▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

ザ・バンド「ウィ・キャン・トーク」について(佐藤 裕美)

【解題】
 今期の早稲田二文でのロック講義のとき、僕は真のロック歌曲の美点を次のような概念語で総括した――いわく「情報圧縮性(眩暈感)」「定型逸脱性(脱同定性)」「音楽的記憶」「肉体性」「外延性」「冥府性」「欠性」。佐藤裕美さんのザ・バンド「ウィ・キャン・トーク」(『ミュージック・フロム・ビッグビンク』所収)論は、この一曲にそうしたロックの美点がすべて集中していることを、自ら翻訳した歌詞の解読と、演奏/声の聴取をつうじて緻密に立証してゆく。

 ザ・バンド解散後、孤独な自殺を遂げることになるザ・バンドの美しい「ファルセット」、リチャード・マニュエルの作になる「ウィ・キャン・トーク」は、実は僕の盲点だった。ザ・バンドの講義をするにあたり、歯牙にもかけなかった。歌詞の全体印象が曖昧で、取扱い困難とおもえたのだった。

 佐藤さんの訳詩をみてハッとする。狙われた曖昧模糊だった、と。「いまなら話し合える」という冒頭からのマニフェストは決して正の方向への力の開示なのではない。憂鬱者=沈思家特有の、長年の沈黙が解ける、その際の自己破裂の感覚を指示しているのではないだろうか。

 歌は「語りかける」。佐藤さんのいうとおり、語りかけが物語開示の調子をもつナラティヴの枠組が堅持されながら、言い回しは「昔からよくある、(途中から始まる)謎」「父の時計に見切りをつけるな」「日曜日の正装」など象徴詩風の晦渋をも内在させている。つまり歌詞は、「分裂」を積極的に招き寄せようとしていて、その全体構造が当初、曖昧模糊、と映ったのだった。

 何となく全体像が掴めてくる――これは父性による禁止に押さえつけられていた男が、とつぜんそれを解除され、戸惑いを覚える心情を綴ったものだと。そして父性=神性という二重化が介在して、歌全体が聖歌にまたがる二重視覚(二重露光)の様相を帯びる。これはリチャード・マニュエルのメランコリーの秘密を開示した曲だったのだ。となると同じく彼がつくった「ロンサム・スージー」とこの曲は、いわば『ビッグピンク』の双璧をかたちづくることになる。そしてドラッグダメージが案の定、歌のラストで顔を覗かせてくる・・

  佐藤さんの、ザ・バンドの音楽自体のような粘りつよい解釈はぜひ本文に当たってほしいが、一箇所だけ、楽曲分析の際にしめされたすごく美しい箇所を、予告編として先に抜いておこう。

 《コーラスでは不思議な感覚をおぼえる。最初は和音のハーモニーになっていたように聴こえるのだが、コーラスのピッチが一方は下に、一方は上にとピッチが外延的に離れてゆくのだ。加えて、ボーカルがハスキーボイスで、声が安定していないように聴こえるので、コーラス部分は焦点がぼやけて消えてゆく感じがする。つまり、コーラス部分に亡霊性があり、それが曲に冥府性を生みだしている》。

  この部分と佐藤さんの歌詞の訳出作業に当たっての「Pulling plough」での労苦が僕の胸をうった。今期の講義をやってよかった、と正直おもった。

  歌中のsouthは「南極」ではなく「南部」でいいのではないかとおもう。この歌の最大の狂言綺語部分。レポートのタイトルにはそれを使ってみた。
(阿部)

ザ・バンド「ウィ・キャン・トーク」について(佐藤 裕美)



南部で凍死、カナダで火刑
       ――ザ・バンド「ウィ・キャン・トーク」について

第二文学部 表現・芸術系専修3年 佐藤 裕美


「WE CAN TALK」

今なら話し合える
途中から始まる
昔からよくある謎のこと
解決したいけれど、
どうするのかが分からない
考えようとは出来るけど
君は背信だと思っている
ある声が広間に響いているけど、
父の時計に見切りをつけるな
今なら話し合える

おいで、教えてあげよう
いかに車輪を回しつづけ
エンジンを回しつづけるのかを
牛の乳搾りをしたことがあるか?
ある日 その機会があったが
日曜だったから正装だったのさ
顔を上げて歩くように心がけて

俺たちは何かを言わずにいるみたいだ
君が背中を叩かれたら(ほめ言葉をもっていたら?)
君の肺が張りさけそうで怖いよ
俺が弱音を吐いたら止めてくれ
でも南部で(南極で?)彼女を凍死させるより
カナダで焼け死ぬ方がいい(火刑?)

永遠に鋤を手にとり
もっとするどい鋤の刀を探すか、新しい刀をつくろう
少し休んで腰を冷やせ
弁解の必要なんてない
鞭を打つヤツはもう墓穴の中
ヘロインなしじゃトランスもない
もう一度 後退することだって今は安全
木の葉が真っ白になった。

今なら話し合える
今なら話し合える


 今回、私が、ザ・バンドについて書こうと思ったきっかけは「ロンサム・スージー」という曲がとても気に入ったからだ。超憂鬱なラヴソングで、少し考え方が屈折していなくもない。しかし、それも共感し得るもので、なにより、音楽も歌詞もす素晴しく美しい。

 ザ・バンドの音楽性としては、ボブ・ディランのような文字の多さによる情報圧縮性が強いわけではなく、ビートルズのように曲構成、コード進行、歌詞のナンセンスさにおいて定型逸脱性が強いわけでもない。

 ザ・バンドに関しては、「エイント・ノー・モア・ケイン」や「ベシー・スミス」でも分かるように、歴史的背景をその楽曲の中に非常にナラティヴに表現している。つまり、音楽的記憶が大変厚いことが特徴だといえる。また、音楽で表現した歴史的背景の中に情報が内在し、それを表現するために、表面的な歌詞が崩れている場合もあるので、ザ・バンドの音楽的記憶は合わせて情報圧縮性・定型逸脱性を包括しているともいえる。

 ザ・バンドの特徴としては、「ロンサム・スージー」「イン・ア・ステーション」のように、自分の心の中で自問自答し、語りかけるような、内向性の高いラヴソングと、先に述べた歴史性の強い「キング・ハーヴェスト」「ファディナンド・ザ・インポスター」のように何らかの自らの思想を外へ広めようという外延性の高い作品がはっきりと見てとれる点だ。さらに、この二つの性質に属していようがいまいが、ザ・バンドの作品はどれも非常にナラティヴである。そして、リトル・フィートやキャプテン・ビーフハートのような露骨でえげつない肉体性がなく、全体としてとても美しいことも特徴といえよう。

 さて、これらをふまえて、今回私が訳をつけた「ウィ・キャン・トーク」について考えてみようと思う。

 まず、歌詞に関しては脈絡なく突然話題が変わってしまう。ミドルテンポ、明るい調子で軽快なキーボードとエレキの音で歌われるのが不思議なほどだ。始めは宗教に関するタブーがテーマだと思う。だがこの曲の特徴として「but」を挟んだ前後の関係がどうもはっきりしない点がある。それゆえ、今まで日常から乖離したテーマだったものが急に日常の話題になってしまう。

 そのまま歌詞は一度意味を失くしたかのように「南極で凍死・カナダで火刑」となる。始めにあった、心ではわかっているタブー、おそらくキリストに関する何か(たぶん受胎かそれに伴う人性)を口に出してしまった場合、故郷に火あぶりになるか、世界の果てまで逃亡するかということを表しているのだろう。

 次はプランテーションを連想できる。whip、御者、鞭を打つ看守の存在も見えるが、労働の苦しみという点ではまた神話にもつながり得る。

 ところで、ここで一つ気になることがある。Pulling ploughのploughはplowとして「鋤を取る」と訳したが、ploughをplougherとしてPulling powerと訳すと、不意に性的魅力という、強い肉体性をもった言葉が浮かび上がってきた。これが、露骨な性表現は使わないザ・バンドの計算であるならば、まるでピカソの絵のように一見すると無意味であっても、実はしごく主知主義なのではないだろうか。

 そして、いよいよ曲の最後でヘロインとトランスが登場する。ロックの特性でもあるアンダーグラウンドの世界を匂わせ、自己同一性も崩壊させてゆく。そのまま曲は自己分裂状態のままフェイドアウト的に消えてしまう。このように見てくると、「ウィ・キャン・トーク」にも強い欠性があることがわかった。

 話題が変わって、ザ・バンドの歌心となる。ハスキーな声で、ミドルボイスは美しく、チェストは太く、ファルセットは細く透明感のある綺麗さで歌い上げている。ハスキーボイスの典型的な歌い方ではあるが、日本人はなかなか簡単に真似出来るものではない。

 またコーラスでは不思議な感覚をおぼえる。最初は和音のハーモニーになっていたように聴こえるのだが、コーラスのピッチが一方は下に、一方は上にとピッチが外延的に離れてゆくのだ。加えて、ボーカルがハスキーボイスで、声が安定していないように聴こえるので、コーラス部分は焦点がぼやけて消えてゆく感じがする。つまり、コーラス部分に亡霊性があり、それが曲に冥府性を生みだしている。

 元々、自殺する者の書いた歌なのだから、刹那的・破滅的な死へと向かうような冥府性があったうのだ。図らずも歌心がそれを引き立たせる結果となったのだ。

 このように、ザ・バンドの特徴であるナラティヴなストーリー性をもつ「ウィ・キャン・トーク」を通して、音楽的記憶・冥府性・歌心などについて私なりの考えを述べ、ロック性についての確信を得ることができた。

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