▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

ドアーズの雑感(大中真慶)

【解題】
提出期限より送れて届いた早稲田二文06年前期のロックレポートをここにアップする。
大中真慶君の扱った素材は、ドアーズ。しかも2枚目までだ。そうなるのには当然、理由があって、僕の判断ではドアーズは以後、ジム・モリソンの死まで、そのバンド音楽力を低減させ、またバンド・シンボル、ジムの呪術的存在感もまた不透明な脂質に包まれてゆく。「声」がそうして力を失った点が大きい。ドアーズ型の音楽が長続きしない理由を、ジム個人とバンド力学の双方から吟味するのも一興だろう。
大中君のレポートの第一の手柄は、バンドメンバー個々に「要素」を分解し、ドアーズ的バンド音を分析的に振り返った点。僕がなるほど、とおもったのは、音の隙間こそがドライヴし、そこにジムの発声が載って、その軋みがロック感覚になる--というような大中君の指摘だった。ここで反復の睡魔性の分析が加わって、それがロック音楽構造的な反復性とどうリンクし、離れているかの指摘が加われば、論旨は満点だったろう。
そののち、大中君はジムの詩世界を、手ずからの訳詞によって細かく見つめ、さらにはテレヴィジョンとの比較、ドアーズ的なものの現在時の可能性、というふうにレポートを進めてゆく。「分量」が圧巻。参考文献の渉猟も怠りない。全体に誠実で、かつ論理的、それでも熱い血をはらんだ、素晴らしいレポートだとおもう。
一個だけ。「音楽が終わるとき」の《butterfly》は、意訳の「快楽主義者」ではなく、やはり字義どおりの「蝶」のほうがよくないか? 訳文はこうなる。《大いなる睡りに墜ちるまえ 俺は聴きたい 蝶の絶叫を》。個人的な記憶をしるせば、氷河期の氷のうえに蝶の墜落音の大反響を聴いた昭和初期の前衛俳人と同様の幻聴能力をここに感じる。
(阿部)

ドアーズの雑感(大中真慶)



ドアーズの雑感

第二文学部 社会・人間系専修2年 大中真慶


【1.ドアーズの楽曲について-ドアーズ・サウンド-】

 ドアーズの曲の特異性・独自性については常に言われているが、それはほとんど当然のごとく語られ明確に言及されていないのもことが多い。それはドアーズの解説についての内容がジム・モリソンという人物の精神性、悲劇に割かれることが大きいからで、そのことによってドアーズの楽曲に対する評価(必ずしも肯定的なものではない)はビートルズやストーンズのそれに比べて少なく、硬直しているように思う。

 なので、ここではそのドアーズの楽曲(ここでは初期の二枚にする)について再分析を試みたい。

 まず分かりやすくするため基本的な確認をすると、メンバーは

・ジム・モリソン-Jim Morrison(ボーカル)
・レイ・マンザレク-Ray Manzarek(キーボード)
・ロビー・クリーガー-Robby Krieger(ギター)
・ジョン・デンスモア-John Densmore(ドラムス)

 ドアーズにはベースがいない。なのでレイ・マンザレクがピアノ・ベースを弾きながらオルガンを弾くというスタイルをとる(一応そうなのだが2nd アルバムではベースプレーヤーがサポートしている。1stでもスタジオにはベーシストが雇われていたのでよく聴いてみる必要がある)。

 ドラムはジャズスタイルに近い、シンバルを多用する軽快なスタイル。だから一般的なロックのバンドのリズムとは異なり、ある種の軽さ、空間が出来上がる。ベースとドラムによって曲が埋まるということがない。この点についても単純な「バンドサウンドのマナー」から離れている。つまりリズムとベース(低音)によって曲を支え、その上をボーカル・ギター・その他という「うわもの」が重なるという方法論を取っていない(これはあくまで単純な見解であり、ポール・マッカートニーを例にするように多くのバンドがその方法論には当てはまらない)。

 そのことは曲のなかにモリソンの詩表現に適応できる自由な部分を生みだしている、と同時にアンサンブルが精密に構築されなければならないという条件を生み出す。この条件は非常に有効に機能したといえるだろう。

 そのアンサンブルを生み出す上でギターのロビー・クリーガーは多彩な演奏をする。1stだけでも分かるように「脱ジャンル的」、ブルース・フレーズ、リズムギターはもちろん、クラシック、フラメンコ、ボトルネックなど様々なフレーズ、奏法を行う。またベース、ドラムと同じく、音が曲を埋めることはない。曲の中でギターを弾いていない部分も多い。だからドアーズの演奏は「一見して」ヘビーではない、空間的である。またその空間的、シンプルな演奏は曲に「人工性」を与えている。

 そういった演奏のなかでのジム・モリソンのボーカルは印象的な低い、淀んだ声を出す。多くの音域を歌えるといった歌のうまさはないが、歌のなかで「表現する」ということは非常にうまい。

 これらの4人の要素と詩世界が合わさることによってドアーズの楽曲のオリジナリティーは確立されているのだ。楽曲のアンサンブルと詩世界はしっかり合わさる、また同じくらい分離する。同時に演奏の人工性とジム・モリソンのボーカルが合致/分離する。そのことによって浮かんでくるのはある種の「美」である(「ロック的な美(注1)」と言い切ることはできないが、ポップミュージックの中で時たま起きる現象であることは確かだろう)。それによってドアーズの楽曲はリスナーを陶酔させる(それがある人にとって「サイケデリック(注2)」と言わせる)。

 以上がドアーズの楽曲に対する概略だが、これから上記に記したそれぞれのメンバーの特徴についてさらに詳しく考えていきたい。なお、メンバーの歴史については今回、ジェームス・リオダン/ジェリー・フロクニッキー『ジム・モリソン ロックの伝説』を参考にした。ドアーズ(またはジム・モリソン)本は多いが、この本が古本で目を通した中でも一番詳細だった。いわゆる「ロック本」は非常に選択が難しいのだが、この本はメンバーへのインタビュー、多くの資料に基づいていたので利用させてもらった。

【a.レイ・マンザレク】

 マンザレクは、自身の左手でベースラインの循環コード、右手でジャズ/ブルースなどのジャンル横断的演奏する、というスタイルをする上で影響を受けたミュージシャンとしてレニー・トリスターノを挙げている。たしかにそうだと言えるだろう、それは彼のソロ作品を聴くと明らかだ。

 さらにトリスターノのスタイルを踏まえた上でマンザレクの呪術的オルガンを分析したいのだが、僕はこの「呪術的」サウンドに近いのはマッコイ・タイナーではないかと思う。ジョン・コルトレーンの代表作『マイ・フェイバリット・シング』におけるタイナーの循環コードとソロ演奏の精神のなかに入り込んでいく感覚を、マンザレクは一部において継承しているように感じる。これはクラシックの(特に東欧圏)影響が大きいのではないか。

 さらにはその幼いころからのクラシックの素養と、出身シカゴのブルース、リアルタイムでのジャズへの傾倒(注3)が合わさってマンザレクのバック・グラウンドとなった(また高校のときにロックンロール・バンドのピアニストとしてバーでアルバイトもしている)。だから(特にブルースの影響として)彼の演奏にはリズムが生まれ、一曲が加速するドライブ感が出てくる。

 次にジム・モリソンの詩の才能を見抜き、リーダー的存在としてバンドをまとめた功績も大きい。

【b.ジョン・デンスモア】

 彼のスタイルがほとんどジャズ・ドラム(ジャズ・ドラムのなかにはボサ・ノヴァ、ラテンなどのスタイルが含まれる。)だと言ってもいい。そのドラムがバンド・サウンドでダイナミズムを生み出そうとする指向によって、時にアート・ブレーキーのドラムソロのような力強さが加わる。

 さらにそれは一曲のなかで多彩に変化する、自由度も高い。これは演奏メンバー全員に言えることなのだが、詩の強調部分で音を強めることもする。また逆にブレイクをもたせて、空間に歌詞を放浪させる。この「静から動」という「強弱の変化」がドアーズにとって重要なキー(「強弱法」はのちのギター・バンドにとって非常に大切なものになっている。例えばニルヴァーナは代表例)。

 『ジ・エンド』でのドラムの表現力にみられるように、デンスモアの演奏レベルは高い。

【c.ロビー・クリーガー】

 彼はバンドのシングル曲の半分以上を作詞、作曲している。『ハートに火をつけて』や『ラブ・ミー・トゥー・タイムス』などのドーアーズのなかでも割とポップな、メロディーが分かりやすい曲を作れる。このことはバンドを楽曲郡を多彩にすると同時に商業的に助けた。

 彼のユニークな演奏の元となったのは、他のメンバーと同じように様々なジャンルだが、特徴的なのはクラシック・ギターによるフラメンコだ。ピックを使わず、指弾きによるアルペジオを優麗にこなすという彼のスタイルはこれによることが大きい(リズム・ギターを弾くときは全部の指を使ったらしい)。だからコードを弾いていくということはしなかった。また曲(特にバラード)によってみせるボトルネック奏法もブルース的なのと同時に幻想的である。

 三人の演奏は互いにしっかり補完しあう。長期間にわたってライブで演奏することで楽曲は磨き上げられた。

【d.ジム・モリソン】

 その演奏の中にいる彼は他のメンバーに比べて音楽の素養はないから楽器は弾けないし、ボーカルとして演奏に合わせようとはしない(だから三人が彼に合わせていく)。よって彼のヴォーカルは自由に変化し、演奏とは別の世界にいるような印象をあたえる(下記にあるように実際に「別の世界」にいたのだが)。

 彼の声質は深く低い(音域的にはバリトンに分けられている)。彼のヴォーカルはリスナーにとって陶酔的に作用し(声というのは特殊で、天性的な才能が存在するのは理解してもらえるだろう)、詩世界をうまく表現する。その際、面白いのは声の表現によって詩の表現領域を広げてしまうことだと思う。

 クリーガーがどういう意味で「Light my fire(ハートに火をつけて)」を書いたかは定かではないが、ジム・モリソンが「Light my fire」と歌う時、それはほんとうに体に「火をつける」という感覚を表現する。

 彼の声は彼の汗の香り、精液の匂い、その体が燃える臭いを発する。それは音楽のなかで起こる奇跡の一つであろう、マイクを通してテープに刻まれ、レコードの溝に彫られ、CDに電気信号化されたとしても「臭う」のだから。それはドアーズの楽曲を決定的に呪術的なものにしている。本当に唯一の声である。

【e.録音法】

 参考本を読んで初めて知ったことに録音法の独自性があった。エンジニア、ブルース・ボトニックの発言から引用する。

 《サンセット・サウンドは、レコーディング・スタジオしては初めて遊離室を設けたんだ。だからわれわれは、ジムをバンドの連中から10フィートも離れた遊離室に入れることにした。そこからだって窓越しにインターアクトできるからね。だけど、ヴォーカルと音楽のあいだは100パーセント、断絶状態だったし、そいつが最高の効果を生んだ。ヴォーカルに音漏れが全然ないのにインストルメントには適度な音漏れがあるんだから、これがあの独特なライヴ感を生み出すのさ》

 この録音法がジム・モリソンの声の独自性引き立たせる上で一役買っていることも頭に入れる必要がある。

【2.ドアーズの詩】

 次は具体的に曲を挙げて、ドアーズの詩について考えていきたい。また同時に楽曲についての分析も行う。

 原詩についてはドアーズのオフィシャル・サイトにすべて掲載されているため、それを利用した。また訳詞は僕が試みた(僕の所有している二枚の内、1stアルバムは輸入盤。2ndの訳詞はビジネス日本語協会)。

a.『Moonlight Drive 月光のドライブ』

月まで泳いでいこう
ねえ
(この月の光の)潮をかきわけてさ
静まり返った眠る街の夜を突き抜けて

今夜は泳ぎ明かそう 愛する君
(今夜は)僕らの番
海のそばに車を止めて
月光のドライブだ

月まで泳いでいこう
ねえ
潮をかきわけてさ
ひたひた寄って僕らを待ってる世界には降参だ

なにも明かされてないし
決断する時間だってない
僕らは川に入っていった
月光のドライブだ

月まで泳いでいこう
潮をかきわけていこう
君は僕の手に掴まってるけど
僕は君のガイドにはなれない

君がたまらなく愛しい 君が(流れの中に)滑り込むのを見てると
ぬれた街の中を落ちていく
月光のドライブだ 月光のドライブ

来なよベイビー ちょっと出かけよう
海岸線に沿っていこう
本当に近くまで寄り添うんだ
マジでぴったりとだよ
ベイビー 今夜は深くまで行こう
もっと深く深く深くね

 歌詞を最後まで読んでいった人は驚いたのではないだろうか。「月光のドライブ」というロマンチックなイメージから突然、暴力のイメージが入り込んでくるのだから。月が照らし出す静かな街の中(または月光にかがやく海)をドライブする、という美しい幻想のなかから心中の可能性が出てくる。しかしこの「死」のイメージは詩の美しさを壊さない、むしろ増大させる。月の光に照らされる海に寄り添って入っていく行為の、耽美さ。この曲はジム・モリソンの詩における「死」のイメージをよく表している。

 楽曲は美しい詩のイメージをさらに引き立たせていて、リーガーが浮遊感のあるスティール・リックをするのが印象的だ。

b.『Horse latitudes 放牧地帯』

静かな海が鎧をまとい
憂鬱な発育不全の
流れが小さな怪物を生み出す時
真実の航海は終わりを告げる

ぎこちない瞬間
やがて最初の獣は投棄され
その脚を猛烈に奔らせる
こわばった若いギャロップ
頭を持ち上げ
均衡
デリケート
中断
同意
鼻孔の苦悩
慎重に選別されて
(海の中に)閉じ込められる

 文語調の堅い雰囲気を持つ詩。モリソンが高校生の時に書いた、と言っている詩。『放牧地帯』というタイトルといい、内容がいまいちわかりずらいように思われるが、モリソンの説明している、「無風地帯で船が荷を軽くするために馬(スペイン船が新天地アメリカに運ぶ使役馬だと説明している)が投げ捨てられる」というストーリーを頭に入れれば、わかりやすい。

 後半からは映像が馬の一部にズームアップされ、沈んでいく様子が表される。音は演奏というよりも様々な音が入ったミュージックコラージュ的な内容、その終わりにかけて洪水化していく音像の中を、モリソンが嵐の中を叫んでいるように詩を朗読する。詩だけをとるとディラン・トマスの雰囲気に似ている。

c.『Break on thorugh (to the other side)』

昼間が夜を砕くのがわかる
夜が昼をかち割るのが
逃走に挑み
隠れようとした
向こう側に突き抜けろ

ここで僕らは喜びを追いかけた
そこで宝を掘った
だが君はまた呼び起こせるのか
僕らが泣いた時間を
向こう側に突き抜けろ

みんなが僕のベイビーを愛する
みんなが僕のベイビーを愛する
彼女はなるんだ
彼女は得るんだ

僕が見つけた君の腕の中の島
君の目の中の国家
僕らをつなぐ腕
嘘をついた目
向こう側に突き抜けろ

週から週へとシーンを作った
一日、一日 一刻、一刻
入り口は直線
深く広がる
向こう側に突き抜けろ
イエー、イエー

 1stアルバムの冒頭の曲。ドアーズの演奏の力強さが感じられる。速いボサノバ・ビートからベース、ギターが入り、モリソンが「Break on to the~」と急に叫ぶように歌うところで、演奏も急にドライブする。強弱法のいい例ではないだろうか。ディストーションの聞いたギターといい、ドアーズの中でもロック調。中盤のオルガンソロは『ハートに火をつけて』と同傾倒ともいえ、曲をさらに加速させる。だが、重要な鍵となっているのはクリーガーのギターで、ヴァース以外での低音でミュートされたようなキック的音塊が今聞いても新鮮である。

d.『Soul kitchen』

さあ時計が閉店を告げた
店を出た方がいいみたいだな
一晩中ここにいたいのだけど

通り過ぎる車の奴らの嫌な目
街灯はうつろな光を保ってる
あんたの脳みそなんて麻痺していかれちゃったみたいだ

行けるところはまだ残ってる
一つだけ行けるところ

今晩はあんたのソウル・キッチンで寝かしてくれよ
暖かいストーブで僕をあたためてよ
ひっくり返って僕は驚くだろうな ねえ君
つまずいてるんだ ネオンに包まれた通りで

あんたの指は即席の尖塔をこしらえ
秘密のアルファベットで会話する
もう一本タバコに火を付けるよ
忘れるために学ぶのさ
忘れることを学ぶんだ
忘れるために学ぶのさ
忘れることを学ぶんだ

 自身を暖めてくれるソウル・キッチンを求める姿がせつない詩。「Learn to forget 忘れるために学ぶ/忘れてることを学ぶ」というラインは聴き手に様々な解釈の余地を与える、言葉の使い方が巧みだ。リズムは単純な8ビートだが、ベース(これはオルガンではない)が粒のある音で曲全体のリズム、さらにイメージを支配している。

e.『Crystal ship』

君が意識を失う前に
もう一度キスしたい
幸福でフラッシュする瞬間
キスしよう

日々は鮮明で痛みで満ちてる
君の優しい雨の中に閉じ込めてよ
君が逃げた時はいかれすぎてたんだ
また会おう

どこに君の自由があるのか教えてくれ
通りは不死の原なんだ
運び出してくれ
なんで君が泣かなきゃならないのかって理由から
なぜ僕が飛び去らなきゃならないのかって理由から

クリスタル・シップが満員になってく
千の女達 千のスリル
百万の暇をつぶす方法
僕らが始まりに戻った時には
手紙を書こう

 バラード曲。詩の内容は恋人と別れた主人公がノアの箱船的に世界を終わらせて、また二人の関係を初めからにしようとしているのだろうか。情感を込めて歌うモリソン。オルガンがコードを弾き、ギター、ピアノが美しい陶酔的なメロディを弾くという構造だが、ここでもクリーガーの役割は大きい。ギターの音色がクリアでピアノとの音の選別があいまいになるくらいだ。曲を美しいものにしているのはこの二つの高音部パートだろう。

f.『Alabama song』

さあウイスキーバーまでの
道を教えてくれ
理由は聞かないでほしい

そのウイスキーバーが見つからなかった時のために
私達は死ぬはずだって言っとくよ
言っとくよ 私達は死ぬんだ

ああ アラバマの月
さよならを言わなくちゃならないね
我らはグット・オールド・ママをなくしてしまったんだ
ウイスキーをやろう ああ 君は知ってるだろう

さあ 次の少女までの
道のりを教えてくれよ
理由は聞かないでほしい

そのウイスキーバーが見つからなかった時のために
私達は死ぬはずだって言っとくよ
言っとくよ 私達は死ぬんだ

ああ アラバマの月
さよならを言わなくちゃならないね
我らはグット・オールド・ママをなくしてしまったんだ
ウイスキーをやろう ああ 君は知ってるだろう

 フラメンコ調、中近東的スモーキーさのある変わった曲。チェンバロが使われて、クラシック、というよりも宮廷的な趣もあるが、これはマンザレクのアイデアか。リズムギターがレゲエなのも面白い。そもそもこの曲は1930年代のドイツオペラ『マハゴニー市の勃興』(クルト・ワイル作曲、『三文オペラ』で有名)が素材であり、そのオペラの内容、「あらゆる快楽を売りに出し、貧困以外はなんでも許可する」と言った内容のイメージを詩にも転化させている。この詩には次の酒、女を求めてさまよう退廃がある。グット・オールド・ママをなくす、という帰る場所がない寂寥もある。

g.『Light my fire ハートに火をつけて』

君はそれがまやかしだって知ってる
僕が嘘つきだって知ってる
もし君に言ったとしても
ねえ君 もっといい気分になろうじゃないかと
(いまよりもいい気分にはなれない)

さあ 僕に火をつけてくれ
夜を燃やしてしまおう

ためらう時間は行ってしまった
ぬかるみでもがく時間はないんだ
ただおちていくだけにしよう
そして僕らの愛は火葬の薪になってしまう

 ドアーズの代表曲。クリーガーによって作詞・作曲された。市の方は単純なセックス・ソングといえるが、上記のようにモリソンの歌唱力によって、かなりの深みが与えられている。最後の「僕らの愛は火葬の薪になる」という表現は意味深だが、これはモリソンが付け足した部分。

 演奏はオルガン、ギターのロングソロもあり、ロックというよりもジャズ。ジャズ・ロックという表現を使っても間違いはない。一気にリスナーを捕らえるようなオルガンのイントロから曲が始まると、モリソンが低音で奥行きのある歌声を披露し、長い間奏に入る。

 ここでの三人の演奏は優れている、僕が上記で興奮気味に書いてしまった三人のここの演奏の魅力が詰まっている。この演奏、曲には多大な陶酔と興奮があり、もし音楽が逃避の手段であるとしたら、これは7分間の逃避だ。間奏で十分な興奮を与えた後、再びモリソンが歌い、曲が終わる。歌→間奏→歌という大胆な構成と間奏部分での各楽器の絡み合いを意識した綿密な構成が対照的。それでいて何故か「ポップソング」として成立している。

h.『Love me two times』

二回愛してくれ、愛する君
今夜は二度やろう
おれはいっちまう

二回愛してくれ、かわいい君
一つは明日のため
一つは今日のため
二度やろう
おれはいっちまう

一度おれを愛してくれ
今週はずっと愛してくれよ
二度やろう 二回やろう
いっちまう おれはいっちまう

 2ndアルバムに戻り、そのシングル曲を。この曲もクリーガーの作詞・作曲。さらにこの曲も単純なセックス・ソング。この歌詞のシンプルさはクリーガーが作曲を重視していることが大きいと言われていることが多いらしい。しかし、クリーガーには単純な歌詞を深みのあるものに変えてしまうモリソンの表現力を理解していたのだと思う。またポップ・ソング、さらに言えばシングル曲を作るという自負もあったのではないか。

 曲はクリーガーのブルース・ギターが元となったブルース・ロック。さらにチェンバロのソロが加わり、ドアーズの脱ジャンル的曲になっている。特にギターはシンプルなようで演奏力に驚かされる。

i.『Strange days』

不思議な日々が僕らを捕らえた
奇妙な世界が僕らを突き止めた
僕らのたわいない遊びを壊そうとしてる
遊び続けようか それとも新しい街を見つけようかな

奇妙な目が見知らぬ部屋に溢れてる
声は疲れきってることだろう
女主人はにやりと笑ってるし
客はおかまいなしに眠ってる
僕が罪について語ったら
君はそれこそが罪だとわかるだろう

不思議な日々が僕らを捕らえた
その奇妙な時の中を
僕らは一人でふらついてた

体は混乱して
思い出は悪用された
その日々から(僕らが)
麻痺した不思議な夜に
逃げ込んだ時には

 歌詞はシリアスにとらえれば「若者達を自由にさせない世界」みたいに考えられるし、単なるアシッド・トリップともとれる。まあその中間くらいだろう。この曲のポイントはオルガンとおそらくギター・フィードバック音のオーヴァーダブ。そしてブレイク前に一気にロック調に変わるというドアーズのパターン。エコーかかりすぎな気もしないでもない。そんな曲。

j.『When the music's over 音楽が終わったら』

イエー 来なよ
音楽が終わったら
音楽が終わったら
灯りを消して

音楽は君の特別の友達だから
されるがままに激しく踊るんだろ
音楽は君の唯一の友達
その終わりまでは

復活への申し込みを取り消してくれ
勾留場へ僕の信任状を郵送してくれ
中には友達がいるんだ

鏡の中の顔が動きをやめない
窓の中の娘はいなくならない
彼女は叫んだ
大勢の元気な友達が外で待っていると

ぐっすり眠りに落ちる前に
聞きたい
聞きたい
快楽主義者の叫び声を

戻っておいで ベイビー
僕の腕の中に
うろつくのにも疲れたな
ぶらぶら待つのにも
下を向きながら

とても優しい声が聞こえる
とても近くて
いや とても遠い
すごい穏やかで
いや すごいはっきりしてる
今日がやって来る
今日がやって来る

そいつらは世界に何をしたんだ?
汚れなき妹に何したんだ?

破壊し略奪し
引き裂き
噛み付いた
ナイフを突き刺した
夜明けの時間だって言うのに
フェンスに縛りつけ
引きずっていった

とても優しい音が聞こえる
大地に耳を近づけると、、、
おれたちはその世界(復活した新しい世界)を求めてる
おれたちは世界の復活を願ってる、今
今なのかって?今だ!

ペルシャの夜を ベイビー
灯りを見てみなよ ベイビー
我らを救いたまえ!
イエス!
救いたまえ!

音楽が終わったら
灯りを消して

 このあとの『The end』に比べると詩のイメージは散らかっている。「音楽は終わるまでは友達」というのが音楽の時間的制約をうまくとらえている。モリソンは「朝がやって来る煩わしさ」を書いているように思える。夜は唯一の友達である、音楽と自分(達)だけの世界だったのに、夜明けが来てしまうと、もうその世界はなくなってしまうのだ。部屋に日の光が入り込んで来て、僕らの脱いだシャツや下着、飲み残しのあるグラス、なんかが見えると、素敵な世界はもう跡形もなくなってしまう。これは僕のナイーブな解釈。

 演奏の方は一応オルガンのリフが基盤にはなっているのだが、10分以上の曲のなかでそれぞれの小技を挟みながら、強弱をつけ変化していく。この曲を聴くとジャズ的だ、とまた言ってしまいそうになるが、違うのはモリソンの詩の朗読と呼応していること。ほぼベースだけになったしずかな部分から、モリソンの叫びに合わせて各パートが一斉に演奏する部分(ペルシャの夜を!)はやはり刺激的。

k.『The end』(この訳詞は『ジム・モリソン~』を引用、訳されていない部分は加筆した。)

これで終わりだ 美しい友よ
これで終わりだ おれのただ一人の友よ

おれ達の手の込んだ計画は終わった
存在するすべての終わり
終わり

安心もない 驚きも
終わり
おれはもう君の瞳を見ることはない

思い描いてみろ、何がどうなるかを
広々して自由な
絶望的な思いで探し求めている
見知らぬ人の手を
絶望的な土地で

苦痛というローマの荒野で迷う
子供達みんな精神異常
子供達みんな精神異常
夏の雨を待ってる
町外れには危険がある
王のハイウェイに乗れ
気味の悪い光景の中に黄金の心が
ハイウェイで西へ行け ベイビー

蛇にまたがれ
湖まで

いにしえの湖さ ベイビー
蛇は長い
7マイルある
蛇にまたがれ
年寄りで
しかもその膚は冷たい
ウェスト・イズ・ベスト
こちらへ来い 休息を取ろう

ブルーのバスがおれ達を呼んでる
運転手さん、おまえはどこへおれ達を連れていくんだ?

殺人鬼が夜明け前に目を覚ました
彼はブーツに足を入れた
古代の画廊から仮面を盗った
そして彼は玄関に足を踏み入れた

彼は妹が眠っている部屋に忍び込んだ
そして彼は弟の部屋にも顔をだした
そして彼は、玄関に足を踏みいれた
ドアのところにやって来た
そして彼はなかを覗きこんだ
「父さん?」
「なんだね、息子よ?」
「おれは殺したいんだ、あんたを
 母さん、おれはあんたと(ファックしたい)」

いいぞ、ベイビー 一か八かおれ達に賭けてみろ
そしてブルー・バスの後ろでおれと会おう

これで終わりだ 美しい友よ
これで終わりだ おれのただ一人の友よ
終わり

おまえを自由にするのはつらい
でも、おまえはもうおれにはついては来ないんだ

笑いのを終わり、そして罪のない嘘の
おれ達が死のうとしていた夜の終わり

これで終わり

 この曲は扱わなければならないだろう。そもそもこの曲でレポートを書いてもよかった。なぜしなかったというと、すでに多くのことが言及されてきたので、あまり書くことはないと思ったから(この曲については『ジム・モリソン ロックの伝説』に詳しく書いてある)。

 迫真の演奏。この煙たいインド音楽のスケールはクリーガーのアイデアか。すごいと思う一方、この曲がサイケデリック、またはプログレの誇大妄想的なロックの拡大をもたらしたのは確か。この曲を手放しに絶賛しするやつは、ツェッペリン好きだよ。67年だから成立し得たとも言える曲。

【3.テレヴィジョンとの比較】

ドアーズの曲は人工的な響きを持っていると記したが、その『人工性』から僕が連想するのはテレヴィジョンだった。また両者が指向する美的感覚は共通のものだと思われる。それは両者に見られる詩の「逸脱性」、曲の持つ「退廃性」が主な要因ではないだろうか。

 テレヴィジョンのボーカル/ギターをとるトム・ヴァーレインの声はその色気という点でジム・モリソンと近い。加えてヴァーレインの声は「人工的」で(阿部先生は「プラスチック感」と言っていたが、こちらの方が適切かもしれない)、これはモリソンにあまりない要素だ。繰り返すがドアーズに見いだされる「人工性」は演奏/楽曲面にあるのであって、モリソンにはないのである。

 またヴァーレインは、1stのジャケットで見られるように頬が痩けていて低体温で爬虫類のように見える。モリソンは途中から自身のことを「トカゲの王様」と名乗ることになるのだが、こちらも「爬虫類っぽさ」ではヴァーレインの方が当てはまっている(もっともモリソンがその形容を使ったのは、悪魔的イメージを表すためのジョークのようなものだった)。

 あとヴァーレインは高音の歌声で、(特に音をのばすと)喉を嗄らすように歌うのも特徴。これはパティ・スミスの影響か、もしくは腹筋を使わないで発生することが多いパンクの特徴を体現している。

 バンド演奏はトーキング・ヘッズとも近いNYパンク、つまりギターの音が鋭角で、ドラムのリズムが角ばっている演奏。ギターカッティング、ハットの使い方などを聴くと、その後のニュー・ウェーブという流れの大きさ感じさせる(注4)。ドアーズの楽曲とはちがいシンプルでタイトな衝動性がある。退廃的という点では似ているが、ドアーズのような呪術性、カオス的要素はあまりない。そして誤解を恐れずに言うならば白人っぽい、だから都会的にスマートな印象を受ける。

 と、具体的にドアーズとテレビジョンの共通点、相違点を挙げたわけだが、今回両者を比較した理由である「美的感覚」に話を進めよう。両者の詩は共に単純な歌詞の枠にとどまっていない、文学的バックグラウンドがある。意味が逆転する可能性をはらみながら、言葉からイメージされる情景が美しい(モリソンの程のワイルドさ/暴力性がないかわり、ヴァーレインの詩の方がよりストーリー性がある部分はルー・リード譲りだろうか)。両者それぞれ、それだけとっても評価される詩が魅力的な声で歌われる、表現される。

 このことは音楽全体において意外と少ない割合ではないか。そこに優れた楽曲が合わさることなると数はより少なくなる。詩、声、楽曲が個々に個性があると、それらから受ける印象が聴き手のなかで一致したり、ブレたりする。そこに魅力のある「美しさ」がある。さらに両者は死に惹かれていくような退廃的な感覚が美しさを覆っている。

【4.現在から見たドアーズ】

 ドアーズをかなり褒めたたえる文章を書いた。彼らの曲を聴いて頂ければ、理解してもらえると思う。彼らの曲は今でも新鮮だし、詩の持つ力や演奏力も同時期のロック全盛期のバンドの中で郡を抜いてる。実際に今現在もドアーズの人気は高い(ああなんてジム・モリソンのTシャツを着たやつが多いことか)。

 しかし『The end』で書いたように、ある意味ロックの終わりを作り出したとも思ってしまう。自己陶酔的な音楽は、それ自体の世界を拡大させ、同時にリスナーを個別化、孤独化させる。もし音楽が元来僕達が共に歌い、楽しむものであったのならば(かなりナイーブな仮定だが)、それはなぜなのか。現在においては、僕達が単純に「ロック」と言っている音楽のリスナーはアメリカではほとんど白人になってしまっているし、日本でもロック好きはロック好きで(さらに細分化されて)別れる人達が多いのものは否定できない。

(そうではないことは多いけれど。またクラシックの世界では、その分化はずっと前に起こっていた。そのことに反する形で存在していたポップ・ミュージックから生まれたロックはまた同じ道を辿ったのかもしれない)。

 またジム・モリソンを神格化することも、音楽をリスナーのものではなくしてしまい、音楽のアーティスト主義を押し進めたことを端的に表している。

 現在において、たぶん必要とされているのはロックのライブ的な、アーティストの音楽を受容する共有空間ではないと思う。むしろその場全員が楽しめるような脱アーティスト的空間ではないか(だからダンス・ミュージックが存在している)。今年出たソウル・フラワー・モノノケ・サミットの作品を聴いてそう思った。その点においてドアーズと同時期のディランがルーツ・ミュージックに向かったのは、かなり興味深いわけで、ここ数年のディラン・ブームはそのことも要因だろうか。

 この見解はかなりの片寄りがあり、僕自身の好きな音楽の大部分を否定しかねない。だが現在の音楽が向かっているのはドアーズの先ではないはず。まあ多分みんなドアーズ聴くだろうけど、僕も含め。

注1)「ロック」という単語の使用については考えなければならない。まずジャンル区別の問題がある。まず音楽ジャンルを大きく捉えた場合であり、例えば「クラシック/ジャズ/ロック」という具合。次に前文のジャンルにおける「ロック」のなかでのジャンル分け、「ロック/パンク/ニューウェーブ/オルタナティブ・ロック」と言った使い方で、この場合のロックは60年代半ばから70年代後半(つまり阿部先生が常に言及している75、6年の「ロック」の力の急激な低下)でなくなったことになる、これは欧米のメディアの一般的区分になっている。僕はこの混乱をさけるために前者においては「ポップ・ミュージック」とすることにしている。ポップ・ミュージックの中には「ヒップ・ホップ」や「レゲエ」なども僕は含むと考えている。

 この点においてもまた多彩に基準が存在するわけで、「ABBAとドアーズはPOP/ROCKとして同じフロアにあるが、ボブ・マーリーはレゲエのコーナーにあるではないか。」とか「ブルース・ロックはポップ・ミュージックだとして、ブルースはどうか。」という疑問、批判が出てくるだろう。それはとても困難な問題で、文化論には常にその「ジャンル」の問題が存在する。その基準は個々によって恣意であるし、個人にとっても可変的である。しかしそのことは「ジャンルの否定」には結びつかない。「無ジャンルの可能性」を内包しながら、ジャンルは存在している。それは社会学者のなかで常に論争になる「階級」の問題とほぼ一致する。だから僕は「ジャンル分け」を意識的に行う、そのことによって本レポートで使うような「脱ジャンル的」という表現ができるのだと思う。

 次に精神論的、感覚論的に「ロック」を使用する場合。例としてはニール・ヤングの『Hey hey,my my』にあるような「ロックンロールは死なない」という表現だ。(ニール・ヤングは「ロックンロール」と歌っているが、これは精神論的な「ロック」の使用方なのは明確。)この使用法は音楽だけじゃなく、これまた恣意的、可変的に使われているし、前者の使用法と相まってさらなる混乱を引き起こす。

 この問題に決着をつけることは勿論できない。

注2)「サイケデリック」とは何か。これは「注1」と同じく難しい。果たしてドアーズはサイケデリック・ミュージックに含まれるのか。

注3)マンザレクは1939年生まれであるからビートルズのメンバー(ジョンとリンゴは40年)よりも年上。軍隊のバンドのピアニストとして二年間従軍していたこともあり、いわゆるヒッピー世代とは重ならない。むしろビート世代か。しかし、マンザレクがクリーガーとデンスモアに会ったのはマリハシのメディテーション・センター。

注4)彼らは74年からニューヨークでライブを行ってる。レッド・ツェッペリンに代表されるハード・ロック、フロイド等のプログレッシブ・ロックなどがイギリスから世界を覆っていた頃、彼らを含む、ニューヨーク・ローカル・バンド達はバンド・サウンドをタイトにまとめあげていた。そのNYパンクのバンド達の流れをマルコム・マクラーレンが持ち帰って、セックス・ピストルズという、より分かり易い(つまり商品化しやすい)イメージとして作ったわけだ。 NYパンクのルーツはストゥージス、MC5のデトロイトのオリジナル・パンク(パンクのルーツとして後からこういわれている。)であり、そのまた前はソニックスに代表されるガレージサウンドとされている。ここまで来るとロックンロールの要素が濃厚、出自がロックの外にあるドアーズに対して、ソニックスはロック外の参考はあまりないように思う。そのようにロックンロールを徐々に変化させていったパンクが後になって新たな価値観として登場する、というのは興味深い。

参考資料

音源
・The doors『The doos』/1967
・The doors『Strange days』/1967
・The velvet underground & Nico『The velvet underground & Nico』/1967
・Patti Smith『Horses』/1975
・Television『Marquee moon』/1977
・Television『Adventure』/1978
・Talking heads『More songs about buildings and food』/1978
・Talking heads『Remain in light』/1980

文献
・ジェームス・リオダン/ジェリー・プロクニッキー(訳:安岡真/富永和子『ジム・モリソン ロックの伝説』/
1994年/東京書籍

ウェブサイト
・The doors official website(http://www.thedoors.com)

●同じカテゴリー「2006年度 早稲田大学前期義転載レポート」: リンク一覧

up