▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート
『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』までのキンクス(田村洋人)
【解題】
キンクスを扱ったこの田村洋人君のレポートはすごい。絶頂期(中期)キンクスの勘所が、見事に締まった修辞で完全に捉えられている。
いま「絶頂期」と綴ったが、グレイル・マーカスのロック評論の金字塔『ミステリー・トレイン』によれば、この時期のキンクスのアルバム・セールスは、初期のアイドル性とインパクトのつよかったビートグループ時代に比べ、落ちるところまで落ち込んでいったという。イギリス国内では万単位から百単位に下落する危機もあったと、たしかマーカスは綴っていたはずだ。マーカスは「ルーツ」ポップのランディ・ニューマンとキンクスを対比した。ランディは安定的なポップメロに乗せ、歴史の一コマを痛烈な皮肉に乗せて唄う。それでも楽曲の黄金と歌詞の漆黒は、二面性ということで聴き手は定位できる。「暗いなぁ」という一言を添えて。この時期のキンクスは「明暗」の区分でいうと「薄暗い」。そしてその「薄暗さ」は実は定位不能性に関連している。だからキンクスは聴き手の足場を奪い、セールス的には壊滅状態になった。レイ・デイヴィスの、ポール・マッカートニーに比肩するようなポップ作曲能力をもってしてもそうなった。
田村君の論理展開に息を飲む。ジョン・レノンは個人的な感慨を唄っても表現の外延性を誇る。レイ・デイヴィスは内在性に立脚する。そこまでは、いわば聴取の常識だろう。次の田村君の立論にアッとなる。僕の言葉でいうと、その内在性の機軸が内に折れ込み、それで結局、歌世界の相殺や喪失が生じてしまうというのだ。
もともと「皮肉」とは皮相と内実を同時に描くこと、と田村君はいう(これも素晴らしい直観力をもつ揚言だ)。二元対立が一つの対象で演じられるということになる。彼らのヒットSg「サニー・アフターヌーン」ではラストで交響する歌詞のラインが、「Lazing on the sunny afternoon」と「In the summertime」で相殺の力学をかたどる。前者がいわばダウナーの最終定着だとすれば、後者は感傷の高揚。そうして挟撃を食らって、たぶん、唄われた対象が、聴く者自身が「消失」する。これがキンクスが密かに与える戦慄だった。「微差」を聴き分ける耳だけがそれに興奮するが、多くの聴き手はポップのなかに不穏なものをぼんやり感知する。そうして、当時のキンクスが音楽シーンの外へと追いやられたのではないか。
キンクスはトマス・モアの皮肉な末裔だ。だから彼らは、理想郷を繰り返し唄う。何気ない日常への注視も、理想郷を掘り当てるための習慣だ。英国庶民の怠惰、無為、貧困をキンクスは掬する。とりわけそこには作曲者レイ自身の幼年期からの記憶が二重化されている。
ところがレイの隘路とは、その日常がレイの個人性にぴったりと重なってしまったり、理想郷に皮肉が二重化されたり、あるいは理想郷が定立の熾烈さを帯びりした途端、外延性を失い、消失する逆説を抱えている点だった。そしてこの逆説が、キンクスがセールスに関係なく、同時代のロックバンドから突出する要因だった。
僕は細かく歌詞を分析していたないが、70年代に入ってからのキンクスが力を失ったのは、音楽がアメリカンを完全に志向して英国の翳りを伝えなくなったこととともに、皮肉がより明示的になって、あとに残り、「自己消失」という魔法の力学を衰微させてしまったからではないか、ともおもう。沈思家から警告者へとステージアップしたことが、レイの創造力の減退につながったのだと。
田村君はキンクスを愛している。聴きこんでもいる。だから例示する曲がすべて的を射ている。きちんとしたキンクス論というのを僕はこのレポートで初めて体験した。いつか機会があったら、この田村君のレポートを参考にして、キンクスの授業をやってみようか。
(阿部)
『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』までのキンクス(田村洋人)
『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』までのキンクス
第二文学部 表現・芸術系専修3年 田村洋人
このレポートでは『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』までのキンクスの楽曲について考察を行うが、その前に『アーサー……』に至るまでのキンクスの楽曲の変遷と、楽曲を考察する上でポイントとなるキンクスの特徴を授業で使用された用語を交えて、記述する。
【1 キンクス楽曲の変遷】
まず、リフが主体で衝動的でありながらも色物っぽい初期の楽曲から、イギリスの労働者階級やミドルクラスの人々の人物観察を元に練りあげられたアイロニーを孕むストーリー性の強い楽曲への移行がある。『フェイス・トゥ・フェイス』や『サムシング・エルス』ではそこに、ピアノやハープシコードやマラカスといった楽器、各種SEを取り入れて変質した楽曲が混じってくる。さらにその次の段階では、アルバムにコンセプトを設けることで、その変質の方向性が定められる。
ほぼ同時期に、ビートルズは黒人音楽を基盤とした楽曲から離れ、『ラバー・ソウル』で一定の達成を見せて、『リボルバー』でそこからさらなる飛躍を試み、『サージェント・ペッパー』、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」に到達する。
キンクスはこの流れを微妙に遅れながら、追従しているようにも見える。しかし、レイ・デイヴィスの個人的な資質、記憶に不安な影を帯同させる効果によって、ビートルズとは異なる変質を楽曲に引き起こしている。ジョン・レノンは内在的な素材を扱いながらも楽曲に外延的な指向性を持たせる。ポール・マッカートニーは「ハロー・グッドバイ」のように抽象的なモチーフも解像度を上げてポップに写真化する。それに対して、『フェイス・トゥ・フェイス』以降のレイ・デイヴィスの優れた楽曲は、失われた桃源郷への落下を試み続けて、最終的には消失してしまう地点を聞き手に転位させる。
【2 キンクス楽曲の特徴】
(1)身体性
レイの鼻声とメンバーの中性的なルックス(特にデイヴ・デイヴィス)によって、キンクス初期の楽曲は野性的なブルースやR&Bを下地にしながらも、男性的にならず、可愛らしさやアイドル性を帯びざるを得なかった。レイの鼻声は後のコンセプト・アルバムでは、楽曲の幻想性に寄与することになる。
(2)視線(アイロニー)
アイロニーとは皮相と本質を同時に描写することだ。「ワイキキの休暇」では、現実逃避のための歓楽地であるワイキキをまずサウンドによって形象する。しかし、歌詞は第四連で、「小さな小屋の小さな看板がコカ・コーラを宣伝している/草の葉のスカートだってプラスティック製」と、ワイキキの外観を剥ぎ取ってみせる。この曲がただの現実逃避ソングにならないのは、ワイキキの風景が二重化されることで、それを眺める語り手自身の心象が空洞化し、その空洞にこそ語り手が魅力を感じているからだ。当然、この曲は単純なワイキキ賛歌にはならない。
(3)音の形象
バグパイプ・ピアノや女声も含んだコーラスなど、非ロック的な要素を導入することで、柔らかい日差しに包まれた午後の一時(「アフタヌーン・ティー」)や、歓楽地の弛緩した海辺のダンス(「ワイキキの休暇」)、といった風景を視覚化する。また、変調を効果的に用いることで、時間の質の変化を楽曲に引き起こす。これがあることでキンクス一連の現実逃避ソングが説得力を増す。
【3 『アーサー……』以前の楽曲】
●「サニー・アフタヌーン」
冒頭で「レレドドシシシ♭シ♭ララソソファファミミ」という半音ずつ連続して下がる音の並びを含むフレーズが提示される。このフレーズがこの曲に通底するイメージとなって、歌詞の象徴性を増す。「晴れた午後」とは太陽が沈んでいく時間であり、語り手の人生も沈んでいくだけだ、という含意がある。
この曲を分割してみると、
(1)冒頭のフレーズの提示
(2)ヴァース前半部分
(3)ヴァースの後半で冒頭のフレーズの再提示
(4)サビ
(5)サビの終りに冒頭のフレーズが被さる
となる。
ヴァースの前半部分では、コーラスは浮遊感を保ちながらも、語り手の虚脱感を補強している。それからフレーズの後半部分だけが再提示され、コーラスが途切れる。ボーカルもそのフレーズをなぞってメロディが下がっていく。つまり、浮遊感が消え、虚脱感のみが残される。このヴァースが繰り返される。サビの導入部でコーラスが被さり、消え、メロディカ、ワウ・ペダル、転がるようなピアノの音をバックに気だるいボーカルが歌う。かつての楽しかった日々を懐かしむ男が映像化される。
そしてサビの終で、“Lazing on the sunny afternoon” の歌詞に再びコーラスが被さり、語り手の感情が最大に高揚した次の瞬間、冒頭のフレーズが提示され再び語り手の感情は沈み込むが、同時に “In the summertime ”と感傷たっぷりに歌い上げる。太陽が沈んでいく光景と、語り手の没落のストーリーが重なり、そこに語り手が溶け込んで消えていく。曲はフェード・アウトで終わるが、フェード・アウトで終わらせるだけの計算がある。
●「レイジー・オールド・サン」、「オータム・オルマナック」
『サムシング・エルス』(1967)発表の前後で多用される浮遊感のあるコーラスはキンクスなりのサイケデリック・ロックへのアプローチなのだろう。もっともキンクスが採用したサイケデリック的なアプローチは、ティモシー・リアリーに代表されるようなインド思想への傾斜や社会革命的な発想といった当時のサイケデリック・ムーヴメント的な価値観は共有していない。サイケデリックから思想性を取り除くとどうなるか? LSD体験は比喩となり、音や歌詞の超現実性は純粋な意識の拡張作用に貢献する。この手法を敷衍すれば、LSDとは異なる麻薬体験、もしくは麻薬体験から離れた素材を扱い、意識の拡張を狙う表現も可能となる。
キンクスと同時代のアプローチとしては、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「黒天使の死歌」がある。この歌詞は、自動筆記を参照したのか、バロウズのカットアップを参照したのかは(僕には)判断がつかないが、文脈から離れた言葉の価値の衝突によって、意識の拡張作用を狙ったものであることは間違いない。キンクスの場合、非ロック楽器の導入とコーラスワークの洗練によって、この時期の一部の楽曲に、ふっと一瞬、この意識の拡張作用が働いているように思う。
「レイジー・オールド・サン」では、アコースティック・ギターのコード・カッティングにトランペットやマラカスが導入され、奇妙な女声コーラスが入ってくる。ピンク色の太陽が灰色の雲に隠れて、語り手は深い靄に包まれている、といった光景が浮かぶ。歌詞も、語り手が太陽に二人称で語りかけ、近視眼的でありながら、同時に遠くにある太陽が意識され、聞き手に距離感を喪失させる。
「オータム・オルマナック」では、ホーンを導入した基本的にはフォークロック風の曲だが、コーラスが秋の冷たい風が吹き抜けていく形象となり、同時にその風はサイケデリックな浮遊感を持つという離れ業をやってのけている。
●「ヴィレッジ・グリーン」
サビになるとベースラインは下がっていくフレーズを演奏する。さらにハープシコードや管楽器による感傷的なメロディと衝突することで、聞き手を迷宮的な時間に誘い込むという効果を持っている。「サニー・アフタヌーン」や「ウォータルー・サンセット」の発想と同じだ。
歌詞に登場する、語り手の過去の想い人であるらしき女性は、「デイジー」という名前だ。過去を象徴化するためだけの名前が与えられることによって、この曲の匿名性が強くなる。つまり、歌詞の語り手に聞き手を代入しやすくなる(この曲は一人称だ)。さらに、「教会、時計、尖塔、朝露、澄んだ空気、日曜学校」といった清純な景色を表現するには手垢のついた単語の羅列は、場所や時間の特定化には向かわず、パロディ化された郷愁だけを現出させる。「古い樫の木」という大げさな表象がその中心となる。
この曲が空恐ろしいのは、語り手がその「デイジー」に出会うことはないと示唆されることだ。観光に来たアメリカ人がヴィレッジ・グリーンの写真を撮るというエピソードがそれを暗示している。この曲が収録されているアルバム『ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサイエティ』には写真を撮るというモチーフが頻出する。最後の曲、「写しあった写真」ではこう歌われる。「みんなお互いの写真を撮る/そこに彼らがいたことを証明するために」。つまり、写真の中にしか彼らがいたことの証明はない、という逆説がある。そう考えるとこの曲は最初から最後まで、語り手の頭の中で描かれる空虚な妄想に過ぎないのではないかと思えてくる。
頭の中に過去の写真を思い浮かべるのは、変えられない過去と向きあうことに他ならない。「デイジーは雑貨屋トムと結婚し/今や彼は自分の店を持っている」という歌詞も、現在が過去とはすっかり変化してしまったことを示している。しかし、ボーカルはこう歌う。「ぼくはあそこに帰る/デイジーに会うんだ/ぼくらは笑いながらお茶を楽しみ/ヴィレッジ・グリーンの話をする/笑って、ヴィレッジ・グリーンの話をする」。この語り手が描く未来は彼の頭の中でしか実現しないだろう。
【5 『アーサー、もしくは大英帝国の衰退と滅亡』について】
●「ブレイン・ウォッシュド」
この曲で「洗脳」というテーマが接続されることで、このアルバムの歌曲は全て文字通りに受け取ることができなくなる。「イエス・サー、ノー・サー」における労働者階級の自嘲気味の目的喪失意識も、「ドライヴィン」の都市型現実逃避も、「オーストラリア」の移民奨励キャンペーンも不気味な響きを持つことになる。
アルバムの曲の並びも、(1)「ヴィクトリア」の過去への郷愁と賛歌から、(3)「サム・マザーズ・サン」の戦線の視覚化、(8)「ミスター・チャーチル・セッズ」の建前と現実両方の描写へと進んでいき、「洗脳」が意識されることで、現実が見えてくると受け取れないこともない。
●「シャングリラ」
シャングリラとは、英国の作家ヒルトンの小説「失われた地平線」に描かれた理想郷の名前が普通名詞化したものらしい。この楽曲では第一義的には街の名前として使われている。ここでは翻訳ではなく、あえて原詩の二連を見よう。
Put on your slippers and sit by the fire
You've reached your top and you just can't get any higher
You're in your place and you know where you are
In your Shangri-la
Sit back in your old rocking chair
You need not worry, you need not care
You can't go anywhere
Shangri-la, Shangri-la, Shangri-la
四行詩になっていて、一行目、五行目では二人称 “ You” の場所が記され、二行目、六行目では観念的な描写がなされる。三行目、四行目を訳すと「きみは自分の場所にいるんだし、それがどういうことかわかっている / きみのシャングリラで」くらいの意になる。同じように、七行目、八行目は、「きみはどこにもいけない/ シャングリラ、シャングリラ、シャングリラ」となる。
“where you are”“anywhere”“Shangri-la” がそれぞれ音の観点からも、場所を示す言葉としての意味の共通性からも響きあう。この三つの言葉、「きみがいる場所」、「全ての場所」、「楽園」は並べてみると非常に不吉に感じられる。
次に第四連を見ると、「通りに並ぶすべての家には名前がある/ みんな同じに見えるから/ 同じ煙突、同じちっぽけな車、同じガラス窓」とシャングリラの匿名性が記述される。
そのような場所が「きみの手に入れた頂点、これ以上は望めない」のではない。その頂点とは、シャングリラにいることそのものではなく、ガス代や水道代や車のローンを気にすることから逃れ、シャングリラで「暖炉のそばでスリッパを履いて」、「自分のロッキングチェアで寛ぐ」ことだ。「ロッキングチェアで寛ぐ」は、この男が過去に捕らわれていることを暗示している。さらにローン返済で、TVとラジオという外部記憶装置を買うというエピソードも、過去に逃げ場を求めるしかない人々というテーマを象徴している。
“Shangri-la” はかつて男が夢見た理想郷だったのだが、手に入れてみればそこは空虚で匿名的な空間でしかない。すると、今まで男がこの楽園を手に入れるために過ごした日々こそを理想郷化してしまう反動形成が起きる。“Shangri-la”は、この二つのベクトルに縦に引き裂かれるし、その亀裂は匿名性によって並列化して横にも拡がる。
*このレポートで扱った主な楽曲
『フェイス・トゥ・フェイス』(原題 “ Face To Face” 1966 )収録
「ワイキキの休暇」
「サニー・アフタヌーン」
『サムシング・エルス』(原題 “ Something Else By the Kinks “ 1967 )収録
「レイジー・オールド・サン」
「オータム・オルマナック」(シングル、原題 “ Autumn Almanac “ 1967 )
『ヴィレッジ・グリーン・プリザベイション・ソサイエティ』(原題 “The Kinks Are The Village Green Preservation Society “ 1968 )
「ヴィレッジ・グリーン」
『アーサー、もしくは大英帝国の衰退と滅亡』( 原題 “Arthur Or The Decline And Fall Of The British Empire “ 1969 )
「ブレイン・ウォッシュド」
「シャングリラ」
*歌詞は日本盤のCDの対訳を参照しながら自分で訳したもの
*参考文献
『ザ・キンクス ひねくれ者たちの肖像』 ジョニー・ローガン著、野間けい子訳 大栄出版 1995
『危ない薬 愛蔵版』 青山正明著 株式会社データハウス 2001
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