▼2006年度 早稲田大学後期末レポート
U-18指定 『あだち充の青春論』(河田 誠)
【解題】
河田誠くんのあだち充『H2』論は、完全に「冗談のように」開始される。同作の主人公・国見比呂と、実在の甲子園ヒーロー斎藤祐樹投手(早稲田実業)の比較論がまずは開始され、架空人物と実在人物のあいだに過激な等号が結ばれる――「青春」の一語によって。この「青春」の語が貶価的に用いられているので、僕(阿部)のような偏屈も快哉を叫びたくなるのだが、それにしては「序論」が終わり、あだち充のマンガ技法を、「時間軸」「周辺の世界延長」「沈黙」等から分析してゆく本論の論旨の数々が実に緻密で、「何だこいつ、あだち充が好きなんじゃん」(笑)という微妙な反転をも導いてゆく。いや、そういってしまうと語弊があるか。つまり、河田君の論は、「どこまでが本気かわからない」胡散臭さに終始包まれていて、読者の居心地を終始不安定にさせる、といったほうがいい。そこを買う。
斎藤「ハンカチ王子」祐樹君を巡った言説というのは、「一所懸命」「タフ」といった美点のほか、「礼儀正しい」「ノーブル」「優等生じみた姿が切ない」といった情緒だった。共感を寄せる軸がシンプルなのが奏効して、とくに「複雑さ」を好まない中年女性たちの熱狂を導いた。いつも繰り返される構図だ。そこには、「《青春》の縮減」「《青春》のポピュリズム」「《青春》の平滑化(ネオリベ化)」といった「抽象語の管理化」事態が進行している。これを穿った意見というのは間違っている。なぜなら「残余の青春」が彼ひとりへの礼讃によって脱落してしまう点を看過できないためだ。斎藤君礼讃をトッコにとった亀田一家バッシングを想起せよ。その二つは明らかに無関係のはずだった。
河田君の論を読んで、あだちスポーツマンガにも同じ事態が進行している点を納得できる。一体に現在のあだち批判というのは、「ギャグがぬるい」「パンチラにも間合いの技法にも食傷した」「少女マンガ的恋愛と少年マンガ的スポーツの野合はマンガカルチャーの推進に役立たない」などの諸点だとおもうが、その「青春」啓蒙性が青春を平滑化してしまう事態に特権的「越境」の夜郎自大を指摘するのが正当というものだ。「われわれ」はひとつのものに飽きたとき、つねに代わりのものをもちだすが、そこでは価値観のちがいが交錯しなければならない。ところが熱心で持続的なあだちファンにはそれは無理だろう。なぜなら、彼ら自身が価値観を平滑化されてしまっているためだ。あだち、恐るべし。
河田君が言外に綴っているのは確かにこの点だと感じる。ところが、彼はあだちマンガをじっくりと手許に引き寄せ、「有効な」分析をも繰り返す。河田君、君は一体ナンなのか。ひとつは、彼の批評の原理を「不快の快」とすることで疑問が打開される(彼は「ためにする」批評を展開したということ)。だが、彼はアンチ巨人が巨人ファンだという意味でのあだちファンなのではないかという疑義も成立する。対象の真の否定は対象を無視すればいい、という思考の爽やかさが欠落しているのだ。そう、やはり僕は、この「笑える」『H2』論を読了した時点で、結局この二つの選択のうちのどちらかを決めかねてしまった。よって読者の判断を乞う、河田君は真正あだちフリークなのか?
(阿部)
U-18指定 『あだち充の青春論』(河田 誠)
U-18指定 『あだち充の青春論』
第二文学部 表現・芸術系専修2年 河田 誠
早稲田実業の斎藤投手は国見比呂に似ている。
否、国見比呂は斎藤投手に似ている―――
【序論】
2006年夏の甲子園大会は決勝戦が三十七年ぶりに同点引き分け再試合となるなど、例年にも増して異様な白熱があったと思うが、その願ってもない物語をドラマティックに構築し色づけし、野球を知らない一般市民にも分かりやすい形で提示したのはマスコミ(特にテレビ各局と一部週刊誌)であって当該の高校球児たちではない。バブルの時代に生を享け、経済界だけにとどまらずこの国のあらゆる分野で確実に大切な何かが《失われた90’s》を駆けずり回った現代の青少年たち――あの孤高のボクシング一家のように――の内部で奇跡的に育まれた《泥だらけになって白球を追いかける健全な身体と精神》は、マスコミ(特にテレビ各局と一部週刊誌)にとっては涎が滴り落ちるほど好個な餌であり、実際数字にも大きく反映されたことであろうが、中でも最たるものは《ハンカチ王子》というバナールなニックネームを冠せられることになった早稲田実業学校の斎藤祐樹投手である。
《ハンカチ王子大解剖》とか《これが祐ちゃんの全て》とかは、当時ワイドショーで挙って組まれた特集であるが、それらを白けた気分で眺めていた私の胸に不意にグサリと突き刺さった祐ちゃんの、、、何気ない一言がこれだ。
>インタビュアー「ズバリ、斎藤投手の一番好きな言葉は何ですか?」
>斎藤投手「“青春”です」
青春~SEISHUN~。何ておぞましい言葉だろう。私にはその言葉が“絶望”にしか聞こえない。しかもその絶望は「老成せざる者の××」とかいう代物ではなく(世の中には「一生青春!」などと根拠もなしに大それた青春論を唱えるおっさんもいるワケで)、つまり私にとっては《死にいたる病》なのであるが、上記の純真無垢な問答から私は彼との間に文字通り絶望的(・・ )な隔たりがあることを悟ったのである。
さて、私が今回取り上げる『H2/あだち充』の主人公・国見比呂と斎藤投手を比較してみると、幾つか特筆すべき共通点が挙げられる。例えば、
・変化球の球種が同じである(ストレート、カーブ、フォーク、スライダー)
・150km/h 近い速球を投げる
・制球の乱れが少ない
・驚異的なスタミナがある
・打者としても優秀である
・マウンドではクールを装い、実は負けず嫌いである
・私生活ではお茶目な面も見せる
などがそうだ。斎藤投手のプライベートな性格までをも括り上げてしまうのは乱暴だと指摘されるかもしれないが(ていうか全くその通りなのだが)、何を隠そう私は早稲田実業学校に中・高合わせて六年間も在籍した立派なOBであり、所謂「早実野球部気質」というものを間近で体験しているからして、そこから彼の学生としての表情をイメージするのは比較的容易い。
その手前勝手なイメージが私と彼との間の隔たりをさらに大きなものにしていることは承知している。しかしここではあえてそのような想定に基づいて話を進めていきたい。何故ならこれは今回のレポートの主題に大きく関わる重要な要素でもあるからだ。ともあれ、納得して頂きたい。
青春とは何か。その実体を探るフリをして私はこの場で(早実という)共同体から疎外された過去を持つ者の叫び≒愚痴をぶちまけようと目論んでいるのではない。実存主義的な立場から言えば我々は銘々にふさわしい青春を持っているはずであり、そして誰もが自分の青春を評価し総括する限りなく義務に近い権利を保有していて、さらに偶然にもいま(・・)私がその権利を行使する必要性に差し迫られていると判断したからこそ、このようなテーマを選んだのである。その判断の決め手となったのは、やはり斎藤投手という“現実”が、あだち充の創出した国見比呂という“イメージ”を超越したことで、自分たちの世代に偽りでない希望を見出せたと切実に私が考えたことに尽きるだろう。
ここに二人の高校球児と一人のアマチュアがいる。これら極上のサンプルを前に、どうして青春の何たるかを暴かないでいられようか。
【一、時空を操作する】
現在も主に週刊少年サンデーで新旧連載の間にほとんど休業期を置かず、シンジラレナ~イ調子で次々と作品を世に送り出しているベテラン漫画家・あだち充(1951~)が、とりわけ長期に渡って描き続けた『H2』(1992~1999年)の中で用いた漫画という表現ならではのトリックや技術について、具体的に例を挙げながら記述・説明していく。
あだち充は《時空把握能力》に長けた漫画家である。《時空把握能力》とはたった今これを書きながら適当に思い浮かべた私の造語であるが、要するにあだち充は身体感覚が鋭敏であると述べたいのである。
漫画家にとって身体感覚の鋭敏さは運動シーンを描く上ではもちろん、日常のリアルを追求する場合にも必要な一つの決定的な能力である。登場人物のキャラクター、特に作者と主人公との距離感の妙や彼らが生活する外界に自律性を持たせることが作品を作品足らしめる必要条件であり、それを心得ている漫画家は無尽蔵に作品を製造することができるといっても過言ではない。
躍動感のないスポーツ漫画ほど見苦しいものはないが、それは読者のコマを送るスピードの如何に関わらず、一つの頁に作者がどれだけ抑揚をつけて登場人物と風景を動かせるかに係っている。
ここで云う“動かす”には、
①ある空間に人や物を(漫画という虚構の中の)現実の時間の流れに沿って活動させる
②同時間を軸に空間をスライドさせる
③空間軸を捩れさせつつ時間をスライドさせる
の三つの意味がある。
まず①についてであるが、これはどんな漫画にも見られる極めてノーマルな手法である。
例えば、現実の時間の流れ(=速度)を数学的に考えてみるとどうなるか。x軸を時間・y軸を物体の移動距離として普通に考えるとy=ax+b(a>0)という一次関数がまず思い浮かぶだろう。確かに、時間は誰の下にも一定の速度で流れ決して遡ることはない、ということは自明の理であり、そうでなければそもそも速度という相対的な概念は生まれ得ない。しかし、その速度の只中にいる我々が実際に体感している時間の流れは、各人の集中力等によってその都度速められたり堰き止められたりするので、それを新しく関数グラフ上に表しなおすとしたら「係数aの値が(a>0)の範囲で流動的に変化する」と考えることができ、第一象限には酷く歪な曲線が描かれるはずだ。
漫画においてその歪さは、先ほど述べた躍動感の源となるものである。つまり、一定の速度のままダラダラと描かれる漫画は緊張感がなく退屈だが、読者が登場人物の活動に注目し、ぐいと引っ張られたりリラックスさせられたりしながら、彼らが体感しているのと同じ時間の流れを共有できる仕組みになっている漫画は、作者が創出した世界がイメージとして見え、そこから人物たちの快楽や苦悩を共感することが可能になるのである。
あだち充は人物たちの動きに緊張感を持たせる技術に優れている。基本的に「画」と「文字」の二つの要素のみで成立させなければならない漫画という表現において、シンプルかつ洗練されたトリックを用いて見事に時間の体感速度を操っている。
素材が多すぎてどれを例に挙げればよいのか分からないほど多用されているのが、コマ割の変形である。これは『H2』作中ではもはや法則のようになっている。具体的に説明すると、時間の体感速度が限りなく現実の時間の流れに近い時――通常の会話シーンなど――はコマ割が長方形で、登場人物が集中力を研ぎ澄ましたり、反対に著しく欠いたりした時は、コマ割が荒っぽい台形になる。
コマ割がザクザクとした台形になると誌面は様々な角度の斜線で切り刻まれることになる。人物たちの動きが激しくなり読者の意識が人物たちの身体性に傾けば傾くほど、読者の目は紙上の斜線を駆け下りたり駆け上がったりと運動することを要求され、知らぬ間に頁全体を舐め回すように読む癖を植えつけられてしまうのだ。
また、所々に盛り込まれる無意味なパンチラや着替えなどのだらしないシーンもコマ割が台形だ。他にも、スクリーントーンを切り抜いただけの青空や誰もいないグラウンド、どこかの街の景色なども定型を逸脱した自由な枠の中で広くスペースを割いて描かれている。こういったコマは、それ以前の慌しかった時間の流れをリセットする効果が期待される。
以上のことを踏まえて読むと、頁全体からひりつくような緊迫感が伝わる秀逸なシーンがある。コミックス34巻89~90頁、八回裏明和一の攻撃が千川の4・6・3の守備陣に潰される場面(ダブルプレー)であるが、その一連の動作の中に、一切の動線を排した奇妙な静けさを持つコマが幾つか挿入されているのである。それは、セカンドの柳がショートの佐川にグラブタッチで球を受け渡す瞬間と、ランナーが間に合うよう願う明和一の監督の独り言と、アウトを意味する塁審の握り拳がアップで映っているコマの三つである。
これは、スピーディーにプレーが展開するこの二頁の合間毎に、集中線すら加えられていない、その画だけを取り出せば暢気にさえも見えるストップモーションのコマを挿入することによってぐぐぐ…と時間のため(・・)を発生させ、矢を後ろに引いて放つまでの間のようなものを読者に体感させるためのトリックだと言える。まさに《あだち充流シンコペーション》である。
続いて②についてである。これは漫画という表現の可能性を拡げた革新的な技術ではないだろうか。先に「(登場人物たち)が生活する外界に自律性を持たせることが作品を作品足らしめる必要条件であ」ると書いたが、その条件を果たすためにあだち充が用いた技術がこれである。
コミックス16巻の150~153頁を見てみよう。これは夏の甲子園出場をかけた北東京予選大会準決勝で千川と栄京学園が対決している箇所であるが、六回表・千川の攻撃中に挿入されたこの四頁にはあらゆる空間の描写とそこに流れる時間とが錯綜し、結果として時間そのものが淡々と経過しているような印象を受けるのだ。内容は次の通りである。
『明和一の長閑な練習風景→雨宮ひかりが見ているテレビの画面(映像は千川/栄京学園の試合中継)→青空→踏切のランプ→スピードを上げて走る電車→どこか知らない街の喫茶店と人々→どこか知らない街の交差点と人々→太陽→神宮球場のバックネット』
これらを経て場面はようやく野球の試合に戻る。この四頁には台詞や具体音、自然音が全く示されておらず、写真のスライドショーを見ている感覚にほとんど近いのだが、快活な音のイメージは確かに伝わるのである。例えば踏切のランプなどはたった一コマしか挿入されていないのにも関わらずカンカンカンと上下に点滅しているような錯覚に陥る。その錯覚はどこから生じるのであろうか。
それは《主人公を中心としたごく身近な関係性によって縁取られた世界》の内だけでストーリーを綴るのではなく、その世界を《いま知らない誰かが生きている世界》と相対化して描くことによって、読者がそのどちらか片方を眺め続ける時にどうしても付き纏う閉塞感を払拭しているからだと考えられる。試合中の球場という《興奮》し切った空間もあれば、当然それとは無縁な人々が創る《冷静》な空間があり、そこで生活する人々の生命感が溢れていれば自ずと街の息吹も聞こえてくる。あだち充の創った街は徹底して生きている。
異空間を挿入するというこの作業は、察するに担当のアシスタントたちの手も借りて行われているのだと思われる。何故ならこれは、それぞれ異なる空間で回した複数のビデオカメラをのちに一本のテープに編集し直すような作業だからである。もしこの推論が正しければ、あだち充のスタッフたちは各々の想像力を持ち寄って一つのリアルな世界を創り上げていることになる。私はこの技術を《想像のジグソーパズル》と呼びたい。
それでは最後に、この技術の完成型とでもいうべき名シーンを紹介しておく。
『(甲子園球場)9回表・千川の投手木根、投げる→法海大栄の打者、打つ→打球が外野へ飛んでいく→ぽかんと打球を見上げる木根→(東京駅へ)
(東京駅)ホーム→キオスク→新幹線への乗り換え改札機→時刻表→(どこかの街へ)
(どこかの街)喫茶店の外観と通行人→喫茶店の店内に設置されたテレビ→ブラウン管に映る木根→(甲子園球場へ)
(甲子園球場)目端に涙を浮かべ諸手を挙げる木根→次の試合日程表』
(以上 コミックス32巻180~184頁)
残る③については、新しく章を設けて説明する。
【二、画と思考】
あだち充の作品には回想シーンが多い。ただしその回想シーンには二通りのパターンが存在し、それは登場人物が何かをきっかけに感傷に浸りそこから過去の記憶へと遡るものと、突然何の前触れもなく曖昧な記憶が途切れ途切れに挿入されるものとに分類される。
前者のパターンは映画など他の表現にも見受けられる。分かり易い例を挙げると『ニューシネマパラダイス』(1989年)などが該当すると思うが、この手法はそもそも映像的な発想からヒントを得て漫画という表現に導入されたものであるかもしれない。
それに比べて後者は、他のあらゆる表現においてもなかなか類を見ない斬新な手法である。
この手法を用いて散りばめられるのは美しい思い出ではなく、主にトラウマ(心的外傷)である。トラウマは、作者にとっては登場人物のキャラクターに深みを持たせる重要なファクターであり、読者にとっては登場人物のキャラクターを理解するための手がかりとなるものである。しかしトラウマとは本来登場人物が心の奥底に抑圧している記憶であり、その性質上表立って晒すことの出来ないものであるため、それを明らかにすることは登場人物に対する読者の信用度を崩壊させる危険性を孕んでいる。よって、その危険性を回避しながら描写するには高い技術を要することになる。
トラウマの描写を回想シーンと呼ぶには一体齟齬があるかもしれない。確かにそれが登場人物の記憶の一部であり、しかもその描写に一貫性があることには誤りがないのだが、しかしそのコマが挿入された箇所で本当に登場人物が抑圧された過去の記憶を想起しているとは考え難い。もっと平易に述べると、一瞬の気の緩みが命取りとなる試合中のシーンなどで、登場人物がきっかけもなしに思い出したくない記憶をわざわざ掘り返すことが果たしてあるのだろうか、ということだ。
では仮に登場人物がそれを思い出していないとすれば、この心の傷は誰の思考に基づいて露にされたのだろうか。答えは簡単である。作者だ。作者が恣意的な判断で登場人物の記憶の中からある特定の部分だけを摘み上げ、貼り付けたのである。
そのことが判ると大抵の読者は、そういう御誂え向きの情報をインプットすることに熱意を失ってしまう。だが、あだち充はある文学的な表現の基礎を忠実に守ることによって、読者の一定の信用を保ちつつ、かつ登場人物に絶妙な“切なさ”を獲得させることに成功している。
それは、曖昧な記憶の描写の中では、心に傷を受けた当事者の感情を吐露させない、ということである。心に傷を受けた当事者の一方的な他者認識の羅列によってのみ、読者が感情移入した彼の自己認識が可能になるのである。もし登場人物が直接的に過去を語った場合、それは己の心の傷を庇う行為と見做され、その瞬間に彼は読者にとって他者となってしまい、感情移入は不可能、よって切なさも発生しなくなる。
コミックス32巻140~143頁では、この技術を用いて描かれた木根という登場人物の心の傷が切なく疼いている。当人が忘れつつある過去の苦い記憶を、現在の力強い運動シーンと並列して描写することでこの場面は“木根がトラウマを克服しようと懸命に努力している”という、ある種ドキュメンタリーの気質を帯びることになる。
このように、登場人物にとって第三者であるべき作者の思考が容易に登場人物の心象風景に介入できるということは、漫画という表現方法だけに与えられた有為な可能性であると云える。
これが第一章で掲げた③空間軸を捩れさせつつ時間をスライドさせる、である。
【三、沈黙は語る】
見つめ合う視線のレーザービームで夜空に描く色とりどりの恋模様、と歌ったのは郷ひろみであったが、『H2』作中には台詞やナレーションではなく表情や仕草のみで物語の展開を進めていくことが多々ある。本講義の初回に、表情(特に瞳)を隠すことで人物に霊性を持たせたり、社会的な関係の距離を歪めたりする、という手法の説明があったが――あだち充の作品に登場する人物たちがしょっちゅう『ガロ』や『GURO(バッタ物?)』を読んだり自室の本棚に並べたりしていることに気がつく読者は少なくないだろう――
『H2』の場合、それは全く異なる目的で使用されている。作中には野球帽の鍔で顔半分を影にしたり、後ろ姿だったり、眼鏡のレンズを光らせたりして、作者が作為的に登場人物の表情を描かないコマが沢山現れるが、そのほとんどが表情を描く手間を省くためで、そうでない場合は、人物が照れ隠しのためにわざとそっぽを向いたり、本当に悲しみに暮れていたりする時だけである。つまり『H2』においてこの手法は、わざわざ表情を描かなくても人物の感情がはっきりしているか、そういう画の方が効果的だと判断されたケースにしか適用されない。
むしろ、あだち充は読者に対し登場人物の感情を《推測不可能》にさせたかったら必ず表情を描く。コミックス26巻177~178頁を例に挙げる。これは東京に十年ぶりの大雪が降り、国見比呂が自宅の庭の雪かきをしているシーンである。黙々とスコップで雪を運び、少し空を見上げてから庭の隅に堆く積もった雪の山を眺め、立ち尽くす。
あだち充はこの瞬間を捕らえて非常に繊細な表情をした比呂のコマを挿入するのだが、その段階ではまだ比呂が何を考えているのか読者は読み取ることができない。やがて後のシーンで、比呂の幼馴染であり現在片想いの相手でもある雨宮ひかりと二人で、十年前の大雪の日にかまくらを作って遊んだことを思い出し感傷に浸っていたということが判明するのだが、それも本人の口から語られたものではなく、真相を正確に推測することは不可能である。もしかすると国見比呂本人も自覚がないかもしれないし、どちらにせよその感情は決して言葉にできるようなものではない。言葉になる感情ではないからあだち充は“書く”のではなく“描く”ことに専念しているのだ。
便宜上これを《沈黙のコマ》と呼ぶことにする。この《沈黙のコマ》には法則がある。それは背景を消し(ペンで入れた線で塗りつぶすことが多い)、人物の顔半分にスクリーントーンで淡い影を作るというものである。登場人物が沈黙し背景が上記のようになると、『その人物の思考が停止し、制御できない感情の変化が起きている』状態を意味する。場所の概念を取り払うのは、登場人物の様相だけに焦点を当てることでより深く人間の内面に迫ろうと試みているからだと考えられる。《沈黙のコマ》は特に恋愛や郷愁の場面に効果的に挿入され、人物たちの心が大きく揺さぶられるその姿が読者の共感を呼び、時には涙を誘う。
それではこの章の終わりに、私の周囲の『H2』ファンからも圧倒的な人気を得ている名シーンを紹介しよう。このシーンを言葉によって解説するのは野暮である。言葉で伝えようとしたが最後、私がこれまで展開してきたあだち充論がたちまち水泡に帰してしまうだろう。私が御託を並べるまでもなく、登場人物の沈黙が全てを語ってくれるはずだ――コミックス29巻・106~112頁
【結論】
あだち充は、漫画という非常に自由度の高い表現を使って青少年たちに自身の考えるところの青春哲学を啓蒙し続けている。それは登場人物の台詞を通じて直接的に語られることもあれば、物語の形式を取って間接的に語られることもある。しかしあだち充は決して読者に不明瞭な点を残すことはしない。あだち充は誰にでも平等に、健全に青春を、そしてその延長線上にある人生を生き抜く明快なヒントを与えており、このことが少年漫画界に残す功績はいよいよ大きい。
安易にサバイバルをテーマに据えたものが多い中、あだち充のような方法で青少年に接近した作品こそが真に少年漫画のあるべき姿ではないだろうか。
その論点から述べると『H2』はまさに完璧な作品であり、『タッチ』やそれ以前の『みゆき』にはなかったリアリティを、《漫画》という枠を飛び越えてその外部にまで浸透させた。『H2』は一見すると理想主義的に思えるが、実は徹底した自然主義の立場から描かれた作品であると言える。
またそれを念頭に置きながら、ひたすら耽美主義的な『みゆき』を再考察するのも面白い。“若松みゆき”という永遠なる美、“上杉達也”という永遠なる物語 (ストーリー)に代表される《永遠性》を確立した八〇年代から、『ラフ』というROUGH=粗削りな布石(今となっては試金石か)を置きつつ、『H2』で《永遠性からの脱却》を見事に成功させ、そして現在週刊少年サンデーにて好評連載中の『クロスゲーム(2005年~)』でさらなる可能性を模索しているという、大まかな作家論を展開することも可能である。
あだち充は『H2』で、国見比呂という青春の真っ只中にいる一人の高校球児を描き切った。野球とは最低でも9人、試合をするとなると18人(監督や審判などを含めるともっとだ)の人間がいなければ成立しないスポーツであり、それ自体が共同体のメタファーとして機能するものである。しかし国見比呂といえども一度マウンドを降りれば片想いに悩む孤独(・・)な高校生であり、共同体に内包されていようが疎外されていようが、彼の最優先(よく)事項(ぼう)に関して云うならば、その是非を問うことは全くもってナンセンスである。その証拠に彼が恋敵を三振に打ち取ってみせても彼の初恋は叶わなかったし、その傷を共同体が癒してくれるのでもなかった。
それでも、国見比呂が我々に教えてくれた大事なことがただ一つだけある。それは欲望に忠実に生きる、ということである。欲望に忠実に生きている者だけが震えるような充実感と美しい挫折を味わうことができるのであり、それは誰にでも平等に与えられた才能であるはずだ。例えそれが「欲望を欲望する」哀しい人間を生んだとしても、この論理には有無を言わさぬ普遍妥当性が含まれているような気がしてならない。
そしてここで冒頭の話に戻るが、早稲田実業の選手たちは私にその論理が正しいことを証明してくれた。それは現実がイメージを超えた瞬間以外の何物でもなく、私はテレビの前でただただ《沈黙》するばかりであった。とりわけ斎藤投手は私たちの世代にとっては希望の象徴 (シンボル)であり、イメージでは捉えることが出来ていながらも現実には暗雲が垂れ込めたように釈然とすることのなかった“青春”を煌かせてくれた救世主である(何だか書いていて恥ずかしい。。)。
総じて、あだち充はその圧倒的な技術と実績ゆえ付いて回る永遠性を軽く指先で往なしながら、少年のような遊び心を忘れることなく気儘に漫画を描くことのできる漫画家だ。彼は時折スローカーブを投げるかのように肩の力を抜いた作品も連載するが、私は自分自身に嘘をつくことなく、それらを正当に評価できる自信がある。
あだち充は紙とペンという道具を使ってスポーツすることを欲望している。事実、彼は現在も18歳未満の青少年を《動か》し続けている。
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