▼2006年度 早稲田大学後期末レポート
小池桂一:漫画『ウルトラへヴン』について(清水 庸一)
【解題】
清水庸一君がレポートで扱った『ウルトラへヴン』については、僕は未読だ。そのレポートに接して、「読みたい」とおもった。だからサイトへ転載した。むろん清水君の考察や紹介が適確だったためだ。
ではなぜ「読みたい」とおもったか。清水君の文章を読むと、小池桂一『ウルトラへヴン』は完璧にニューエイジ思想の産物で、アブナいからだ。
僕はこのところ、ゆえあって「ニューエイジ」について再考する機会をもった。擬似科学・カルト宗教・ドラッグ依存・フリーセックス・エコ・エステ・ロック愛好など、60年代後半から多触手をもって猛威をふるい、その一部が現在では巧みに産業化された「ニューエイジ」の本質とは何だろうか。結局は構築性と体系性の混乱が原動力だ――そうおもいいたる。既存性の破壊を推進し、「大きな物語」を侮蔑するなかで、サブカルに代表される価値の副次性があらゆる既存性に貼りつく。そうしてカルト宗教が出来、擬似科学が生まれる。ところがそれは、歴史の腐敗というより、むしろ歴史の必然ではなかったか。つまり、人間が自らアドレナリンを発する脳をもつことが、事の根本に作用しているのではないか。
清水君は、人が知覚する波動は自体的ではなく、その上位次元の存在を暗示する、「他への外延性」をもつ、といったことをしるす。その上位次元を「宇宙」といっているうちはまだ問題がぬるい。つまり「それ」が「それ自体」でないものを同時に/常にふくんでいるという認識こそが恐怖であり(むろんインド思想はこれを「融即の法則」として高度に思想化した――僕の考えではこれこそが「詩の原理」の正体でもある)、その事実的媒介項が単に波動であるとする点には、普遍性があるはずなのだ。「波動」こそが先験的であって、『ウルトラへヴン』が扱う「ドラッグ」もまたその物理的実証にすぎない――そうこのマンガが立証しようとしているなら、これはアブナい。清水君のいうように、続巻に注目しなければならない。
「それでありながら、それ以外であるもの」――それを波動の実質とするならば、脳波もまたその最も手近な実証となるだろう。なぜなら、それは自己保存の本能に直結しつつ、「同時に」自己破壊の本能にも相わたるためだ。ドラッグが脳波の人工的干渉ならば、それが自己の温存と破局の両サイドに割れるのも必然といえる。
「それでありながら、それ以外であるもの」、このもうひとつの端的な対象が、自己が眼前にする他者だ。よって、他者の自己化、自己の他者化が付帯的に生じ、それがフリーセックスの動力となる。『ウルトラへヴン』ではセックスはどう描かれてゆくのだろう。
清水君の貼り付けてくれた『ウルトラへヴン』の妄想の画柄は、渦巻(波動)生成的で、同一性増殖的、よってサイケデリックだった。このばあい同一性がヤバい。同一性はそれ自体が対峙を導かれれば波動を呼ぶ。ということは、同一性と波動に実は弁別がなく、同一性と波動の取合せは、波動を波動化し、同一性を同一化しもするだろう。この同一性こそを否定せよ。そう、これが僕がニューエイジ思想を批判するときの最大の根拠でもあった。
って、何か、好き勝手なことを書いちゃったな(笑)。なんだかよくわかんないや。
(阿部)
小池桂一:漫画『ウルトラへヴン』について(清水 庸一)
脳における情報処理は量子における波動関数の崩壊である
――小池桂一:漫画『ウルトラへヴン』について
政治経済学部経済学科4年 清水 庸一
世田谷区下北沢に「ヴィレッジヴァンガード」という、若者に人気の雑貨屋がある。お店のウェブサイトによれば、事業内容のところに、「遊べる本屋」をキーワードに、書籍、SPICE(雑貨類)、ニューメディア(CD・DVD類)を複合的に陳列して販売する小売業 と書かれている。店内には、普通の店では見られないような、外国の玩具や、書籍、CD、家具など、様々な物が陳列されている。書籍のコーナーも充実していて、精神世界や、思想・宗教の本。また、死体の本や、ドラッグの本、そして小説、また、写真集、ファッションから料理まで、サブカルチックな本が多く並べられていて、見るに飽きない。
漫画のコーナーもあり、さまざまなジャンルから、良質の作品が選ばれているように思う。その中に、2001年7月から「月刊コミックビーム」で連載されている『ウルトラへヴン』(株式会社エンターブレイン)という漫画がある。とても人気があるらしく、漫画コーナーには、山のように『ウルトラへヴン』が積まれていた。本の売り文句には「最上級のペーパー・ドラッグ・コミック!」と書かれ、ヴィレッジヴァンガードの漫画コーナーの5分の1を占めている。
作者の小池桂一は『ウラシマ』で、昭和51年度下半期の第12回手塚賞を史上最年少で受賞している。その彼が、「月刊コミックビーム」で2001年7月号より連載中なのが、『ウルトラへヴン』である。
●『ウルトラへヴン1巻・2巻』(株式会社エンターブレイン)
この本のあらすじについて書いておこう。
時は未来、場所は日本。さまざまなドラッグが発明され、誰でも気軽に気分がコントロールできるようになった時代、不思議なオーラを持つ青年“カブ”の物語である。主人公のカブは、重度の薬物中毒者で、第1巻のカブが初めて登場する場面も、いかにもけだるそうな、薬物中毒者らしい顔をしたカブが、1センチ四方の厚紙の中央に小さな針のついた「ピーターパン(通称:P)」と呼ばれるドラッグを注射し、ハイになるというシーンである。
作中に「ポンプバー」というのが出てくる。この時代、現代の人がバーに行く感覚で、「ポンプバー」に仕事帰りの社会人が集まり、「ポンプ」という万年筆のような形をした注射器で手の甲からドラッグを注射する。「ポンプバー」には、医師免許を持ったマスターがいて、普通のバーと同様に、ドラッグをカクテルしてくれる。もちろん、「こんな気分で」と注文すれば、マスターがオリジナルのカクテルを作ってくれる、といった具合だ。『ウルトラへヴン』第1巻の冒頭は、ドラッグのテレビCMから始まる。
このように、ドラッグが一般に浸透した世界であるが、全てのドラッグが使用可能なわけではない。違法ドラッグも多く存在し、ポンプバーでは合法的なドラッグしか出来ない。違法ドラッグは、カブのようなアウトローがやるもので、現代日本と同様に、人々に軽蔑される存在である。そのような、違法ドラッグを取り締まる「衛生局」という組織も存在する。
ドラッグ以外に、もうひとつこの作品で重要になるのが、「アンプ」と「瞑想センター(通称:メーセン)」の存在である。「アンプ」とは、頭部にはめる器具で、瞑想し、精神世界に入っていくための補助装置のようなものだ。以前、オウム真理教が「ヘッドギア」なる装置を信者に装着させている映像を見たことがあるが、「アンプ」も同様の目的を意図したもののように思われる。「瞑想センター」は「アンプ」を装着して瞑想することを目的とした場所で、「(財)メディテック」によって運営されている。
薬漬けの毎日を送っていたカブは、ある日ドラッグ仲間のところに「ピーターパン」を買いに出かける。結局、その友人はその時「ピーターパン」を持っておらず、カブはすぐ帰ろうとするが、一杯付き合えよ(酒)と言われ、しぶしぶバーに入る。そこで、友人に「ピーターパン」の数倍の威力を持った新型のドラッグの噂を聞く。カブはその話を半信半疑に聞いていたが、友人はそのドラッグをやった人が自殺した話をする。自殺した人は、その友人の友人で、現実世界と妄想の世界の区別がつかなくなり、今の現実は実は夢なのだと思い込み、それなら死なないと、ビルから飛び降りてしまった。
後日、カブは友人の女性(連載当初から登場するキャラクターで、カブとも仲が良いが、名前はあかされていない。ここでは仮に Nとしておく。「アンプ」にはまっている)と公園で落ち合う。お茶を買ってくると、Nが少し離れた間に、カブは胡散臭い違法ドラッグの売人と出会う。特製のドラッグがあると言われ、信じなかったが、薬が大好きなカブがそこでやらないわけはない。もしそのドラッグの質に納得できなければ、代金は払わないと言いつつ、ドラッグを腕に注入した。はじめは何ともなかったが、見る見るうちに、天地逆転し今まで味わったことのないような、凄まじい幻覚と妄想のドラッグ体験をすることになる。カブは、そのドラッグが何者なのか売人に問い詰めるが、売人は教えてくれない。カブは、その謎のドラッグでハイになっている間に見た幻覚の中で、その売人が「“ウルトラへヴン”だ」と言っていたと主張するが、「幻覚だろ?そのいかにもあんちゃんの考えそうなネーミングは」と軽くあしらわれてしまう。
Nに連れられ家に帰ったカブは、自分が作った料理をNが作ったものと錯覚し、混乱する。その時、ある事件が起きる。カブは、公園でのトリップをフラッシュバックし、スパゲッティーが生き物のように腕に絡み付いてくるという幻覚を見た。その時、触れてもいないスパゲッティーが現実に空中を踊ったのだ。カブが落ち着いてから、Nは思い当たる節があると、「瞑想センター」創立者の出演した特番のビデオを見せる。それは、人間の精神活動が、現実世界に物理的に作用する可能性を提示したものだった。その番組では、実物のスプーンを触れることなく曲げてみせたのである。
カブは、それから現実のようにリアルな夢を見るようになり、どこからが夢でどこからが現実なのかわからなくなってくる。そして、Nとともに「アンプ」をやることにする。相乗りといって、二人で同時に精神世界の旅に出るのだ。そこで2人は人間の精神の原初的な体験をすることになる。しかし、それは「瞑想センター」の手のひらの上の出来事で、2人が精神世界の境地に辿り着いたと思われたその時、「アンプ」に仕込まれた「瞑想センター」代表者の映像が再生された。そして、更なる高みを目指したいのならば、「瞑想センター」に来るように、というメッセージが伝えられる。『ウルトラへヴン』第2巻の巻末である。
以上、大まかにこの作品の用語とあらすじを書いた。『ウルトラへヴン』の絵的な部分で特筆すべきは、絵の書き込みの多さとコマ割の独特さである。特に、主人公カブがトリップする場面の絵は秀逸だ。細部まで気を抜くことなく描かれている。それ以上に、コマ割が独特で、ここまで大胆に表現する人は見たことがない。トリップ中の場面は、時間経過が、私たちの常識的観点では捕捉できないような時間軸に沿って展開されるため、読者にも、ある種のトリップ感を疑似体験させてくれる。「最上級のペーパー・ドラッグ・コミック!」というのもあながち間違いではないように思う。絵的な部分については、この作品を読んでみないと伝わらない部分が大いにあるが、参考として、公園でカブがトリップした場面の絵を次ページに掲載しておく〔※著作権に考慮して、掲載は割愛します〕。
『ウルトラへヴン』の芸術、そして文学として優れているのは、人間の本質に迫る哲学的な考察が作品中でなされていることである。ビルから投身自殺した人は、夢と現実の区別がつかなくなって死んでしまったし、カブもまた、世界が全てまやかしだと言う。公園でのトリップでは、「衛生局」に捕まりそうになる幻覚を見るという描写がある。それは、すごく現実味を帯びているが、実際は幻覚であった。しかし、そのトリップを機に、カブは夢と現実の境界が曖昧になっていく。実際、私たちが認知する現実は、人間の脳によってバイアスがかかったもので、絶対的なものではないことは間違いではない。古くから言われているように、私たちが現実だと思っている世界が実は夢で、夢で見る世界が現実であるという可能性は、精神活動をする人類にとってはいつまでも捨てきれないものである。
この作品では、多くのドラッグが登場するが、ドラッグは実際に人間の精神活動に大きく作用する。1970年代に流行したLSDはビートルズも使用していたことで有名であるが、かつてインスタント禅と称して、LSDを摂取し、無我の境地を体験したり、サイケデリックな夢の世界をトリップする者がいた。彼らはヒッピーなどと呼ばれた。
生年月日など公表されていないが、昭和51年の手塚賞となると、作者の小池桂一もそうしたヒッピー文化の影響を受けた一人なのではなかろうか。また、「アンプ」はドラッグではないが、そうしたドラッグと似た作用を引き起こす装置として作品中に登場する。『ウルトラへヴン』で登場する「アンプ」やドラッグは、人間の精神性を判りやすく表現するために用いられているのだろう。
カブと Nが作品2巻の「瞑想センター」代表者のビデオを見る場面で、代表者は次のようなことを言う。「私たちが知覚する現実とは、私たちの脳によって生み出されるバーチャルである・・・」。これは、私が上に書いたことと同様のことである。しかし、代表者はスプーンを指差し、続ける。「あなたが見ているスプーンは決してスプーンそのものではない」「あなたの脳のシナプス発火によって構成されたスプーンというイメージなんです」と。
以下、要約するが、彼は次のように続ける。物質はエネルギーの一形態であり、世界はエネルギーの海のようなものである。海の表面に浮かんでは消える無数の波を私たちは物質とか時空と呼ぶ。つまり、その海面こそが私たちの意識なのだ。海面に波という秩序を見出し、意味を与えるのはわれわれの脳である。量子論的に言うならば、脳における情報処理は量子における波動関数の崩壊であるということだ。そして、波の動きを形作るのは海全体のうねりである。
ということは、ひとつの波は海全体の運動状態を表現している。言い換えれば、ひとつの素粒子は全宇宙の情報を表現しているということである。すべては情報の発現であり、素粒子もエネルギーもつきつめれば情報でしかない。私たちの意識はきわめて高密度な情報場である。しかし、私たちに見えるのは波であって、海のうねりではない。つまり、宇宙には、目に見えない高次の秩序原理がある。私たちは夢の中や、特殊な瞑想状態でそれを垣間見ることがあり、それどころか、海に潜って、波に影響を及ぼすことさえできる。意識が情報場であるからには、それは宇宙において不可欠な役割を果たすのだ。
このようなことを言って、彼はテレビ番組でスプーンを曲げてみせた。一見、彼の主張には論理的矛盾は無く、あたかも正しいことを言っているかのように聞こえるが、Nは「狂ってる なんか夢と現実の区別がつかないって感じでさ」と言い、代表者の言葉に反感を示す。これは、Nを通じた作者の主張のように私は思う。いくつもの現実は存在する可能性はあるが、ビルから飛び降りた人が確かに死んだように、ひとつしかない現実の世界があるのだと。それに目を背けては生きていけないのだと。
しかし、物語はまだつづく。スパゲッティーの事件からわかるように、カブは、自身の精神的活動を現実世界に干渉させることができる人物であるようだ。こうして、夢(精神世界)と現実世界の境界が本当の意味で徐々に曖昧になっていく。
第3巻はまだ発表されていないが、今にでも続きを読みたい作品である。
●参考文献
・『ウルトラへヴン』1・2巻(株式会社エンターブレイン) 小池桂一著
・ヴィレッジヴァンガード http://www.village-v.co.jp/
・ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/
・ 空間コミックビーム
http://www.kanshin.jp/comic-beam/?mode=keyword&id=401255
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