▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート
ルー・リード『ベルリン』とスコット・フィッツジェラルドとの共通性(西村淑識)
【解題】
西村淑識さんはルー・リードのアルバム『ベルリン』を、スコット・フィッツジェラルドの短篇「残り火」やゴッホの絵画「夜のカフェテラス」に結びつける。「夜」がすべての共通項。この感覚は絶対だ。聴覚が視覚へと流れこむ共感覚は、その個人内で絶対的に改変不能なものだからだ。人は音楽評論を書くとき、必ずこの感覚にどこかで支配される。西村さんの示唆するように、僕自身もその傾向がつよい。そして西村さんの素晴らしいところは、夜の多様性、夜の差異を見分けるところにある。たぶん、黒色に微差を感知する感覚の豊かさがこれに寄与しているだろうが、のちマチスなどの名が出てはっきりするように、それは彼女の絵画的知識とも表裏をなしていたのだった。
ルー・リード自身の『ベルリン』への註釈、「男と女の間に横たわる境界線」(ベルリンの壁)、「愛と自己欺瞞」、「セックスと権力」、「どうしようもなく蔓延する退廃感」・・といった諸主題が、基本線で押さえられての上の解釈のロマン化。もともと『ベルリン』自体が、そんなロマン化を誘っている。女の名が変わっても、歌姫がいて、同棲があって、結婚の失敗と出産があって、子供と引き離されての強制入院があって、子供たちの泣き声が夜を破る曙光のように漏れ出す全体の「物語」が映画的だ。このアルバムでのルー・リードの歌詞も、映画の諸カットのような視覚的展開性を帯びている。
ただし、僕の考えでは、ルー・リードのこの達成は一回的だとおもう。世界観が「女のように」憂鬱で静かで、かつ遥かだというのは。オカマのように、という比喩が成立しない。つまりルー・リードは前作『トランスフォーマー』までは、西村さんが書いているように、ジャン・ジュネ→ケネス・アンガー的なアンダーワールドの、猥雑な世界共有(とその多数性世界)と倒立性を、歌の基軸にしていたとおもう。展覧的であって、直線的ではなかった。ルー・リードが突然『ベルリン』で視覚的な超越者になったのか、あるいは一人の女になっているのか、それがいまだに掴めない。アルバムの神秘はそこにあるかもしれない。
――さまざまな夜。夜の億万。ひとつの夜から別の夜へ、無限の夜へ、夜の、夜の、果てへ――。夜の連なりが心の首飾りとなる。ロックやブルースには、あるいは映画や文学には夜がたくさんある。「あなた」が迎えている夜の数のように。音楽だけでもドアーズの「エンド・オヴ・ザ・ナイト」、ロバート・ジョンソンの「クロスロード」、青江三奈の「池袋の夜」、テレヴィジョンの「ガイディング・ライト」、ゆらゆら帝国の「ファズギター」、中村八大「夢で会いましょう」・・たちどころに数えられる。UAも「数え足りない夜の足音」を唄った。そんな、さまざまな夜を突っ切って、人は自分の躯が少し夜に染められた悲哀を味わう。そういえば、音楽に最も夜の横たわっているのがジャズの沃野だったりする。西村さん、今後も夜を蒐集し、夜を渉猟してみてはどうだろう。あなたの繊細な資質が、それを求めている気がする。
ひとつ、西村さんが書きつけていることから、意外な知識を得た。ルー・リード『トランスフォーマー』に、その制作現場を捉えたフィルムがあったということ。もう観たくてしょうがない。
(阿部)
ルー・リード『ベルリン』とスコット・フィッツジェラルドとの共通性(西村淑識)
夜が見える
――ルー・リード『ベルリン』とスコット・フィッツジェラルドとの共通性
文学・言語系専修2年 西村淑識
ルー・リードを授業で取り上げた阿部氏は次のようにおっしゃった。ルー・リードはジャン・ジュネに近いと。
しかし、授業で、氏の訳された詞やあの「Men of good fortune」や「Caroline Says Ⅱ」の憂愁なメロディから僕の頭に浮かんだのはフィッツジェラルドだった。もちろんルー独特の、社会の暗部に向けた、時には冷ややかな眼差しにはジャン・ジュネを連想させる要素が多分にあると思う。しかし、ソロ第三作『ベルリン』だけを問題にすれば、曲全体を漂う、はかなさや哀しみといったものには、ジャン・ジュネよりもフィッツジェラルドの匂いを聴き手に感じさせるように思う。
ここでは、ルー・リードのソロ第三作『ベルリン』と中公文庫から出版されているフィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティ』に収められた短編とをそれぞれたどっていき、この二人をつなぐものについて考えていきたいと思う。そして、最終的に『ベルリン』という作品で、ルー・リードが描こうとしたものについて考えていきたいと思う。
さて、ルー・リード『ベルリン』におさめられた曲には、太陽や、夜明けの東の空というような明るいイメージを持つものがひとつとしてない。逆にすべての曲が夜を舞台に語られているかのようだ。最後の「悲しみの歌」だけは冷え冷えとした夜に幕をひこうとするものではあるが、夜に幕を引くだけであって、夜が明け、太陽が昇るというイメージではないような気がする。ここでは、そのなかでも特に「夜」をイメージさせる一曲目「ベルリン」をとりあげていきたいと思う。
「ベルリン」は、落ち着いたピアノとルーの声、そしてその歌詞が、ゴッホの描いた「夜のカフェテラス」を浮かばせる。阿部氏がビートルズを取り上げた授業で「ビコーズという曲を聴くと、それを聴いたひとには、真っ暗な宇宙にポカンと浮かんだ青い地球が見えてくる」とおっしゃったが、それと同じだ。「夜のカフェテラス」で人は棒のように描かれ、人々のいるカフェと、その奥に広がる真っ暗な路地が非常に対照的である。星空と路地の闇がカフェの黄色を強調し、逆にカフェの黄色が星空と路地の黒(というよりは紫か)を引き立たせている。「ベルリン」ではピアノとルーの声だけで、ゴッホの「夜のカフェテラス」のイメージを作り上げ、夜を描ききっている。
「夜」といえば、阿部氏が第一回の授業の中で取り上げた、テレヴィジョンの「ヴィーナス」も「夜」を想起させるかもしれない。金属的な演奏と、トム・ヴァーラインの、阿部氏の言葉を借りていえば「無機質でプラスティックな声」は大都会の「夜」を聴き手に思い浮かばせる。
しかし、「ベルリン」「夜のカフェテラス」の夜と「ヴィーナス」の夜とには大きな隔たりがあるように思う。つまり、前者の「夜」は、全ての人類が背負う「夜」であるのに対して、後者の「夜」は青春時代の若者だけが感じている「夜」なのである。前者の「夜」が人の手を離れた、闇にひそむなにかとてつもなく恐ろしいものだとすると、後者の「夜」は、将来に対する不安や孤独といったような自分の心の内面から作りだされたものである。前者の「夜」はなにものかの「悪意」と呼んでもいい。
また、ビートルズの「ジュリア」もまた、静かな調べが「夜」を感じさせるものではあるが、ジョン・レノンの寄り添うようなやさしい声が聴き手に「夜」をつらく寂しいものとして感じさせない。そして「ジュリア」の「夜」も、不安や孤独というような自分の心情を表した心理的なものであって、「ベルリン」とはやはり異なるのだ。
さて、次にフィッツジェラルドの短編集『マイ・ロスト・シティ』におさめられた「残り火」という作品を見ていこう。この物語は、最初、作家であるジェフリイ・カーテンと美貌のロクサンヌ・ミルバンクとの幸せな新婚生活が語られる。そんな彼らのもとをジェフリイの友人ハリー・クロムウェルが訪れるところから不穏な空気が漂い始める。彼らのためにロクサンヌはクッキーを焼くのだが、みかけとは裏腹に、それは恐ろしくまずいものだった。肩を落としうなだれるロクサンヌのために夫ジェフリイは、そのクッキーの見かけの美しさを理由に、なんとそれらを壁に打ち付けるのだ。打ち付けられたクッキーはまるで生き物のように、しばらくの間ピクピクと動いた。
ハリーが去って一週間後、ロクサンヌとジェフリイはパーティーに出かける。ロクサンヌは、ポーカーゲームに集中するジェフリイの肩に手をかけようとするのだが、ジェフリイはその手を荒々しく払い落としたのだった。
以下抜粋――
《「ジェフリイ」ロクサンヌの声には、すがりつくような響きがあった。ショックはまださめやらなかったけれど、これが何かの間違いであることは彼女にもわかっていた。ジェフリイを責めるつもりも怒るつもりもない。彼女の震える声が求めているものは彼の言葉だった。「お願い、ジェフリイ」と彼女は言った。「なんとかおっしゃって。後生だから」「ああ、ロクサンヌ・・・」と彼は繰り返した。顔に浮かんだ当惑は、今や苦悩へとその色を変えていた。実際、面食らってしまったのは彼とて同じことだったのだ。「悪気はなかったんだ」と彼は続けた。「ただね、驚いてしまったんだよ。まるで誰かに掴みかかられたような気がしたものだから。僕は・・・なんて馬鹿な真似をしでかしたんだろう」「ジェフリイ!」彼女の声はもはや祈りそのものだった。その香煙は新たに生じたこの計り知れぬ深さの闇を貫いて天上の神のもとまで達していた。》(村上春樹訳)
パーティーから帰ったふたりは、おびえながらお互いを確かめ合うのだが、その5日後、ジェフリイの頭の中で血瘤が破裂するのだった。
結局、植物人間となったジェフリイは11年後にこの世を去り、ロクサンヌは一人残される。夏がすぎ、冬を前に立ち尽くすロクサンヌを描写してこの話は幕を閉じる。
以上「残り火」という作品をざっとみてきたわけだが、このロクサンヌとジェフリイ、この二人のあいだにもゴッホの「夜のカフェテラス」のイメージが浮かんでこないだろうか。人目に幸せそうな二人の様子は、キャンバスに描かれる「黄」である。そしてそんな二人の間に時々顔を出すなんとも形容しがたく、奇妙で恐ろしい感覚が「黒」である。
確かに、ルー自身この『ベルリン』という作品は、男と女の間に横たわる境界線のこと、愛と自己欺瞞のこと、セックスと権力のこと、どうしようもなく蔓延する退廃感のことと言っているように、『ベルリン』の主題が男と女にあったことも、「残り火」と重なるように感じさせる要因ではあるかもしれない。しかしこれまでみてきたようにルー・リードとフィッツジェラルドの悪意(黒の描きかたといってもいい)の表現の仕方におおきな類似点を感じるのである。
では、私がここまで「悪意」と呼んできたものとはなんなのか。フィッツジェラルドの短編「残り火」に見え隠れする「悪意」は人が人に抱くようなものではない。人間を翻弄する運命のようなものが、哀れな人間をわらうかのような「微笑み」である。ルー・リード「ベルリン」の背後に見える「悪意」もまた然りである。
例えば7曲目「キャロラインのはなし(2)」にはおそろしく残酷な運命の「微笑み」がある。それは、嘲るような笑いではなく、むしろ静かで慈悲をたたえたような笑いなのだが、同時に背筋を凍らせ、開いた口から血で汚れた真っ赤な舌がのぞくのが見える笑いである。
「黒」の描き方は、画家たちにとっても美術史の中で問題にされてきたことである。マティスの発言にもあるように黒は使わないという考えが画家達の中にはあった。マティスの「黒は特別な色ではなく、他の色との関係で明るくも暗くもなる」という発言は、いかに黒という色を効果的に使うことが困難であるかを物語っている。
しかし、ルー・リードもフィッツジェラルドも、共に、この「黒」という色をキャンバスに描きだすのが非常にうまいと、私は思う。かつて、ルーのソロ第二作『トランスフォーマー』を追ったドキュメンタリー映画を観たことがあるのだが、その中でプロデューサーがルーに「もう少し灰色に」と言われて、戸惑ったと語る場面があった。ルーが『ベルリン』という作品で描こうとしたのは、間違いなく「黒」という色だったのだと私は思う。
●参考文献 中公文庫『マイ・ロスト・シティ』
みすず書房『マティス 画家のノート』
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