▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

シド・バレット論(佐々木 崇仁)

【解題】
 シド・パレットの在籍していたピンク・フロイドの一枚目、『夜明けの口笛吹き』と、バンド脱退後のシドの(未完成感のつきまとう)初ソロ作『気狂い帽子が笑う』は、ピンク・フロイド関係では例外的にCDに焼いていたはずなのだが、整理が悪く見当たらない(1時間探したのだが)。佐々木君の素晴らしいシド・パレット論を読み、それらが聴きたくて、もどかしくて、どうしようもない。聴かないと解題も覚束ない。そう、何かこの磁圏にたいしては記憶も稀薄なのだった。

 そうなる理由が、シドの属性自体にある。弱い。一聴して他のミュージシャンにない傾きがある。あるいはロック性のない(たぶん自閉症特性とリンクするような)発声。それが音痴気味の歌唱と化合されて、ロック史が置き去りにしたもの――併呑できなかったものに突き当たったような気が以前はしたものだった。衝撃は小ささのなかに定位されている。それはロックのジャンル性以外のもつ、存在性からくる違和感なのではないか。

 加えて、シドのドラッグ依存と発狂神話がつきまとう(シドはつい先ごろ物故した――衝撃の入院後、音楽シーンに復帰したという記載も死亡告知記事にはなかった)。ロック史が消化しきれなかった、どこか薄甘い、しかも不定形な「菓子」。不幸の影。正直いうと、その声の質はあまり好きではない。不幸を罹患しそうな気になるから。ただ、ピンク・フロイドの一枚目は、ロックのジャンルの境界で揺れているオーロラの襞のような感触があって(その後の彼らのアルバムとはまったくちがう――フロイドは境界性の揺れを、ロックとクラシックの融合へと単純短絡したのだった)、そうしたロックの脱同定要素に行き当たりたい心情が、たえずシドの幻を追い求めさせることになるのだろう。蜃気楼。

 以下、佐々木君の言を借りよう。『夜明けの口笛吹き』はビートルズ『サージェント・ペパー』らが切り開いたサイケデリック・アルバムのもつ「オリエント」志向が、外在的な粉飾だったのにたいし、そのスケール使用にしてもオリエント性が内在的で、曲自体の軸が内部に不安定にずれ込んでいる。そこに、自らが自らにたいしすでに脱同定的だったシドの、「そうならざるを得なかった」音楽性の発露がある。佐々木君はそのシドに一種、存在論的な――したがって代置不能の「欠性」を見出す。これは怖いことだ。

 僕はこの「ロックジャイアンツ講義」で「欠性」をロックの要件のひとつだといった。それがもっともはっきりしていた音楽を生きてしまったのがシド。だから彼を憶いだそうとするだけで、心に真のロックに向かおうとするとき特有のざわめきが起こる。しかも像が定かでない。記憶しきらないかぎりは。

 実をいえば、佐々木君はギタリストだ。佐々木君が京都で結成したバンド、平成民芸のアルバムを僕は彼からもらっているが、そこでの彼のギターはディス・ヒート調を堅持しながらオールラウンドな奏法へと伸びる奥行をもっている。すごくうまい。そういうギタリストなので(彼はいま東京でサテライツというバンドを結成している)、楽曲分析も緻密だ。文を読めば、数々のスケールの種類に通じているなど、眩暈感をあたえる要素があり、僕などの容喙は不要なのかもしれない。加えて、シドの歌詞の特性も、「自閉」「おとぎばなし」に二分され、佐々木君はそこでも緻密な解析を曲ごとに加えてゆく。脱帽だ。しかも、一人のミュージシャンを論じつつ、別のミュージシャンへの唆しをおこなうという音楽批評の理想もあっさりとやってのける。(80年代のオルタナティヴ・シーンに出現したと佐々木君が書く)(僕が未聴の)ロイヤル・トラックスとヴァセリンズがそれ。シドの音楽が不分明になっているうえに、未知のミュージシャンと比較されて、うーん、うまく言葉が継げない(笑)。

 そこで佐々木君に質問。シド・パレットと初期のアコギ中心のマーク・ボランは印象的には近かった気がするんだけど、二人の音楽性をわかつものをどう捉えたらいいのだろう。もう一個質問。欠性をロックに組み込んだ「歌曲」の可能性として、シドのほかに何を挙げたらいいんだろう。声とか存在とか演奏の欠性なら、いろいろ挙げられるんだけど。

  あ、忘れていた。佐々木君のこのレポートにはすごい金言がある。それを僕は彼のレポートのメインタイトルにしました。
(阿部)

シド・バレット論(佐々木 崇仁)



一つの過剰が他方で欠落に結びつく
       ――シド・バレット論

第二文学部 思想・宗教系専修3年 佐々木 崇仁


 シド・バレットの曲はフワフワしている。フワフワしてフラフラしている。ピンク・フロイド在籍時からソロ活動時代まで彼の歌曲に内在していた、その「白昼夢性」について以下、考察していきたい。バレットというと、LSDとの関係や「狂ったダイヤモンド」といった感傷的なイメージが強いが、それらをなるべく排しアクチュアルなシド・バレットについて論じたいと考えている。それにあたって、前半部では他の作品を参照しつつ、その楽曲分析を、後半部では歌詞に表れる独自性を分析し、それらと歌い方、編曲とのズレに言及し結論へと導こうと思う。

 まず、シド・バレットがその名を後世に残すことになった最初のアルバム、『Piper at the Gates of Down』だが、同様にサイケデリック・ロックという括りに入れられる、ビートルズの『Sgt.Pepper's lonely hearts club band』を筆頭に、ローリング・ストーンズ『Their Satanic Majesties Request』、ジェファーソン・エアプレイン『Surrealistic Pillow』、ドアーズ『Doors』も、奇しくも全て1967年発表の音源である。しかし、それらの共通項というと、従来のバンドサウンド以外の使用や空間系エフェクトの多用などスタジオワークを重視しているといった程度で、「サイケデリック・ロック」と一括りに呼ぶことは有用でないように思われる。

 たとえば、ビートルズの『Sgt.Pepper's~』やストーンズの『Their Satanic~』がシタールやタブラーなどを前面に押し出す曲を交え「オリエンタリズム」的志向性を感じさせるのに対し、ピンク・フロイドの『Piper at~』は民族的なパーカッションこそ入るが、それを自分たちの文体の中に取り込んでいる。「Within You Without You」にせよ、「Gomper」にせよ、ストリングスなりオルガンなりが入るとはいえ、そこでは非西洋的な楽器に付帯する「意味」を中心にすえており、それへの接近願望が感じられるが、『Piper at~』では「Lucifer Sam」のなかで通常のドラムセットには含まれないパーカッションの音が聞き取れるが、その意味性は不問であり、むしろよく聞かなければ聞き逃してしまうほどだ。

 また、「Scare Crow」冒頭のミニマル的なリズムの上でペンタトニックを使った単純なメロディーをオルガンが奏でる箇所では、「Scare Crow」の中に含まれる田舎のイメージ、ひいては普遍的な「郷愁」とリンクしており、洋の東西といった無意味な区別には囚われていない。同様の差異が曲構成にも表れている。

 ジェファーソン・エアプレインの代表曲、「White Rabbit」やドアーズの「Light My Fire」では、いわゆるAメロが非西洋的な響きを持ち(ちなみに前者はロクリアン・スケールの使用、後者はBからG#7への移行が不自然に感じられると思われる)、その後ロック的でキャッチーなサビに落ち着くという「オリエンタル(非西洋)→ロック(西洋)」という明確に分離しているパターンになっている。

 それに対し『Piper at~』の「Matilda Mother」では中間部のオルガンソロ、(フリジアン・メジャースケールと思われる)非西洋的な響きを持つ箇所がロック的なリフに挟まれ、ソロ自体もロック的なリフの上で弾かれる。先との対比で言うならば「西洋→非西洋→西洋」となっており、非西洋的要素の楽曲に占める比重が異なることがわかる。さらにもっと言うならば、「Matilda~」のサビにおけるコーラスワークは、ミュージカルを髣髴とさせるような歌劇調であり西洋文化の影響を隠すことなく曝け出している。

 また、下降するアルペジオから始まるこの曲が持つ浮遊感、夢幻的な性質がオルガンソロの導入になる吐息のようなコーラスを自然に聞かせるその巧妙さは特筆すべき点である。むしろ、その吐息の上で流れるオルガンソロが体現するのは幻想としてしか存在しえない「オリエンタル」であり、他のロックバンドが安易にインドやアフリカに接近していってしまう(無論そこにはメディアと交通機関の発達との関わりをみるべきだろう)のと一線を画しているとはいえないだろうか。サイケ・ロックと呼ばれたものの多くがフラワームーブメントと近接し、非西洋としての東洋への志向を持つのに対し、『Piper at~』は独自の視座を既に確立し、既存のバンドサウンドを一新することに成功したといえるだろう。

 しかし、その試みはピンク・フロイドのバンド単位では消化し切れなかったといわざるを得ない。バレット脱退後のフロイドの、70年代のアルバム、『Dark Side of the Moon』や『Atom Heart Mother』、『Wish You Were Here』は、個人の趣味を越えて、どれも素晴らしいアルバムといえるが、『Piper at~』の持つ斬新さはむしろ薄れたというべきだろう。それらのアルバムは綿密なレコーディングを繰り返すことで木目細やかな仕上がりになっているが、反面ロックとしての衝動性や『Piper at~』にあった独自のうねり、浮遊感は失われ、禁欲的で息苦しく時に退屈である。その独創的なうねりや浮遊感はシド・バレットに依るものであったことがシド脱退後のフロイドの作品とソロ作品から判る。

 ソロ第一作目『The MadCap Laughs』ではフォーキーな編曲が中心で、実際、「Dark Globe」「Feel」「If It’s in You」はラフなアコギの弾き語りのみで終わる。『Piper at~』でのような、時にコミカルですらある多彩なコーラスの被せ方や、オルガンをはじめとする様々な楽器による陰影は軽減したが、逆にシドの「白昼夢性」がそれらに依らずとも立ち現れることが明確化する。突き詰めるならば、このアルバムにおける「白昼夢性」は、その脱力したストロークや歌声、ボーカルにかかる後がけのダブリングによって醸し出されるといえる。

 しかし、2曲目『No Good Trying』における逆再生音のようなギターやうねるベース、ラフだが勢いのあるドラムなどフロイド時代と同様の方法論が用いられているものもあれば、「Love You」、「Here I go」のような決して前ノリにならない半ハネが気だるさを演出する、正にブルースの方法論を用いているものであり、バレットの音楽的経歴を感じさせる。

 また、「Octopus」におけるコード進行はブルースらしさを感じさせながらもA#→D#→F#→B7→…のB7の箇所で落ち着かなさが残る独特の進行になっているなど、独創性は顕在だ。但し、ギター一本で聞かせられるその歌心や音楽的多様性、独自性などが『The MadCap ~』からは理解できるが、未完成と思われる部分も多く、全体的にはソロ作は『Piper at~』に劣るといわなければならないだろう。 

 さて、では今度はシド・バレットの歌詞について考察しようと思うが、まず取り上げたいのが、楽曲分析でも取り上げた『Piper at~』の『Matilda Mother』である。この歌にはバレットの歌詞における「自閉」と「おとぎ話」という二つの類型があると考えるが、どちらも「非現実性」という言葉で白昼夢と結びついていることはいうまでもない。まず「自閉」という類型について考察していく。

 この歌詞は寝る前のおとぎ話をねだる子供と既に成人している自分が重ねられているといった意なのだが、その中間部では「どうして僕をおいて行かなきゃいけないの?/僕の幼稚さをほっぽりっぱなしにして/ただ書いてあることを読むだけでいいのに/・・・」という箇所があり、母親への甘えとともに、簡単なわがまますら聞いてもらえない拒絶感がにじみ出ている。そして歌の最後が「ああ、お母さん、もっと聞かせてよ/もっと聞かせてよ」というリフレインで終わり悲哀は増幅される。

 彼の孤独感の現れとして、その次の曲、「Flaming」では(恐らく薬物が介在していると思われるが)夢想に耽って快適な気持ちでいる「僕」と、その僕を目に見ることも耳に聞くこともできない「君」が登場する。二者の関係は断絶しているが「君には僕が見えないけど/僕には君が見える」「君には僕が何してるかわからないけど/僕には君がわかる」と再三強調するように、一方的に相手を把握できる状態によって生まれる権力関係を「僕」は愉しんでいる。そこには、独りで陰険なイタズラをする子供のような、独りよがりの閉じた快感があるといえるだろう。

 また、「Scarecrow」でも「黒い服に緑の帽子のカカシは僕より悲しいだろう/でも彼は自身の運命を受け入れてる/だってその人生はそんなに残酷ではない―だって彼は悩まないもの/彼は大麦畑にポツリといる」という歌詞からは、「君には悩みなんてないんだろうな」という幼稚で悲劇趣味のエゴイズムが感じられる。

 その自閉性は、恋愛をテーマにしたときも同様である。「BIKE」の中で何度もリフレインされるのは「君は僕を理解してくれる優しい娘だから/僕は君に何でもあげたい、君が望むものなら何でも」という自己愛を前提にした献身であり、裏切らない関係を欲している一方で、女性は彼をこともなげに拒絶する。
  『The MadCap ~』の「She took a long cold look」は題名のまま、歌詞にも「彼女は僕に遠く冷たい視線を送る/(中略)/彼女は僕が打ちのめされるのを眺めるのが大好きで/僕といっしょにいる時間なんて少しも大事にしない/(中略)/彼女は自分が見たがったにもかかわらず不思議がるんだ/・・・」というのは恋人というより肉親を連想させるが、最後に歌われるのは「はるか空高く仰いで/僕はせせらぎのように空を吸う」という内的な解決手段に留まる姿である。

 浮気性の恋人を「僕の見えないところに愛を隠したって無駄だよ/なぜなら僕はわかってしまったもの/君は僕とは違うんだ/・・・」と歌う「No Good Trying」、「君は僕を失って寂しくないのかい?/僕を失っても全く寂しくないのかい?」と珍しく絶叫する「Dark Globe」など、他人に対し臆病で積極的に関係を持てないが、プライドばかり高い男の姿が浮かび上がる。

 しかし、時に陳腐なまでのその悲劇趣向な歌詞に対し、今述べた「Dark Globe」を例外として、それを歌う段になると驚くほどさらりとしている。そこに落差をみるべきだが、「白昼夢性」の根拠となるこの一本調子のボーカルはバレットのもう一つの歌詞の類型である「おとぎ話」とはシンクロする。それは小鬼の冒険譚『The Gnome』や奇妙な猫の歌「Lucifer Sam」、神秘的な「Chapter24」などは皆、歌詞の幻想性がそのフワフワした歌い方とシンクロしているだけでなく、アレンジにおいてもそれぞれの歌詞とのシンクロがみられる。

 また、「自閉」と「おとぎ話」を兼ね備えると述べた「Matilda~」でもアレンジはその「おとぎ話」側にリンクするような浮遊感、夢幻性を持つことはもう述べたが、これは象徴的である。「自閉」する自己に対する距離の取り方は、一見、その白昼夢的な現実感の欠落から自己やその感情に執着していないかのように思える。しかし、だとすれば、なぜ歌詞の多くがこれほどまでにその内向癖を示唆するのか。

 それは実際、自己に執着しているからにほかならない。そして歌詞にある二つの類型は対等な関係ではなく、「おとぎ話」がアレンジの軸としてすえられ、それによって自己への執着は隠蔽されているとみるべきだ。そのような隠蔽が非現実感、ひいては「白昼夢性」につながっていくわけだが、むろん、隠蔽行為自体になによりの自己への執着が、自意識の過剰がある。

 一つの過剰が他方で欠落に結びついていることは言うまでもないが、恐らくそこにシド・バレットの「欠性」が存在する。それは言い換えれば「欠性」とは何かの過剰さを示す語だともいえるだろう。自分の閉塞とそこに圧し掛かる脆いプライドを歌詞に出さずにはいられない一方で、それをおとぎ話と同列で歌う非現実性は、過剰よりさらに過剰な自意識の存在を思わせる。そしてそれがバレットのいないフロイドにはなかったものだろう。また、自己も含め現世の全てのことに対し距離をとるその姿勢が初期のフロイドに「幻想のオリエンタリズム」という独自の視点を与えたのではないか。

 いわゆるロックを聴くときに私たちが何を聴くのかといえば、緻密な音作りや演奏ではなく、その音を通して伝わる(或いは演出されている)アーティスト自身の人間像ではないだろうか。シド・バレットの他への積極性の低さは「理想の人間像」から逆算すれば、「欠落」以外のなにものでもない。しかし、私たちはその「欠落」にこそ、有機的な存在としての人間のリアリティを感じ、またそこに自己を投影し、自分の中に潜む自身への違和感を忘れさせるのである。

 「欠落」こそがロックを大衆音楽たらしめ、それがロックに求められているのだと私は考える。それを考え合わせると、シド・バレットが見せる現実感の欠落はロックの一つの類型だとみることができるだろう。それはサイケ・ロックを継承しているとされるフレイミング・リップスやプライマル・スクリームより、むしろ80年代後半以降のオルタナティヴなシーンで、ロイヤル・トラックスやヴァセリンズへと受け継がれていったことがわかる。

 『Piper at~』におけるバレットの業績は、自身の「欠落」を、その独自の視点を用いた斬新さや歌詞と歌曲とに落差をつけるといった手法で、昇華したことに依るのではないだろうか。近代以降、「理想の人間像」と現実の落差は常に人に葛藤をもたらしてきたが、その葛藤自体が既に自意識の過剰にほかならない。しかし、さらなる自意識過剰による「欠落」によって、全ては幻想でしかないという視座を提示するシド・バレットは、ロックがその誕生以来、広く求められてきた理由を示唆していると私は考える。

●参考CD
  Pink Floyd『Piper at the Gates of Down(邦題:夜明けの口笛吹き)』1967
  The BEATLES 『Sgt.Pepper's lonely hearts club band』1967
  Rolling Stones 『Their Satanic Majesties Request』1967
  Jefferson Airplane『Surrealistic Pillow』1967
  Doors『Doors(邦題:ハートに火をつけて)』1967
  Syd Barrett『The MadCap Laughs(邦題:帽子が笑う…不気味に)』1970
  Pink Floyd『Atom Heart Mother(邦題:原子心母)』1970
  Pink Floyd『Dark Side of the Moon(邦題:狂気)』1973
  Pink Floyd『Wish You Were Here(邦題:炎)』1975

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