▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

The Who “Won’t get fooled again”についての考察(安藤 陽一)

【解題】
 安藤陽一君が俎上に乗せたのは、ザ・フー。それに、「ロックを生きること」という命題が重ねられている。気風のいい文章。文章がバカっぽくロックしている。で、ロックとは「自分をワイルドに、理知的に、個性的に、そして純粋に、つまりかっこよくしてくれる」というマニフェストが前置される。「理知的」がちゃんと入っているのがミソ。バカっぽさ=理知的、という機微は安藤君の文章にも感じられて、こいつイイじゃん、と純粋におもった。

  僕自身はフーとすれちがっている。安藤君の文章を見て思い当たる。「黒っぽさ」が足りないのだ。ホントにワイルドか? ギターストロークの際にピート君の腕がグルグル回るだけではないか? ロジャー君の体育会系の身体性のどっかが信じられぬ。キース君、アホなだけでないかい? というようなことから全体の印象をつづると、どこかがソリッドさを欠き、モヤーッとしている。ゼムや初期キンクスなど、ブリティッシュビートグループの良い面、小ぶりな孤独感とキンキンした緊張が足りないのだ。ヘンに大振りなバンドっつうイメージだった。ロックオペラなんて「無駄」に走るし。おまけに、モッズファッションのピチピチズボンも何か笑っちゃう。同じ悪趣味なら俺は実はパンタロン派だったりする。

  って反応を安藤が半ば予想して、自虐的にキーボートを打つ指が翻ってゆく感触が良い。ロックだ。

 ところが彼は決定打を出す。それが「無法の世界」の訳詞。「無法」といいながらこれは「保守派の居直りソング」ではっつうセルフ・ツッコミもちゃんとやっていながら、これが端倪すべからざるほど、実は乱反射的に機能する磁場のような歌詞だった。安藤君、すごい、訳詞に関西弁はおろか、顔文字まで入っていて、それで歌の世界が「現在」に突き刺さってもいる。うーん、スゲエ。俺、フーを誤解してたかも。ジョン・レノンのバックバンドになっちゃえばよかったんだ--したらキース・ムーンも死なず、ジョンもベジタリアンにならなかったろうって軽口、どっかで言った気がすっけど、撤回だぁ。もう騙されないぞ。

  あ、「もう騙されないぞ」と宣言するやつは、昔はバカだったけどいまは利口になったという背景が横たわっている。さしずめ俺だな。「ロックを生きる」と、そんな余得もつくらしい。
(阿部)

The Who “Won’t get fooled again”についての考察(安藤 陽一)



もう騙されないぞ
       The Who “Won’t get fooled again”についての考察

第ニ文学部 社会人間系専修2年 安藤 陽一


【1.前提】

 そも、ROCKとは何なのか?「アランフリードがどーたらこーたら」「ヒルビリーとカントリーがああだこうだ」という一般論ではなく、「何小節目のコード進行がどーだとか、転調がどーしたとか」という技術的分析でもなく、「自分にとって何なのか!」 そこをはっきりさせないと大切な僕の宝物「ROCK」について語ることなんてできやしない。

 ROCKは自分をワイルドに、理知的に、個性的に、そして純粋に、つまりかっこよくしてくれる(少なくとも心の中だけでは)。「ただのカタルシスじゃん」って言うけど、それ以上何を望むってんだ?(あっ!女の子にもてるのを忘れてた)。


【2.宣言】

 私はROCKに「小難しい理論」なんて求めない。

 私はROCKに「自分をワイルドに、理知的に、個性的にそして純粋に、かっこよくしてくれる何か」を求める。


【3.材料】

 60's & 70'sのロックジャイアンツの中で、私にとって「何か」を一番感じさせ、私を魅了して止まないバンド(講義では結局取り上げられなかったが)それこそ、TheマキシマムR&B!!(といって実はR&B臭はとても少ない)“The Who”なのである。

 そして、ここで取り上げるのは彼らの代表曲の一つである“Who’s Next”のなかの“WON'T GET FOOLED AGAIN”だ。 邦題は「無法の世界」だけど、どうしてもThe Whoよりもチャールズ・ブロンソンが頭に浮かんできてしまうので、“WON'T GET FOOLED AGAIN”で統一する。

 さあそれでは、The Whoを、そして“WON'T GET FOOLED AGAIN”をROCK足らしめているものは何なのか? 早速ない知恵絞って探索の旅へでよう、いざAmazing Journeyへ。


【4.考察(1) メンバー構成】

 曲そのものについて考える前に、The Whoのメンバー構成がいかにROCKそのものであるかを考察してみよう。

●部品A:<ギター>ピート・タウンゼント
  ROCK界屈指のメロディーメーカーと溢れる知性の作詞能力。

●部品B:<喉>ロジャー・ダルトリー
  本物のタフガイ番長。歌い手として、バンドの創始者としてのプライドが文句を言うやつは許さない、鉄拳制裁だ。最近の髪型とめがねの組み合わせはまるでピーコのよう。

●部品C:<サンダーベース>ジョン・エントウィッスル(言いにくい)
  寡黙なる男、しかし目にもとまらぬベース捌きと、独特なユーモア感覚が肝。
  2002年6月没

●部品D:<強靭ドラム>キース・ムーン
 狂人。チャーリー・ワッツの対極を行くおかず満載というか満漢全席ロックドラマー。個人的にはツェッペリン号の乗組員よりかっこいいと思う。だが、デビュー当時(マッシュルームカットのプリティボーイ)と後期のルックス(志村けん演じる変なおじさん)の差がありすぎ。
  1978年9月没

 以上が“The Who”のメンバーだ。前述のように個性豊かな、キャラのたった面々の集まりであり、それぞれがそれぞれのないものを補い合って成立しているジャンケンのような相互補完的なバンドだと考えられる。

 たとえば、ピート・タウンゼントにはナイーブな感情を旋律と律動に置き換えることはできても、ロジャー・ダルトリーのようにそれを健全な肉体と喉で表現することはできない。また、ロジャー・ダルトリーは肉体と声の表現はあくまでも一般人の延長線上にあるが、その限界を超える役割をバンド内で担っていたのがキース・ムーンであろう。そして、前へ前への3人の中で、黙々とコーナーストーンの役割をこなしつつも、一ひねりも二ひねりもある隠し味を感じさせるのがクワイエット・ワン、ジョン・エントウィッスルなのだ。

 しかし、“The Who”が“ROCK”であることについて考えるために、ここもう一人のメンバー(部品)を加えなければならない。それはリスナーだ。“The Who”と関係を持つとき、リスナーのありとあらゆる“欠性”(ほとんどが「もてたい」「もてたい」「もてたい」、、、)電気信号はメンバー4人のそれぞれのキャラクターをエフェクターとして頭の中のハイワットアンプでマキシマムオーバードライブされるのだ。つまり“The Who”は(言い過ぎなら、ある段階からピート・タウンゼントの考え方は)リスナーを中心に据えることにより“Rock”は完全体な真球となりとして脈を打ち転がり始めるということをリスナーに気づかせたと私は考える。“The Who”を聞くとき、ピート、ロジャー、ジョンそしてキースはリスナーとともにあるのだ。


【5.考察(2) ビジュアル】

 今回このレポートを書くにあたり、久しぶりに映画“The Kids are Alright”を何度も見た。20年以上前に手に入れた海賊輸入版のビデオはもう画像がザラザラなので思い切ってDVDを買った(宣伝するわけではないが、とても鮮明な画像と沢山のおまけ付でお得感いっぱいだ)。日本で“The Who”の人気がいまいちなのが良くわかった。しつこいようだがキャラクターがたちまくりの4人のライブはリスナーに有無を言わせず、see me, feel me, touch me できるのに、その機会は2004年までお預けだったのだ(しかもB'zのボーカルと一緒ってのはどういうことだ?おじさんファンは浮きまくりだ!)。そこに一緒に存在することにより、バンドとリスナーの疑似連帯感は一瞬にして本物のシールドとなり血管となるはずなのだ。

 具体的に映画の中の“WON’T GET FOOLED AGAIN”から感じられるものはメンバーのキャラクター大発露大会そして団子状態である。すでにMODSの顔役としての役割に終止符を打ち、いわゆるファッション的なソフィスティケイテッドとは無縁の状態だが、「それがどうした」とロジャーはマイクを振り回し、ピートは意味なくジャンプし、キースは頭にヘッドホンをガムテープでぐるぐる巻きにして暴れている。ジョンは何事もないかのように一箇所でじっとかつ恐ろしいスピードでベースを奏でている。

 極めつけは局の後半の間奏で暗転し、当時はまだ珍しかったレーザーによるスペーシー(死語か?)なライティングが繰り広げられる。ロジャーのシャウトとともに明るくなり、暗闇からピートが両膝蹴りの状態で飛び出してくるところだ。文字で書くとうまく表現できないが、私にとって、このシーンをみて何も感じられない奴とは友達にならなくてもいいという、友人試金石の役目ができるほどのものだ。

 結局映像から何が言えるかというと、「あぁ、カッコイイ」ということだ。


【6.考察(3) 音楽】

 次に歌詞を除いた部分の音楽はどうか?

 正直言ってビジュアルを含めたメンバーのキャラクターを抜きにして音楽だけ語ることはできないと思うが、あえて言うならば“WON’T GET FOOLED AGAIN”は発表当時の段階ではいち早くシンセサイザーを導入し、ミニマルミュージックというかアンビエント風なイントロから一転、ピートの振り千切れんばかりの腕回転が目に浮かぶギター音が炸裂するドラマティックな曲だ。最初のほうにも書いたが、私は1枚目(My Generation)のころはともかく2枚目(A QUICK ONE)くらいから、“The Who”は他のビートグループに比して黒っぽさが少ない気がする。この曲に関してはいわゆるブルース系のロックのにおいは感じられない。この曲のドラマティックさはどちらかといえばクラシックの交響曲のそれに近いような気がする。

 また、当時のバンドサウンドの要となるギターソロらしきものがほとんどないのも“The Who”の特徴で、ドラマティックではあるけれどもクラシック音楽に擦り寄るようなテクニカルなサウンド(「深紫」とか)にならず、いやみを感じさせない。そのような特徴たちが“The Who”のサウンドを 唯一無二のものにしていると考えられる。


【7.考察(4) 歌詞】

 一番難しい歌詞の部分であるが、ピートの文学性の高さは既に色々なところで述べられているし、また、この曲が“Tommy”に続く“Life House”という難解なコンセプトアルバムのためにかかれたものであることもよく知られたところだ。それらの観点から論じればいくらでも御託が述べられるので、あまり深入りはしないで、単純に歌詞から受けるインプレッションで考えてみようと思う。

 まず、オリジナルの歌詞(日本語版Who's Next解説に記載されていたもので怪しいところを自己の聞き取りで修正してある)の対訳を試みた。


WON'T GET FOOLED AGAIN (無法の世界)


We'll be fighting in the streets
With our children at our feet
And the morals that they worship will be gone
And the men who spurred us on
Will sit in judgment of all wrong
They decide and the shotgun sings the song

*
I'll tip my hat to the new constitution
Take a bow for the new revolution
Smile and grin at the change all around
Pick up my guitar and play
Just like yesterday
Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again

The change, it had to come
We knew it all along
We were liberated from the fold, that's all
And the world looks just the same
And history ain't changed
'Cause the banners, they are flown in the last war

(*repeat)
No, no!

I'll move myself and my family aside
If we happen to be left half alive
I'll get all my papers and smile at the sky
Though I know that the hypnotized never lie

Do ya?

There's nothing in the streets
Looks any different to me
And the slogans are replaced, by-the-bye
And the parting on the left
Are now parting on the right
And the beards have all grown longer overnight

(*repeat)
Don't get fooled again
No, no!

Yeaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaah!


Meet the new boss
Same as the old boss


子分を引き連れて街で一暴れ
ルールなんてシカトだ
俺たちを追い回すやつらも
ショットガンをぶっぱすなんて
やりすぎだ


*
新憲法ができたってね
「革命万歳!」って感じかな
( ̄▽ ̄+) ニヤッ
だけど俺にはギターがあればそれでいい
嗚々! もう騙されるもんか!
(少なくとも俺だけは)


いやおうなしに、世の中は変わる
そんなことは前から分かってたよ
おかげで暮らし向きがちょっとは良くなった
でもそんだけだorz
世界も歴史も変わりゃしない
こないだの戦争の繰り返しってこった


*(繰り返し)
絶対に!

人生も折り返し地点になったなら
家族と一緒に隠居生活だ
新聞を読み漁って笑い飛ばそう
他の奴等は催眠状態で休むこともできないが

あんたはどうなんや!?

街に変わった様子はないようだが
スローガンは次から次へと変わっていく
左寄りだったものが今度は右寄りに
そんなんだから一晩でヒゲも伸びちゃった

*(繰り返し)
全くありえない!!


イェーーーーーー!!(あー!もうピートの書く歌詞は解んないっつんだよ!!)

いい事教えてやろうか
新しい指導者に会ってみな
前の奴とそっくりだ

 どうだろうか? 直訳と意訳の間くらいで納めたつもりであるが、訳しながら気づかされたことはその精神の気高さである。

 この詩には、近代イギリス文学のアラン・シリトー「長距離走者の孤独」や、アンソニー・バージェス「時計仕掛けのオレンジ」(映画の公開がアルバムリリースと同じ1971年なのも興味深い)に通ずるただの皮肉家で終わらずに、常に思考を停止せず自分に正直であることの大切さを宣言しているのだ。その決意が固いことは、この曲のボーカルパートが珍しくロジャー一人に任されていることからもわかる。なぜならロジャーは宣言担当であり、ピートがボーカルを取るパートは“ツッコミ”の役回りであるからだ。宣言のみでツッコミは不要と判断しているのだ。

 それらを裏付けるような最近の興味深い話題として、この曲がイギリスの某有名誌で「保守的なロックソング・ベスト50」で1位に選出された件だ。選者はこの曲を「今は保守派に身を置く夢敗れた革命家たちのテーマソング」と捕らえているがそれは大きな間違えであろう。前述の通りこの歌は「思考停止の愚かさ」と「自分に正直であれ」ということであり、右だの左だのの特定の主義主張の介入する余地はないはずだ。事実ピート・タウンゼント自身も自身のブログで “Won't Get Judged Again”(もう裁かれたくない)と題して、意見表明している。曰く、


  “The song was meant to let politicians and revolutionaries alike know that what lay in the centre of my life was not for sale, and could not be co-opted into any obvious cause.”

 「この曲は、自分の心の中心にあるものは売り物ではなく、いかなる主張に利用されるべきものではないことを政治家や革命家たちに教えてやるためのものだ」。


 ビレッジピープルのYMCAやブルース・スプリングスティーンのBorn in the USAなど耳に心地よい部分だけを捕まえて勝手な解釈をされてしまうのは今も昔も変わらないようだ。


【8.結論】

 The Whoはカッコイイ。

 以上

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