▼2006年度 早稲田大学後期末レポート

二階堂正宏『極楽町一丁目』について(原 弥咲)

【解題】
原弥咲さんがレポートで扱った『極楽町一丁目』については僕は未読だ。ただ、原さんの適確なレポートによって、作品の実質がよくわかった。これはたぶん、ギャグマンガの新時代を告げる画期の作品のひとつのような気がする。その確認をとどめておくためにも、この素晴らしいレポートをアップさせてもらった。
 嫁と寝たきり老婆の壮絶な格闘を、「ありがちな」嫁・姑問題の外装に包んで展開されるこの「ブラックユーモア」作品『極楽町一丁目』は、そのブラックユーモアぶりによって画期的なのではないだろう。「ブラックユーモア」を「緩和」させる、「沈黙」「線の端的さ」、さらには「定番(パターン)形成」、そして最終的には、「お笑いコントへの参照性」のほうが画期的なはずなのだ。
 マンガのギャグでは、作者の仕掛けと読者の読解に「競争」が起こるのが常だ。読者はそのマンガのギャグ法則を学んだからこそ、そのマンガをとりわけ(一旦は)笑う。ところが自分の学習の記憶をすぐ蔑ろにし、自分に創発性があると錯覚、既知と未知をも取り違え、作品のマンネリを「批評」「批判」する。作品の内在法則の読解だけで、他の書物との連なりを度外視して「作文」書評を書く手合いと同じだ。そうして、とくに「笑い」を武器にしたマンガが短期間に必然的に炎上を起こしてしまう。
 となったとき、炎上の制御装置こそがギャグマンガの内在法則に求められることになる――それが「マンネリズム」「パターン」なのだった。それは作品自体が自らの策謀や優位性を自笑し、自分のインフレ化にストップをかけることであり、読者を自身の発する痴呆性で染め上げる悪逆なのではないか。笑いの創発よりも笑いのマンネリのほうが、笑いの進化論では未来にある。ただ、その「運用」がすごく難しい。それでたとえばテツ&トモや安田大サーカスみたいなタイプが悲惨にもすぐに陳腐化してしまう。
 そういった普遍法則について、この原さんのレポートを読んでとくに思い至った。おわかりのように、原さんのレポートでは、マンネリの「運用」がどうおこなわれるべきかが、即物的に示されていたのだった。その答はすでにこの解題中に書いてある。「沈黙」「線の端的さ」だ。むろん『極楽町一丁目』に具体化してのことだが。
  いや、具体化と書いたが、普遍的な事柄と呼ぶべきかもしれない。むろんわれわれはたとえば「沈黙」のギャグ王、バスター・キートンを映画史の絶頂部分にもってもいる。

(阿部)

二階堂正宏『極楽町一丁目』について(原 弥咲)



静かさと笑い
       ――二階堂正宏『極楽町一丁目』について

第二文学部 表現・芸術系三年 原 弥咲


 「お義母様が寝たきりになってから5年…死ぬほど疲れたァ…。」

 黒髪の憂いを含んだ女性が、布団で横になっている老婆におかゆを持ってきて食べさせてあげる…と思いきや、いきなり包丁を枕元に突き立てる。飛び散るおかゆ、華麗にジャンプする老婆。そのまま老婆は包丁を奪い取り、女性を思いっきり投げ飛ばす…。牧歌的なタイトルと優しげな色彩で描かれた表紙からは想像しにくいが、この漫画は寝たきりになった姑とその世話をする嫁の戦いを描いた、壮絶なブラック・ユーモア作品である。

 『極楽町一丁目』はシリーズとして『新・極楽町一丁目』『極楽町一丁目界隈』『裏・極楽町一丁目』などがあるが、今回はその一番最初の作品で舞台化もされている『極楽町一丁目・嫁姑地獄篇』を取り上げ、作品全体に流れるブラック・ユーモアとナンセンスについて考えようと思う。

 まずページをめくると、表紙にも描かれている黒い服を着た女性、嫁の「のりこさん」が部屋で座っている絵が出てくる。この絵が上手い。とても少ない線で背景を描写しているにもかかわらず、ここが和室で、外には庭木が生えているのだということがわかる。そして同じように少ない線で人物の体を描き、肩口を大きく出す黒い服を着せることによって、人物の女性らしさを際立たせている。肩の少し上くらいで切りそろえた真っ黒な髪の毛を少しほつれさせて、睫毛を長く描いて眉毛を下がりぎみにすることによって憂いを含んだ表情にし、のりこさんを線の細い、日本的な美人だなと読者に印象付けさせている。

 更に次のページをめくると、布団を被って横になっている人物が現れる。これがのりこさんが世話をしている寝たきりの「お義母さま」である。目と眉毛を細い一本の線で描き、のりこさんと違って髪にベタを塗らず、顔に皺を増やしてあることでこの人物が老婆なのだなとわかる。また「いつもすみませんね ゴホゴホ」というある種お決まりのセリフをふきだしで言わせることで、この老婆が体が弱いということをたったの一コマで表現している。

 この漫画ではトーンが使用されている所はない。あっても背景が薄墨で塗られている所がぽつぽつと存在する以外は、殆どベタと少ない線、点で描かれている。非常にシンプルである。コマ割りやアングルは特に変わったところはなく単調。人物、特にのりこさんの表情もあまり変化しないし、両者の心理描写が漫画内で語られる箇所はないので、画面に緊張感が現れない。非常にシンプルでのんびりとした雰囲気の、静かな漫画だ。

 だがこの「静かさ」というのは、『極楽町一丁目』のナンセンスな部分を際立たせている重要なポイントだ。読み進めていくと、普通におかゆを食べさせているコマの横に、のりこさんの顔のアップが描かれてある。表情は髪に隠れて見えず、なんとなく不安感を煽る。そして次のコマではなぜかいきなりのりこさんが、お養母さまの枕元に包丁を刺しているのだ。ここで漫画の展開が変わる。寝たきりのはずの姑は包丁での攻撃を避け、二人が乱闘するシーンが続く。そして最後は寝たきりのはずの姑がなぜか思いっきり嫁を投げ飛ばして決着をつけるのである。いままでの雰囲気にそぐわない展開に呆然となるのだが、それに拍車をかけているのがこの漫画の「静かさ」である。

 激しい乱闘をしているはずの画面には効果音もセリフも、二人の動きを表すような効果線も描かれていない。スピード感も緊張感も感じない。展開はやたら殺伐としているのに、漫画の雰囲気は静かなままなのである。憂いを含んだ表情のままで包丁を振り回すのりこさんと、どうみても病弱な細い体で相手を投げ飛ばしているお養母さまは、その非現実的な展開と静かな雰囲気の落差によってとても滑稽に映る。そうして乱闘が終わったあと、髪の乱れた嫁は飛び散ったおかゆを片付け、姑はごほごほと咳をして布団に入る。そんな馬鹿な、と言いたくなるくらいお互い全く何事もなかったかのように元の展開に戻ったところで話が終わる。

 映画やアニメ、ドラマというよりは、舞台上でのショートコントに近い作品だ。この最後の部分でこの漫画の「静かさ」が、前の乱闘シーンをより際立たせ、のりこさんとお養母さまのキャラクターを不気味な存在にし、作品全体を非現実的で滑稽な物に見せているのである。

 『極楽町一丁目』はこうした短い話が何話も集まってできている。その展開の殆どは、嫁が姑をあの手この手で殺そうとするがことごとく失敗し投げ飛ばされる、というものである。乱闘の最後でのりこさんが投げ飛ばされる図は、その前の展開も含めてパターン化されており、そこにはルパンⅢ世を捕まえようとするがいつも逃げられる銭形警部や、必ず最後に巨大化して怪物を倒す戦隊もののヒーローのような、ある種の様式美を感じる。それはこの作品をの笑いをブラック・ユーモアとして存在させるお約束のようなものであり、これがあるからこそ読者は安心してこの作品を喜劇として読むことができるのである。

 現実にいる寝たきりの老婆はジャンプして屋根を突き抜けたり、成人女性を投げ飛ばしたりしないし、一般人の女性が青酸カリやら硫酸やら砒素やらを入手するのは困難である。嫁が明らかな殺意を持っているのに何事もなく普段の生活に戻ったり、一緒に暮らしたりはしないだろう。これはフィクションなのである。非現実的だと読者が理解できるからこそ、寝たきり老人の殺人未遂という、現実には重い不謹慎な話を笑うことができるのである。

 もしのりこさんがお養母さまを本当に殺してしまうようなことがあれば、この作品はそこで終わりになってしまう。コメディだったはずの漫画は非現実から現実に近くなり、その根底から価値が崩れていくことになる。そこにはナンセンスもブラック・ユーモアもなくなってしまうのである。だからのりこさんというキャラクターは、この漫画がナンセンスブラックコメディとして続く限り、お養母さまを殺すことはできないのだ。

 この作品全体の構成を見てみる。のりこさんが座っている絵が最初に描かれている、二人が戦う、最後に二人が疲れきって無言で座っているコマが来る、という構図は殆ど変わらないが、毎回のりこさんは実に様々な方法で殺しに来る。包丁で襲うのは基本として、茶が飲みたいといえば硫酸入りのお茶を出し、魚が見たいといえば断崖絶壁の海の上から突き落とそうとし、花の咲く所に散歩に行きたいといえば首を絞めるというように、よくこんなに思いつけるというくらいにバリエーションに富んでいる。

 これだけではいくらパターンが多くてもマンネリになってしまいそうだが、そうならないように所々に乱闘にならない話をはさんでいる。苦しみ始めたお養母さまを見つけてとても嬉しそうなのりこさんや、布団をぎたぎたにしたあとに目覚めてのりこさんの夢を見ていたわ、というお養母さまなど、二人の確執がより鮮明に現れる話を描くことで、二人のキャラクターと関係性が薄くならないような配慮がされている。

 更に、作品の中盤から「外で世間話をするおばさん達」というキャラクターを加えることによって、家の中での嫁と姑の攻防という閉鎖された関係だけにとどまらず、それを新しい第三者の視点でとらえられるような話を随所に織り込んでいる。嫁と姑であるということ以外に重要な設定も出てこず、また二人以外の主要な登場人物が出てこないこの漫画において、二人の関係の描写や第三者の視点というのは、ともすればワンパターンになりがちなこの作品に奥行きをもたせる役割を担っている。これによって、読者が飽きることもなく、話自体も中だるみすることなく進んでいく。

 この作品では登場人物のモノローグが殆ど出てこない。たまに各話の最初で、のりこさんが「ホントに疲れたァ」というだけである。それ以外の心理描写はない。のりこさんはお養母さまのことを殺したいとも言っていないし、お養母さまがのりこさんのことを本当はどう思っているかも出てこない。二人が自分の気持ちを相手にぶつけるようなこともなく、非常に淡々としているが、これが非常に不気味である。上に書いたように二人は多くを語らないのだが、その行動には明らかに相手に対する悪意と殺意が潜んでいるからである。そして表面上はあくまで穏やかに相手との会話を進めることで、逆にその悪意の強さ、陰湿さを際立たせている。壮絶な戦いの後で日常に戻る二人の背中には、ぬぐいきれないほどの疲労を感じる。自分が相手に向かって出した感情を必死で取り繕って良き嫁姑関係を演じようとする姿は、傍から見ると非常に滑稽で面白い。

 こういった二人の状況を面白く感じることができるのは、それが私たちの日常でもよく起こるシチュエーションだからだ。お互いに相手の意図をわかっていながらわからないふりをして今まで通りの関係を続けていく。たまに本音が出てしまって慌てて取り繕う。馬鹿馬鹿しいなと思っていてもやめられない。そうした「よくある」関係性を、のりこさんとお養母さまというキャラクター、老人介護というシチュエーションを使って皮肉たっぷりに誇張し、記号化して描いてある。その滑稽さに思わず笑ってしまうのだが、何となく不謹慎だし、自分のことを笑っている気がして笑いきれない。二階堂正宏の描くブラック・ユーモアは、単にシチュエーションが残酷だとか、セリフの言い回しが面白いだけではない。読み手を滑稽な二人の姿に共感させて、自虐的な笑いを誘うブラック・ユーモアである。

 「わたくし何か気にさわることでもいいましたでしょうか」「いえ ただフトそんな気がしたものだから……」最後、いつものように暴れた二人は、台風が直撃したような惨状の部屋でこのような会話をするのだ。二人の間の畳には日本刀が刺さっており、それが嫁と姑の深い亀裂を表しているようでもある。下の方には「おわり…だが、嫁と姑の闘争地獄は、永遠におわらない」と書いてある。のりこさんはまた投げられるのだろう。

 ブラック・ユーモアはグロテスクな悪意と人間の愚かしい部分を誇張し記号化することでより洗練され、ナンセンスは繰り返しの様式美と、展開と雰囲気のギャップから成っている。二階堂正宏は、この二つと作画、そして魅力的なキャラクター達をもって、独特なシュールな世界を作り出した。何度も繰り返し読ませてしまう中毒性のある作品である。

参考文献:『極楽町一丁目』二階堂正宏/2006年/ソノラマコミック文庫

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