▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

ケイト・ブッシュを中心に(林 幹大)

【解題】
林幹大君のレポートは、前回の銀杏ボーイズに続いての転載。前回の「内在系/超越系」の二元論分析に続き、今度は音楽の女性性を論じ、結果的に思考が傾斜していた二元論を解体してしまった点が慶賀だとおもう。
 女性の声はそのままに性的だ。それが必ず「女の声である」という符牒を生きることになるためだ。声に性の看板がぶらさげられているといえば、それ自体が裸と似た属性をもつことになる。それは読まれ、盗みみられ、味わわれ、凌辱され、揶揄され、蹂躙される。そうした受動性は男女ともに分有されるもののはずだが、歴史はいつも女性を受動性の位置に置いてきた。
 ならば、受動性がそのくびきを離れるのは簡単なのかもしれない。たとえば受動性が受動性として「展開」する際、自由度が獲得されればいい。それはそのままに能動性として印象されるだろう。おそらく林君がケイト・ブッシュ「嵐が丘(ワザリング・ハイツ)」に異変を感知したのは、受動性が能動性に向かって開ける動きを察知し、しかもその声に魅せられたからだ。ディアーナの沐浴する裸身に、もっといえばその裸身と水面に映った彼女の鏡像の音楽的輻輳に、アクタイオーンは魅せられた。それは視覚上の事件だった。林君は聴覚上の事件としてケイト・ブッシュの声を知ってしまったのだとおもう。
 ケイト・ブッシュを受動性ではなく自体性として認知させる手続きが、彼女の巫女的性質を抽出することだった。定番手続きといっていい。だがその歌詞を象徴解読すると、実はまたこの林君のレポートの一部のように二元論の罠に陥ることになる。つまり歌詞上の名詞をフロイト的な解釈によって女性器象徴と男性器象徴に分離してしまい、その対峙や葛藤や融合を解釈する無駄へと追い込まれる。
 林君がその前でローリー・アンダーソンを採りあげた点は、実はこの点で意義があった。パフォーマーのローリーは、たとえば自分の肋骨を打つ。それが装着機械によって、電気的な増幅をかけられる。あるいは口腔の下の音も同様の処置をされる。さらにさらに・・。そうして彼女は音楽のうえに自分の躯の音をあふれさせた。これは「生身の身体vs機械」の二元論に基づいたパフォーマンスなのではない。むしろ、「自分vs自分」という図式から「自体性」を分離提出する営みのはずだ。ローリーの音楽的パフォーマンスでは、その確認があれば継続的追跡が不要かもしれない。彼女が女性性表現の「原型」を提出してくれたと考えれば、敬意も充分に払われる。
 そしてその原型をケイト・ブッシュに重ねれば、ケイトの音楽の知覚のされかたが変わる。ケイトはもっと音楽の諸法則に則った複雑さのなかで、自分vs自分という図式から「自体性」を分離提出していたのだった。ではそこに「他者」はいるのか? 答は簡単だろう。「いる」。なぜなら女性は歴史的に、あらかじめの他者だという図式がまだ粉砕されていないためだ。だからそこで感じられる奇異と危険には積極的な価値があるということにもなる。
  僕は林君のレポートを以上のような文脈を形成するよう、志向的に読んだ。女性性と格闘する林君の姿が刺激的に映ったからそうなったことは、いうまでもない。
(阿部)

ケイト・ブッシュを中心に(林 幹大)



二元論を離れ、女性性が独り歩きする
       ――ケイト・ブッシュを中心に

第二文学部 表現・芸術系専修3年 林 幹大


音源:ケイト・ブッシュ「THE KICK INSIDE」
    ローリー・アンダーソン「MISTER HEARTBREAK」「BRIGHT RED / TIGHTROPE」

 正直に言えば私には、音楽に限らず様々な分野における、女性アーティストの存在を苦手としているところがあるように思う。フェミニズムやウーマンリブ、多くの分野での女性の活躍などが当然の時代だが、少なくとも意識的には、父権を渇望したりマッチョを志向しているつもりはない。陳腐になってしまうが端的に理由を自己分析してみれば、色恋沙汰をモチーフにされることが原因ではないかと思う。

 例えば、社会学者宮台真司氏の言説から「内在系」「超越系」という概念を援用した場合、私には「超越」軸を志向したい実存がある。私の解釈では「色恋沙汰」はある種の普遍的現象なので、いかに個人の問題として扱われても、他人との入れ替え可能性を感じてしまう「内在系」の範疇で捉えてしまう。また、そのような色恋沙汰をモチーフとした作品の普遍的な力強さが、私の「超越系」をかくれみのにして構築した幻想を、色恋という現実性をもってあばいてしまうことへの恐怖がある。

 かつて小説家の山田詠美が「女村上龍」と呼ばれたことがあったと思うが私はわからなかった。村上龍の作品には、制度に飼いならされる焦燥、その制度を突破することの希望という点で面白く読んでいたが、一方でその希望が虚構のように感じられどこかシニカルになっている自分を発見してしまうこともあった。山田詠美の作品は「労働」や「恋愛」に肯定的で、私の思考が立脚する土台そのものを虚構として無にされるような居心地の悪さがあった。以上が「女性性」に対する苦手意識の自己分析である。

 本論では、ケイト・ブッシュを聴いた時の驚きを出発点として「女性性」について考えてみたい。今回、女性を中心としたテーマで論述しようと考えた背景には、前述したような異物的存在感のほかに、阿部嘉昭氏の『少女機械考』や大塚英志氏の「少女」に関する言説がヒントになっているため、「女性性」ではなく「少女性」とするべきかもしれないが、ケイト・ブッシュの「THE KICK INSIDE」という70年代の作品を素材としていること、また「母性」について考えてみたい部分もあるため、本論では「女性性」として論述したい。

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 ケイト・ブッシュをはじめて聴いたのはしばらく前で、日本テレビの「恋の空騒ぎ」のオープニングテーマとしてだった。その声質に驚いたが、象徴的に言えば、番組本編の、女性の発言を明石家さんまのツッコミが相対化するという構造に、ケイト・ブッシュの声に対する驚きも忘れてしまったかもしれない。その後、あらためてその声を聴くために、アルバム「THE KICK INSIDE」を買い、「WUTHERING HEIGHTS」を聴くと何か不穏な気分にさえなった。ここには、私の「声」に対する認識の問題があると思う。

 私は「声」をカラオケ的自己満足の身体性でとらえていると思う。自慢としてしまうことなのだが、私の歌う際の声は高音域に広い。例えば、高音のヴォーカルが特徴の一つである「X」の曲はほぼ全て原曲キーで歌うことが出来る。高音が出ることが偉いことはないのだが、カラオケに興じていた高校時代はカラオケを「部活動」と称していたことが象徴的だったと感じる。ぎりぎりと絞り上げるように高音域を開拓し、昨日より今日、という具合に声域が開拓されていくことは、自らの身体の輪郭を意識できるように感じられたからである。カラオケ特有の、ナルシシズムとその自覚からの恥ずかしさという問題も、身体性の拡張、という大義名分で隠すことができ、「自己陶酔的」に「歌う」のではなく「X」で「身体的」に「騒ぐ」のだと考えていた。

 しかし、身体の輪郭を意識できる、ということも自己をなぞるというナルシシズムがついてまわるのであり、つまり私は「声」を音域という同一直線上にとらえていた。そこに男女差はない。例えば、最近その存在を知ったインディーズバンド「凛として時雨」は、「男女」のツインヴォーカルでのハイトーンのシャウトが一つの特徴であった。

 ケイト・ブッシュの声質やある種の気品は、その直線上に無いもので、私は自分をなぞることができず、しかし聴かせる声に引かれてしまい、感動と同時に不穏な気分になったのではないかと思う。そのような声で、例えば「FEEL IT」では、セックスが歌われているが、「Oh feel it」と繰り返される性急さの後、「See what you’re doing to me」という「私をこんなふうにさせたあなた。それを見て」という瞬間を、上昇する音をさらに微分的な歌唱法で歌い、絶頂を思わせる。

 冒頭で私は女性性に苦手意識があると述べたが、厳密に言えば女性性を論じることが苦手なのかもしれない、とここまで論述してきたところで考えた。女性の活躍は、女性の能動性といっていいだろう。それを批判するつもりはないし、女性を受動的存在とすることは前時代的でそれを解消することがフェミニズムだと思う。しかし、女性性に感動してしまうこと、あるいはそれを言葉にした瞬間、なにか罠にはまるような感触がある。

 以前ダウンタウンの松本人志氏が、「女性はお笑いに向いていない。女性の顔や乳房や尻はそれだけで存在に力があるから、それを守ろうとすれば自意識を捨てることが難しくなり、攻め気でステージに立っても、観客側の笑いへの意識がそれてしまう。顔がいい男性芸人にも同様のことが言える」という意味のことを言っていたと記憶しているが、それに近いことかもしれない。

 感動、あるいはその批評という能動的行為と、「作品」の結果論的に固定された受動的性質の関係に、能動的男性、受動的女性という構図を重ねて見てしまい、その構図への反省の感情が起きる、というようにして思考が停止してしまうのかもしれない。

 そのような、「男性」対「女性」における、「能動」対「受動」というような対立構造を、「人工(テクノロジー)」対「自然(身体)」を複雑化させた手法で転覆させたのがローリー・アンダーソンだと解釈できるのではないだろうか。ケイト・ブッシュの生来的な女性性を、私がうまく論じられないということもあるが、より明瞭にするという意味でもローリー・アンダーソンを例として召喚してみたい。

 ローリー・アンダーソンは様々な分野で活動している多才なアーティストだが、パフォーマンスアートの面で考えてみたい。パフォーマンスアートは作品と製作者が同一であり同時的である。この性格から、作品の過去形的固定から免れているといえるだろう。また、テクノロジーによって芸術から身体性が消えたことへの反応という面を持つパフォーマンスアートだが、ローリー・アンダーソンの作品は大部分がテクノロジーに依存した電子的なものである。テクノロジーが人間より先にあるともいえる発想は、人間の内面というような湿った精神性が希薄で、状況への反応というある種ケミカルな身体性が逆説的に浮かび上がるような構造を形成しているように思われる。

 また、ローリー・アンダーソンの詞は、神話的レベルにまでさかのぼっており、かつての神話から抽出された対立概念を転覆させるような存在感がある。

 「LANGUE D'AMOUR」では、曲調が示すようなプリミティブな世界観をもつ島に、男と女蛇がいる。これだけをみれば、聖書の創世記のようであるが全く違う。「蛇」は男性、男性器、性欲の象徴とされるが、「女」はその存在と戯れる。「蛇」にそそのかされて、というような話にはなっていない。「男」は台風がきて鮫が現れる島から出なければならない(エデン追放)と言うが、「女」は従わない。

 また、「BEAUTIFUL PEA GREEN BOAT」では、「the shade of my family tree」「I'm thinking back to all the stories you read to me. (中略)But I can't remember now. What happened then ? Dear Mom, how does it end ?」と歌われ、家系図という歴史的連続性の切断、かつての「物語」という現在までの概念の源泉が否定されているように感じられる。曲は「They danced by the light of the moon.」と繰り返されて終わる。フクロウと子ネコという知性と女性を象徴する「動物」が「月」という女性の象徴の地で踊っていて、新たな物語を感じさせる。

 以上のような歴史を組み替えるような試みに、ロシアの画家カジミール・マレーヴィチを連想した。マレーヴィチは自らのスタイルを印象主義から歴史的にたどる過程で、描くことの行為、対象、作品と一体化させていき独自のスプレマチズムにたどり着く。代表作であり到達点としての「スプレマチズム:白の上の白」では、描くことの運動のみを存在させた。それは、対象の物語性や象徴性から、線や色彩を解放するということでもあった。その到達を境に自らの過去の作品を再び描くが、スプレマチズムという超越的な特異点を境に再構築されたマレーヴィチの美術史の上でそれらは、オリジナルなきコピーとして存在する。

ローリー・アンダーソンの、音楽の歴史性とテクノロジーの関係を引き受け、能動的批評を受動的作品に融合させるという試みは、対立概念からの女性性の解放にもリンクしているという点で独創的で、マレーヴィチを連想させたのである。

そのようなローリー・アンダーソンの意識的な女性性のあり方に対する、ケイト・ブッシュの歌詞世界に目を向けてみたい。その詞世界はシュールで解釈が困難だが、特筆すべき女性性が読み取れる部分をとりあげたい。

例えば「JAMES AND THE COLD GUN」では、銃をもって戦いにでかけた男に故郷へ帰るように忠告し、その男の振る舞いが意気地なしで現実を見ていないことだと主張している。男性性という虚構的なものを批判していて、息が詰まるような気分にさせられる。また、「gun」が男根のメタファーで、「home」が女陰のメタファーと解釈でき、世界観に具体性を感じることが出来る。

興味深いのは「KITE」である。「KITE」では、腹部(子宮)に疼きをもたらすベルゼブブがいると歌われ、「belly」の名詞用法「子宮」と動詞用法「(帆などが)ふくらむ」をかけるようにして、カイトとなって羽根のように空へ舞い上がれと歌われる。「ベルゼブブ」というのが非理性的存在で、空へ舞い上がることは性的な生命力の解放、というふうに解釈されるべきかもしれないが、私は、「赤ちゃん」と「母親」の話ではないかと解釈した。

詞の前半は「my」「I」という「私」を主語として書かれ、「me」で終わる。中盤では、その「me」に対応して、「come」「be」「fly」と主語はなく命令形での呼びかけになる。ここに前半の「belly」「There’s a hole in the sky」を対応させて考えたとき、「私」が「子宮」の中にいて「空に開いた穴」という「産道」を見ており、またそこには穴から中を見る「a big eye ball」という「私」がまたいる、と解釈した。「mirror windows」という言葉から、「産道」という境界の前後にある「赤ちゃん」と「母親」という関係が、「自分」と「鏡」と「鏡の向こう」という関係になり、自らの強い母性に自分さえも取り込まれているような世界を感じた。

中盤の「under the moon」「over the moon」というフレーズは、「月」が女性性の象徴と解釈した上で、その「under」と「over」という反対の関係もその世界観の象徴といえないだろうか。さらに後半では、「I want to get back to safe home」「I love the homeland dome」と胎内回帰願望がみられる。
「ROOM FOR THE LIFE」にも同様の解釈が適用できるように思う。「we never die for long」「two in one」「go get it now / like it or not we keep bouncing back」などのフレーズが興味深い。女性を、子宮を持つ存在であると同時に子宮の中の存在である、二つの生を持つ者としている、と私は解釈した。その上で、欲しいものを手に入れるために外へ出ようと言うが、また同時に子宮の中に戻り子宮内の存在であるとも歌う。それを「Because we’re woman」と締めくくる。

ケイト・ブッシュの女性性は、「KITE」に特徴的なように抽象度の高い詞の効果もあり、個人の所有する女性性というよりも、女性性が独り歩きをしているようにさえ感じられる。そのような意味で、ケイト・ブッシュの示す女性性は神話のような、根源的な神秘性として感じられた。そして、「ROOM FOR THE LIFE」では独り歩きするようにして自分さえも飲み込むような巨大な女性性に対し、「Because we’re woman」とそれを受け入れるように歌っている。

私は序盤で「能動性」「受動性」というような対立概念を用いて女性性を論じようとして困難を感じたが、ケイト・ブッシュはそのような対立が混沌とした世界観を歌っている。受動的であることに能動的である、というようないんちきめいた、ナンセンスな言い方は面白くないが、あえて言えば、巨大な受動性で開かれる、というような姿勢なのではないかと私は感じた。

●参考文献:
Susan McClary 女性と音楽研究フォーラム[訳](1997)『フェミニン・エンディング -音楽・ジェンダー・セクシュアリティ-』,新水社

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