▼2006年度 早稲田大学後期末レポート

よしながふみ『愛すべき娘たち』(渡邉 優花)

【解題】
渡邉優花さんのよしながふみ論には、ボーイズラブについての卓抜な所見が含まれている。最近の、性愛描写を厭わない少女コミックにたいし、そこから読者の主体がもつ「性別」を減算し、ファンタジーの意匠を加えたものがボーイズラブだというのだ。そうして男対男の恋愛に行き着くボーイズラブでは、ただ読者の心情内だけに女性性が温存され、女性性の対象化という葛藤からは遠ざかり得るのだが、そのように作品が促がされる要因は、元来、少女性が自身の少女性を厭うからだと結論づけられる。僕は男性なので、彼女の立論の是非を完全には判断できないが、勇気ある論旨である点は確かだろう。
 そして、この渡邉さんのボーイズラブ論は、よしながふみという、ボーイズラブの範疇から出立したマンガ作家を把握するための背景でもあった。ボーイズラブ時代のよしながは、「ある対象がある対象を見ている」という関係性を特権化し、そこに恋情描写を滲ませた。それは「世界の広がり」を喚起する前段であって、ゆえにボーイズラブから離れた彼女は、「状況」も描きだす。そして、渡邉さんの批評はもう一度、彼女が傑作と太鼓判を押す『愛すべき娘たち』に立ち返る。そこでは「母親」が描かれるのが必然であると。
 少女性を自己意識しない少女たちにとって、自らの「母」を意識することは、自らに「女」を立ち返らせることだ(そうして彼女たちは「葛藤」のなかに入る)。むろん女性性はそのようにしてこそ継承され、女たちはいわば永遠の環を進行させるパーツへと純粋化・無名化してゆくと僕もおもう。「女」とは、正しくは時間の継承媒質だということだろう。となったとき、女の有名性がどこまで保証されるかという別問題も生起するとおもう。僕は渡邉さんのレポートを契機に、吉田喜重の映画『エロス+虐殺』で、「母の母の母」の語が用いられていたのを憶いだした。娘にとって、「母の母」はまだ有名性の域にある。ところが「母の母の母」に至り、それは無名性=女性性の域に突入する。その領域には、ただ「継承」を旨とした「時間」が永遠のように流れているだけだ。
  少女性が、「少女性の否定要素」をそれ自体含んでいるというのは刺激的な意見だが、僕自身もそうした考えに則って少女性表現を考察したことがある。『少女機械考』。渡邉さん、ぜひ読んでみてください。
  ともあれ、長さも展開力も見事なこのレポート、僕はすごく面白く読んだ。
(阿部)

よしながふみ『愛すべき娘たち』(渡邉 優花)



ボーイズラブからの飛躍、「女」を描くこと
       ――よしながふみ『愛すべき娘たち』

第二文学部 表現芸術系専修 二年 渡邉 優花

 私の母は美しい人だった、というモノローグで始まる漫画がある。よしながふみの『愛すべき娘たち』だ。私は冒頭のこのキャッチーなフレーズにやられてしまった。よしながは同書において、年齢環境時代性格様々な『娘たち』をオムニバス形式に描写しているが、それの一番初めの話のキーが『母』であるというのがよしながふみの力量だと私は思う。

すべての娘には母がおり、その母にも母がいる。そのことを見つめなおす時、かつて『娘』であった少女達は、いつか自分が『母』になる日が来るのだという原始的な解答と向き合うことになる。それは自分が『女』であるという自己確認でもあり、それは少女性との訣別を意味する。

『娘』たちは、母親に反発したり寄り添ったり、付かず離れずを繰り返し、その間無意識にだが絶えず母を観察している。母を見ることは、ずばりそのまま女を見ることである。しかし少女である『娘』たちが、自分の母親を『女』であると意識することは少ないだろう。むしろ、自分の抱いている『女』というイメージとは程遠い生き物だと思っていることのほうが多いのかもしれない。

だが、想像上の『女』からかけ離れている母親こそが、現実に呼吸する本当の『女』なのだと気づく時、彼女たちは自分たちがもうとっくに自分が『女』になっていたことを知る。『女』である母親に反発したり寄り添ったりしている自分自身も、『女』になっていたことを思い知るのだ。

 少女というのは自身が『女』であることに気づいていない女子のことである。もしくは、それを認めることができない屈折のことである。

 よしながふみを語るに当たってまず避けられないのはボーイズラブだろう。よしながふみはボーイズラブ誌で漫画家デビューした漫画家であり、同人誌での同名義での活動は古くから知られている。ボーイズラブは最近では主流とも言えるジャンルであり、若い女性を中心に購買層が確立されている。ボーイズラブとは男同士の恋愛を描写するジャンルであるが、現実的な同性愛描写とは掛け離れ、女性が読みやすいようデフォルメされており、一種のファンタジーだと言える。

 『少女コミック』を代表として、昨今の少女漫画は性描写が過激である。一昔前はレディースコミックでしか許されなかったような描写が、今は小学生の買う少女漫画に盛り込まれている。それと同じようにして、ボーイズラブも性描写が過激である。レディースコミックの立場がない程、近年の少女漫画とボーイズラブの性描写は甚だしい。

 それでは年端のいかない少女たちは何を買っているのかというと、何食わぬ顔で露骨な性描写のある漫画を買っているのである。内容は過激になれど、いつの時代も少女漫画は少女の望むようにできているのだ。少女漫画が少女らしかぬ方向へ向かったのではなく、そもそも少女というものが少女らしかぬものだったのだ。思春期に差し掛かれば誰だって、性的興味を持ち性的興奮を得ようとする。しかしまだ少女たちは夢のように恋愛に憧れている段階であり、自分が現実の異性と付き合っているビジョンを持たない。その齟齬を埋めるための手段が、少女漫画でありボーイズラブという娯楽なのである。

 ここで一つの選択がある。少女漫画を読むかボーイズラブを読むかである。その差は予想外に些細なものだ。女の主人公に感情移入して相手役の男と恋愛をするのか、男の主人公に感情移入して相手役の男と恋愛をするのか。ノーマルとアブノーマルの差は歴然としているようだが、前述のとおりボーイズラブは一種ファンタジーであり、設定が男であるだけで見た目の絵柄は女子となんら変わりないことも多い。ボーイズラブは少女漫画の中の一派といって差し支えないだろうと私は思う。要するに、設定として男であるのを選ぶか、女であるのを選ぶかということである。

漫画に限らず全ての話は、読み手は何らかの登場人物に感情移入をして話を追う。その際、読み手はその感情移入をしたキャラクターを演じているといっても過言ではない。普段意識せず私たちは様々な物語を読んでいるが、面白いと感じる作品には必ず感情移入をしているのである。

 恋愛少女漫画を読むというのは、自分が主人公になって恋愛を楽しむということである。言ってしまえばそうである。現実では実現しそうにないドラマチックな恋愛を、主人公に乗り移って仮想体験をするのである。だからこそ少女漫画の主人公は皆瞳が大きく可愛らしい容姿をしていて、相手役の男子は背が高く運動神経がいいのである。ご都合主義がそのまま少女漫画の原点なのである。

 ご都合主義が原点であるのに、しかしながらボーイズラブは都合が悪い。少女が乗り移る媒体が男というのは、どうにも決まりが悪い気がする。何故素直に少女は少女の主人公を選ばないのだろうか。無理をして男の主人公を演じたいと思うのだろうか。

 それは照れがあるからである。少女漫画を読む、=主人公の少女に感情移入をするのが恥ずかしいのである。何故なら、少女漫画の主人公は少女でありながら『女』だからだ。男に恋をし男に抱かれ、自分が『女』であることに対する葛藤のない、少女の皮を被ったれっきとした『女』だからである。まだ自分自身が『女』だと気づいていない、もしくは認めたくない少女たちが、そんなものに感情移入できるわけがないのである。もしくは、そんな『女』に感情移入する自分というものを認めたくないのである。しかし彼女たちはその一方で、恋愛や性への憧れを孕んでいる。

 それらを両方組み合わせると、【『女』でない主人公で、かつ少女が感情移入でき、都合の良い男子と都合の良い恋愛をする話】、すなわちボーイズラブになる。『女』に感情移入が出来ないのなら、男にすればいいのである。もちろんボーイズラブの主人公の(もしくは女役の)男は記号的なものだから、感情移入するに難くない。『女』に憧れる自分を許せない・許したくない少女の読み物としては良く出来たジャンルだろうと思う。

 よしながふみもまたボーイズラブの愛好者である。デビュー後何本もボーイズラブ誌や同人誌で作品を発表している。彼女の描くボーイズラブは前述した世界観とは少しずれている(女のような男をあまり描かない・ご都合主義ではない等)が、美青年同士の恋愛をクローズアップしている点で王道のボーイズラブだといえる。

 デビュー後数年はボーイズラブ誌を主に活動してきたが、『西洋骨董洋菓子店』を契機としてよしながの描く世界観は広がり始めた。『西洋骨董洋菓子店』はケーキ屋で働く四人の男たちを描いた非・ボーイズラブ作品である。

 今までよしながの描いてきたボーイズラブ漫画は、主人公二人の関係性で終始していた。それは漫画の画面描写にも現れており、例えばデビュー作『月とサンダル』のコマのほとんどは登場人物の表情の描写のために使われている。恋愛を描くに当たって最も重要であるものが感情であり、それを漫画で表現する為には微妙な表情を描き分けることが肝要とされる。

 駄作多しと言われるボーイズラブ漫画界において、『月とサンダル』は秀作だと私は思っている。それは映画のカットのような秀逸なコマ割によるところが大きい。作中の主な登場人物は主人公の少年と、彼の片思いの相手である先生である。前述のとおりこの作品は人物の表情で話が進んでいく。大まかに分けると、先生の表情(ズームアップ)のコマと、それを見ている主人公の表情(ズームアップ)のコマ、そして彼らを俯瞰(ズームバック)で読み手に見せる説明コマの三つである。

この中で最も秀逸なものは先生の表情を描いたコマだ。大概の漫画は主人公がいても主人公の目線では画面を進めない。簡単に言えば、主人公はあくまでキャストの一人であって、主人公は神的なもの(=作者)によって撮影され表情や仕草を自然にコマの中に収められているのが普通だ。

しかし『月とサンダル』において、主人公はカメラマンの一人だ。作中の先生の表情は、すべて主人公の撮ったもの(主人公の眼で見た先生の表情)である。そしてその主人公が「どんな表情で」先生を見ているのかということが、神的なもの(=よしながふみ)によって描写され、読み手側は主人公の主観的な目線を読み取りつつも、読み手としての客観性を損なわずに読み進めることが出来る。

この構造は恋愛漫画として見事である。主人公が先生を「見ている」という行為を絵によって伝えることで、仰々しい台詞ひとつなく「片思い」を描写できているのだから。『月とサンダル』は後に数本の続き話があり、よしながの他ボーイズラブ作品も質の高い作品が多いが、コマの巧みさといった点で今作品を上回るものはないだろう。デビュー作にして、傑作である。

『西洋骨董洋菓子店』はシチュエーションが取り沙汰された漫画だ。男四人のケーキ屋、という設定のもと話が進んでいく。誰かと誰かの関係性が重視だった『月とサンダル』等のボーイズラブ作品とは趣向を変えている。『西洋骨董洋菓子店』には様々な人物が登場するが、誰かと誰かが付き合った別れたなどという判りやすい人間関係はない。人物たちはそれぞれに皆問題を抱えているが、それを解決していくドラマではない。ただ特定の場所にいる、特定の人たちの特定の時間を単行本四冊分描いた作品である。

それを描くにあたって、よしながの得意とされた表情重視のコマ割は方向転換をしている。一巻の時点では白かった背景や、大きかったコマ割が最終巻では息を潜めている。

『西洋骨董洋菓子店』を書き進めるにつれよしながは、「表情」よりもその先にある「状況」までも描写するようになった。「状況」というのは明確な現実感のことだとも言える。恋人同士の間の感情だけを思うボーイズラブにおいては曖昧にしておいた現実感を(ボーイズラブが一種のファンタジーであるのは前述の通りだ)、ここで漫画の中に取り入れたのである。それを契機としてよしながは、単なる「人間関係」ではなく「あるコンセプトのある物語の中における人間関係」を描くようになった。それが最新作『大奥』や『愛すべき娘たち』、『フラワー・オブ・ライフ』に繋がってくるのである。

自らの女性性を否定するものがボーイズラブに走ると前述したが、もちろんそれが全ての人に当て嵌まるとは限らない。しかし、少なからず、もしくは無意識に自分の性に抵抗を感じた思春期を体験した人が多いのではないか。もちろんそれは決して特殊なことではなく、「男の子になりたいと思った」ことがある少女はいくらでもいるのと同じことだ(ほとんどの少年が何の抵抗もなく男性になるのに対して、どうして少女は女性になるのを拒むのだろう)。

ボーイズラブの作家が描く少女というのは具体的だ。おそらくは、自分の「性に抵抗を感じた」経験が無意識に軸となっているからなのではないかと私は思う。自分の性について悩むということは、自分の性についてきちんと向き合っているからである。ジェンダーを意識しているということである。よしながふみは『女』を「見る」ことに長けている作家であると私は思う。

ボーイズラブ出身漫画家の榎本ナリコ(野火ノビ太)は『センチメントの季節』という少女を取り扱った作品を残している。『センチメントの季節』は青年誌に連載された性描写を含む作品であり、思春期の精神と肉体の齟齬による悲しみが綴られている。自身が思春期に感じただろう感情を時代を超えて描写している。

よしながと榎本を同じように捉えるには若干共通点が少ないが、しかしボーイズラブ出身者がやがてジェンダーに関する作品を手がけるようになるというのは興味深い。やはりボーイズラブと女性性の関わりは密接なのではないだろうか。よしながふみは『大奥』で第五回センス・オブ・ジェンダー特別賞を、榎本ナリコは『大人は判ってくれない 野火ノビタ批評集成』(評論)で第二回センス・オブ・ジェンダー特別賞をそれぞれ受賞している。

よしながふみが『女』を描く、と聞いた時私は期待に胸弾んだ。必ずや面白い作品になるだろうと思った。予感も的中し、『愛すべき娘たち』は私の中でよしながふみの傑作中の傑作となった。

よしながふみの描く女性は総じて知的だ。それは男性にも言えることだけれども、女性は殊更そうである。たとえ筋の通らない結果を招いたとしても、その筋の通らなさに筋が通っている。決して強いわけではない。だが、誰も彼も背筋のしゃんと伸びた大人の女だ。

『愛すべき娘たち』の中で私が特に印象深いのは第一話と第四話だ。先に第四話の話をしようと思う。
女性の社会進出について語らう女子中学生たちのシーンが挿入される。「後に社会進出してくる女性のために、定年まで私は民間で勤め上げようと思っている」と語るのは牧村だ。彼女に触発され、後々までその言葉を信じていた佐伯という少女が、今作の主人公である。

佐伯は編集者になりたいという牧村を応援し、夢を持つ牧村を尊敬していたが、中学を卒業後牧村は道を踏み外していく。高校を中退し、定時制もやめ自活を始めた牧村を佐伯は当初応援していた(だがおそらくはひっかかりを感じていた)が、大検を受けるという話もいつしか消え、牧村の編集者になりたい夢などとっくになくなっていた。佐伯は耐え切れず、民間で勤め上げて後々の女性の為に頑張ると言ったではないかと感情を吐露する。牧村から返って来た言葉は「佐伯はまだ子供だね」という一言だった。

それから音沙汰無かった二人だが、ある日佐伯は牧村が父親から性的虐待を受けていたのではないか、ということが思い当たり、牧村に連絡を取る。すると牧村は実業家と結婚して幸せになっていた。専業主婦として暮らしているという牧村に、牧村が幸せならばそれでいいという佐伯。

その後佐伯の家に中学時代の友人(女性の社会進出について語り合った)からハガキが来る。そこには家庭内の男女平等はうまくいかないけど仕事を止めずに頑張っている、というメッセージがあった。

よしながふみが描く女同士の友情は、片方の一方的な憧れの目線を含んでいる。少女が少女に抱く憧れを細やかに描写している。佐伯は間違いなく牧村に憧れていたのだと思う。だがもちろんネームにはそんな説明はどこにもない。何故それが読み手に伝わってくるのかといえば、それは佐伯が牧村を「見ている」からである。

『月のサンダル』の手法がここで生きてくる。牧村が微笑んだり生意気な顔をしたり夢を語る時、必ず佐伯がそれを「見ている」コマが挟まれている。特に派手な反応をしているわけではない。だがしかし必ず「見ている」のである。そして牧村がドロップアウトをして男関係に荒み生活に荒んでいく表情を、佐伯は「見てしまう」のだ。『月とサンダル』ほどマン・ツー・マンのコマ割(やや主観的)ではないが、主人公の目線を通して描く主人公の憧れの人、というのが共通している。

この話よりも後に執筆された『フラワー・オブ・ライフ』という学園物の漫画でもよしながは女同士の友情を描いている(♯11)。学園コメディであるので重たい友情ものではないのだが、やはり一方の想いが偏っている話だ。坂井というだらしのない少女が、学級委員の山根がクラスをまとめるのを「見て」、そして山根が授業中に消しゴムをきれいに使っているのを「見て」、自分にはない能力を持った山根を尊敬し憧れるというストーリーだ。

よしながふみは漫画特有の手法によって、言葉では表せないシーンを作ることに長けている。それは1ページを丸まる使った独特の静止画にも代表される。『愛すべき娘たち』第四話のラストカットもその手法が使われている。ハガキを読んで顔を手で押さえて立っている佐伯の横顔の上に、「あの時話した○ささやかな夢を○かなえる事のできた○友達が○ちゃんと○いてくれたんだ」(丸以下改行)というモノローグ。この読後感は他の媒体では得られないものだ。その物語の完全なラストショットを持つことで、その物語が決して錆びることがないだろうと感じさせる。

「私の母は美しい人だった」で始まった五本のオムニバスを締め括る、最終話のラストショットが「ふふ」と笑う還暦間近の母親だというのは巧いとしか言い様がない。まるで現代の神話のようによくできた作りである。

表題作の第一話は娘と母親の話だ。『女』を書くに当たって思いついたテーマが母娘だったというのが素晴らしい。『女』というものを突き詰めて考えていけば、どうしても自分の母親という世界で一番高い壁にぶち当たる。主人公は長年二人で暮らしてきた母を、再婚した若い男に取られたと感じ、家を出る決意をする。母たちの年齢差や家族が増えたことの戸惑い、様々な理由はあれど、結局のところ主人公が嫌だったのは母が他の人のものになってしまったことただ一つだったのだ。「ずっとあたしだけのお母さんだったのよ」という台詞は使い古されたもののように聞こえるが、これほど切ない別れは少ない。

娘は母の良しも悪しも「見ながら」育つ。その末に心にこびりついた印象(冒頭のモノローグ)が、「私の母は美しいひとだった」であることは、よしながふみの描く母娘の世界観を象徴しているだろう。
  そしてもう一つ、物語序盤で語られる主人公のモノローグがある。「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」。『女』というものに向き合ってきた作者が導き出した、輝くような台詞である。

 ボーイズラブを原点とし、「女というもの/男というもの」を露骨にではなく描いてきた作家・よしながふみの最新作『大奥』は、より一層ジェンダー色が強まっている。男女逆転大奥、と銘打たれたこの作品は、その発想を奇抜の一言では片付けられない。

 『大奥』は徳川家三代徳川家光の時代に男ばかりが罹る疫病が流行し、男子が激減し世の中の流れが男女逆転してしまうというSF作品である。女たちは遊郭に男の種を買いに行き、かつて男たちのものであった仕事はすべて女に引き継がれてしまった。江戸の核たる徳川将軍も例外ではなく、三代将軍家光の死去以降、将軍職は女に継がれていく。それに伴って美女三千人と噂された江戸城大奥も激変し、美男三千人が侍る男の園が作り上げられた

 『大奥』第二巻は家光亡き後、唯一の家光の血を継ぐ子(家光が市中で強姦を働いたときに出来た子)が父親(家光)の振りをさせられ、次の子(家光からみて孫)を産むまでの「つなぎ」とさせられるという話だ。千恵姫(家光の子)は自分の出生のことは何一つ知らず、平凡に明るく暮らしていたが、ある日現れた春日局に強引に江戸城へ連れて行かれる。突然顔も知らない父親の変わりをさせられることになった千恵姫は、長かった髪を切られ髷を結われ、男装を強いられてしまう。城内の男に強姦され千恵姫は意図せずして娘を出産するが、赤ん坊は息をすることなく亡くなってしまう。

 その数年後、大奥に強制連行されてきた僧・有功は、好き放題に振る舞う上様(千恵姫)に疑問を抱きながらも影ある様子に惹かれていく。ある日口答えをした有功に苛立った千恵姫は、有功らに女装をさせて踊りを躍らせる。余りに滑稽な図に笑い狂う千恵姫。有功は自らが同じ立場に立たされて初めて、自らの性を踏みにじられることの悲しみを知るのだった。

 「らしさ」という言葉を思い出す。昨今では、「女の子らしい」「男の子らしい」という言葉は差別的で旧社会的な言葉になってしまった。「らしさ」に捉われない、中性的魅力が取り沙汰されるようになった。だがしかし、「女の子」が「女の子らしく」、「男の子」が「男の子らしく」振る舞うのはいけないことなのだろうか? 「らしさをやめよう」という、無理矢理な方向転換のせいで、いつの間にか「女の子らしく」「男の子らしく」あることが物足りないようなつまらないような、そんな世の中になってきているのではないか。

 当初の有功には女子でありながら男装を強いられている千恵姫の心情などはわかりもしなかった。有功が冷たい人間だからではなく、そのことが持つ意味を想像だにできなかったのだ。しかしながら、自分が女の着物を着せられる側になって初めて気づく。『男』の身ぐるみを剥がされるのがこんなにつらいということを。

 ジェンダーを扱いながらも、よしながふみは決してフェミニズムに傾倒してはいない。男女を問わず、『自分の性』を認識し大切にすることの重要さを描いているのだ。前述した「らしさ」についてだが、もちろん「女の子」が必ずしも「女の子らしく」あれというわけではない。それでは前時代的発想になってしまう。そうではなく、皆平等に「女の子」は「女の子らしくある権利」、「男の子」は「男の子らしくある権利」があるということだ。その権利を使うも捨てるも本人次第だ。だが決して第三者が強引に与奪してはならない。『自分の性』を自分で守ることの難しさを、『大奥』二巻にて私は読み取った。

 あらゆる引き出しを出し入れしながらも、よしながふみは作品の根底で『性』というものを丁寧に扱っている。ボーイズラブに惹かれる少女の『性』、女という生き物の『性』、男と女の異なる『性』。漫画家として彼女はこれからも進化を遂げていくだろう。また新たな作品に期待すると共に、『大奥』の今後を見届けたい。

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