▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

テレヴィジョンについて(山下桂司)

【解題】
山下桂司君は、ロック史上ベスト10にいつの時代でも入るだろうアルバム、テレヴィジョンの1st『マーキー・ムーン』に初めて接したときの衝撃を、よく伝えている。受けた衝撃と葛藤を何とか言葉にしようとして、言葉が自然、詩性の領域に入ってしまう点も素晴らしい。そして収録曲全曲に触れて、アルバム全体を我が物にしようとする、不可能な欲望もロックだ。自らがロッカーであるための荒々しい措辞が、すごく愛おしく映る。ハイ、すごく好きなレポートです。
 僕はこのアルバムがリリースされた直後、購入した(高校三年だった気がする)。村上龍がDJをやっていたNHKラジオ「若いこだま」で、ドアーズっぽいけど、ドアーズのがやっぱり綺麗かなぁと紹介されて聴いたのが最初。衝撃を受け、即座にレコード屋さんに直行したのだった。
 音楽ジャンルは「ギザギザ→一見の、まろやかな立ち姿」の変遷を繰り返すことが多い。パップ→クール(モード)というジャズの流れがそうだが、レイドバック→ニューヨークパンクの流れもそうだ。あ、逆か。そう、「マーキー・ムーン」のリフのギザギザでまずイッた。NYパンクは、ドアーズ/ジム・モリソン型のポエトリーディングにより、女性性の詩的破裂を打ち出したパティ・スミスが先陣を切った。ランボーへの言及等もあって、その文学性は明らかだった。女ランボーっていわれてた。
 その対抗馬にしてパティのサポートもおこなっていたのが、フランス語読みすればヴェルレーヌとなるトム・ヴァーライン率いるテレヴィジョン。前言したギザギザというパンク特徴のうえに、声の質はちがうが、ルー・リード的な声のプラスチック感が乗り、山下君の表現を借りれば「音の階段」を昇るニール・ヤングを意識したトムのリードギターが乗る。リズムの狂奔が自壊を目指すが、通常のパンクバンドと較べ、スローモーションにかけられたようにその自壊過程が長かった。頭のよさを感じた。
 「プラスチック」(人工的)は、ジャン・コクトーの好んだ言葉だが、トムの詩法はNYカンバセーションとシュルレアリズムと疎外ロマンティシズムの折衷だった。バンドの空気感は、リチャード・ヘルのリズムギターとトムの自在なギターのあいだの「擦れ」、その金属的な火花から生じていた。蒼い。
 満月にバンドの結成と解散を合わせた自己伝説。山下君の印象ではトムのライヴパフォーマンスはトレモロアームの駆使などでヴァイオレンスな印象があったというが(たぶん「正規」ライヴ盤『ブロウ・アップ』収録曲の映像版を観たのではないか)、「僕ら」に蔓延していた伝説は、腺病質のトムには体力がなく、それでエレキギタリストなのにいつも椅子に座って弾く不自由な奴、というものだった。そのムーンビームな病弱の印象が、トムの鶴のように長い首から出される高音のプラスチックな声、いつも目の縁を赤くしている碧眼とも連鎖していった。結論的にいうと、村上龍の紹介はパティ・スミスなら通用したが、テレヴィジョンには通用しない。「ドアーズと別のかたちでテレヴィジョンは美しい」が正しい。
 高偏差値はパティ・スミスならパティ個人に由来するが、テレヴィジョンの場合はバンド力学、音のぶつかりのなかに溶け込んでいる。それが稀有だったと書けば、文中の山下君の僕への質問の答になるかな? 僕はトムの詩的歌詞の「質」も好きだった。このサイトの「ロック訳詩集」のなかに二篇が収録されているので、読者のかたもご確認を。
  山下君、後期はぜひ講義のあとにでも、君のバンドのCDを渡してください。ブランキーっぽいのかな。浅井健一のフェイバリットギタリストのひとりは、絶対にトム・ヴァーラインだよ。
なんか、つい思い出話にふけっちゃった。
(阿部)

テレヴィジョンについて(山下桂司)



音楽の階段を踊り続け、壊れる
       ――テレヴィジョンについて

第二文学部 表現芸術系専修 2年 山下桂司


 テレビジョンとの出会いは、他でもない阿部先生の当講義「サブカルチャー論」がきっかけであった。当講義においてはその名前が頻出。阿部先生はこのバンドを、「教養があって、それをなんとか隠そうとするけど隠しきれなくて、その教養がにじみ出てしまうインテリなロックバンド(ニューヨークパンク)。」などとおっしゃっていた(気がする)。なんとなく気になってレンタルしてみたのがきっかけである。アルバムは『マーキー・ムーン』である。

 一言で言えば、とにかく衝撃でしかなかった。それまで私がむさぼるように聴いていたロックといえば、ブランキー、ブランキー、ブランキー・・・ミッシェル・ガン・エレファント、モーサム・トーンベンダー、ビートルズ、それくらいであったのだが、何が新鮮といえば、「空気感」だ。そう、空気感。 AIRである。なんとも形容し難い、線が細い上に頼りがいが無く、浮遊感に満ち、そしてたっぷりと病んだトム・ヴァーラインの独特の唄い回し。一つ一つの粒がはっきりしていて、それでいて甘い音色の、躍動感たっぷりの唄うような単音ギターフレーズ。少ない手数で基本ストイックながらも、主役の踊るギターを際立たせようとミニマムで最適なベースフレーズ。タイトで、60's、70'sのドラマー特有の粘り気を持ち合わせつつも、植物のように無感情なドラム。

これらが組み合わされて奏でられる楽曲は、音と音の隙間にまるでたっぷりの空気の泡が入り込んだようにふわふわとしている。しかし同時に、痛切に軋んだ鋭い刃のような危険な匂いが、その「ふわふわ」の中に確実に充満している。「ふわふわしていて、鋭い」というのは、一見矛盾しているようであるが、「ロックに、芸術に、矛盾もクソも、へったくれもない」という原理に顧みてみれば、とりわけ気に留めることもない。

 特に注目せざるを得ないのは、トム・ヴァーラインのヴォーカルスタイルと、ギターに関してだと思われる。彼の唄は――なんといえばいいのか当惑してしまうが――まるで、60年代へとフィードバックしていくようにウネリをともないながら、サイケデリックに破綻していくようだ。ドラッグとアシッドの香りがプンプンする。今思いついたのだが、魔力的、といった言葉がかなり適当なのではないか。

驚いたのは、リードギターまでヴォーカルである彼が担当しているという点だ。ツインギターバンドでは通常、リードギターはヴォーカルではない方だ。ヴォーカルは、バッキングギターか、単にギターはお飾りというパターンがほとんどであるのが通例である(ちなみにミッシェル・ガン・エレファントのチバは、ライブでは精一杯格好つけてギターをかき鳴らしているが、アンプから音はほとんど出ていなかったらしい。モニタリングもされておらず、おそらく本人にしか聞こえていなかったのだ。バカじゃないか、と思ったものだ)。

 つまり、全曲で始終一貫して縦横無尽に音階の階段を踊り続け、美しく唄い、壊れる唯一無二のメロディ。これを彼が唄いながらギターで演奏しているという驚愕の事実。トムではない方のギターは何をやっているのか。可哀想にもなってくる。私自身、スリーピースのロックバンドでギターヴォーカルを担当しているが、先の事実はかなりの衝撃であって、武者震いしたものである。

 CD同封のライナーや、テレビジョンやパティ・スミス等の70'sのニューヨークパンク・ニューウェーブバンド達を解説した書籍などを見てみると、なるほど、やはりテレヴィジョンというバンドは何から何までトム・ヴァーラインという男が中心になっているバンドだということがわかった。ぬめぬめとしていて妖しくも艶かしい、このトム・ヴァーラインという男が表現しようとする音楽世界は、本当に個性的だ。

 ところでこのバンドの音源はファーストアルバムにあたる『マーキー・ムーン』というアルバムの他に、セカンドアルバム『アドヴェンチャー』、ライブ版のなんとかというアルバム(公式かどうかは失念)、あとはオフィシャルで数枚のアルバムがある。セカンドももちろん聴いたが、ファーストと比較するとすっかり落ち着いてしまっていて、『マーキー・ムーン』が発する初期衝動的かつ魔力的な鋭さがほとんど感じられない。個人的には、テレヴィジョンが所有していた唯一無二の数々の魅力のほどんどがそのままスポイルされてしまったかのように感じ、駄作とまではいかないまでも・・・うむ。でもまあ、あんなギリギリのサウンドを奏でるバンドが長続きするはずもなく、結果はあくまで自然なものであるのかもしいれない。まあ、今は論外であるのだけれど。。

 それにしても、私はトムという人間は、その唄い方やジャケットに使われている写真などから判断して、弱々しく華奢で、女々しいイメージだった。しかし、「youtube」で彼らのライブ映像を鑑賞したときに、そのイメージは一変に塗り替えられた。。。。。。。。。。。。。

                   「化け物」

 頭に浮かんだのは、意外や意外、その言葉だった。ライブの熱気が彼のテンションを燃えたぎらすのか、CDでは聴けない、彼の狂気に満ちたシャウトを聴いた。アーミングや激しいチョーキングなどの卓越したテクニックを駆使し、孤独で悲痛な魂の叫びをギターのメタリックな音色に変換していくトム・ヴァーライン。限りなく異質のオーラが漂う。ネット上だから画質・音質はしょうもないが、一切関係がなかった。

 たとえるなら…以前、シュールレアリスムの筆頭、天才画家のサルバドール・ダリが実際に動き、話すのをDVDで観たときに感じた印象、それと同じだった。同じ人間とは思えない、未知で、畏怖の、何か、全然手に負えない生き物。適当な言葉が出てこない。。。当然のことながら、人が「化け物」「未知」に対して抱く感情は一つしかない。それは「恐ろしさ」だ。彼は恐ろしいまでの気迫と才能とオーラを、その唄とギターで表現していた。そう、時代が産み落とした化け物なのだ、トム・ヴァーラインという男は。

 次に、『マーキー・ムーン』に収録されている楽曲に関して、一曲一曲ごとに自分なりの所感等を歌詞やサウンドなどの面から述べていきたい。拙い表現力で申し訳ないが、私は音楽で表現する意外の才能がないので、目をつむっていただくことのやむなきを得て欲しく願う。

●〈SEE NO EVIL〉

 シンプルなバッキングギターから始まるこの曲は、キャッチーでありながらも躍動感に満ちた、オープニングを飾るにふさわしい楽曲である。楽曲が躍動し始めた瞬間に否応なしに感じる、ニューヨークの空気、街並み、匂い…かくして、音楽とは不思議なものである。例によって音数は少なく、隙間だらけのスカスカな曲だが、不思議と非力さも物足りなさも微塵も感じることはない。

 まあそれはこの曲だけに限らず、このアルバム全ての楽曲に共通していることなのだが。終始、「私は一切と関係がない、なににも留まることなく、淀むことなく、混ざることなく、空気のように踊り続けたいの」といわんばかりの唄うギターは、やはり特質に値する。

●〈VENUS〉

 珠玉の名曲である。美しく、どこか切ない。いつかの授業で先生は「これを聴いたらスピッツなんてクソとしか思えないでしょ!」と意気揚々と叫んでおられたが(スピッツと比べるなどとは思いもよらなかったので、単純に面白かったが)、実際にその通りであるから、これは文句の出番がない。音楽が本来もつ、芸術性、魔力性。記号のフィルターを通過せずにダイレクトに心に突き刺さる本物のロックの、音楽の力。

 拙い表現力でも月並みな美麗美句はいくらでも思いつくが、ここまでくると「名曲だ」、というより他ないのが正味な話だ。ザ・バンドの「ザ・ウェイト」。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」。ジョンレノンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」、「イマジン」。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ペイル・ブルー・アイズ」。ブランキーの「悪い人たち」。。。。ここに鼻息荒く並べるべき、「VENUS」。とにかく色鮮やかに、澄み渡った美しい空気を聴き手に感じさせてやまない。とにかく、イントロからぶっ飛ぶ。トリップする。決してテンポが速いわけではないのに、サイケデリックにフランジングしていくようなスピード感覚に襲われるのはなぜか、誰か教えて欲しい。後にも先にも、日本人の感性では到底生まれることのないような、70年代のニューヨークに通底するアンダーグラウンド感。

 トムの歌詞はここぞとばかりに哲学的で、イメージの羅列といった趣。歌詞中の「ヴィーナス」が意味するところは、これは誰にもわからない(ところで、これを想像する意味もない。「ヴィーナス」はトムの中のヴィーナスであり、私たちの中の「ヴィーナス」なのであるから)。そしてなにより、このような曲は、ドラッグを経験(もしくは最中?)していなければ作れそうもない。ちなみに当方が、ビートルズの「シーセッド・シーセッド」を聴いたときにも、「こんなのつくれねえよ。ズリーよ、反則だよ!」などとひとりで憤慨していたということは、この場を借りて正直に申告しておくべきであろう。

 自己の感覚の扉を可能な限りオープンにしたつもりの21歳の青少年――つまり私――には、いささか刺激の強すぎる曲であった。わずかではあるが確実に、とある好奇心の芽が私の心のどこかにひっそりと根を張った…先生、責任とってくれますか?笑

 (余談ですが、先で述べた通り、私はロックバンドをやっていて、そのバンドで飯を食っていきたいと、人の心に強く残る音楽をこの世に表現していきたいと強く思っています。近々、デモテープを先生に聴いてもらいたいと勝手に目論んでおります。その時はよろしくお願いします。テレヴィジョンとの出会いは、私の音楽経験における大きな事件となりました。それはつまり、先生との出会いが私の音楽人生における事件だった、ということに同義です。機会を与えてくださった先生には厚かましくも、多大に感謝を寄せています。これからもこのような、自分たちのような若造にきっかけと夢を与えてくれる素晴らしい授業を続けていってください。)

 とにかく必聴、そして病みつき確実の危険曲であることはゆるぎなく請合いである。

●〈FRICTION〉

 この曲は、当アルバムにおいてもっとも異質な雰囲気を発している。危険で妖しい匂いで充満している。同じようなイメージ、匂いを発する楽曲として、ブランキーの「SOON CRAZY」、「REDRUM(夢見るベルボーイ)」等を挙げておきたい。ブランキーに比べると、それよりもこちらの方が退廃的で虚無的な感じが強い。そしてセクシーである(ブランキーは「タフ」という感じがする)。

 タイトルの意味は「軋轢」で、誰がどう聴いてもぴったり当てはまるタイトルである。骨が抜かれ、個性を構築していた意識世界がガラガラと音をたてて歪み、崩れていくのをそのまま表現しているかのようなギターフレーズ。ブランキーの「螺旋階段」という曲のなかで、

 「螺旋階段を音をたてながら崩れ落ちてゆく僕の頭」

 という歌詞があるが、その歌詞のイメージにも近しい。そう、初期のブランキーの有していたあの、言葉にし難い、ヴァイタリティにみなぎ溢れた、刺々しい雰囲気。「FRICTION」のイメージはそれに似つかわしい雰囲気を発していている、と言い切ってもまったくの見当違いというわけではないだろう(と、思うが…)。

曲の構成も見事である。盛り上がっては崩れ、光を見ようとしてはまた潜り…得ては、失う。光と闇の対極的な構図。曲のアレンジもおそらくはトムの管轄であろうが、彼のアレンジャーとしての才能も末恐ろしいほどである。楽曲が最終的に生きるか死ぬかは、アレンジャーのセンス如何であることは言うまでもないのだから。

 それにしても今更だが、このバンドはコーラスも魅力的な要素だと思う。とても効果的に曲を盛り上げてくれるし、過剰でない分、嫌みもなければ飽きもこない(ちなみにビートルズはこの観点で言えば過剰ということになり得るが、それも含めてのビートルズサウンドだし、単純に美しいから嫌みとかそういう問題ではないと思う)。

 また、この曲で使われているスケールはおそらく通常のロックでは使われないものだ。正面突破、一球入魂ストレート勝負で知識もへったくれもないロックキッズにとっては「??…どういうフレーズだ??」となるのが目に見えている。おそらくテレヴィジョン、彼らは理論的な知識もあるのであろう。先生が「インテリ」とおっしゃるのはこういう音楽理論的な観点からなのか、哲学的、文学的かつ知的な歌詞を評してのことなのかは今のところ判断できかねるが、機会があればお聞きしてみたい。ちなみに私はあえてテレヴィジョンを「インテリ」だというのなら、前者の観点でいうつもりなのだが。

 今度は歌詞に目を向けてみる。私が特に感慨深かったのが、

 「You give me Friction, bad I dig Friction. You know I'm crazy about Friction」

 という部分。彼は、社会や体制、人間同士の間に不可避に生じる摩擦や軋轢を楽しむというのだ。好き好んで受容するというのだ。彼が本気だというのなら、まともな精神状態ではない。しかも、どうやらただの「like」ではなさそうだから事は厄介である。ドラッグに浸かるように、彼は摩擦に身を染めるのだ。気狂いしながら、積極的に、狂信的に、しっぽフリフリで、「Friction」なるものに、骨までしゃぶり尽くされようというのだ。疑うまでもなく、生粋の偏執狂である。

●〈MARQUEE MOON〉

 10分を超える大作で、アルバムのタイトルにもその名が使われている曲。私はロックミュージックにおいて、7分以上の曲はよほどのことがない限り途中で飽きて嫌気が差してくるのだが、これほど長くて、これほど飽きない曲は初めてだ。なぜなのだろう、と自問自答してみると、歌詞の文学性と、決して安臭くない楽曲のダイナミズムにその原因があるのではないかと思い到ったのだった。

 まず前者について。ここに白状するが、私はテレビジョンの楽曲の中でこの曲の歌詞が最も好きなのだ。と言うのも、この曲はまるで海外の古典小説を読んでいるかのように、一枚一枚物語のページをめくっていくような感覚で、曲を聴くことができる。「洋楽は好きだけど歌詞カードはみないよ。っていっても、英語がわかるわけでもないんだが」といった類の手合いは、巷に気持ち悪く横溢する、iPodを常時携帯し、ヘッドフォンをアクセ感覚でぶら下げ、三日に一度はタワレコに用もなく通い、しかもそれにステータスを感じ、ロックフェスのためにアルバイトをし、やたらUK新人ロックバンドのCDを買い、一回しか聴かず、物量による虚栄心に浸り、ムダ知識を鼻にかけ、終いには恥ずかしげもなく「ノーミュージック、ノーライフ」などとほざく若者に多いが、歌詞を単なるリズムととらえてしまっては(もちろんそういう風に聴いて問題のない音楽も多々あるが)、音楽の魅力が半減してしまう。この曲においてはそのことはことさら当てはまるのではないだろうか。

 印象的なのが

 「I spoke to a man down at the tracks. I asked him how he don't go mad. He said ''Look here junior,don't you be so happy.And for Heven's sake,don't you be sad.」

 の部分である。ドキドキする。わくわくする。まるで本当に、無知な主人公である自分が、得体の知れぬ土地で、得体の知れぬ男に話しかけ、こんなことを言われ、腹の奥のほうがキュンとするのを、自分の身に想像せずにはいられないのである。

後半の歌詞で、自分を墓地に連れ去ろうとするキャデラックがでてくるが、これは怖い。彼が夢にみた場面なのであろうか。おそらく自己葛藤を表しているのであろう(彼の歌詞は自己葛藤を表していると思われる表現が多々みられる。「VENUS」の歌詞で言えば「リッチー」という人物とのやり取りがそれだ)。

 次にダイナミズムについて。これについてはあえてあーだこーだ言う必要もないと思う。聴けばわかる。ドラマチックである。

 もちろん後半にかけて最高潮に盛り上がっていくインプロヴィゼーションは本当に素晴らしいものがある。その先にあるのは、見渡す限り続く何もない草原の上で、さながら天使のごとき美しい一輪の花が咲いたかのような、澄み渡った爽快感、甘美なカタストロフィー。。。。墓まで持っていきたい曲のひとつ。

●〈ELEVATION〉

 印象的なギターフレーズが耳に残る、テレヴィジョンらしい曲だが、前半のとてつもない個性をともなった楽曲たちにくらべるとどうしてもすこし物足りなさを感じてしまう。まっすぐに言って、没個性的な曲だと思う。曲の頭数を稼ぐために間に合わせで用意されたのではないだろうか。したがって語るべき要素も、これといってはない。

●〈GUIDING LIGHT〉

 軋みまくり、躍動しまくりの怒濤の前半から落ち着いて、一見優しげな曲である。耳に心地よい、しっとりと優しいギターのフレーズとトムのヴォーカルが、無垢な鈴の音に聴こえたり、天使が歌う子守唄のように聴こえたりする。大げさかもしれないが。しかしひとたび歌詞に目をくれてやると、例によってそう安穏としていられる精神状態から創造された曲ではないことに気付く。この仕組みは、ヴェルヴェッツの『サンデー・モーニング』に似ている(「サンデー・モーニング」がもつイカレタ恐さはないが…)。

 「Do I, do I ? Belong to night?」
(教えてくれ…果たして俺は、夜の闇にのみ生き得る存在なのか?)

 …そこで語られるのはやはり、悲痛の叫び、闇の淵でもがき苦しまなければいけないことへの嘆きなどの、痛切な想い、感情、目を伏せたくなるほどのニヒリズム。

 果たして、ロックとは、絶望のことなのだろうか…?

 いつの時代をも動かしてきた(動かさずとも戦ってきた)芸術は、つきつめていくとニヒリズムに到達することを考えると…しかし一概には言い切れない。まだまだ答えは見つけられそうもない。余談ではあるのだが、私の師は、「青春とは絶望から始まる」と言う。彼は、トム・ヴァーラインは…この曲を作ったとき、あるいは私と同じ、あるいは私がまだ到達していない「青春」の真っ只中にいたのだろうか。

●〈PROVE IT〉

 楽曲のもつ個性や魅力は前半の楽曲群に比べると、パワー不足が否めなくもないが、歌詞は、小説家のゲーテの作品、とりわけ『若きウェルテルの悩み』に近しいものがあると感じた。どこまでも主観的で、(小説的な意味で)詩的で。文学小僧で知られたトムも、当然このあたりの小説は愛読してるはずで、間接的にでも、もしかしたら直接的にでも影響を受けているのではなかろうか。いや、むしろ大いに可能性が高い。ちなみにセカンドアルバムの『アドヴェンチャー』は、この曲のような雰囲気の楽曲が多い。

●〈引き裂かれたカーテン〉

 難しい表現であるはずもないこのタイトルだけがなぜ邦題になるのかさっぱり意味がわからないが、まあ今は論外だとして…最後を飾るにふさわしい、壮大な曲だ。不意に何者かによってカーテンが閉められ、今まで感じていた自己を暖かく照らす光が遮断され、暗闇の底に(再び)突き落とされてしまったかのように世界が反転する、そんな想像を喚起させる、前奏の転調部分に鳥肌を立てるななどというのは、全然無理な相談だというものである。

 ここで唄われている「カーテン」の意味するところ…聴き手の感性によって大小の違いはあれど、大抵のイメージするところは同じだろう。ただここでは「引き裂かれた」と受け身形になっているのが面白い。想像力を掻き立てられてしまう。自己対立、自己葛藤、あるいは多重人格…カーテン。

 「How much does it take?」

 …彼は苦悩する。最後に彼はカーテンを燃やしてしまえ、という結論に至る…涙、涙。彼は、涙に呑まれそうになる。。。。。

 なんて痛々しく、切ない唄であろうか。ヒリヒリと感情を突き刺してやまない。誰もがもつ、心のほの暗い奥底にあるヒダを、一枚一枚ペリペリとめくっていくような、自虐的で絶望的な感情…しかしそれをせせら笑うかのように、逆撫でするかのように、演奏は、只々、甚だ壮大である。

 
 これにてテレヴィジョン、特にアルバム『マーキー・ムーン』についての私のレポートを終える。音楽が本来持っているはずの、フィルターをスルーして響くエネルギーを、余すところなく封じ込めたこのアルバム。そしてこのアルバムを作った、テレヴィジョンというバンド。出会えてよかった。

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