▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート
「ボヘミアン・ラプソディー」について(小池 芽生)
【解題】
へいへい、僕はクイーンについてはまったく門外漢です。僕の中学生当時から女の子たちに大流行していたが、フレディ・マーキュリーにジーンときていいのか、笑ったほうがいいのかわからず、引っ込み思案になったのがずっと続いている。俺、ホモっ気があるので、フレディの面白さはよくわかった。また貧乏暮らしだったので、クラシック耐性が全くなく、彼らのドラマチックな曲への接し方もわからなかった。ま、トータルでいうと、最近の、幾度目かのブーム(今度のは波が大きいみたいだ)で、昔ファンだった女房による、クイーンの講釈をとうとう受けようか、とおもうほどの体たらくにすぎない。
で、その俺が、小池芽生さんの「ボヘミアン・ラプソディー」論をサイトに転載する。理由はむろんはっきりしている。計6パートに分かれた、満艦飾でドラマチックなこの複雑曲の、歌詞と音の流れが執念で描写されていたからだった。おこなわれていることは、バルトのシューマンへの論及に近いものがある。あるいは平岡正明の90年代以降のジャズ評論に。この情熱が、あらゆる音楽評論に必要なのだった。これは本当にいい模範例です。
しかし小池さん書いていることの是非はあまりよくわからない。クイーンファンなら随喜の涙を流すような気がする。このあたりをウダウダ書いてもしょうがないだろう。読んでみてください。
で、気に入った文章のディテールを一節だけ抜き出し、小池さんのレポート全体の標題にしてみた。
(阿部)
「ボヘミアン・ラプソディー」について(小池 芽生)
ブルースのように泣かせながらクラシックのように変化する。
でもフレーズはハードロックのようには速くない。
ダイナミックにスタッカートとレガードを使いわけ・・
――「ボヘミアン・ラプソディー」について
第二文学部 社会・人間系専修 5年 小池 芽生
1970年代のロック御三家と言われたエアロスミス、キッス、クイーン。この中でもロック史を通して名曲中の名曲を残した伝説的なバンドそれがクイーンである。イギリスにおける20世紀を代表する名曲コンテストでビートルズを押しのけてクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」がトップに輝いたこともまだ記憶に新しい。ではなぜこの今はもう解散同然ですでに第一線では活躍できないバンドがここまで評価されるのか?この名曲を分析することによって探ってみたいと思う。
1975年クイーンの四作目のアルバム『オペラ座の夜』の最後に収録されたこの曲は事前にシングルカットされて同年イギリスのチャートで異例の九週連続トップという鳴り物入りでこの世に登場した。売り出した当初は五分にも及ぶ当時としては常識破りの長編シングルということでまったくヒットの兆しはないといわれていたが実際はこの特異的な前例にないロックオペラはとあるラジオのDJの目に留まり彼の番組で何度となくかけられリスナーに聞かれるようになり草の根的にヒットしていったとされている。
この曲が収められた『オペラ座の夜』というアルバムもコンセプトアルバムの走りとして確固たる地位を築き、「ボヘミアン・ラプソディー」の地位をさらに伝説的にした。
簡単に曲の概要を説明するならば殺人(自殺)を犯してしまった主人公「僕」の心情を歌った曲である。全体は冒頭のコーラス部分、前半のメロディアスなAメロ、Bメロ部分、ブライアン・メイの歌うようなギターソロ、重厚なコーラスと意味不明な言葉で綴られるオペラ部分、ハードでストレートなロック丸出しの部分、最後のバラード敵に歌い上げる部分の六部分で構成されていると言えよう。一つの曲でここまで極端に差のある部分を持つ曲もなかなか珍しい。一つ一つの部分を細かく分析していこう。
「これは現実なのだろうか~」と当時では珍しくいやむしろ初めてと言っていい程の多重録音の重厚で荘厳なクラシカルなコーラスから始まるこの曲。男性の甲高いファルセット(ドラムのロジャー)などメンバーの声のみを多重に録音しシンセサイザーを一切使わないスタイルでここまで重厚な音を作り出せるという既成事実をまずこの冒頭でアピールしているようである。まさに歌詞どおりこの音楽、曲自体が現実なのか幻なのかわからない不可思議さをかもし出している。これから展開される悲劇的展開を予想させない美しさが逆に切なさを演出している。この曲は前半がこの曲の主人公である「僕」の語り口調になっているのも面白みである。そして「この現実からは逃れることはできない」というように何か不可避な現実の出来事を目の当たりにした主人公の避けられない悲劇と既に犯してしまった罪への責任を、更には自暴自棄な無常観すら感じられるのである。
最も有名な「Mamma,just killed a men,」から始まるメロディアスなスローバラードのAメロ部分は今は亡きフレディー・マーキュリーの張り詰めた甘く切ない声が主人公の心情を上手く歌い上げている。ロックバンドでありながらピアノとボーカルだけで始まるこのAメロは情感が高まっていくに従ってドラムが入りBメロに至ってはやっとギターが絡みだす。このギターもどちらかと言えば効果音的な劇的な入り方をしているのも感動的である。クイーンが特筆すべきなのはここでも聞けるフレディーのピアノ引き語りスタイルである。実際にクラシックの素養があるフレディーのこのテクニカルなピアノがどこかクラシカルなイメージを全体にイメージ付けている。歌詞に注目すると主人公の犯した罪を母親に切々と語るところから始まり、罪への後悔と母への配慮が感じられる。Bメロに至るとこの後悔から自分が死に直面していることへの恐怖と開き直りそして最後の未練に至る過程が見て取れる。
ブライアン・メイのギターは父親とのハンドメイド共作であり、世の中に一本しかない名器といわれている。実家の古い暖炉から作られたボディーが独特の共鳴を生み更にブライアンこだわりのイギリス銀貨による奏法によってブライアンのギターソロはまさにギターが歌っているように聞こえるのである。当時のハードロック界のギタリスト達はリッチー・ブラックモアやジミー・ペイジなど速弾きを得意としたハードでテクニカルなスタイルが流行だったが、ブライアンはどちらかというとブルースのようにギターを泣かせながらメロディー自体はクラシカルで荘厳な独自のスタイルを築き上げていた。冒頭のコーラスと同じようにギターでの多重録音も行っており、ギターオーケストレーションと言われるギターによる厚い音の壁を構築し、シンセサイザーを使わずに音楽に厚みをつけることに成功していた。
この曲の前半の一番の盛り上がりであるブライアンのギターソロはあまり速いフレージングではなく一つ一つの音に細かいビブラートをかけまたチョーキングで音程をなぞる様にフレーズの音をつなげてダイナミックにスタッカートとレガートを巧みに使い分けて弾きあげている。このギターソロが前半をまとめあげて次のオペラパートへと上手くつなげている。哀愁を帯びた心の琴線に触れるような張り詰めたギターの音色は聴き応え抜群である。
いきなり何の前触れもなく始まるオペラパート。ピアノの小気味良いバッキングがどこかコミカルな雰囲気を醸し出す中「ある男のシルエットが見える~」と明るくおどけて歌うフレディー。あたかも今までの悲しい話がなかったかのような切り替わりである。しかし続きを聴けばわかるのだが実際はもとの話の延長線上にあることがわかる。主人公の「僕」が現実逃避をして夢をみて神様に助けを求めているのがこのパートである。
ここで飛び出す聞き慣れない単語の数々「scaramouch」「Beelzebub」「Bismilah」「Gallileo figaro-Magnifico」などなど実際は何の意味だかわからない単語がここでは沢山使われている。しかもそれらをここでも多重録音を駆使して四人の歌声を使いあたかもオペラのワンシーンのように歌い上げている。この不思議で明るくコミカルなパートは実際の主人公の心境を茶化すような意味合いもあるように思える。ピアノとドラムと声だけのパートなのにこの曲で一番重厚なパートに仕上がっている。更に主人公の心の叫びを歌い上げるフレディーの歌唱はまさにミュージカルの中で主役が自分の心情を歌い上げるようになんともドラマチックである。ドラマとコミカルが介在するこのパートはこの曲の中でも秀逸の構成がなされており当時としては画期的なロックオペラの代名詞とでもいえるようなパートである。
クラシカルな伴奏から一転してハードなパワーロックへとガラっとかわる。ピアノからオーバードライブとディストーションの効いたギターの刻みに変わり、2拍三連の印象的なリフがそれまでの曲のイメージをまったく一掃してくれる。ドラムやベースもこれでもかとそれまで抑えていたエネルギーを爆発させたように弾き殴っている。フレディーのボーカルはロックらしく声を少し潰したようなキンキンした声でしゃくりあげるようにポルタメントの効いた歌唱をしている。歌詞に注目するとそれまで信じていたもの(母親?神様?)に裏切られた怒りや憎しみを吐き出し、この現状から抜け出したいと必死にもがく姿が描かれている。まさにハードロックである。
そして最後のバラードは前半のバラードと同じような雰囲気に戻るわけだがこの戻り方がとても技巧的でドラマチックである。ギターの階段を登るようなソロが少しずつピアノのソロに取って代わりそこに多重録音されたコーラスが加わってギターがメロディアスなソロをソフトに奏でるそしてやっとフレディーの何かを悟ったような切ないボーカルが始まるのである。ここの劇的ではあるがクロスフェード的な展開もまたこの曲のドラマ性を際立たせている。歌詞自体も「たいしたことない~」とこれまでの劇的な現実を振り返り自分なりに納得し諦めというより更に上の段階に昇華し悟ったように見える。ちっぽけな自分の存在を儚くも認めているのである。それが切ないメロディーと徐々にゆっくりとテンポダウンし音自体も少しずつ薄くなっていく感じとマッチしてさらに儚さを増していくのである。最後はまさに意識が薄れていくようにピアノやギターが穏やかなメロディーを奏でコーラスと銅鑼が遠くで鳴って終わる。まるで主人公が死んでしまったようである。
六つの部分を個別に分析してみたが結局この曲の素晴らしさは一つ一つの部分の完成度や奇抜さもさることながら、やはりこの長編の構成にあると思われる。一人の男の心の葛藤をただ綴っただけの内容であるがここに様々な音楽を用いてまさに映画や舞台のようにシーンを展開していくのである。歌詞を通して物語を綴ることはそれまでもなされたことではあるが歌詞だけでなく音楽自体をシーンのように変化させて物語を綴ることはとても斬新であったのだ。それはまさにオペラであり、一つの芸術作品である。アルバムや組曲によって物語を綴る試みはそれまでも行われてきたわけであるが、このように一つの曲のなかでここまで変化のある物語を音楽の差異で表現したのはこの曲以外では後にも先にもあまり例がない。あまりにもこの曲が完成されていたのでこれを超えること自体が最初から無理だとされているようにも思える。世紀の名曲と言われる所以はここにあるのかもしれない。
クラシックからロックまでまさに音楽の両極端を包含しその長所をそれぞれいかし更に新たな音楽のジャンルを創出させたのである。この曲以後クイーンは前衛的なロックバンドとして活躍し、ヒット曲を増産するのだがこの曲のようなスタイルの曲は不思議なことに作られてはいない。やはりこれはこれで一つの完成形と言っても良いのかもしれない。クイーンはこのように新たなジャンルを創出してはそのジャンルの極めつけというような曲を世に出していくのである。「We are the champion」
「We will rock you」「Another one bite the dust」などなど一つのジャンルに固執することなくむしろジャンルを創出するのである。
時代ごとにまったく違った曲を書き、変なこだわりを持たずにいつも最善の曲を書く。このスタンスによっていくつもの名曲が生み出されてきたのである。「ボヘミアン・ラプソディー」はその最たるものであり。クイーンと言うバンドの特徴を最も示している名曲だと言える。これがクイーンの評価への自分なりの回答である。
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