▼2006年度 早稲田大学前期義転載レポート

ザ・バンド「ザ・ウェイト」について(青木 強)

【解題】
 青木強君が考察するのは、僕が講義内でも採りあげた、ザ・バンドの名曲中の名曲、「ザ・ウェイト」だ。「その重荷」と直訳できるこの曲は、イエスの生地「ナザレ」の地に場所を限定することから始まり、そににいる歌の主人公を掠めるように、多様な時代・多様な地域の歴史的人物が続々繰り出してくる神話的構成をもっている。僕はその歌の私訳を学生たちにプリント配布した。

 訳してみてわかるのだが、ザ・バンドの歌は、ルーツに基づいた楽曲のスタチックな印象に反し、その歌詞を訳すのが随分難しい。ディランのようにはゆかない。省略や、口語独特の言い回しが数多く混入するためだ。僕は歌全体に皮肉な口調を読み取り、そこから全体を解釈した。意訳も盛り込んだ。

 青木君のレポートはまずそんなロック対訳の問題に突き刺さる。彼の訳は下を読んでもらえばわかるように正統的だ。逆に、歌の重要なルフランと「テイク・ア・ロード・オフ、ファニー」のところについては僕は天から地上に下りてくるイエスの言葉ととり、そのような荘厳調で訳したのだが、青木君は、イエスを騙る者の贋の聖言ととり、とくに「ファニー」の呼びかけを砕いて訳す。どっちが正しいということではない。そのように英語圏の聴き手によっても、もともとザ・バンドの歌詞は、とくにこの曲に関しては多義的に映るのではないだろうか。

 青木君の一字一句を追って、自分の文学体験・歴史観を裏打ちしてゆく情熱的な作業が素晴らしい。くだらない対訳稼業のチンピラたちに見せたいくらいだ。しかも、のちのち、ザ・バンドの楽曲/演奏への言及の段になって、楽曲/演奏の音(全体の聴覚上の把握)もふくめ、歌詞の解釈が最終決定されなければならないという態度を青木君が貫いているともわかる。これがあって、音を聴きながら対訳に眼を走らせる体験が聴き手に、しっくりくるのだ。

 で、ここでもルフラン部「テイク・ア・ロード・・」の「音」の解釈が問題になる。ゴスペルの囃しかけの明らかな転用。つまり神の音楽の転用。だから僕はその部分をイエスの言葉として訳したのだが、青木君のほうはもう一歩突っ込んでいる。ここではレヴォン、リック、リチャードのヴォーカルがズレ、その間隙に亡霊が生ずるといったのは実は講義中の僕なのだが、青木君はその「亡霊性」を組み込み、ルフランの一応の聖言を贋の命法の言葉に訳したのだった。そういう、解釈にたいする情熱を呼んだ点で、僕はいい授業をしたのだとおもう。この点と、青木君の対訳への真摯なアプローチを読者にぜひ読んでもらいたいとおもい、彼の好レポートをアップしてもらうことにしたのだった。

 ともあれ、歌詞を考えなくても洋楽が聴けるひとには、豊かな水紋をつくる一石を投じる、そんなレポートになっているとおもう。

 ちなみに僕の訳のほうは、このサイトの「ロック訳詩集」に入ってますので、青木訳と比較して読んでいただければ。
(阿部)

ザ・バンド「ザ・ウェイト」について(青木 強)



ザ・バンド「ザ・ウェイト」について

第二文学部 歴史・民俗系専修4年 青木 強

 さて、サブカルチャー論のレポートであるが、どのミュージシャンについて書こうか、実はずいぶん迷ったのだが、悩んだ末結局「ザ・バンド」で書くことにした。それはなぜか。一つ、この講義を通して知り、好きになった。一つ、彼女の父親がザ・バンドのファンである。この二つの理由が大きい。実際後者の理由の方が大きいのだが、現代の音楽に埋もれている自分にとって、ロック全盛期の、そして今も色あせないこの音楽と向き合うことはものすごく貴重で、こういう機会でもなければ得がたい体験かもしれない。
 ザ・バンドの『Music From Big Pink』から「The Weight」を選んで考察しようと思う。

 まず歌詞を自分なりに翻訳したいと思う。以下がその訳である。

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「The Weight」

おれはナザレにたどり着いた
もうすでに半分死んだように感じていた
おれはどこかただ身を横たえて休める場所を求めているだけなんだ

なぁ、紳士よ、教えてくれないか
人はどこで安息の地をみつけるんだ?
そいつはにっこりと笑み、俺の手をとり握手をし、
「そんなものはない」とだけ言った

※ 荷を降ろせよ くそったれ
重荷を背負うんだよ 自由になるために
荷を降ろせよ くそったれ
そうして、
…そうして背負ってきたものをおれに置いていきな

おれは袋を拾った
それを隠す場所を探すことにした
年老いたカルメンと悪魔がうろうろしているのを見たとき、
そう、おれは言ったんだ
「おい、カルメン、来いよ、街に出よう」
彼女は答えた
「私もそうしたかったけど、友達(悪魔)が付きまとって離れないから」

ひざまづけよ、モーゼお嬢ちゃん、お前が語れることなんて一つもない
ルカは年老いて、ただただ審判の日を待っているだけだ
「そうだ、ルカ、友よ、まだ若いアナ・リーはどうするんだ?」
彼は答えた
「息子よ、頼みを聞いてくれ、お前のところにアナ・リーを置いてくれないか」

いかれたチェスターがついて来て、霧の中でおれをつかまえた
やつは
「もし、愛犬のジャックをうばったら、お前のベッドにくくりつけてやる」
と言い
おれは
「ちょっと待て、チェスター、知ってるだろう、おれが穏やかなやつだってことを」
と返した
するとやつは言った
「それならいいんだ、愛犬に餌をやって養ってくれないか、できる時でいいから」

特急列車に飛び乗っていくんだ、今
おれのことを文章に書きとめてくれ
おれのバッグはずり落ちるほど中身が詰まった、
おれはくそったれに返事をすべき時が来たと確信する
知ってるだろ、彼女はかけがえのない存在
――すべての人々に対する彼女の考慮により、おれをここに送りだした

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 以上が私が作ってみた試訳である。

 この試訳をするにあたって、阿部嘉昭氏の訳を参考にさせていただいたことを記しておく。しかし、サビの訳を見てもらえばわかるだろうが、多少解釈は違う。

 それでは、順を追って詞を解読していこうと思う。

 まずはタイトルから、この詞でもっとも重要になる「重荷」である。

 これは詞にちりばめられたものを丁寧に拾っていくと、イエスというもうひとつのキーワードが見えてくる。「ナザレ」というのはイエスの故郷である。そしてキリスト教世界において、「ナザレのイエス」というのは、神であるイエスではなく、ひとりの人間としてのイエスを指すときに用いられるフレーズである。

 歌の主人公は半死半生で、ナザレにたどり着き、ただただ安息を求める主人公は道行く紳士に、非情なことをさらりとつげられ、イエスの追体験をすることになる。

 もしかしたらこの紳士というのがイエスなのかもしれない。

 それは考えすぎかもしれないが、聖人と考えるとつじつまも合い、しっくりくる。いずれにせよ、主人公はこの言葉により踏みにじられるが、自らの重荷と向き合うことで、その正当性をかみ締め、人間的に成長していくことを悟り、人の重荷さえ肩代わりすることで本当の意味での自由を手に入れようとあがいているのではないか。まるでキリストのように。

 かくして、キリスト憑きの主人公は旅に出る。というかすでに旅の途中であろうことから、旅を続ける。と、訂正しよう。

 ちなみになぜ旅という言葉を用いたかというと、「ナザレ」はポルトガル、「カルメン」をメリメの小説からのものと考えるならば、スペイン、「チェスター」をGKチェスタートンと仮定するなら、イギリス、「モーゼ」はエジプトからアラビアにかけて、だからである。そして、この歌の終着点へ。

 正直なところ、訳しあぐねたところは多々あった。サビのFannyをくそったれと訳したのは、Fannyを辞書で引くと、1、しり、2、女性器、と出る。そこでおそらくののしり言葉だろうと読んだのだが、それだけではない。

 阿部氏と同じ訳にしなかったのは、もちろんイエスの言葉であるが、イエスの憑いた男の叫びであると思ったからだ。

 結局、男は安住の地を求めて彷徨った末、さまざまな心に呪縛を抱えた人々と出会う。その体験により、男は自分の女の所が安息の地であると気づくのである。

 そう、サビで呼びかけるfannyは自分の女のことであるのは間違いなさそうである。

 ここまで打ち込んできて気づいたのだが、もしかしたら男は死に場所を求めて彷徨っていたのかもしれない。カルメンもルカも、いかれたチェスターでさえ、みななんらかの気がかりを抱え、どこまでもついてくるそれに死ぬに死ねない亡霊だったのかもしれない。

 そう解釈すると時代を飛び越え男が次々と出会いを重ねるのも合点がいく。

 乱暴だがまとめてしまうと、イエス憑きの男がさまざまな亡霊と出会いながら様々な土地を旅し、そして自分の女に安息の場所を求める。という歌なのだこれは。

 だからこそサビで、自分の女に向かって荷を降ろせよ。と歌っている。それは自分が見て来た亡霊にも同時に呼びかけるが、その亡霊たちとの出会いでいろんな「荷」をバッグの中につめることで成長してきた主人公だから言えることにほかならない。

 と、すると試訳をひとつ訂正しなくてはならないのかもしれない。「くそったれ」ではなく、あなたとかハニーとか、いや、適切な言葉は見当たらないが、(ともすればフェミニスト団体から抗議されそうだが)くそ女ぐらいが丁度いいと思う。しかし、イエスがこの時点で憑いているとすれば、阿部氏の訳のように「Fanny」を「汝」と訳すほうが整然としていて雰囲気も出てよいのかもしれない。

 それでは、この辺で詞に合わせてこの「The Weight」の音楽から感じることをつづってみようと思う。この曲を、いや「Music From Big Pink」を聴いて思ったのはザ・バンドの音は直球だな。と。それはもちろん、いろんな要素の音楽と混ざり合って独自の世界観を生み出しているのだが、自分たちの奏でたい音楽を素直に、決して受けを狙うことなく、媚びることなく、堂々と奏でているように感じる。

 それはロリー・ホーキンスや、ディランとやってきた自らの音楽に誇りを持っているようにも見える。実際そうなのだろう。

 さて、「The Weigt」に話をもどすと、素直で素朴なイントロに導かれ曲の世界に足を踏み入れてしまう。ギター、ドラムと順に入ってきてすべての音が揃う頃には曲の世界である。すると最初のフレーズで「ナザレ」というフレーズがわりとすんなり耳に入ってくる。このワンフレーズでリスナーにこれから開かれていくパラレルワールドを宣言しているようにもとれる。

 安息の地を求める主人公が問いかけ、それに紳士(聖人?)が「そんなものはない」答える。少し物悲しさ(メランコリー)を覚えるこのフレーズをソウルフルというか独特の粘着質のある、それでいてサラサラした質感のボーカルが盛り上げるが、ドラムのハイハットが多少ハネぎみにド、チッ、タ、チッと入るので、軽快なニュアンスを生み、重くなりすぎないようにうまくバランスが取れている。

 そして、歌がいよいよサビに入るときに挿入されるピアノがずるい。一気に気分を盛り上げサビに突入すると、メインのボーカルに遅れて、というか多少ずれて、コーラスが入る。逆にこのズレが心地よく聴こえる。この、ズレたコーラスはもしかしたら「イエスが憑いている」という象徴なのかもしれない。いや、そうだろう。サビの最後のフレーズ「and and and…」とコーラスが重なっていくところはまるでミサで聖歌を聴いているようにさえ感じる。

 この「ズレ」という要素は、足腰が強く軸(フレーム)のしっかりした音を奏でるザ・バンドにとっての「欠性」であるし、味である。

 さらに終始同じテンポ続いていくこの曲の唯一テンポの変化するアクセント部にもなっている。

 ボーカルはそんなに悲哀たっぷりに歌ってはいないのだろうが、声質からなにか「メランコリック」な感情を託されてしまう。(サビのコーラス部では直球にファルセットが「メランコリーを呼び起こす」)

 まとめてしまえば、ザ・バンドは偉大なミュージシャンというよりは素朴だけど非凡で、普遍的だけど刹那的なメロディを生み出すすごいミュージシャンである。

 このレポートの作成にあたり、何度も何度も彼らのアルバムを聴きこんだが、聴けば聴くほどに味が出てくる。

 それは私が現在好きなアーティストの音楽にも彼らの影が見られるからなのかもしれない。

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