▼2006年度 早稲田大学後期末レポート
『PLUTO』における、浦沢直樹と手塚治虫(斎藤 亮)
【解題】
斎藤亮君の『PLUTO』論は、実に適確にその作品世界の要点を腑分けし、それに考察を加え、間然とするところがない。読んでもらえれば、誰もが納得するとおもう。ひとつ、浦沢『PLUTO』の原作となった『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」のストーリーが細かく紹介されているのが手柄だとも言い添えておきたい。斎藤君の紹介を読むと、この作品のストーリーはうねるような乱脈性の力と破局感覚をもち、そこにこそ浦沢直樹が着眼したのだとおもう。『鉄腕アトム』全体の水平的同質性の世界観と向日的な未来観に対するに、『PLUTO』の何か黒いペシミズムと罠めいた垂直性。これを喚起できる数少ない『アトム』中の原作が、「地上最大のロボット」だった点は確かだろう。
斎藤君は映画好きらしく、自説の検証に映画を援用する例が以下のように多々ある。そこで僕がさらに、斎藤君の明晰な論に補助線を引こう。「フィルムノワール」のジャンル法則を持ち込む、ということだ。フィルムノワールは周知のように色彩では黒を偏愛するが、文法的には不安定な一人称モノローグを用い、かつ「ファム・ファタール」が出現し、時制が回想と現在で錯綜する、という夢幻的な説話構造をもつことが多いとされる。この条件からいって、探偵小説では許されないがフィルムノワールでは許される物語の型がある。殺人犯を探偵が追い、結果判明したのが殺人犯がその探偵自身だったという物語だ。
つまり「探偵映画」が真相究明を主軸に置くのに対し、フィルムノワール型「探偵映画」は、「不安な自己の探究」のほうに魅せられるということ(その「不安な自己」が外在して、ファム・ファタールが満を持し登場する)。浦沢直樹はとうぜん「ロボット」という、「自己」想定が矛盾撞着を孕む対象にあって、そのアイデンティティを唯一保証する「ロボット三原則」を、この『PLUTO』で審問にかける。ロボットが人間やロボットを殺す――手塚原作では「明白な侵犯」であったものが、この作品ではストーリーの進展をけみしてもその真偽に不安定な宙吊りがかけられる。それで却って、ロボットの自己同一性が苦悶を舞踏することになる。そしてこの「ロボットの自己同一性」とは、「人間」が「ロボット」に変貌しつつある現在にあって、人間の他人事ではなくなりつつあるものでもある。
「同一性」のゆらぎというストーリーのこの主軸が、原作を侵犯的にリメイクした『PLUTO』自身の立脚と響きあっている点も自明だろう。つまり『PLUTO』は「構造的に」フィルムノワール的な不安定さに導かれる必然があったのだった。そのように作品を構想しえた浦沢を、僕はすごく優秀だとおもう。
そこで、『メトロポリス』の事例が批判的にもちだされる必要があるだろう。
フリッツ・ラング『メトロポリス』→手塚(マンガ)『メトロポリス』という文化軸の延長と錯綜を受け、アニメ化を構想した大友克洋『メトロポリス』はなぜ評価をかちえなかったか。彼は作品の二重性をリメイクするとき、その時間の森のなかに潜りこまずに、むしろ、そこから自らを外在させ、批評し、批評の成果を新意匠の導入というレベルに短絡させ、リメイクの恐怖を生きなかった、ということだ。一見、大友の営為は野心的に映るが、これに浦沢を対比させてみれば、自ら惑乱に陥ろうとする浦沢のほうが、ずっと野心的=倫理的、だという点も一目瞭然だろう。
とまあ、斎藤君のレポートに以上のような補助線を引いてみた。このような補助線を引きたくなるような創意と工夫が斉藤君のレポートにあったから解題がこうなった。
なお、僕は雑誌『d/SIGN』13号発表の評論「ロボットと性」で、この『PLUTO』に対し考察を一部で試みている。こちらもぜひご一読を。
(阿部)
『PLUTO』における、浦沢直樹と手塚治虫(斎藤 亮)
『PLUTO』における、浦沢直樹と手塚治虫
法学部6年 斎藤 亮
浦沢直樹が好きだ。浦沢直樹とはご存知のとおり、『YAWARA』、『HAPPY!』、『マスターキートン』、『MONSTER』、『20世紀少年』といったメガヒット漫画の作者(作画家)である。
その浦沢直樹が、2003年より『鉄腕アトム』を原作とした漫画が、“PLUTO”という題名で小学館ビッグコミックオリジナルにて連載を開始した。 2003年4月7日は鉄腕アトムの誕生日ということで、このような企画があがったらしい。浦沢直樹好きの僕としては、雑誌自体は買っていなかったものの、コミックスを購入し読ませていただいた。
単に有名な作家の有名な作品を、有名な漫画家にリメイクさせたというレベルの話かと思ったらそうではなく、浦沢直樹自身幼少期から最も影響を受けた漫画家として手塚治虫の名前を挙げており、事実『PLUTO』3巻の豪華版の付録としてついている浦沢直樹作画の『羅生門』は、手塚治虫の画風そのままである。漫画の神様と称される手塚治虫の作品を、大好きな漫画家がリメイクするということで、この作品をレポートの題材として決めた。実際そのアレンジ力と工夫は目を見張るものだった。
さきに原作のあらすじを説明させてもらう。
原作となったのは『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」であり、『鉄腕アトム』の数ある話の中でも、高い人気を誇るものである。物語は、プルートウと名づけられたロボットが、1体のロボットを破壊するところから始まる。そのロボットはスイスの山案内ロボットのモンブランといい、世界でもっとも高性能な7体のロボットのうちの1体である。プルートウはサルタンという富豪により作られ、その7体のロボットを破壊するように命ぜられる。そして次にアトムと対峙するが、お茶の水博士により決闘は中断することになる。その後スコットランドのノース2号を倒したプルートウはアトムの振りをして決闘場所に現れたアトムの妹ウランを人質にとり、再度アトムとの決闘となる。しかしその直前、トルコ一のロボット力士ブランドが現れ、プルートウとブランドが決闘することになる。ブランドに辛勝したプルートウだがダメージを負い、それをアトムに助けられることになる。
開発者のアブーラ博士より修理されたプルートウは、逮捕しようとしたドイツのロボット刑事ゲジヒトの破壊にも成功する。そしてプルートウの居場所を突き止めたお茶の水博士はサルタン、アブーラ博士により捕らえられ、隠れてついてきたアトムはプルートウとの3度目の決闘をすることになる。その決闘でアトムはプルートウの手のひらにつかまり握りつぶされそうになるが、助けられた恩を果たすため、プルートウはアトムを助ける。日本に帰ったアトムは産みの親の天馬博士に頼み、自分を10万馬力から 100万馬力にする改造を行うが、上昇したエネルギーに耐え切れず一時的に狂ってしまう。ギリシャのヘラクレスの破壊に成功したプルートウは、次の相手オーストラリアのエプシロンとの決闘場所への移動中、混乱しているアトムと遭遇、戦闘の結果、アトムは海の海溝に沈んでしまう。それを憂いたプルートウは、エプシロンとの決闘を中断し、二人でアトムを救出する。その際、光子エネルギーロボットであるエプシロンの弱点は夜だということに気づいたプルートウは、深夜に決闘を申し込み、エプシロンの破壊にも成功する。
プルートウの標的であるロボットは残りアトム1体だというところで、サルタンの元に、200万馬力のロボット、ボラーを連れたゴジ博士という人物が訪れ、アトムとの後、ボラーとプルートウを戦わせると告げる。そしてアトムとの最終戦、戦いは互角のうちに進むが、舞台となった阿蘇山が衝撃により噴火活動を始めてしまう。アトムは決闘を中断し噴火を防ぐために奔走する。最初拒んでいたプルートウだったが終にそれに加わり、ロボットの価値というものは力の強さなどではなく、人間のためにいかに役に立つかだということに気づく。しかしボラーとの戦いは避けられず、プルートウはボラーと刺し違えて、阿蘇山の火口に沈んでしまう。そしてアブーラ博士とゴジ博士は同一人物であり、その正体はサルタンの昔の召使ロボットだということが判明する。プルートウの死を惜しみつつも、アトムは将来ロボットがいがみ合わない社会ができるよう祈り、物語が終了する。
このような原作のうえで、浦沢直樹氏がどのように踊るか、というのが本題である。先に言ってしまうと、浦沢氏は原作に対して、相当のアレンジメントを施している。一般的にこのようなリメイク作品では、原作のキャラクター、ストーリーに対し、そこそこ忠実に作り、原作から離れすぎることを防いでいる。単純に原作となる題材は常々大作・名作であり、オリジナルのファンの非難を避けるためでもある。
しかしそのプレッシャー、不安をはねのけて、浦沢直樹はこの難しい題材をしっかりと浦沢ワールドに書き換えることに成功している。
じつは計画の当初、浦沢氏が提案したデッサンなどは、原作のイメージから遠すぎないように意図したものであったが、手塚治虫氏の実子でもある手塚眞氏は、どうせやるならそんな似顔絵のようなものじゃなくて、浦沢直樹自身の漫画がみたい、キャラクターについて考え直してほしい、との要望を出したとのくだりがある。その要望にこたえた上で、漫画『PLUTO』の世界は確立していったのだ。
何点かポイントを見ていきたい。
【世界】
広くもあり、またもっとも重要だといえるのがこの世界観の決定である。原作ではアトムやウランなど、人間に近いロボットもいるが、基本的に一目見ればロボットと判別できるものだった。それが『PLUTO』では、アトムやゲジヒトなど、新型・高性能とされるロボットは容姿もほぼ人間であり、作中でも人間とロボットを見間違えるというくだりが何度も出てくる。”HUMAN”、”NON-HUMAN”とかかれたゲートで人物を判別させるなど、物語に立体感と説得力を付与するのに一役買っている。
じゃあみんな人間みたいなキャラクターしか出てこないのかといったら必ずしもそうではなく、見るからにロボット、というようなロボットも多数登場する(厳密な設定はされていないが、そのようなロボットは旧式であることが多い)。それにより漫画の中に、ある程度の時間的な感覚を生み出すことに成功している。さらに7大ロボットのヘラクレスは、容姿は人間型であるが戦闘時には先頭スーツに搭載されるし、ブランドは頭部と心臓部分(メモリー領域とエネルギー駆動領域)のみバトルスーツに搭載される、といった変則的なロボットも登場する。高性能な7大ロボットといえど、ノース2号やモンブランといったロボットは、容姿もロボットの非人間型ロボットである。
また舞台となる時代の数年前にトラキア共和とペルシア王国が戦争を起こし、その際に7大ロボットの多くが活躍したという設定もある。これは現実で言うところのアメリカとイラクの関係であると思われ、その戦争を作中で非難することで、暗に現実世界での戦争も批判している。
【主人公】
また原作と大きく違うのが主人公だ。原作では当然アトムが主人公だが、『PLUTO』ではユーロポールのロボット刑事、ゲジヒトが主人公となっている。原作では4番目に破壊されるゲジヒト、はっきり言って脇役である。さらにPLUTO4巻ではアトムの死亡の場面だけ描かれ、その後の説明がなされない。
さらに性格的なものもかなり違っているように思われる。原作のゲジヒトは前述のとおり脇役で、性格を掴みきれるほど描かれてはいないが、強いて言うなら若干の自信家であるような感じはある。それに対して『PLUTO』中では、仕事に関しては基本的に無機的、無表情、そして正確。しかしプライベートでは奥さんに笑いかけたり談笑するなど、とても人間的な面も存在する。そして、作中何度も見るゲジヒトの悪夢が、物語を動かすキーワードとなるのだという推測も成り立つ。
対してアトムの性格も原作と大きく異なる。原作ではアトムは優秀、高性能だが幼い部分が多々あり、それを保護者役であるお茶の水博士がカバーするという図式が成り立つ。まるでディズニー映画のピノキオとジミニークリケットの関係に似ている二人だが、『PLUTO』でのアトムは冷静・理知的、そして人間的である。精神的にパーフェクトに描かれているアトムに保護者役は必要ないのか、お茶の水博士と同居しているとにおわせるところもない。むしろ幼さ、おてんばさが残っているのは妹のウランであり、兄が妹の保護者、という関係性は成立している。
【ストーリー展開】
原作では最初のページにプルートウが登場する。しかし『PLUTO』ではモンブランが破壊されるというニュースしか流れなく、モンブランを破壊したロボットが描かれるどころか、存在さえも謎である。一般的に漫画の連載で、1話目(週刊誌にして40-60P)において主人公の実力だとかはほぼ明らかにされる。漫画家にとって1話目とは掴みであり、いかに魅力的でいかにかっこいいかというところをプレゼンしなくてはならないからだ。
しかし前作の『20世紀少年』を例にしてもそうなのだが、浦沢直樹作品は1話目にほぼ情報を与えない。単行本の第1巻を読み終わって、じわじわ恐怖感が伝わってくる感じなのだ。長期連載が内定していないとできないことなのかもしれないし、それを裏付ける実力もあるだろう。人によっては展開が遅いの一言で済ませてしまうかもしれない。しかしこのもって行き方は、徐々に、また確実に深く、物語に引き釣り込まれていく感じが、とても秀逸であるように思う。
『PLUTO』では原作の通り、優秀なロボットが次々と破壊されていく。さらにそれに並行するように、人間の殺人事件も起きている。ロボット法擁護団体の幹部ランケ、国際ロボット法発案者田崎。殺害の理由もさることながら、最も疑問なのは誰がやったのかということ。
『PLUTO』の世界ではロボットは人間を殺せない、というプログラムが存在し、しかしその現場には生きたものの反応がまるでない。原作を知っている読者でさえ、プルートウが他のロボットと人間を殺した、という単純な推測がまるで成り立たないのである。この点が『PLUTO』が原作を離れている最大の点であろう。
ウォルト・ディズニーはヨーロッパの民話を元に映画を作るときは、道徳上の理由から残虐な結末をハッピーエンドに変えたりしたし(『シンデレラ』、『白雪姫』等)、全体の環境をよりニーズにこたえてリメイクした場合も多数存在する(映画『リング』や『Shall we dance』のハリウッドリメイクなど)。
ただ、原作に対して違う軸を埋め込むという挑戦方法をとるというのは、革新的なのではないかと思う。原作を逸脱することは不可能ではないし、やろうと思えばいくらでもできる。まだ結末は描かれていないのでなんともいえないが、浦沢氏のやろうとしていることは原作からの逸脱などではないのだと思われる。原作を知っている人にも疑問と不安感を提起し、もしかしたら原作とまったく違うことをしようとしているのではないかこいつは、というような警戒感まで想起させる。しかしこれは、原作と原作者に最大の敬意を踏まえ、その上で少しでも多くの読者を楽しませようという方法なのであろう。神といわれ、自分の理想の漫画家に対して、不遜にしてかっこいい挑戦者であるように思う。
【作画】
手塚治虫氏はディズニー映画に多大な影響を受け、ディズニー映画が公開されると一日中映画館にこもり、その映像をスケッチし続けた、という逸話がある。そのこともあり手塚作品には、アメリカ・カートゥーン的な表現(手足が引っ張られて伸びる、激怒し顔が真っ赤になり湯気が出る等)が多く用いられ、その非現実的なコミカルさが物語に花を添えている。
対して浦沢直樹氏はとても写実的である。彼は映画手法を大変参考にしていて、そのよい一例となる表現がある。浦沢作品の登場人物は汗をかかないのだ。本人曰く、人間あせったりする場面でも、実際には汗はかかない、らしい。美少女マンガの巨匠、江川達也氏は女の子をかわいく描くポイントとして、「魅せたいところをしっかり描き、魅せたくないところはほとんど描かない」ということを言っていた。具体的には目は大きく描き、鼻や唇は目立たなく描く、といったことだったが、それに象徴されるように漫画はデフォルメの美学であるように思う。にもかかわらず浦沢作品は写実的であり、漫符の類はかなり少ない。さらにコマに対しては背景がしっかり描かれる。何より不思議なことに、それが情報過多にならず、読んでいても疲れないのだ。
蛇足だが、誤解を招かないためにも先に書くが、次の例の漫画は嫌いなわけでもなく、むしろ好きな部類である。荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画がある。この漫画はストーリーも面白く背景も凝っていて個性的で人気がある漫画だ。ただ個人的に、あまりに情報が多く展開を読みきれないときがある。さらに1冊読んだ後、ものすごく疲れてしまうのだ。その疲労感が、浦沢作品にはない。背景がどんなに正確でも、登場人物がそれに埋もれることはないのだ。それはへんな言い方をすれば、登場人物が微妙に漫画っぽいのかもしれない。
さらに要因を挙げるとすれば、背景と登場人物の存在感が断然に違うのだ。背景は陰影がどうとかではなく、薄く描かれる。それに対し登場人物は、しつこくないがしっかりとした存在で描かれる。細かいほうが情報過多でインパクトあるのだが、それが逆なのだ。その分キャラクターの動きはしっかりと伝わるし、わかりやすい。極端に言うと映画『スペースジャム』や『ロジャーラビット』のように、実写の世界にアニメーションが入り込んだ感じなのだ。
さらに浦沢作品は演技に対してものすごくこだわる。特筆すべきは姿勢だ。『PLUTO』では前述の非人間型のロボットが多数登場する。人間型は当然表情が変えられるのだが、非人間型は表情が変えられることができない。にもかかわらず、ちょっとしたうつむきで悲しさや寂しさを表現するし、動かないロボットからは見つめられているような錯覚を覚える。これは単純に作画力の問題だが、1,2度違うだけで表情が大きく変わるであろう事をみごとに表現する。
手塚治虫は『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」のプルートウに対して、「プルートウを根っからの悪役にしきれなかったのでプルートウが壊れたとき時抗議の手紙をたくさんもらったっけ」と述べている。手塚氏のなかでアトムやウランはもちろんのこと、プルートウも確かに生きているのである。そして浦沢直樹は NHK「プロフェッショナル」のなかで、プロフェッショナルとは、「締め切りがあって、それに対して最善を尽くす人」と語っている。二人の漫画家は筆の早さ、使っている道具、環境、何もかもが違うのだろうが、自分の作品に対する想いと責任感というのは間違いなく共通しているだろう。そしてそのようななかから生まれた作品が、万人を楽しませる力を生むのだろう。
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