▼2006年度 早稲田大学後期末レポート

楠本まき『T.V.eye』について(陸川 愛)

【解題】
陸川愛さんが対象にした楠本まき『T.V.eye』は、僕が講義のなかで扱ったものだ。そのとき、僕はチラッとこの作品とボーイズラブの類縁を仄めかした記憶があるのだが、展開はしなかった。陸川さんはそこを見事についてくる。いわばこれは、ボーイズラブと境を接しながら、ボーイズラブとは異なるものである、と。とりわけ人物(キャラクター)の画像分析が素晴らしい。楠本がキャラクター造型を通じて、少年性・中性性をどのように作品に手に入れているのかが詳細にわかる。
 この彼女のレポートに、例によって補助線を引いておこう。楠本まきの文学気質は、ネームを断片化し、それら自体を詩的な独立性に変化させる。とうぜん詩性は「それ自体」と「それ自体以外」を同時に含むものだから、彼女が描くキャラクターも「相即的に」いわば無重力的折衷を志向するはずだ。たぶん、楠本の描く少年キャラクターはそのようにして中性性を手に入れるのではないか。これを欠性の発露と捉えると「未成熟」の語が割り込むのだが。
  同じ楠本の『Kの葬列』を考えると、楠本には同時に、たぶん「女性嫌悪」の精神性があるともおもう。なぜそれが倦厭されるのか。答は簡単だ。それは楠本にとって「それ自体」だからだ。
 『T.V.eye』はたぶん、「余白」の設定によって、味わい深い短篇になっている。この作品の最重要設定は、少年たちの共同生活とともに、「イサオ」の片目がTV電波を受信し、眼底にTV画像を見てしまうがゆえに、その眼が眼帯で封印されているという点だろう。「イサオ」は対立グループの急襲によって死ぬ。すると少年たちが共同生活をしていた倉庫内に、ナム=ジュン・パイクの環境TVのように詰まれた受像機群が、サンドストームを映すだけとなる。提示されたのは、一種の終末像だ。
 上述したことから自明なように、「イサオ」には、「それ自体以外」としてサイボーグ性も付与されている。つまりこれは、機械と人体の結婚や、「受信」の無媒介性を語るべき物語のはずなのに、物語上はそのオトシマエがつけられていない――そんな判断になるかとおもう。そしてその周辺に「壊れた冷蔵庫」「それが放つ腐臭」――そう、「機械の本源的な失調」もあるのだが、そのあたりもまた物語の結末に曖昧に溶け込んで、結果は規定不能な「余白」だけが残ることになる。だがたぶん、それがこの作品の「味わい」なのだ。なぜなら、「余白」が最も「それ自体」と「それ自体以外」の混合の最たるものだからだ。楠本マンガの組成の秘密は、いま僕がした示唆によってこそ解かれるだろう。
  さて、この『T.V.eye』はイギー・ポップの同名曲にインスパイアされたものらしい。「らしい」というのは、僕が原曲を知らず、判断がつかないためだ。原曲はイギーのどのアルバムで聴けるのだろうか。誰か教えてほしい。
(阿部)

楠本まき『T.V.eye』について(陸川 愛)



少年性/中性性/動物性
       ――楠本まき『T.V.eye』について

表現・芸術系専修4年 陸川 愛


 まず、個人的な体験の話をしようと思う。ちなみに、思い出話であるから文が乱れることもある。

 物心ついたときから漫画やアニメを見て育ってきた、が、いつの頃からかある違和感に悩まされている。なぜだか漫画をすっきり読めないその感覚は年をとるごとにくっきり浮かび上がってきた。どの漫画にも感じるわけではなく、主に少女漫画に抱くことが多いその違和感は、どうやら登場人物の年齢設定に対して生じるらしい。自分の実感から考えると漫画の登場人物は設定が若すぎるように思えてならない。

 その年に達する前は見過ごせるから気にならなかった。実際に、たとえば小学生のとき、中高生は大人に見えていたのだから、漫画の主人公が中学生や高校生にして大層な恋愛をしても、ドラマチックな人生の転換を体験しても、世界を革命しても、どんなにかっこよくても、しらけた気持ちにはならなかった。が、その年齢を追い越して読み返したときに起こる失笑・苦笑は、いたい。しらける。それでも、そう思う年になる頃には、漫画に対して抱いているイメージも期待するものも変わっているからショックというほどのこともないし、その「いや、こんなことは有り得ないだろう」的な感覚を楽しんでいることもあるから、それ自体は悪いことではない。

 さて、私の場合その年齢のショックが一番ひびいたのが楠本まき作品だった。

 初めて読んだのが確か小学生の頃で、四つ年上の姉の友人から借りた『kissxxxx』全五巻。当時同年代が読んでいた漫画とは異質な画質にひと目で惹きこまれた。あの頃、同年の女子の間で漫画というと、主流は『りぼん』『なかよし』の目がきらきらと大きく強調された童顔と、頭身無視の細長い手足のキャラクター、トーンは多彩で画面に占める割合も多め。に対し、楠本まきは細い線描きと、トーンや描きこみの少ない白と黒のバランスのよい画面。そこでゆったりと綴られる綺麗なものとことの日常(ただし、実際には非日常的なキャラクターと行動)のストーリーの羅列は新鮮で、早熟で芸術好きだったと思われる私の感性にぴたりとはまった。

 高校生になって『kissxxxx』に再会したときにもきちんと、むしろ前以上に深い主題まで見えてきて、やはりはまった、が、ただひとつ年齢のことがわだかまったのだった。私はヒロイン・かめのちゃんの年になってしまっていた。自分の周りも見回して、かめのちゃんもその恋人カノンくんも見当たらない。むしろ、いるはずがない。

 漫画を読んでリアルに呆然としたのは、いまのところ、あれが最初で最後だと思う。楠本まきの芸術的でさえある漫画世界はやはりフィクションで、あの夢見たスタイリッシュさはやはり夢なのだな、と、思ったのは、自分の中ではほとんど悟りのような気持ちでもあった。馬鹿ではないつもりなのでそんなことはわかっていたのだけれど、理解していることでもそれを体で知ることは、いつも大きな衝撃に感じられる。

 そんな思い出を踏まえて、楠本まき『T.V.eye』(1993年発行・集英社)を考察してみたいと思う。
 

【あらすじについて】

 『T.V.eye』は、右目に眼帯をした少年・イサオが因縁をつけてきた男を公衆便所で痛めつけているシーンで始まる。イサオはその帰り、猫と金髪の少年を拾う。メインのキャラクターはこの二人であるが、イサオの倉庫然とした住処にはこの他三人の少年がいる。計五人の若者の生活が描かれるが、それはただみんなでテレビを見ていたり、コンビニでの万引き、ビールに煙草、というありがちなモチーフが満載された、ストリートくさい生活である。

 夜中に金髪の少年が語る、日替わりの五人の父親たちのエピソードも現代の冷めた青少年像をそこに確立している。しかし、その中ににはさみこまれたごく小さなエピソード、例えば、食料がないときにマルチビタミンのタブレットを「コーンフレークみたいに」食べられないかと思ってビールをかけて食べてみるだとか、イサオが眼帯をしているのはテレビの見すぎで目がテレビ電波を受信するようになってうるさいからだとか、そういった楠本まき特有の奇妙な空気が、この陳腐になりそうな少年たちの共同生活を特異で非現実的なものにしている。

 この生活はイサオの死によって終わる。冒頭の痛めつけられていた男がグループでイサオをリンチして殺すのだが、その死は住処のテレビが壊れることで象徴的に描かれる。その後、残された四人がテレビをイサオに見立ててガソリンをまき火葬にして、復讐の為に住処を後にする場面で幕切れとなる。

 こう見ていくと血気盛んでどこか冷めているいわゆる少年期を描いた作品に思えるのだが、白と黒の非現実的な世界観と、淡々として感情をどこに移入すればいいかわからない雰囲気があり、少しずれている印象がある。

【少年性について】

 少年期という言葉を使ったが、『T.V.eye』はその少年性が特徴である。五人の少年は、少年と書いてきたがおそらく二十歳前くらいの少年という上限の年であろう。しかしその描写から見ていくと、やはり彼らは少年なのである。行動と外見と、二つの少年性があるが、ここからあえて外見を後に回し、行動の少年性を先に挙げる。

 不良少年の行動として、徒党を組むことがある。『T.V.eye』の五人もまたそれである。これについて、金髪の少年が彼らの仲間に入るために体のどこかに傷をつけなければならないという秘密結社的な儀式を通過する。(→p.18~20)

 次に、彼らの住処が使われなくなった倉庫のような場所で、そこにテレビや毛布を持ち込んで雑魚寝する生活を送っているが、これは少年がよくやる秘密基地の延長にあたるものであろう。

 また、最後のシーンで、イサオの死をテレビを火葬にすることで弔う四人の腕に黒い腕章がつけられていること、鉄の棒と思われるものを手にしていることに着目する。(→p.44~46)

 そこに提示されているのは四人で団結した復讐の意思である。これも不良少年ものではよくあるパターンの終わり方である。徒党を組むことはそのまま少年期の象徴でもある。

 次にその外見について見ていく。まず、スタイリッシュな彼らが実はみな童顔であること。細面で頭が細長く、顔(目・鼻・口の部分)が下半分ほどにおさまる。よって髪の部分が異様に大きくなり、童顔の特徴を備えた顔になる。楠本まきの絵の特徴である。(→例p.15-3コマ目金髪の少年、p.19-金髪の少年、p.25-1コマ目イサオ、など)

 次に筋肉が未成熟な身体がある。これも楠本まきの絵ではすべてあてはまるが、『T.V.eye』では上半身を露出した絵が多いので余計に浮かび上がってくる。腕も腹も筋肉の厚みは一切ない、中性的な描かれ方をしている。中性的な、あるいは性の分岐前、少年的なと言い換えることができよう。(→例p.10-カラーイラストの腕、p.12-2コマ目イサオp.15-金髪の少年、など)

 首が長いこともこの特徴に並べて見たい。細い線で描く上に筋肉の厚みがない体が細長くなり、その上に細く長い首がある。それは十代後半の男の首ではなく女のなまめかしいうなじの方が近いのである。彼らに性別を持たせない要因のひとつである。(→例p.17-イサオの後姿、p.19-1コマ目金髪の少年の後姿、など)

 さてここで見てきたものによって、デッサンとしては狂っているのだけれど、細さによってあらわれる少年性の強調を感じる。では少年であることは何を意味しているのか。そこに性の感覚の欠如がある。
先に挙げたが、『T.V.eye』では裸の上半身が多い。服を着ていても襟元が大きく開いていたりして、首から鎖骨にかけて露出している。また、ボタンを留めないでズボンをはいていることも多い。(→p.20-2コマ目黒髪の少年、また作中、イサオ、金髪の少年は全てボタンを留めない)

 しかし、ここにセクシャルがあるかというと、ないように感じる。それこそが『T.V.eye』の少年性の帰結するところではないか。先に見てきた身体的特徴は男の厚みを排除しつくしている。細く長く強調された体を持つ彼ら、そのズボンは前を開いたところで性器の厚みもまた持たない。中性化することで起こる性の感覚の欠如と、モチーフとストーリーの男性性、この二つが『T.V.eye』について思考するメインとなる。

【ボーイズラブについて】

 性の欠如と五人の不良少年とを結びつけたときに見えてくるのは、きわめて女性的な視点からの幻想ではないだろうか。ここに描かれているのは女が抱く幻想としての少年であろう。これはボーイズラブを好む精神と同じくするものである。

 女性がいわゆるボーイズラブ(少年同士の恋愛関係)を好むのは、自分を安全な場所において性愛に触れられるからだという説が一般的であるかと思う。これでいうと、ボーイズラブを好むのは、性に興味がありそれで遊びたい気持ちはあるが自分の身に置き換えられることに嫌悪する女性である。嫌悪の理由としては、性行為への嫌悪や恐怖あるいは憂鬱、自己の欲望の否定などが考えられる。また、ボーイズラブを好むメリットを考えると、男性に自己を置き換え女性としての弱さを脱却することや、欲望の主体となれることがある。どちらにしろ、男女間の性愛では遊べない、いわば少女的な嗜好である。

 このような思想を受けてボーイズラブで描かれる少年像というのは、本来、中性的な美少年であった。最近では多様化が進んで一概には言えないが。この本来の少年像は『T.V.eye』の少年と同じものではないか。性の分岐の前の状態におかれ、中性感と幻想感が生まれる。この現実感の欠如によって、描かれた性は操作可能なもの、創作物としてのもの、になり、少女的な性愛好者にも安心して見られるものになるのである。

 『T.V.eye』ではきわめてボーイズラブ的な特徴をもちながら、先に述べたように性の感覚は失われている。象徴的なのが、五人が固まって丸まっているカットが作中見られるが、ボーイズラブでは欠くことのできない性的な意味がこちらにはない。(→p.21)

 五人はみな同じ方向を見ていて、お互いを意識していない。どちらかというと動物の群れに近い印象である。同じ種類のものが集まって安心を生み出しているという印象。

 楠本まきの一般と異常の境界的なバランス感覚がそこに集約されているように感じられる。ボーイズラブは明らかな異常の側であり、男性や正常な性に抵抗を持たない女性には通用しない観念である。

 『T.V.eye』はそれに極めて近い異常さを持ちながらも、性愛には踏み込まない正常の世界に踏みとどまった作品である。この後、最近の楠本作品は自傷表現が多く使われるようにもなり、より異常な世界に近付いていくという見方もできよう。それでも一線を越えない場所に在るのは、作品の芸術性や、他の漫画と区別された独自のスタンスでの発表、そういった楠本まき固有のバランス感覚のなせるものと思う。

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