が完全定着されたのだった。そのコマでも伊藤の皮膚に俄かに生じている斑点がやはり描かれていて、つまりはそれは蕁麻疹にも似た、「客観的な」伊藤のストレス反応だった――そんな次第となる(むろんここではこのフィクショナルに一見映る「斑点」の提示により、コマ毎に截然と分離されていた主観的画柄/客観的画柄の弁別が、急に相互の界面を浸食したように不安定になる無意識効果が狙われていることになる)。
客観的画柄と主観的画柄の混在。その混在が第一義の「不安定」だとすると、第二義の「不安定」とは混在が完全な相互浸食を達成することだろう。そうした第二義の不安定への予感を伊藤の斑点が機能させているのだが、予言的にいうと『ホムンクルス』はのちにそれを予感から実現の域にさらに高めてゆくことになるのではないだろうか。作品が認識論的不安定に関わるかぎり、そうなるだろう。
自らの本質が対象と同じなのに、自らをその対象から無意識に分離させ、対象を「説明」してしまうこの伊藤の性格付与がすごく現代的ともおもう。彼は名越がどうその少女の本質を捉えたかの報告を、喫茶店で聞く。「全身、砂! 服も砂!」と書き添えられた名越の稚拙なスケッチを見ながら、彼は得々と現代少女のアンフォルメルについて説明をしだす(ところで、名越の左目に生じた視覚異変がこの段階まで絶えずこのスケッチ画めいたもので二重説明されるのには理由があるだろう――ホムンクルスたちの像の変化は、元来がすごく言語化しにくいものなのだ――むろん世界観の複雑もある――だから山本は作品に理解不能を導かない老婆心から具体的な展開ののち、このような「回収的」な二重説明をおこなっていると考えられる――ところで元来、揺れ動く少女性の詳細は、それ自体が言語化に馴染まない事実をさらに想起する必要があるだろう)。
伊藤は喫茶店のテーブルにあった「砂糖」をつかい説明をはじめる(4・145-)。いわく――《たとえばこの砂は今、四角いカタチをしています。「四角」という社会に行儀よくカタチを収めています。[こののち彼は砂糖入れに入っていた砂糖を空コップに移し変えてみせ、それが円筒形にも変化すると示す]。きっとこの砂糖は、どんなカタチにもなるでしょう。「型」さえあれば。1775[その美少女に付されていた番号]もこの砂糖と同じ……型……いわゆる「マニュアル」がまん延している現代の世の中では、どんなカタチにも変化する、砂のカメレオンです》。
これは無論、真実だ。ある対象の少女的実体は、時々で彼女を規定している外的条件のなかから「選択的に」現れているにすぎない。表面は「いい子」、内実は「生セラ」で小遣い稼ぎをしているこの「1775番」のような美少女がいたとする。その彼女にたいし、「いい子」の彼女は世を欺く仮の姿、「生セラ」の彼女はそうした仮の姿を内破するように現れた真相と単純定義することもできない。なぜなら、流砂状のものとは、たえず自分のかたちを規定する「器」状のものを乗り捨ててゆく、その運動性自体を本懐としているためだ。自己からすら逃れる主体。ということは、この少女がたとえセックスによって法悦に導かれたとしても、これもまた少女性特有の複数的な現れから選択的に現象された1局面――「偶有」にすぎないということになる。
前回講義で俎上にのせた「トラウマ」とは、多様な現象から「犯人探し」をする還元主義の単純性――その妄想に取り憑かれた病的想像力の一種とも指摘できる。となると少女性とは本来熾烈で、そうした単純還元主義と馴染まない「多様性の無秩序」を形成しているということにならないか。少女性は還元主義を構造的に裏切る、認識論上の怪物なのだ。
けれども作者・山本英夫はそういう真実提示を茶化す感性の持主でもある。現に伊藤は、名越の描いたスケッチをみて、《この女子高生は、ターミネーター2に出てくる変幻自在の新型ロボットTー1000》だと託宣をおこなうが(3・139)、現実レベルでは『ターミネーター2』で大々的に使われたT- 1000のCGの質感は透明性・銀色・反射が液体状の変化を刻々と遂げる体のもので、現実的には伊藤の透明性変貌のほうにこそ似ていたのだった。このようにして作品は自らを顧みず語る者にたいし冷笑で報いている。
いよいよこれから、選ばれた「生セラ美少女」がその砂の組成をどのように刻々変貌させ、読者を動悸にいたらせるかを、詳細に追ってゆくことにしよう。それは前言したように、別サービス――「接吻顔」-「四つん這いによるパンティの尻見せ」等のポーズ変化を客=名越に体験させるシチュエーションで発生する。3・116、最初は「接吻顔」(客観描写)。それが主観描写では当然、「砂の顔」となり、その唇から涎ならぬ流砂が漏れ出てくる(性的なイメージ)。その線状に落下する砂は彼女の爪先立ちのルーズソックス(むろんそれも砂の質感として表現されている)の踵にまで到達し、今度はその踵が砂の條(すじ)を落下させてゆく。もう画面展開そのものが自体的となり、そこに伏在している暗喩が語られることもない。しいて暗喩を指摘するなら、それはこの少女の全体が(1)自己完結的固定性をもたない点、(2)存在全体が砂時計と同定されることで、「少女性=時間性」という高度の等号を生み出す点、などが擬されているだろう。
やがてこの少女が躯の一部からサラサラと砂の條を漏らすだけでは済まなくなる。3・120では砂で示された少女のミニスカの脚、その膝の上あたりから「ベコッ」というオノマトペとともに大量の砂が「噴出」しはじめ、やがて少女は膝全体を破砕されて両脚を折る(このとき膝から下が立て膝の人間の関節の通常のように背後方向へ伸びず、前方向に伸びたのが恐ろしい)。その「ドシャッ」という崩れ方は、少女の砂の像の感触全体が古代的な彫像へと変化した気にさせる。3・121、やがて少女はその鼻孔から雪崩のように砂を流しはじめ、その上体の流失によって、3・122、少女が自然と四つん這いとなったような動作変化を辿る。
3・126。砂の少女は砂のまま、四つん這いでパンティの尻を突き出している。現実ではありうるはずがないのに、砂のパンティはそれ自身の重みによったかのように落下し、壊れてしまう。よって後部から隠しどころが露わになったような壊滅的なポーズとなる。3・127、やがてその膣部分に、口が出現する。この口腔内部が奥行に見せている「闇」の濃さはダ=ヴィンチがスケッチに描いた女陰、あるいはデュラスが『死の病い』で描いたそれとも匹敵する。それは存在を飲みつくす脅威だった。
ところが単純に陰唇として描かれていたその周縁部はやがて発達、顔の唇になるよう形状変化を辿り、この唇を中心に少女の尻の中央に顔が形成される。一種の人面疽。3・128ではそれが流涕していたのに129ではそれが「ギロッ」と不気味に「刮目」する。
3・130、少女の四つん這いが引き画面で示されると、少女はジョルジュ・バタイユの「無頭幻想」のように、先刻の大量の砂の雪崩によって、頭部を流失しているとわかる。ならば彼女の頭部はその砂の胴体を内部移動して股間に出現しなおしたという見立ても可能。一般に下半身と上半身の「交換」とはバフチンのカーニバル考察に述べられているように、価値逆倒の笑いを表す。ところがここでは「恐怖」だけが前面化している。そして3・131、この「顔」の唇が動きだす――「勃(た)」「つ」「で」「しょ」。それを名越は「読唇術」で解読する。3・132ではその顔の口が舌なめずりを更にしてみせる。
3・133、やがて四つん這い状態の砂少女、その股間の顔が「自己崩壊」を始める。3・134、少女はいつの間にかマジックミラー越しの名越にたいし正面の立て膝姿にポーズを変化させていて、またも砂のパンティが着用されている。そのパンティが少女自身の手によって下ろされる。と知覚した直後、その判断が取消されるだろう。つまり、手は股間から出現した顔の脇にあった。少女の内在的・怪物的な別の全身がその顔とともにもつ手によってパンティを下ろしたのだった。そうして今度は少女の前からその顔が顕在しなおす――それは四つん這いのとき生じていた顔が、一旦少女の内部を潜って移動、出現しなおしたと捉えることもできる。この出現は二運動を幻想させるだろう。(1)出産。(2)勃起。
(1)であれば少女は自己を出産しなおし続ける――そういう単性生殖型の自己更新にふさう怪物という擬制が生まれる(前回講義でしめしたように、この「単性生殖」が伝説レベルでの「ホムンクルス」の要件だった)。(2)であれば、少女は男性のように男根を勃起させる運動を隠しもっている示唆となる。少女の男根とは何か。一般にはそれはクリトリス、広義にはそれは乳房・腕・頭部・鼻をはじめ躯の突状のものすべてとなる。ともあれ、少女性=女性性がそうした男根に比される身体突起部分の「勃起」により霊力を発揮する点が知られているだろう(だからアフリカの一部部族では敵部族の襲来にたいし女たちが乳房を露出してみせる)。
同時に、少女性とはあらゆる雑多なものをふくんだ混合的、要約不能な何かでもある。しかもそれは矛盾要素を内包すればするほど、全体が少女性の完成へと近づく。ということは少女性の表現する肝要な実質のひとつとして男性性が名指される逆説も成立するだろう(というか、この点は多くの者がもつ「実感」でもあるだろう)。
3・135、そうして顔が前方からみた少女の股間から出現したが、顔だけではなく胴体までもを出現させはじめる。それは「驚愕噴水」のように強烈な上昇力を伴っている。しかもそのときの顔部分が悪魔のような形象へと変貌している。これが内在物が露出して表面がすべて消える――つまりは内在物が何かに引張られ全体が「裏返る」運動だったと判る(そうして少女は砂のままだとはいえ、もとの立姿に復している[3・136]――ところが明らかにそこには一回の「裏返り」が介在しているのだった)。
――というような描写をして気づく。次の万引場面、さらにはカラオケ場面、クルマの中の場面と、この調子でこの「砂の美少女」の変貌を綴ってゆくと、異様なほど多量の紙幅が必要となるはずだと。
環境外因からの刺激により人間をふくめた動物がどんな刻々の行動を織り上げてゆくか――その感覚行動学の分析が「アフォーダンス」と呼ばれる(この発想を完成させたのがジェームス・ギブソン――佐々木正人による講談社現代新書『知性はどこに生まれるか』がその恰好の手引)。そのとき実験対象の刻々の行動変化を綴る「アフォーダンス」特有の分析的記述法が定位される。それは実は複雑極まるものとなる。というのも――動物は外界からの刺激による一次対応のみではなく、自らが仕出かした行為・選択の結果によっても、次の行動を選択するという二次対応をも行動に織り合わせるためだ。このことを知っているからこそ、アフォーダンスの分析記述は、気の遠くなるような細密な枝道のなかを入ってゆき、たとえばそれが、幼児がどの順番でおかずに手を伸ばすか程度の記述であっても、全体が容易に把握できなくなるような複雑さを呈するにいたる。その意味でいうと、AVの詳細な分析、あるいは要約中心性を拒否するフレデック・ワイズマンのようなドキュメンタリー、さらには成瀬巳喜男タイプのような映画では、その「刻々」の分析はアフォーダンス的な記述不能性を引き当てることになってしまう。実は、山本英夫のマンガの詳細分析もまた同様の事態を招くのだ(そのような事態を招くものはすべて「生き生き」している)。だから以下は煩雑を回避するため、要約的な記述が選択されなければならない。
山本が「ホムンクルス」として描いた「流砂少女」の運動の特徴は、まずはその顔部分がからだのどこからでも再出没が可能だという点にあるだろう。「ソニプラ」で万引している彼女は背後に神経を集中し、気配の察知をおこなう。このときはその背中部分から顔が内破/出現する(3・178)。その直前、首が折れたようにガクッと前に頭部が崩れ、その頭が彼女自身の胸に素早く嵌入する動きも素晴らしい(3・177――その3コマ目では緊急避難的に「運動線」が用いられるが、4コマ目では砂の髪が動きに一瞬「靡く」ことで、運動線が描かれたのと同等の効果を得ている――そうして背中から顔が出現したことで彼女の首の上部分が無頭状態となる)。その彼女が実際に万引するときには、その股間から砂の「滴る」手=腕が伸び始める(3・181――それが勃起男根という倒錯イメージを発現する――ほとんど砂[作家名]のマンガのようだ――ここでは腕が股間から現れたことで、彼女の肩部分の先からは腕が消失している)。
そうして人体への顔の出没が自由になることは、人体細部が、その部位の分布をアナーキーに組み替えるということでもある。ならば性器は、クローネンバーグの映画のように――あるいは駕籠真太郎のマンガやハンス・ベルメールの人形のように、その部位を組み替え自由にもするだろう。ならば、少女がおこなっている仕種において、その文法構造上の「主格」と「目的格」の組み替えもまた、自由になってゆくだろう。カラオケボックスに行く前、伊藤と少女はゲーセンに立ち寄る。UFOキャッチャーで伊藤はクマのぬいぐるみをゲットし、それを少女にあたえる。現実的視覚では少女がその小さなクマのぬいぐるみを胸許に抱えている。ところがホムンクルス的視覚においては逆に少女の位置に巨大なクマのぬいぐるみが、クマのぬいぐるみの位置には縮小化した少女自身がいて、そのクマのぬいぐるみがミニチュアの少女を抱きかかえていたのだった(4-71)。
これらもろもろの事象を追ってゆくうち、思いついたことがある。この砂少女=「ホムンクルス」に相応しいのは、むしろベラ・バラージュによって成立した映画理論、「相貌化」のほうかもしれない――と。映画では顔は別に俳優のそれだけには拠らない――バラージュはそう指摘した。たとえば霧深い風景、暖炉に燃える炎――それらも顔のようにみえ、あたかも科白を語りだすかのような感触をあたえる。それはとくに映画が言葉の発声を伴わない無声映画時代にはよく確認できた夢幻的傾向だったとし、この機能をこそバラージュは「相貌化」と名づけたのだった。
人間が言葉や仕種の表面的記号よりももっと微細・もっと奥底の部分で相手の表情を見て取っているという示唆を作中、伊藤がおこなう(3・48- 49)。これは言い換えると、人間がたとえば相手の眉のほんの小さな動きですら見逃さない――そういったレベルだけに終始する問題でもない。比喩的には、たとえば相手の指先・声音・背筋などにも「顔」を見出すことができるため、からだ・声などの表情からも言葉を採取できる、というべきではないのか。
伊藤が少女とカラオケボックスに行ったとき、彼は彼女の無意識がからだの左半分に出る――だからその左手の指先が震え、その左膝が震えるんだと彼女にじかに語る(4・13-17)。これもまた、少女性が読解可能な細部を織りあわされた書籍=テクストとしてその全体が組成されている示唆となっているだろう。つまり少女愛をもつ者は、書物である相手の頁を恣意的に開き、その記載を無限に読解することが可能だ――これもそんな身体観=世界観に基づいているとはいえないか。その「少女性=書物」という見立てと、映画の景物にまで「顔」を見出すバラージュの想像力は実は同じ根をもっている。「現れ」はその現れのままではない――別の現れをも同時出現させている――とでもいうような。そういった知覚の本源的な不安定性に突き当たっているのが、この流砂少女にたいする名越の左目の感覚なのだった。この感覚こそが「少女性」の本質をえぐりだす。つまりそれは、たえず更新されることで決して要約ができないアナーキーさを見るということにほかならないだろう。少女は存在なのではない――その意味でこそ「運動」なのだ。だから個別的な対象化に馴染まない。それはつまり、「領域」として把握することしかできない。
こうした前提があって、山本英夫『ホムンクルス』は「少女機械」の本質に直面する。改めて整理しよう――「少女機械」の本質とは、隣接する自分の正反物にも少女性を「転写」し、領域一帯を少女性の「連接」に変えてしまう「機械的」「自動的」運動の謂だった。紙幅がなくなったので、テキストの以下の頁を確認するようお願いする。(1)4-104。(2)5-152。前者ではカラオケボックスを舞台に、伊藤の顔が「生セラ美少女」の顔に変貌する。後者では名越のクルマを舞台に、名越の顔が同じくその少女の顔へと変貌する(しかもそれは窓ガラスへの反映として出来する)。そのとき前後でキスがおこなわれた(おこなわれようとした)。ということはホムンクルスとしての少女はキスを明示/暗示することで、自分の顔を相手の顔に「捺印」した――そういうことにもなる。
この場合、「同調」のための道具が必要だ――山本英夫はそう示唆をしようとしているのかもしれない。(1)ではそのために、伊藤の唇に少女自身の口紅が塗られるという方策が採択された。(2)ではどうだったか。少女が携帯電話を名越の車中に忘れていって、名越はそのなかに書き込まれている情報を盗みみてしまう。それで、彼は「アナタとひとつになると」という文書を開く(5・22-23)。それは80年代に自殺したアイドル、岡田有希子がしるしていた日記のように砂糖菓子的な文言に一見終始している(《アナタとひとつになると[…]ワタシがひとつになる》――ところが実はこの文言は哲学的深遠を切り拓いていると多くの読者が気づくだろう)。いずれにせよ、このとき名越は、少女が断片的言葉の「記号」によって砂状態へと全体が組成されているという確信を得る。そしてたぶんこのことに彼は抽象的に発情した。それで彼はクルマのなかで自慰に耽りはじめる(5・36-37)。
一方、帰宅後、世間体ばかりの母親のけがらわしい干渉をやりすごした少女は、ちょうど映画における平行モンタージュのように、同じ時制、トイレに入っている。彼女がしたこと――それは履いていたルーズソックスを脱ぎ、そのアキレス腱のやや上部をカッターで自傷することだった(5・16-17)。彼女はそうして流れた自分の血を舐める。一方、クルマのなかでやっと発射にいたった名越も、掌にブチまけた自分の精液を舐める。そしてそのふたつの動きが同時性だけの保証を受け、シンクロする(5・44-47)。ここでも見事な戦慄が生まれた。
なお、この『ホムンクルス』については、菊池尚子さんという立教の生徒が、僕の講義でしめされた「少女機械」の理論を援用して見事な期末レポートを書いている(僕のサイトの「転載レポート」欄の「立教04年度後期」)ので是非参照をお願いします。
次回講義で取り扱うのは、いがらしみきお『Sink』全2巻(竹書房)。GW中、どこかで入手して読んでおいてほしい。頁数を明示した言及も今日の講義同様におこなうので、余裕のあるひとはこの『Sink』2巻を講義にぜひ携帯していただければともおもう。
(05.4.27)
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