▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

CANについて(浅田 諒)

【解題】
 ジャーマンロックについては最初「ミュージック・マガジン」はずっと冷淡だったとおもう。無視されていたに近い。「フールズ・メイト」等の雑誌が70年代末期になってから、70年代初期の彼らの活動を再評価した印象がある。YMOが依拠したクラフトワークが脚光を浴び、そこにいたる流れが遡られたのだった。

 戦後補償のため経済や表現活動が徹底的に沈潜していた西ドイツの事情がある。むろん音楽の国だから、専門学校での音楽学習者は多かったが、英語圏で生じるロックムーヴメントにはずっと閉じていて、68年ごろ、世界的な学生運動の潮流に乗り、西ドイツの音楽学生たちは、ロックに接近していった。採譜も可能な高度な技術をもつ彼らはロックの頂点を最初から楽理的に追求してしまった。それで時間軸を飛ばし、ビートルズとザッパを同時聴取するという異変が起きる。ブルース→R&Bを聴いていたという事前体験の熟成はない。結果、グルーヴのない音楽が生まれ始めた。とくにファウストはそうだろう。頭脳派の、ザッパ的コラージュを目論んだ徹底的なスタジオワーク音楽。ディストーションギターがジミヘンばりに響くグルグルも本質は脱グルーヴだった。

  で、浅田諒君が俎上に乗せたCANはどうだったか、という話になる。

 CANはのちのインダストリー・ノイズの雄、ノイバウテンが駆使したハンマービートの嚆矢とされる。だが、ハンマービートも等質に工業的金属音を演奏時間に打ち込むだけで、実はグルーヴ感をもっていない。グルーヴとは楽器間のアタックの微妙なズレや、加速してないのに加速を錯覚させるバンド全体の推進力に関わり、それはむろんリズム細分を生きてしまう黒人的身体性と連結していた。

 浅田君のCAN理解は正確だし、情報性に富んでいる。彼はCANに、黒人グルーヴ的でない「白さ」を共感覚するのだが、それはヴォーカルに専門性のないマルコム・ムーニー(黒人彫刻家だった――この人には発狂神話がある)、ダモ鈴木(ヨーロッパを流浪する日本人ヒッピーだった)が続々と「歌」に起用された点が大きい、とする。声を「楽器」のひとつとして後景化すること。そう、その脱中心性がCANの音全体の浮遊感なのだった。ヴォーカルの弱さ、しかもその英語力の弱さと、カローリの伸びのあるギターの音、シューカイのペースの縫い込み、リーヴェツァイトのドラムの均質(しかも多用されるシンバルの振動=ジャズ出身だった)は、それぞれ本来は分離可能な別次元のものだが、それが同時化されて音場が成立すると、全体に白い隙間を孕んだままの薄い拡がりができる。それが哀愁感が伴ったときCANは「欠性」ロックの独創に達した(僕は『サウンドトラック』と『タゴマゴ』、つもりダモ鈴木在籍時代がCANの絶頂だと考える)。

 浅田君がしるした、CANの音作りの話、僕はなるほど、とおもった。採譜能力のある演奏者たちだが、全体構成をせず、ひとりが自発的に出した音に合わせ、自らの音を参入させる。アイコンタクトと身体的共鳴でつくられた音楽だったということだ(初期のゆらゆら帝国の音づくりに似ているのではないか――ただ、ゆら帝の場合はギターの坂本慎太郎が中心化していたろうが、CANは徹底的な脱中心性を堅持した)。

 浅田君が適確にしるした以外のことで、CANについて知りたいこと。まずは歌詞(僕は輸入版LPしかもっていない)。それと、68年の結成、日本人ヒッピーを入れたことからCANと「68年革命」のコミットが感じられるが、それにエピソード的な詳細があるか。さらには、ジャーマンロックとニュージャーマンシネマの併走は明らかだが、『サウンドトラック』というアルバムもあるCANは、映画音楽に、あるいは音楽の映画性(のちホルガー・シューカイのソロがそれを明らかにする――ザ・バンド解散後のロビー・ロバートソンのソロと感触が似ていたといまになっておもう)にどうアプローチしていたか。

  何しろ文献的なものが足りない。浅田君、でなければ誰か、教えてください。その意味で浅田君がまとめたCANの年譜はすごく重宝です。
(阿部)

CANについて(浅田 諒)



ロック未経験者がつくりだした哀愁と白さ
       ――CANについて

第二文学部 社会・人間系専修5年 浅田 諒


  今回のサブカルチャー論は70、80年代のロックを中心に講義が行われた。先生には申し訳ないが、第一回目の授業で様々なバンドを挙げたうちの一つにCANが入っていた時、その時点で今回のレポートはCANでいこうと決めていた。中学時代に、英語の先生から録音してもらったLED ZEPPELINのテープをよくわからないまま50回くらい聴き倒して、気づけば好きになっていて、いわゆるハードロックの有名どころをちらほら聴いていたので、そっちの方を改めてしっかりと聴き倒してレポートを書いてみたい気持ちもあったが、CANは改めてしっかりと聴くというよりは、いつまでもさりげなく聴き続けるであろうバンドだし、現在も自分の中で色々考えさせるバンドなので、今回はCANに軍配が上がった。
 ではまずCANの遍歴をざっと見てみることにする。


●1968年

 パリの5月革命からおよそ1ヵ月後の6月、ドイツのケルンで、イルミン・シュミット、デビット・ジョンソン、ホルガー・シューカイ、ヤキ・リーベツァイト、ミヒャエル・カローリの5人でスタートする。

 彼等は、イルミンが美術商から借り受けたケルンにあるネルフィニ城館の一室を、卵のケースと軍用品のマットレス等で防音加工し、「インナー・スペース・スタジオ」と名づけ、ひたすらセッションを重ねる。この時点で音源はまだ発表されていないが、ライブを1度行っている。

 秋にはマルコム・ムーニーがボーカルとして参加。彼はそれまで全くボーカル経験の無い彫刻家であるが、ホルガー・シューカイは「マルコムは僕等に何かを示してくれた」と言っている。その後、フリーミュージックに専念するためデビット・ジョンソンが脱退。そしてバンド名をCANと名づける。


●1969年

 知人のレーベル[ミュージック・ファクトリー]より限定500枚の自主LPとして「Monster Movie」(1st)をリリースする。これが好評を博し、12月、ドイツの[ユナイデッド・アーティスト・レーベル]から再リリースされる。同月、ボーカルのマルコム・ムーニーが精神に異常をきたし、アメリカに帰国する。


●1970年

 5月のツアー中、ミュンヘンのレオポルド通りにて、旅芸人/ハプニングアーティストとして、ヨーロッパを放浪していたダモ・ケンジ・鈴木に声をかける。ダモ鈴木、「他にすることがないから歌ってみよう」。こうして二代目のボーカルが誕生する。

 秋、2作目「Sound tracks」発表。これは彼等が録音していた映画のためのサウンドトラックをアルバム化したもので、マルコム・ムーニーが2曲、ダモ鈴木が4曲(CAN参加からわずか3ヶ月のうちに録音されたもの)ボーカルをとっている。


●1971年

 3作目「Tago Mago」発表。LP2枚組だが、もともとは1枚で出す予定だったものに、スタジオでのアウトテイク等を集めた1枚を加えた形で発表された。


●1972年

 古巣のネルフィニ城館からケルン郊外の旧映画館にスタジオを移動。名前は「インナー・スペース・スタジオ」のまま。

 4作目「Ege Bamyasi」発表。このアルバムには人気テレビシリーズ「ナイフ」のテーマ曲にもなった「Spoon」が収録されており、この曲はドイツ国内でチャート・ナンバーワンにもなった。


●1973年

 60日間に渡るヨーロッパ・ツアーを終え、秋、5作目「Future Days」を発表。

 11月、ダモ鈴木がキリスト教系の宗教集団に入信し、脱退。


●1974年

 英国内のみ15000枚の限定発売という形で、ユナイテッドアーティスツ時代の未発表音源を集めた「Limited Edition」を発表。

 イルミン、ホルガー、ヤキ、ミヒャエルの4人編成では初となる「Soon Over Babaluma」を発表。ボーカルはミヒャエルとイルミンが担当する。


●1975年

 7作目「Landed」発表。初の16トラックによるレコーディング。


●1976年

 「Limited Edition」にさらに未発表曲を加えてリリースされたアウトテイク集「Unlimited Edition」が発表される。

 さらに同年、通算8作目となる「Flow Motion」を発表。シングルカットされた「I Want More」はイギリスで26位まで上がり、CANにとってイギリスでの最大のヒットとなった。


●1977年

 ホルガーが音響に専念するため、元トラフィックに在籍していた黒人ベーシストのロスコ・ジーとパーカッショニストのリーバップ・クワク・バーを迎える。

 9作目「Saw Delight」を発表。


●1978年

 後にメンバーも失敗作だったと認める10作目「Out Of Reach」を発表し、メンバーは解散を決意。


●1979年

 解散が決定してから作られたラスト・アルバム「CAN」を発表。ここでバンドCANの歴史は終わる。


 ここまでうだうだと経歴を書いてしまったが、彼等の経歴はただの情報としての経歴ではない。この上記の経歴の中からもCANというバンドの独創性の一部が見えてくる。

 それはボーカルの役割である。初代はマルコム・ムーニー、そしてその次にはダモ鈴木。いずれもボーカル経験者どころか、実はそこまでちゃんとした形で音楽と関わっていたわけではないこの二人をボーカルに据えたところにCANの目指していた一つの方向性が伺える。その方向性とは、言葉の意味から出来上がるメッセージ性を重視しないと言うことである。重視しないと言えば消極的に聞こえるが、つまりはボーカル=人間が歌うという行為と、それぞれの楽器で演奏すると言う行為は平等に扱われ、その総合体として、一つの音(メッセージではなく)に向かおうとしたのである。事実、ダモ鈴木はあるインタビューで「メッセージを歌いたくない」と言っている。

 ここからもわかるように、CANは具体的な社会状況などに対して向けられた音楽ではないのである。彼等の目指すところはただ一つ「イギリスやアメリカでやっているような音楽とは全く違う新しい革命的な音楽」だった。

 クラシックを学び、またシュトックハウゼンのもとでは作曲を学び、スティーヴ・ライヒなどの現代音楽家達とも交流を持ち、ドイツでジョン・ケージの音楽を最初に演奏したピアニストでもあるキーボード担当のイルミン・シュミット。同じくシュトックハウゼンの門下生であり、サウンド・コラージュやサンプリングミュージックも行っていたベーシストのホルガー・シューカイ。

 そのシューカイの教師時代の教え子であるギタリストのミヒャエル・カローリ。そしてCANの独創性の一つでもある重要なリズムを生み出したフリージャズ出身のドラマー、ヤキ・リーベツァイト。そして音楽経験のないボーカル。これだけの異種配合が行われれば新しい音楽が生まれないわけが無い。

 ここで遅ればせながら、CANの創り出す音楽に少々触れながら彼等の魅力を探ってみたい。

 今回扱うのは「Future Days」である。「Future Days」はダモ鈴木が脱退する前の最後の作品である。持っている「Tago Mago」や、他の作品も扱いたかったが、全て聴く時間が無かったので、今回は私がはじめて聴いたこのアルバムの一曲目、アルバムタイトルと同じ「Future Days」を中心にCANについて考えたい。

 「Future Days」の魅力の一つは、まずこのメロディである。浮遊感、清涼感があって、さらに哀愁も感じられるこのメロディの上を、ダモ鈴木がさほど大きな声量ではないが、弱々しさなど微塵も感じない、ただただ淡々と気持ち良さげにささやくように歌っている。

 ヤキのドラムは、決して拳を握り締めたくなったり、腰がグイグイ動くようなリズムではなく、やはり淡々としたリズムが続いていく。先生が一番最初の授業で言っていたCANにおける「欠性」から生まれる白いグルーヴだろう。

 「Spray」は、前半はややドラムが前に出てきているアップテンポな3拍子だが、後半になると若干速さが変わり、ダウンテンポになる。前半が差し迫ってくるようなドラミングであった分、なおさら後半の遅さが際立ち、その際に立ち上ってくるギターのフレーズがよく歌っているように聴こえてくる。
  「Moonshake」はこのアルバムの中で最も反復度が高くその分それ以外の音の展開が面白い。途中でサンプリングされた音(鳴き声?等の)も、リズムが一定だけに刺激的というよりかは、どこかユーモラスに聴こえてくる。

そしてラストの20分弱にも及ぶ「Bel Air」は、その長さからくるドラマチックさは多少わかるが、このような長い曲の生み出す魅力(CANは多いが)をまだ私にはそれほどわかっていないのが正直なところである。

 私がCANに対して最も感じる魅力とは、淡々さと革命さが同居しているところにある。それは私が革命的なものに持つイメージに、どこか既存のものよりも勢いがあったり、時には攻撃的であったり、声高になっているものが含まれているからであろう。そのイメージは、実際にある社会的な、政治的な意味での革命イメージとも関係している。そのイメージとは違い、飄々と、拳を握り締めるどころか、リラックス状態で気持ちよさげに革命を行っているように感じる。要するに、革命的なものを生み出すと同時に、それを楽しんでいるのである。

 ではなぜCANはそのようなことができたのか。私は、いくつかのインタビュー記事などを読んだりしながら考えていたが、それはメンバーの構成と、曲の作り方にあると思う。

 先に触れたが、メンバーの構成が、そもそもロックの未経験者ばかりである。しいて言えば、ミヒャエル・カローリが年齢的にロックを聴いていたぐらいである。それ以外のメンバーは音楽的素養で言えばエリートであるが、それぞれがそれぞれのフィールドから抜け出して、新しい音楽を作りたいと考えていた人達である。そのような意識を持ったメンバーが、楽譜に書いていくというある意味西洋的な行為を一切せず、メンバーそれぞれが出す音に一切口を出さないという約束を決めて、ひたすら自分達のスタジオにこもり(この当時1つのバンドが、自分達専用のスタジオを持っているという状況は全くといって良いほどなかった)、黙々と自分以外のメンバーが出す音に耳を傾けながら自分の音を足していったからこそ生まれたものじゃないかと思う。

 だからこそ、聴き手があらゆる聴き方で楽しめるのである。私の場合、時には涼しげに、時には哀愁を誘い、時にはその当時のドイツの時代気分を、そして時には白さの極みを勝手に感じる。そんなあらゆる聴き方を受け入れてくれるほどの音が、CANにはあると思う。さらには、音楽をさほど聴かない人にでさえも「これいいね、なんか気持ち良いね」と言わせてしまうほどの、派手さの無い真面目で強烈な音があるのではないだろうか。

 その証拠に、CANから影響を受けたアーティストは、ROCK、POSTROCKはもちろん、HOUSE、TECHNO、 BREAKBEATS,DRUM&BASS,ELECTRONICA等クラブミュージックのあらゆる分野にまで広がっている(CANのトリビュートアルバムのメンツを見ると一目瞭然だ)。

 そう考えてみると、CANはGERMANROCKだのCLOUTROCKだのということすら意識させない、あくまで淡々と、CANはCANでしかないと思うのである。

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