▼2006年度 早稲田大学後期末レポート
漆原友紀の『蟲師』について(久保 隼人)
【解題】
久保隼人君が題材に扱った漆原友紀の『蟲師』については、結局、読もうとおもっていたのだがまだ手にとっていないし、またオダギリジョー主演、大友克洋の実写映画の試写にも多忙にかまけ行きそびれてしまった。ただ以下の久保君の分析が端的かつ多様で、その作品世界も事前にはっきりとイメージできるようになった。
「蟲」と人間を媒介する「蟲師」を主軸に置き、蟲によって狂わされた人の生に主人公が何らかの干渉をする(そこに皮肉なストーリーテリングもある)――とすれば、陰陽師の陰陽世界が「蟲」に特化した事態をとりあえず思い描けばいいのだとおもう。この「蟲」もただの昆虫ではなく、「人外」を代表し、この世の裏側に張り付いた「人知れぬ」微細を象徴しているのだとおもう。
この「蟲」「人外」はたとえば江戸川乱歩の小説的クライマックスを襲う用語だ。だとすれば、この『蟲師』は、乱歩に影響を受けて時代錯誤、歪んだ大正ロマンに出発点をもちつつ、たとえば平安に時代を遡らせ、小さ神に代表される民俗世界を絵巻物として戦乱に対置させることを志向した花輪和一の微細世界をも祖型にもつのではないだろうか。
「われわれ」の日常を裏打ちしている超越性に気づくこと。これだけで人の感覚は覚束なさに陥ってゆく。このとき、事物-生物には連続性も擬制されることになるが、それを保証するのがたとえばアニミズムだったりする。久保君は漆原友紀の作画が十全ではないというが、それでもコマ内の空気感に惹かれるというのは、描かれた事物の精確な古色のみならず、一種のアニミズムがそこに通底しているからではないか、と予想した。久保君が対抗例として出す水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』(これも実写映画化された)では事物・世界の多くが微細な点描性を施されて紙面を覆うが、そこでも妖気は点自体のアニミズムによって増強されていたといえるだろう。
久保君の分析の素晴らしさの一点は、作品読解速度がネームや背景処理によって干渉を受けるという指摘にある。そして彼は『蟲師』各話がロング構図に始まり、ロング構図に終わるともしるす。これは何か。世界連接性と「語り速度の可変性」とは、「説話」語りの要件というべきではないのか。となると、この『蟲師』はマンガという現代的表現に、前近代的な口承芸術の姿を化合したものだ、という見立ても可能になる。とうぜんそこでは何かが否定的媒介になっているはずだ。この点と、作画の拙劣がセットになってもいないだろうか、とも予感した。そこらあたりにすごく興味をそそられる。
ハイ、ぜひ読んでみます。
(阿部)
漆原友紀の『蟲師』について(久保 隼人)
妖しく美しい蟲の世界
――漆原友紀の『蟲師』について
第二文学部 文学・言語系専修3年 久保 隼人
漆原友紀の『蟲師』は現在、講談社から出版されている『月刊アフタヌーン』に連載中である。連載開始当初はそれほどメジャーでもなく、一部の人々からは絶大な人気を得ていたようだが、ちょうど一年ほど前にフジテレビ系でアニメ化され、さらに昨年に講談社漫画賞一般部門を受賞したことで知名度が上がり、現在製作中の大友克洋監督による実写映画も期待される。
基本的に一話完結のストーリー展開で、登場人物は主人公のギンコ以外は毎回違う人たちが登場して、それぞれの蟲によって狂った人生を語る、という感じである。漆原氏はギンコを南方熊楠のような人だ、と人物像を語っている。
『蟲師』をジャンルで区別するのは非常に難しい、というよりも、独特の世界観を持っているために、ジャンルという言葉で括ってしまうのは、なんとなく納得がいかないが、分けるとするならば妖怪漫画の部類に入るのであろうか。
人外の生物である蟲たちと、その影響を受ける人々。そしてそれらの仲介者である蟲師。これら三者の関係を描く漫画なのだが、その世界観が他の漫画ではあまり見られないようなものになっている。蟲とは、「およそ遠しとされしもの 下等で奇怪 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達 それら異形の一群を ヒトは古くから畏れを含み いつしか総じて『蟲』と呼んだ」と一巻の始まりに書かれている。
漆原氏によれば、「鎖国し続けている日本」とか「江戸と明治の間にもう一時代ある感じ」(1巻あとがき)だそうだ。事実、彼女の描く自然は白と黒の二色で描かれているにもかかわらず非常に生々しく、古代の日本を思わせるようである。さらに、作品の持つ空気感、とでも言うのだろうか。非常に静かで淡々としていると同時に、ねっとりと読者の脳裏にまとわりつくような濃密さがある。読み手がこういった印象を受けるのは、やはり題材にしているものが人外のものであることと、妖怪漫画に見られがちな妖怪退治は決して出てこないということが大きな理由ではないだろうか。
妖怪漫画と聞くと、おそらく多くの人が『ゲゲゲの鬼太郎』を思い浮かべると思うが、かの漫画のメインとなっているのは悪い妖怪を退治する、というものだろう。しかし漆原氏は決して主人公である蟲師・ギンコに蟲退治をさせることはせず、蟲と人との間での調停役をさせている。このことによって妖怪漫画の持つ妖しげな雰囲気と、妖怪漫画が普通持つことのない、静謐なイメージを作品に持たせることに成功している。
次に、この世界観を完成させるのに大きな役割を果たしているものに漆原氏の絵のタッチが挙げられる。『蟲師』が漆原氏の本格的な初の連載漫画ということもあって、はっきり言って絵は下手である。しかし、おそらくペンで描いているのだろうが、細い筆で描いているようにも見える彼女の独特なタッチは絵の下手さを補って余りある。むしろ、少し下手な感じが筆で描いているような様子を出し、味のある作品に仕上がっている。一巻我慢して読めば二巻目からは漆原氏の描く『蟲師』の世界に引き込まれてゆくだろう。
また、漆原氏は背景に強いスクリーントーンを使わないことでも、作品に静かで淡々とした、穏やかな雰囲気を持たすことに成功している。基本的に彼女は背景を手描きで描くことが多いが、スクリーントーンを使う時は、ほぼ必ずと言っていいほどグラデーションの淡いスクリーントーンを使っている。このことによっても作品に淡い雰囲気を持たせ、作品のストーリー、登場人物の感情、表情を浮き彫りにすることができている。
『蟲師』を読む際に、漫画を読んでいるという事実と同時に、何か別のもの、蟲師風に言うならば“絵巻物”を読んでいるような感覚を抱くことができるはずだ。それは漆原氏が細かい背景までも描きこんでいる、というのが原因だろう。遠くに見える山々や海の波のしぶき、河の流れ、畳の目、屋根裏の木目など、注意して見ればおそろしくよく描きこまれている。スクリーントーンを貼ったその上にも木々を描きこみ、雲を浮かばせる。影すらも手描きで表現されることがほとんどである。このような漆原氏の意地とも思えるこだわりが作品に深みを与え、読者は、まさに“作品”を読んでいる気分になるだろう。
さらに、漆原氏は読者の読むスピードをコントロールする。普段、私はかなり早いスピードで漫画を読むのだが、『蟲師』を読む際には一巻読むのに、おおよそ一時間近くかかる。これは漆原氏のネームの置き方に原因があるように思う。物語のクライマックスになると、ほぼ全ての話においてネームが一言ずつ、散らばって置かれているのだ。
その最も良い例が三巻に収められている「眇の魚」だろう。主人公ギンコの過去が初めて語られる話なのだが、そのクライマックスで見開きのページにコマは九つ。その中に短いネームが二十も散らばらせてある。
しかも、これは全て一人の人物のセリフという徹底ぶりである。書き上げると、「手だけじゃぁない……」「私に」「もう目玉はないが」「お前の目玉がこちらを見ると」「まるで陽のあたるように温かだ」「あの仄暗い池の傍らで」「それがどんなに懐かしかったことか………」「……さぁ」「ヨキ……」「ひとつは」「銀蠱にくれてやれ」「トコヤミから抜け出すために」「だがもうひとつは堅く閉じろ」「また陽の光を見るために」「…………」「ああ」「いけない」「銀蠱が」「目を覚ます」といった感じに、「…」が多いのも読み手が無意識に読む速さをスピードダウンしてしまう理由であると思うし、まとめようと思えばネームの数は半分近くまで減らすこともできるだろう。しかし、これらの細かなネームをページのいたるところに散らすことで、読者の目線の動き、読む早さをコントロールすることに成功している。
『蟲師』はただ穏やかな話ではない。時に残酷で重い内容の話もあるし、妖怪漫画のように恐ろしく、ホラーのような内容の話もある。しかし、妖怪漫画の一話完結物でよくある、(以前ジャンプで連載されていたアウターゾーンのような)メインの登場人物が死ぬということは絶対に起こらない。
また、どこか切なく郷愁を誘うような漆原氏の描く情景は美しいが、同時にその美しさが蟲、という異形の生物の恐ろしさを強調しているように思える。日本のホラー映画的な恐ろしさ、とでもいうのだろうか。じっとりと、じめじめとした真綿で絞められるような恐怖がそれぞれの話にはある。これには、時代設定ということもあるだろうが、作品中に出てくる小物によっても演出されている。衝立、屏風、提灯、行灯、煙管盆、蚊帳など、昔の日本で用いられていた多くの民具が細やかに描きこまれており、妖しく恐ろしい雰囲気をかもし出すのに一役買っている。
また、ほぼ全ての登場人物の印象が良く、「あぁ、この人嫌だなぁ」というような人物が出てない。各ストーリーそれぞれに違う登場人物が出てくるのだが、その中でも中心人物となる主人公のギンコ、ギンコの友人で医者の化野、そして己の体に禁種と呼ばれる蟲を持つ淡幽。彼らの飄々とした雰囲気、そしてたまに見せる、思わずニヤッとしてしまうユーモアのセンスによって、“ただの良い話”が“面白く、かつ心に余韻が残る話”に展開される。
それぞれの話の最初と最後には詩のようなナレーションが挿入されており、その詩によって物語が始まり、完結する。例えば四巻の「春と嘯く」では始まりは「春よ来い 早く来い まがいものでも かまわないから」というナレーションで始まり、「凍山に 芽吹く幻の春 雪路に灯る家のあかり それらは逃れがたく長居を誘う けものも虫も 人も同様」というナレーションで終わる。このナレーションによって冒頭部分で読者は物語に引き込まれ、最後の部分で物語の余韻を残される。このナレーションもまた、『蟲師』の世界観を創り上げる要素の中で、一つの重要なアクセントになっていると言えるだろう。
最後に、漆原氏のコマ割りについて述べたいと思う。どの話もヒキの画(そのほとんどが風景)で始まり、ヒキの画で終わる。これによって物語の中の時間がスローになり、読者の意識も一瞬留まる。この効果により物語の始まりでは、読者はこの風景を舞台にした物語が始まるんだな、と心構えし、無意識のうちに『蟲師』の世界へ入り込む準備をする。
そして、物語の終わる場面では一瞬それまで読んできた物語を思い返し、読者の意識の中に話の余韻を残すことができる。さらに、作中でもヒキの画に他のコマを重ねていたり、コマとコマの間を大きく開けて、そこに絵を描いたりしている。また、紙をやぶったようないびつな形のコマを作ってみたりと、その都度その都度読者の意識を掴み、静と動を上手く使いこなしている。
さらに、前述したことだが漆原氏は背景をかなり細かく描く漫画家である。しかし、そのように細かく描かれた背景が続いた次の瞬間にポーンと真っ白な背景のコマを持ってくることによって、そのコマに強いインパクトを与える、という手法をしばしば使っている。例えば、先ほども例に出した三巻の「眇の魚」で、ヨキ(ギンコの幼少時代)の母親が死ぬシーンがあるが、ほぼ同じ絵のコマを二つ並べて、最初のコマに背景などが描きこまれているコマを持ってきて、そのすぐ隣に真っ白の背景で、人物と物だけを薄いタッチで描いているコマを持ってくることで、その瞬間のヨキの喪失感、また母親が死んだ、という事実を言葉では一切述べることなく読者に伝えることができている。
このように、漆原氏は独特の画風、コマ割り、ネームの配置など、様々なところで工夫を凝らすことにより、妖怪漫画でありながら妖怪漫画ではない『蟲師』の、その怪しげで濃密であると同時に淡々としていて静謐な世界観を創り上げることに成功した。現在もまだ連載中であるため、今後の『蟲師』にもぜひ注目していきたい。
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