▼2006年度 早稲田大学後期末レポート

浅野いにお作品におけるリアルさ、欠落、円環性について(植松 朋美)

【解題】
僕が植松朋美さんの『虹ヶ原ホログラフ』論に感動したのは、作品がエピソードとする「胡蝶の夢」から老荘思想を精確に持ち出し、かつ、浅野いにおの作品中から人生肯定的な言葉をちゃんと抜き出している点だった。いま書いたのと順序は逆になるが説明しよう。
 若いラディカルなコミックファンの一部に、浅野マンガの道学臭を難詰する者がいるのを僕は知っている。彼らは、浅野が「知ったような絶望」を布置しながら、そのなかで希望を微妙なニュアンスで説くのが一種のパターンになっているというのだった。そして絶望/希望がこのようにして中間色で混ざるから、作品は一見現代的なリアルを獲得するようにおもえるが、それにもパターン的作為がつきまとっている――彼らはそのようにも主張するだろう。
 このとき、植松さんが引き出した老荘思想の本義が大きくものをいうことになる。いわく、「無為自然」。いわく、「万物斉同」。植松さんは老荘思想にあっては、善悪の二分法など片方が消えればもう片方も消える相対的なものにしかすぎないと見事に指摘する。その「消尽容易性」において、万物が「斉同」だということだ。つまりそこでは絶望と希望もまた等価となる。こうして魯迅の「絶望の虚妄なること希望に等しい」との連結点が見出される。
 この浅野いにおの思考の主調音を掴まえられれば、浅野マンガ特有の説話構造に赴くのも一歩の距離だ。そうして植松さんは、浅野マンガの織り成すストーリーラインが、ツリー型ではなく、円環型(むしろ「リゾーム=根茎」型というべきかもしれない)という示唆をおこなう。つまり根→幹→枝葉という中心創造型ではなく、世界の未知の細部がひたすらに「連接」を繰り返して、脱中心的、渾沌の全体像にいたるということ。これは何か。やはり、世界像から「絶対」を差し引き、そこに過激に「相対性」を付与する営みといえるだろう。
  では、なぜそのように作品が構想されるのか。その理由の分析は簡単だ。絶対的な世界像はそれ自体が誤っているし、そこに安住すればいっさい救いがないからだ。植松さんのレポートはその事実への覚醒を着実に導いてくれる。
(阿部)

浅野いにお作品におけるリアルさ、欠落、円環性について(植松 朋美)



浅野いにお作品におけるリアルさ、欠落、円環性について

第二文学部 文学・言語系専修 四年 植松 朋美


現在と過去の激しいシャッフル。時空間の断絶。語られる事と語られない事。円環性。浅野いにおという漫画家について私は名前も知らなかった。彼の『虹ヶ原ホログラフ』という作品を、講義を受けた後で読んだ事もあり、講義中クローズアップされていたような具体的な箇所について注目しながら読む事が出来た為、この作品の、特に幻想文学のような円環的な側面にとても魅力を感じた。しかし、もしもこの作品を何も知らずに、書店等で偶然手にとって読んでいたとしたなら、最初の読後感は全く異なったものになっていたようにも思う。

 この作品には始まりというものがない。というか、プロローグの時点で物語は既に「始まっている」のだ。読者はページを読み進める毎に、時空間の断絶、シャッフルに翻弄されながら、そこにある、世界の全体像を再構築していくのである。その意味では冒頭の2ページはとても効果的であると思う。まるで壁に飾られた大きな大きな絵を、暗闇の中で、蝋燭の小さな灯りを頼りに少しずつ捉えていくような感覚に似ているのではないだろうか。もしくは、作りかけのパズルに1ピースずつあてはめていくような作業に。だからこの作品は読む度に印象が違ってしまう。

 また、ネームの質や判別性のある画力による「リアルさ」という事について講義で触れられていたが、加えて人物描写のリアルさという事もとても特徴的であると思う。この作品では分かりやすい善人のような人物は1人も登場しない。第7話、弱者として描かれる、普段は何も喋らないようないじめられっ子の高浜君が、母親の影に隠れて「…バーカ」という場面や、第4話、荒川という女の子が夜道をバイト先のカフェの店長に送られ、大量の発光する蝶を目にする直前のセリフ、「過去を水に流してのうのうと大人になってる自分とか、今はそういう時間の流れにちょっとウンザリなんです」。また、榊先生にまつわるエピソード等、ある一方向から見ただけでは分かるはずもない人の複雑性を上手く描いた、その正と負の揺らぎのある人物描写はあまりにリアルでとても印象的であった。

 更に、『虹ヶ原ホログラフ』では至るところに蝶が描かれている。いつも同じ模様の同じ蝶の絵。蝶は元々死者の魂の化身として様々な芸術作品に扱われてきたが、この蝶が、どう足掻いても同じ方向にしか時間を渡って行くことのできない登場人物達とは裏腹に、物語を自由自在に行き来するような象徴的な存在として、あまりにリアルなその人物描写と同居する事によって、逆に作品世界にリアルさを増しているような気さえするのである。

 そもそも「リアル」とは写実的なリアリズムのみによって描写されるものではないと思う。それは映画においても絵画においても、例えばルネサンス期における絵画の写実主義の技法が、後には原罪等と批判されることがあったように、現実の模倣はまやかしのリアリズムでしかない。第12話において幻と現実との錯綜が見られるが、全体的にみても、ある部分でのそのあまりにリアルな描写と、幻想的な要素との交錯による、作品世界のよりいっそうのリアルさ、豊かさという点においてやはりある種の幻想文学に通じるものを感じた。

 ところで、第8話、榊先生の授業の場面において、荘子(中国、戦国時代の宋の思想家。儒家の思想に反対し、独自の形而上学的世界を開いた。その思想は老子と合わせて老荘思想と称され、後世まで大きな影響を与えた。注1)の説話が引用されていることに注目してみたい。

本文

昔者、荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。
不知周也。
俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。

読み下し文

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。
          (注2)

 これは、荘子(荘周)の夢にまつわる一説である。蝶になった荘子はひらひらと気持ちよく舞っている内に、自分が誰なのかわからなくなる。突然目覚めて自分が荘子であることを思い出すものの、荘子の夢で蝶になったのか、蝶が夢で荘子になったのかわからない感覚に陥る。けれど、荘子と蝶の間には間違いなく区別があるはずなのである。こういうことを物化というのだ。というような訳になるようだが、作品にこの説話が引用されているのは単に蝶がモチーフであるからではないだろうと思う。この説話の内容そのものが、後の12話で描かれる双子の母親のセリフや、作品全体の世界観に直結しているのではないだろうか。

 荘子が蝶になった夢をみたのか、蝶が荘子になった夢をみたのか分からない。その時点ではその両方は同じことなのである。ここでは荘子の説いた、

無為自然(老荘思想の基本的立場を表した語。人為的な行為を排し、宇宙のあり方に従って自然のままであること。注3)、

万物斉同等の思想が思い浮かぶ。つまり、善悪とは相対的なものであり、一方が消えればもう一方も消えるような正当性のないものであって、本来全ては等価値なのであるというような思想である。しかし、また、「物化」という言葉が用いられているように、夢も現実も幻も生も死も究極的には全て同じであったとしても、現実の世界で形を持った途端に区別されるのだ。

 言ってみれば現代社会というのは分ける、区別する社会であると思う。戦争も良い国と悪い国が行っているかのようなイメージで語られる事が多い。というよりも勝った者が正義として残ってきた、そういう歴史を人類は持っているのではないだろうか。浅野いにおの作品では登場人物がよく死ぬし、暴力的なシーンも非常に多い。

 『素晴らしい世界』1には「強い人間と、弱い人間の、区別をはっきりさせたかったんだよ、俺は。」等というセリフもみられる。これは自分の暴力についての独白のような形で語られる一言ではあるが、この現代社会とはつまりそういう世界…敗者と勝者を決め、弱者と強者を分かつ世界であるとも言えるだろうと思う。いわば、物化による、区別や差別から逃れられない現代において、いつまでも夢うつつでいるわけにはいかないのである。

 『虹ヶ原ホログラフ』中の「いつまでもお前の寝たふりが通用すると思うなよ。」という言葉は、何気なく読んでいれば一見少し唐突にも感じられるが、時間と空間、現実と幻までもが交錯する物語の終盤にきて、とても強い、一筋の光のようなイメージを持ったはっきりとしたメッセージで、はっと覚醒させられるようだった。

 そういえば浅野いにおの作品をいくつか読んでみた当初、読みながら少し岡崎京子に通じるものを感じていた。それはおそらく、どちらも、退屈にみえる日常の中で人の堕ちていく様子を描いていく所や、精神的な欠落性、絶望感、孤独感、等が乾いた感じで描かれているからだろうと思う。しかし決定的に違う点が、浅野いにおの作品に度々あらわれる、生きる事に肯定的で希望のようなメッセージ性の強い言葉の数々なのではないだろうか。

 「怖がらないで。全てはあなた次第よ。」(『虹ヶ原ホログラフ』)
  「強い意志を持ちなさい。」(『虹ヶ原ホログラフ』) 
  「世界はいつか終わるんだって。…同じ過ちを繰り返し、その螺旋の先に何があるのか知らないけども。せめてこんな朝は今日一日の幸せを祈ろうじゃないか。」(『ひかりのまち』)
  「人生には前にすすまきゃならない時がある。」(『素晴らしい世界』1)
  「ホント生きるのって辛いわ。…それでもやっぱ生きたがるんだよなぁ。」(『素晴らしい世界』1)
  「とにかくすすむんだ。あの真っ赤な太陽に。」(『素晴らしい世界』1)
  「生きていればきっと、いつかどこかでいいことがある。」(『素晴らしい世界』2)

 等など…。

 ただ、『素晴らしい世界』や『ひかりのまち』といった作品では、この希望と、絶望との交錯が物語の為の手段のようになってしまっているようにも思え、少し違和感を覚える部分もあった。『虹ヶ原ホログラフ』を取り上げたいと思ったのは、この作品が彼の作品の中でも少し異質とも言える作品であり、他の作品にも共通して見られる手段とも言えるようなものが、この作品においてはもっと純粋に、より高度に世界観として昇華されていると感じたからなのである。

 最後に『虹ヶ原ホログラフ』における円環性と欠落性ということについても触れておきたい。なんと言ってもラストのシーン自体が、何度ページを読み直しても、どう取っていいのか分からない、解釈を読者にまかせているような終わり方をしているように思う。読んだ後、また冒頭を読み返さずにはいられない。また、榊先生が自殺した等という部分に関しては、講義を受けていなければ何度読んでも気づく事ができなかったであろうと思う。そういう、「語らない事によって物語を模る」という事にもこの作品では成功しているのではないだろうか。読者が注意して見過ごさないようにしなければ気づけない部分であるかもしれないが、気づかなければいけない、暗示的で重要なポイントは多く盛り込まれているといえる。

 また、浅野いにおの全ての作品はとても円環的であると思う。主人公を軸にしてツリー状に物語が展開していくのではなくて、全てがまるくつながっているように思えるのである。この描き方はとても不思議で魅力的である。特に『虹ヶ原ホログラフ』においては、家族愛や友情、愛情等はほとんど描かれず、登場人物達は皆、それぞれに孤独で、闇を抱えて1人で生きているかのようであるのに、心の交流等がまったく描かれず断絶していながらも、全ての人物が円環的なのだ。それは現実世界においても、人は良くも悪くも影響し合って生きているのだということの暗示であるかのようである。

 本のカバーには「こんな作品はもう描けないと思います」という浅野いにお自身の言葉が添えられているが、漫画という枠組みから今にも溢れて零れそうなくらいのこの世界観は、作者自身にさえそう言わせるほど、奇跡的なイメージで読者を訴えてくるのである。

注1 『大辞林』三省堂 第二版 (1999)
注2 『荘子』全4冊 金谷治訳 岩波文庫(1971)
注3 『大辞林』三省堂 第二版 (1999)

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