▼講義草稿
入間市「ネット心中」事件について(日芸放送学科講義草稿:03/04/21)
【解題】
以下の理由から、管理人の大月さんへ、新学期がはじまって早々の日芸放送学科・4月21日の講義草稿を、緊急にサイトアップしてもらうよう、お願いをした。1)講義草稿の内容がさきにアップされた浅井秀一君の『自殺サークル』論の影響を受けていること。2)今年度の日芸放送学科の受講者諸君に、講義草稿と実際の講義の「落差」をいちはやく知ってもらいたかったこと(僕はこの講義が難解にならないよう努めたけど、完全ではなかったかもしれない――その場合、「本当に言いたかったこと」をサイトにとどめておくのも今後の講義にあたって得策ではないかと考えた)。それと3)このサイト自体を僕は「20歳前後」の閲覧者を中心に想定しているので、現在型の自殺にかんする論考が、いくらあっても構わないと考えたこと。――というわけで、一講義にたいしサイト掲載の限度は一回まで、という自己規制の枠組が早くもフルになってしまった。けど、まあ、しょうがないだろう。ちなみに、影響関係でいえば、「見せ消ち」という用語やそれにまつわる見解については、現在書店に並んでいる雑誌『d/SIGN(デザイン)』第3号の長谷正人さんのインタビュー(インタビュアーはこれまた僕の尊敬する鈴木一誌さん)から借用されている。TVについてこれほど「具体的」「思索的」かつ「面白い」インタビューがありうるとはおもってもみなかった。とくに日芸放送学科の学生諸君は必読記事であるという点を銘記されたい。むろん、特集全体がデザイン・内容ともに、素晴らしい。ワクワクのさせかたは、やはりいま書店に並んでいる『ユリイカ・臨時増刊=総特集・吉田喜重』とも双璧だといっておこう。こちらは僕も執筆参画しているのでややアピールめいて図々しく写るだろうけど、いずれも偽らざる本音です。
入間市「ネット心中」事件について(日芸放送学科講義草稿:03/04/21)
全体化の虚偽、現代的自殺
今年2月10日に、埼玉県入間市の取り壊し決定済みの無人アパートで起きた、男女三人の「ネット心中」(発覚は翌12日)について報じたワイドショーのうち、2月13日OAの『とくダネ!』と2月16日OAの『バンキシャ!』を抜き録りしたものを順にみてもらった。周知のようにこの事件は、北朝鮮拉致被害者にまつわる報道、さらにはイラク攻撃にまつわる報道の狭間で起こり、最近のワイドショー報道では例外的にトップ項目で扱われた「国内(犯罪)事件」だった。
その後、同様の事件が新聞報道のかぎりではたぶん五、六件、現在までに模倣連鎖されている。みな、男一人、女二人の取り合わせで、しかも今度は廃アパートではなく、もっと手軽に密閉空間が目張りで実現できる自動車が選ばれている。ひと気のない山中か郊外にクルマを停め、そこで窓をガムテープで目張りし、なかで男女が練炭を炊き、睡眠薬を服用して一酸化炭素中毒死にいたるという方法だった(その意味で確実にこの埼玉県入間市の事件が心中の方法論について学習効果をもたらしたことになる)。むろん彼らが互いに知り合った手立てが「自殺志願サイト」だった点も変わらない。ただ、その後の「イラク攻撃」報道の連打によって、これらの事件はほとんどワイドショー報道がなされてこなかったのではないか。
その理由の第一は、ワイドショーの存立価値をワイドショー自身が確認するにあたって、「ネット心中」事件よりも、「イラク攻撃」の報道をしたほうが得策と感じたためだろう(端的にいえば「自尊心」が満足するということ)。第二は、「ネット心中」の報道をしてもたぶん画柄的に弱いとワイドショーの制作者たちが判断しているためだ。事件発覚後の画柄は、事件の性質からいって、おおむね、「画面処理した再現(イメージ)やCGによる再現」、「近所のひと・かつての知り合いの談話(モザイクのあるなしにかかわらず)」、「平面図をつかった解説」、「ネット画面の大写し」、「レポーターを手前に立たせての、事件現場を空間的に捉える事後映像」、「識者のコメント」、そして「定番の卒業文集の接写(これにはいつも笑ってしまう)」――それらにスタジオでの画柄を総合的にカットバックさせるしか方法がありえない。ところがたぶん事件現場の映写という点では、心中空間が廃アパートとして残った入間市の事件にたいし、その後の事件はクルマで起こったため、クルマが撤去されたのち臨場感を欠く羽目となったのではないか。そしてコメンテーターたちも、この2月段階の入間市の事件で言及したことに、さらに独自の私見を上乗せさせることができない。だからそれはワイドショーの忌避材料となった――私はそうおもう。そのときに、「もっと大切な事件報道(この場合は「イラク攻撃」にかんする報道)」があるじゃないか、という大義名分が通ったはずだ。
もうひとつ、つけくわえるなら、この種の事件を報道すると、さらなる模倣事件が生まれる――だから報道そのものを自粛しなければならない――そんな大義名分もあっただろう(それは岡田有希子自殺事件以来の趨勢だ)。米軍やイラクの放送局から借り受けただけの映像を無批判に流し、結果的に報道の「量」によって、世界中に「アメリカ中心主義」を蔓延させている現在のワイドショーを中心にした「イラク攻撃報道」(そこではブッシュにたいする皮肉なコメンタリーも何の意味ももたない)の是非については今日論及するつもりはないけれども、ほとんど同じ事象の「反復」にしかすぎない、「ネット心中」報道が自粛されているこの現状については、その論理性がはっきりとしているだけに、私も異論を差し挟む余地を感じない。
ただ、私が近年のワイドショーの変質について、やや寂しい気分でいるのは確かだ。何か猟奇的な事件が起こる。すると、それにあられもない音響効果をかぶせ、血のしたたるようなテロップをカブせる。そして、前日の報道からほとんど進展材料がないのに、その無内容さを手法の煽情性で糊塗する。それと正義派を装って、司会者やらコメンテイターやらレポーターやらが眉間に深刻な皺を寄せ、ただ「信じられない」とか「許せない」といった、誰もがいえるコメントを演技性たっぷりに披瀝する。そのさいに、事件再現映像に、ステディカムに類するカメラワークや反転エフェクター映像まで取り入れ、それがどんどん迫力をますといった事態が付帯されてゆく。すべてはTVが目指すひとつの本質――「キッチュ化」のためだ。そうした欲望のなかでTVは、事件の実質をえぐらないまま、その周囲のみを「物語化」してゆく。その過程で自らの生殺与奪権をTVは確認する。私はとうぜん、そんな猟奇事件報道に目を輝かせながら、同時にTVの「キッチュ化」「物語化」の進展をも見守り、ワイドショーをみるのが好きだった。神戸の「14歳」=酒鬼薔薇聖斗による連続児童殺傷事件。佐賀の「17歳」によるバスジャック殺人事件。その他もろもろ。だから最近、そんな犯罪報道の煽情化傾向が報道の公正性から見直しが図られているのに接し「おや、どうしたのだろう」ともおもう。つまり報道の公正化のために「ネット心中事件」を扱わないことと、だから「イラク攻撃」を扱うこととは、その実質面で何の「見合い」も伴っていないとおもうからだ。このことは、前言したように「イラク攻撃報道」が何の公正化ともかみ合っていないという点を単に確認すれば足りるだろう。
ワイドショーがもっと報道「量」について、綿密な意識をもつべきだととりあえずは指摘しておくべきかもしれない。たとえばかつてのオウム真理教は坂本弁護士一家殺害の嫌疑のかかる「犯罪可能性」集団として、つまりは糾弾対象として、ワイドショー画面に登場してきた。そのとき、その登場があまりに頻繁だった。オウムはその報道量の「多さ」によって、逆に次々に信者を獲得し、その力を肥大化させ、結果的にふたつのサリン事件を起こすテロ集団として完成されてしまった。つまりオウムの力の増大に与かったのはTVだったという図式がここから確認できる。この点をTVは確かに反省したのだろう――そうして公正性が擬制される政治的な時事ネタのほうに、ワイドショーのトップ項目は徐々にシフトしていった(それと、横浜母子殺害事件ののち、事件被害者のプライバシー問題がクローズアップされ、犯罪事件を手軽に扱うと問題が生じるという認知が拡がった点も大きいとおもう)。
それで以後ワイドショーが手につけた大きな話題といえば、印象的には以下のようになるのではないか。「田中真紀子」。「小泉内閣誕生(小泉人気)」。「田中康夫・石原慎太郎」。「鈴木宗男・辻元清美」。国際的な話題では「9・11アメリカ同時多発テロ」「北朝鮮」「イラク攻撃」。芸能ネタのトップ報道は「野村沙知代」、「和泉元彌」などわずかに例外を数えるのみだ。とりあえず政治家や芸能人ネタではポピュリズム(量的に報道が集中したものにまず取り扱い価値が擬制され、そののちその人気を継続させるか否かの判断ゲームがTVと視聴者のあいだにはじまること ――TV的にはそう理解しておこう)の現象と、それにともなうTV権力の相関関係が確認されるだけだ。後者では、前言したような「アメリカ中心主義」(=「帝国」の蔓延)にTVが最も大きく加担している点が認識できるということになる。いずれにせよ、事情はつねにTVの、実質のない権威化へとつながっている。そのようなとき、TVの「脱権威化」として、ワイドショーのウルトラ・キッチュな猟奇犯罪報道の逆説的意義がむしろそこからみえてくるだろう。私はそんなキッチュな報道の弱体化を先刻は「寂しい」と表現したけれども、今はもっとそれを危険なものとして警鐘を鳴らすべきなのかもしれない――そんな「力こぶ」の入った物言いは、きらいだけども。
さて、この入間市で今年2月に起きた「ネット心中」事件の話へ具体的に入ってみよう。まず判明した事実を整理して、事件の経緯を時系列上に置き換えてみる。こうなる――1)毎日新聞で、「ネット心中」の報道(02年12月8日)。2)それに示唆を受けた入間市の男性(26歳=現在失職中)が「自殺志願サイト」の掲示板に入力。内容は、自殺するに手頃な空間を発見。方法は1)を参照のこと。本気の同調者を募る。ただし相手は女性に限定(翌12月9日)。3)その結果、同調してきた女性は、計四人だった。4)2003年1月中旬、その男性と残りの女性四人が渋谷のカラオケボックスをハシゴしつつ、自殺意志のつよさと、自殺方法・準備材料を相互確認する。5)やがて女性二人がそこから脱落、結果、船橋市の女性(24歳)と川崎市の女性(24歳)のみが実行グループとして残った経緯があったらしい。6)この二人の女性は1月末、箱根の老舗旅館に一泊で同宿。7)やがて身辺整理をはじめ、それぞれ失踪する。その失踪時期には数日の時差がある。ただ、いずれも二月初旬。8)2月10日、入間市の廃アパート(そのアパートは男性の実際に居住する住居にたいし通りを挟んだ斜め位置にある)で諸準備を整え「心中」を決行。9)翌11日、途中までは相互心中のメンバーだった栃木県の女子高生が男性と連絡のとれなくなったことを不安におもい、以前下見にいったそのアパートに赴き、三人の屍体を発見、警察通報にいたる(そのときから「近所の人」の見聞内容がワイドショーで採取されてゆく――うち衝撃だったのは、その女子高生が「茶髪でも何でもない」「フツウの娘」で、警察での応対で泣きじゃくったり蒼褪めたりもせず、冷静な態度を保っていたという証言だった――見届け確認をするという「天使的」役割を担ったその少女は、この世への諦念で、その血を凝らせていたのだろうか)。
これを事実発覚の順から捉えてみると、この事件が、具体的な「犯罪要件」をみたすか否かには慎重な判断を要するものの、いかにも猟奇的な彩色をまぶすのに相応しい、「蠱惑性」をもっていたとわかるだろう。「栃木県の女子高生が「ある事情」から不安に駆られて埼玉県入間市、閑静な郊外に位置する廃アパートの現場にくる」→「目張りされていたその一階端の一室をこじあける」→「そこで、ネット通信、その後の「オフ会」で面識のあった年長の男女三人を、屍体の状態で発見する(それがのち、彼女の「トラウマ」となるのではないか)」→「しかし冷静を保つ彼女の警察証言から、死亡者がネットの「心中志願サイト」で知り合った仲と判明、警察発表がなされる」→「その後、ワイドショーは、まずその当該サイトから、男性の12月9日付の書き込みを発見」→「それで事件がその書き込みの前日に毎日新聞社会面でのみ大々的に報道された「ネット心中事件」の模倣だったと知る(ここでこの手の事件の連鎖性について、嫌な予感にワイドショー当事者は包まれたはずで、それが以後、彼らの自殺連鎖抑止という社会的な態度を決定する要因となる)」→ 「さらにワイドショーは男女三人それぞれが「失職状態」にあったこと、うちの女性二人が事前に箱根に一泊旅行したことなどを事実確認してゆく」→「そしてついに、渋谷のカラオケ店に集まり、一度は心中を相談しながら、そこから脱落したひとりの女性生存者から、その渋谷での会合の具体的内容が番組へとメールで届く(しかしなぜそれを報じた『バンキシャ!』はその全文公開を怠ったのだろうか――勇を鼓してメール送付をおこなったその匿名女性にたいして不実ではないか――あるいは「悪戯」の可能性があると判断したのだろうか)」。ともあれ、事件発覚の翌2月12日から16日まで、たった五日間で次々に判明していったこれら事実も、「気散じ」に陥りやすいワイドショー・ウォッチャーの耳目を熱く固定するに充分な内容だったといえるだろう。
ただし、前言したように、船橋市・川崎市それぞれに自宅在住する女性たちは、その失踪日時にやや開きがあった。「一斉」ではない。するとそののち彼女たちは、入間市の男性とまずひとりが合流、次にもうひとりが合流するというかたちをとったのだろうか。その間に彼ら二人ないし三人は自殺決行に必要だとした練炭・七輪・コンロ・目張り用ガムテープ・携帯トイレ・眠剤・寝袋・催涙の苦しみを避けるためのゴーグルなどを徐々に買い揃えていったのだろうか(警察はその調査をしなかったのだろうか)。もし最初の段階で入間市の男性に女性のうちの一人だけが合流したというのなら、男女は「この世の名残」を味わい、さらに相互信頼を確認するためにSEXの挙におよぶことはなかったのか。ならばこの男一人/女二人の関係には、世間全体に約分可能な「三角関係」の構図が揺曳していなかったのか。以前の、悪辣なほど好奇心が旺盛なワイドショーなら、たぶん推測を交えながら、そんな領域にまでを足を踏み入れたのではないかとおもう(ただ私自身は後述する理由から、この三人には性的関係はおろか三角関係も存在しなかったと考えている――すると失踪時期の時差は、たぶん、二人の女性が再会したいとおもうこの世の名残の光景や人間の数に、それぞれ若干の誤差があったというにすぎないだろう)。ともあれ女性たちが入間市に再結集するまでにそれぞれどんな数日を過ごしてきたのか、それも知りたい。しかし、自殺を使嗾した可能性のある男性とは異なり、彼女たちは別に加害者だったわけではない。ワイドショーはだから、彼女たちにプライバシー庇護の必要を考えたのではないか。結果、この事件にかんしては、『バンキシャ!』のOAされた2月16日以後、ワイドショー・ウォッチャーの「知りたい」欲望が満たされることがなかった。
ワイドショー報道の推移については、以上のようなものだった。この点を確認して、論点を移してゆこう――コメンテーターたちの「自殺志願ネット」および「インターネット全般」にたいする見解が、この報道を機に、どのように発露されたかという検証がそれだ。まず、レポーターは、「この手の」「自殺志願サイト」がどの程度の数、存在するのかを衝撃的事実として伝えた――「1900」程度という数値がそこで登場する。次に、その「自殺志願サイト」が実際このような事件の引き金になる可能性をもちつつ、同時に自殺志願者を励起する書き込みも数多く散見される点から、抑止効果をももっているはずだ――と告げる。つまりサイトの価値については両面性があるとあらかじめクギ止めされたのち、コメンターに意見開陳の機会が与えられるという賢明な選択が概ねなされたのだった(そこでインターネットを即全廃せよ、といった暴走的意見は事前に遮断された――ワイドショーの「振り」はだから「酒鬼薔薇」事件当時とは比較できないほど巧みになっている感触がある)。
とうぜん、コメンタリーの順序として、インターネットの作用性から離れたところで、まず「心中」にまつわる道義性が語られる。あらゆる「自殺」が、どんなに個別に斟酌できる事情があろうとも「卑劣」だとする『とくダネ!』のメイン司会・小倉智昭の憤りは、むろん正論だ。それが頑迷とみえても構わない計算がそこに働いてもいるだろう――つまり彼の役割は熱血の感じられる「正義派」(参照例はみのもんた)という落としどころをもっているということだ。そして他番組も併せると、この事件では「死のリアリティ」や「心中に必要な物語性」が感じられないというコメンテーターの意見が取り上げられる。あるいはテレ朝コメンテーターの漫画家やくみつるは「自殺に伴う敗北感が感じられない」と的確な発言をおこなう。「諸準備を周到に進めた冷静さだけがここでは一種の勝利として前面化されている」と。
ここから現代――インターネット時代の、「自殺志願サイト」が媒介した「心中」の特殊性について、言及せざるをえない運びとなる。そこでインターネットそのものが俎上にのせられる。あるいはこの段階で、98年12月に起きた「ドクター・キリコ」の事件への言及も、ほぼすべての番組でおこなわれた。これは「ドクター・キリコの診察室」というサイトを開設していた、薬剤師を目指した経験のある男性(正業は塾講師)が中心となった事件だった。彼が「自殺しないためのお守り」として(鶴見済の愚著『完全自殺マニュアル』の信奉者だったのだろう)希望者に低額通信販売していた青酸カリを、サイト閲覧者のうちのひとりの女性が服用して実際に自殺してしまう。その報道に衝撃を受け、「ドクター・キリコ」自身が、青酸カリ自殺をしてしまったという経緯だった(とうぜん社会に大きな衝撃をあたえた)。この事件への言及があったこの段階で、インターネットと死の親和性をTVは精密に考察すべきだった。ただ、これらワイドショーは、中心視聴者として想定される主婦の感覚を慮ってか、七面倒な考察が予定されるそんな局面に踏み込む英断をしめすことがなかった。
心理学者のひとり福島章がある番組でいう――、一般に自殺をするひとは社会から孤立していて、自らの自殺念慮を抑止するような社会的な出会いを果たすことが不可能な状態にいる、と。別の番組ではネット評論家がこういった――たとえば富士山裾野の青木ヶ原は自殺名所として自殺志願ネットでも多々取り沙汰されているが、実際にその地まで赴こうとすれば、そのとき人は自殺を抑止させるような事象や人物と、予想不能の状態で出会うことがある――ところが「自殺志願サイト」で相互同意にいたった者はそうした契機を徹底的に欠いてしまうのだ、と。この点については、やくみつるがうまい表現をしていた。いずれにせよ、自殺念慮をもつ者が他者と出会うとき、通常なら、自殺は抑止される期待があるはずなのに、「自殺念慮」のみを符牒づけられた他者同士が出会ってしまうなら、自殺は「抑止」に向かわず、「後押し」されざるをえなくなるのだと。あるいは、現在の20代の「大人になっていない」精神傾向を憂慮する意見もあった。通常、自殺への憧憬は、10代を襲う精神的な麻疹(ハシカ)のようなものだ――だがそれは大人になると自然に消滅する――ところが現在ではそうならない――その傾向に、インターネットという文明の利器が拍車をかけたのがこの事件ではないか――云々と。
通常は「自殺志願者」を地上的な空間連続のなかに探しても、おいそれと発見できるものではない。ところが匿名性のもとに自己の本質を庇護されたネット空間では、真実吐露というサインをしめせば即座に自殺志願者がネット内で結集できる。そのとき「一人では死ねない」弱い者同士が、相互に肩押しするかたちで自殺実現の小グループをつくることは、「オフ会」的な実際の出会いの煩雑ささえ克服すれば、即座に可能となるだろう、と。ここであるいは前述した福島章の意見を再想起する必要があるかもしれない。つまり自殺の前提とは当該の者が社会的孤立者だという意見。ところがインターネットでチャットや書き込みをする人間は、その瞬間が「社会的孤立者」なのだ。彼らは自分の感覚の「近く」でさまざまな交信をおこないつつ、その皮膚を相互に直撃する――しかもその直撃感によって、連帯感と同時に孤立感もまた深めてゆく。以前、全学連の標語のひとつに「連帯をもとめて孤立を恐れず」というものがあった。たとえば柄谷行人はそれにたいし「孤立をもとめて連帯を恐れず」と見事に時代の価値を逆転してみせた。となれば、「自殺志願サイト」への結集-その後の「心中の実行」という事実は、そのような価値逆転を、インターネット利用者の皮膚感覚レベルにまで最もはっきりしたかたちで転用したものだったといえるのかもしれない。
彼らコメンテーターの発言を好意的に敷衍してゆけば、インターネット時代の「ネット心中」については、このような結論が導きだせるとおもう。そして、これについてもさほど異論を差し挟む余地はない。
「自殺志願サイト」全体を全廃せよ、という意見は、しかし過激で「わからず屋」のようにみえて、そうではないだろう。ネットが正義に向けて機能するためには、簇生の恣意性ではなく統御性が必要なのは、むしろ自明なのではないか。この点でまず「出会い系サイト」について考えてみよう。インターネットに個室で直面する孤立者たちは、画面の画柄や言葉にその皮膚感覚を直撃され、他者の混在する空間で期待される正常な判断力を発現できない。いわば「昆虫状態」にあることを余儀なくされる。このとき「欲望」が抑止を受けない。それでそれなりの冒険を必要とされた出会いが、インターネット空間では簡単に実現されてしまうことになる。「相手と性交したい者」-「代金さえ貰えればそれを厭わない者」が、ほとんど「無冒険」の状態でネットで結びあわされてしまうのだ。あるいはこう別言しよう――ネットもしくは携帯電話を前にした者たちは社会的な連関を欠く「点」的存在であって、その欠落が彼らを欲望的な昆虫にしている――その際の性的欲望はそれ自体ミニマルなものにすぎず、また妄想的でもあるはずなのに、インターネットは(他人と出会う)通常の実生活では消えるはずのそうした妄想を、消去しないまま「全体化」してしまう網目製造機なのだ、と。それで「ヤリたい」昆虫人間同士に、とりあえずは無傷のまま「出会いの可能性」が設けられることになる。むろんそれは「自殺したい」昆虫人間が出会う様相と何ら変わりがない。
ところが、「出会い系サイト」ではそのような道義的違反を資本主義自体が予定しているという点が問題なのだ。「出会い系サイト」を運営している諸組織がそこから法外な利益を得ているのは周知とおもうが、同時にその利益はNTTをはじめとした通信サービス組織にも還流している。それらは道義上は認知されていないけれども、資本上は資本主義を延命させる「必要悪」として承諾されている。ということは、不道徳サイトを全廃せよという意見は、「高度情報資本主義」段階に入ってその断末魔を生き延びる「資本主義」をもう遮断してしまえという見解に接続されることになるだろう。ところがポピュリズムを操る高度情報資本主義の最大先兵であるTVが、そのような意見を述べるはずがない。だからTVは、「自殺使嗾」「自殺抑止」と、自殺サイトの功罪をあらかじめ相並べ、その最深部にある本質に言及することを回避した。
インターネットは、TV的な「全体」をさらに個性剥奪しつつ無限に細分化させる装置だという点で、同時にTVの本質的な「敵」でもある。整理しよう――TVは細分化と全体化が矛盾する時代に生じた媒体で、全体化のほうをあられもなく指向することを自らの存立条件としている。逆にインターネットは細分化と全体化が矛盾しないことを存立条件として出立した媒体なのだ。
ただ、ここでTVとインターネットの手法が同じだという確認がおこなわれなければならないだろう――それが「使嗾」だ。TVは鮮明で光沢のある画柄、あるいはタレントの後光までもを動員して、「商品を買え」と視聴者をさまざまに使嗾する。このとき商品の鏡像である視聴者自身もまた商品にすぎないという図式が浮上するだろう。つまり商品の商品たる属性を決定しているのは、視聴者に内属されている商品性なのだ。インターネットはTVがつくりあげた多数の人間の商品性を機軸にして大回転しはじめた何かだ。「自殺志願ネット」を立ちあげている者が無償・有償どちらでそれを運営しているかを問うことはここでは意味がない。ただ「自殺志願ネット」が商品、もしくは商品の「幻想」として画面に現れている点だけには疑問の余地がないだろう。そしてここでは、そのネットに入る者もまた、「商品的単位」(員数)として数えられている。だからここで「商品⇔商品」という「全体化」の構図が安直に出現することになる。
ところがもともと「自殺」はこうした全体化の逼塞構図と類縁性をもっている。「商品⇔商品」という構図が余剰を生まないように、「自分が」「自分を」殺すという構図にも過不足がないということだ。自殺はもっとも手っ取り早い、自己の全体化を遂行する手段に刷り変わってしまったのではないか。
ここでは体験の質の転換が問われているということになるだろう。たとえば読書であったり、予定性から外れる友人との付き合いであったり、という次元では、人は決して「全体化」と関わることができない。そのような日々では自己は、熟さない用語だが「推移的」であり、従って「部分的」であるにすぎない。ところがたとえば拒食症に傾斜してゆくダイエットでは、自分に課す体験が即座に自分の「全体」に適応されてしまう。そのさいの自分の凝視が過不足なく自分の像を現す「全体性」の構図の静謐さにこそ、人は魅せられてしまうようになった――逆にいうと人は、「推移」に必然的に伴うはずの煩雑さに、ある時期から倦み疲れてしまったともいえるだろう(入間市の「ネット心中」事件でもその当事者の誰もが日々を生きる「推移的」存在でなかった点が示唆的だろう――彼らはすべて失職し、世界を遮断されネットを通じて自己とのみ向き合う「全体的」時間を確実にもっていたということだ―― 失職は要件であり、インターネットも次なる要件となる――なぜならそれはいくらチャットの展開があったとはいえ推移性を実現できず、その全体性のみを「細分性」という現れのなかから利用者に無媒介に投げ付けてくる「全的」媒体だからだ)。こうした無時間性のなかで「自殺」は推移消滅を最終化する決定的な手段となる。
だから、不道徳なネットを全廃しろと正しく主張する者なら誰でも、それが表面的に実現されても決して完全な遂行が不可能な事柄と知っているはずだ――「自殺志願サイト」の絶滅不能は、「自殺」、あるいはたとえば「売春」の絶滅不能と隣接している。そして自己凝視が習いとなり、自分をある見切りのうえで「全体化」したい欲望は、高度情報資本主義下においては日々つよまると相場が決まっている。資本主義は個々人に自身を相対化しろという情報を送りつけてくる。商品である以上、人間は情報が無限に撒布される土壌でしかなくなっている。そしてそうした相対化材料をもちい、ある種の人間は「死」や「性」について、想像裡に「自画像」を描くことになってしまう。結果、売春や自殺が蔓延してゆく――おそらく今後はもっとその頻度がましてゆくだろう。むろんそうした事態を予知的に論難することは、TVには構造的に不可能なはずなのだ。
「ネット心中」事件の報に接してみて示唆的なのは、このとき「死」と「性」に或る巧妙な出し入れ――場合によっては美しいと称すべき防衛機制がそこに働いていると察知される点だろう。死(自死)はハードだ。性(性交)もハードだ。そしてこのふたつの構文は、人間の前提的な圏域を同時に旋回する事象を描いていると考える必要がある――双方が「自己の他者性」に関わる事象を描いているのだ。ところがこのふたつの構文は相殺可能だ――「相互自殺=心中」をおこないながら、そこから性の匂いを完全に払拭するという意志を実現化することによって。一対一の男女心中なら、人はどうしてもそこから「性」の匂いを嗅いでしまう。だからこの入間市の「ネット心中」事件を皮切りに死を選ぶ男女は、「男1・女2」という実行人数を過たず選択してしまうのではないか。入間市の事件で、男女がすべて「寝袋」にくるまった状態で発見されたという点も、彼らの関係性から「性」の意識が除外されていた点を物語っているだろう。
逆の言い方をしてみよう。性交はその一回一回が死の疑似実現ともなりうるが、それを永遠に回避したい。それで彼らは相手を限定せずにもっと全体的な「ネット心中」を選んだということがありえないだろうか。だから彼らの欲求は実際に言語化されることはなかったけれども、もう、とうに、「一人で死ぬのは怖いから誰か同調者がほしい」という次元を超えている。そこでは「死を性的にさせない歯止めを自らにかけたまま、意志的に死んでみる」という選択がおこなわれたのだ。
それは同時に、死のハードさの回避をも指向するだろう。彼らは、相互に面識がないながらも、その取り合わせによって、たぶん死を「宥和」することに成功したと自覚したのではないか。男が一人で死ぬのではなく、その同じ空間に女性が二人いる。そのとき女性性に本来的に期待される治癒力によって男の死が「宥和」される。あるいは、女が単独で自死するとき、そこでもその独善性は、小倉智昭のいうように免れえない。ところが女は、同時に死ぬ参画者となることで、男の死にたいし自らを「あたえる」利他主義者という擬制を獲得することができる。男女が一対一ではなく一対二である点も、その死から性的な予見を脱却させる。二人の女が男にたいして「どっちつかず」の状態で発見されること――ここからは女たちの主体性が巧みに消去されているのだ。
私は想像する――彼らがサイトで相互に自殺志願者と確認し、いわば「オフ会」とでもいうべき会合で相互に話し合ったとき、そこにどんな口調がともなわれていたのかを。それは技術的かつとても「静か」だったのではないだろうか。彼らはともに「員数」として相互を把握できればよかった。「心中」に伴うはずの「物語」がその死に感じられないというワイドショー・コメンテーターの意見を、彼ら自身が先取り的に知悉している。だからやがて自殺遂行にいたる時間のなかで、彼らはとうぜん「なぜ自分が自殺を考えているか」の「物語」をも明示的に語ることがなかったのではないか。ここで「物語」が生じてしまうと、たとえば男を軸にして女二人にたいする態度に「恋情」的濃淡が生じ、結果、宥和を目指されたその死が、性的な強度を湛えてしまう危険がある。だから彼らは自己を開陳し如実に自身の像が結像されるのを嫌っただろう。相互がルックス的に涼し気であればそれでいい(ボカされた画像ごしの彼らの顔はそんな予感を充分に抱かせた)。それで彼らは愚にもつかない世間話をただ静かな口調で死ぬまで語りあっていた――そんな気がする。じっさい自殺にいたる物語を彼ら自身が精確に語ることも不可能だっただろう。つまり彼らの自殺の理由とは、「彼ら自身が本当に自殺する理由などもっていない」 ――この点にのみ帰せられるからだ。「死ぬ理由がないから死ぬ」――だから失職中だった女性二人が、再就職の光明がみえだした段階で死を選んでも何の不思議もなかった。
彼らは廃アパートの一室を目張りする。それから睡眠薬を飲む。その作用が出るまえに役割分担を決めていた彼らは手際よく練炭と携帯レンジに点火する。それから互いのからだが離れたまま寝袋に入り、ゴーグルを装着し仰向けに寝る。他愛のない言葉が相互に交わされる。「大丈夫?」「怖くない?」「全然」「眠くなってきた?」「息苦しい?」「目が痛くない?」「まだ」――程度の。このとき三人の「川の字」の並びが俯瞰すると男-女-女の順になっていたのも意識的だろう。女-男-女では何か男に「権力」の集中の印象をあたえる危険があるためだ。そうして彼らは、たぶんすごく「静かに」死の領域へと引きずられていったのだ――そうおもう。
たぶん自殺念慮のないワイドショーのコメンテーターたちには、このレベルまでの想像力が構造的に働かないとおもう(やくだけが異質だったか)。ただ自殺志願者たちだけが、このワイドショー報道に接して、精確に彼らの死にいたるまでの道筋とその直前の様子を想像してしまったのではないか。あるいはそこで廃アパートを遮二無二探す努力などなしに単にクルマを利用すればいいんだという「発見」までもをしてしまったのではないか。
自殺志願者のみが自殺報道にたいしリアルな反応をする――この点は以前、自民党代議士新井将敬の自殺報道ののち、国立だったかのラブホテルで相互に連鎖倒産の危機を抱えた中年の小規模企業主同士(うちひとりが以前「馬主」としての絢爛たる過去をもつ男だった)がそれぞれ別室で同時に心中した一件を私に想起させる(相互に仲のよかった彼らはまず、うちひとりの一室でこの世の名残の酒盛りをしたのち、この挙におよんだのだった)。ここで新井の死と連関性をもつのは、その自死の手段選択だ。一般にホテルでは縊死を避けるため、縄状のものをかける鴨居などが設計上禁じられている。だから窓が開閉できれば、そこで飛び降り自殺が選択されることが多いだろう――レスリー・チャンのように。ところが、ただひとつ、ネクタイや寝巻の紐をかける場所が存在していた――それが空調機だと新井の死が教えたのだった。企業主三人は新井の自殺報道の余韻が残るなか、新井と寸分違わぬ方法で死んだ。
このように、自殺志願者が自殺報道に接したとき通常人とは別のものをそこから見出すのなら、たとえば2月13日放映の『ザ・ワイド』のディテールも無意味なものと化すだろう。そこでは彼ら三人が自殺を図ったアパート一室と同じ面積の密閉空間が実験材料としてつくられた。そして警察発表と同じように、練炭とコンロが配置され、そのそれぞれに点火がなされた。いったい一酸化炭素はどの時点で致死量を記録するのか。そして部屋の温度はどのように上昇するのか。温度と一酸化炭素量、その双方が急激に上昇すると実験結果は告げた。このとき法医学の権威としてお馴染みの杏林大学の佐藤喜宣教授が口を挟む。「一酸化中毒は一酸化炭素を吸いはじめてから死ぬまでが長い。その苦しみには誰もがのたうち回り、屍体は激しい苦悶を刻んだまま発見されることが多い」と。さらには「死にいたるまえに発見されると深甚な後遺症の残る事例が目立つ」と。だから密室で練炭を炊く一酸化炭素中毒を、自殺の美化と捉えてはならないんですね、と司会役の草野仁がすかさず言い添える。これが最もこの一連報道で滑稽な瞬間だったといえるかもしれない。なぜなら、そこでは服用した睡眠薬の発効時期という問題が見逃されているためだ。自殺志願者たちはそうした展開に接しても、「主観的には」静謐さを保ったまま死にいたった彼ら三人の姿を具体的にイメージしたにすぎなかっただろう。
ワイドショーの問題にのみ引きつけて、本日のまとめをしてみよう。1)ワイドショーは、数年前までの黄金期を経て、「事件報道」にたいし、その取材力と想像力の双方を欠くようになった。ただしTVが「私設警察」と化すことには不穏さもつきまとうわけだから、こうした力の弱体を承諾しなければならないだろう。2)ワイドショーは、主婦向け報道を意識することによって、たとえばインターネットの媒体性といった高度な問題を回避するのが習いだが、社会学的なメディア分析を介入させなければ、もう報道そのものが不可能になってしまう現代的な問題がそこかしこに噴出している。この場合、コメンテーター幾人かの社会学「的」な物言いが、現今のワイドショーの弱点を糊塗する機能を果たしている点が要注意だ。誰もが社会学者「のように」語る病理の時代となったのだ。
3)「自殺の是非」については、私自身も自殺が悪だという点に揺るぎがない。ただし、それを情緒的に主張するだけではもはや「抑止力」をもつことはできない。だから哲学や論理学がそこに導入されざるをえない(論理学というのは、自己再帰的行為のすべてが論理的な悪をつくりだすということを、論理学のみが語る準備をもっていると考えるためだ)。すると抑止効果という意味では、あらゆる自殺報道は哲学や論理学を導入せざるをえなくなるだろう。ところがそうした自覚はワイドショーを壊滅させてしまう。だから彼らは「通り一遍」を選択し、「抑止をいいつつ」「抑止しない」、見せ消ちの機能に効果を終始させるのだ。それでいいという議論もある。つまり「死にたい者はいつでも死ぬ」という認知から生ずる議論がそれだ。TVが自らの偽善性を恥じるなら、この点でいっそ露悪性に傾斜しても私はべつだん構わないとおもう。なぜなら自殺を悪と見なすことは、TVに期待されることではないからだ。それは哲学や論理学にのみ期待される事柄だろう。そして自殺の考察はカミュの時代よりももっと現代では難問(アポリア)に変化しているはずだ―― むろんそんな重い問題にたいし解答を導きだすことは、ここでの私の任でもない。
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