▼2005年度 早稲田大学後期義転載レポート

復帰後の椎名林檎~東京事変(三枝文子)

【解題】
三枝文子さんの椎名林檎論は、『加爾基 精液 栗ノ花』時の林檎の唱法変化から注意を促がす。林檎のトレードマークだった「R」音の巻き舌がこの時点で完全消滅したのは、林檎の身体に変化があったからだという説を立てるのだ(たとえば出産、たとえば禁煙)。以後、適確な事実提示が続き、『加爾基』の周囲を旋回することになる。遡っては映像作品『桃色眼鏡』とSg「茎」、のちにはSg「りんごのうた」。そうして林檎の東京事変の結成となり、三枝さんも「群青日和」の分析に入ってゆく。つまり、こうして出産復帰後の林檎の全体論が試みられたということになる。『桃色眼鏡』の重要性など、林檎本の著作のある僕にしても、へえ、そうなのかとおもうところも多く、よくまとまっている。
 だが、それだけではない。それだけならこのサイトに転載をもとめたりしない。彼女は、林檎の歌詞を「音素」に還元し、歌詞中で「カ」音・「タ」音の破裂音(「ダ」音も実は含まれる)が飛躍的に増えた――それもまた林檎の身体性の変化だ、という画期的な指摘をおこなうのだった。そこから、現在の林檎の身体変化はバンド形態の採用と関わっているという結論を導きだす。この部分が面白く、魅了された。
 音素による詩文解読というのはある。ほか「サ」音の爽快、「ナ」音の暗さ・くぐもり、「ハ」音のつよさなど。僕は、Jポップの歌詞で脚韻を踏んでもその不自然さ・人工性によっていずれは破綻が起こる、唄う行為を考え、日本の和歌の伝統を考えれば、むしろ有効なのは頭韻(同音のみならず、同じ行の音を並べたり、句切りの頭でそれを揃えたりすること)だと常々いっているが、その頭韻の把握の際に導入されてくるのが、音素分析だ。たとえば那珂太郎の詩集『音楽』は、音数/音素/意味が三つ併せて同時に捉えられなくてはならない。やがてこれは、ランボーの「母音」詩句のような、独創的な共感覚を伴ってくるかもしれない。
 三枝さんの「群青日和」分析は、そうした把握の端緒となっている感がある。新宿伊勢丹前で豪雨に見舞われ、OLらしき女が冷えた身熱をもって過ぎ去った恋=肉体愛を思いやる、といった気色の「群青日和」では、歌詞中、青の寒色が強調されているが、それがなお青特有の鎮静に向かわず尖っているのは、そうだった――三枝さんの指摘どおり破裂音の多さによるのだった。となると、「群青日和」は破裂音と青色を結びつけた独創を最も称賛すべきだったということにもなる。
 バンド音というか、ロックは伝統的に破裂音多用の歌詞をこのむだろう。ロックの身体性がそもそも外延的なこと、同時に、演奏音に紛れないために歌詞に破裂音の強度が必要とされるためだとおもう。そんないろいろを彼女のレポートを契機に考えた。
 ついでに東京事変という「バンド」が林檎にとって何であるのか、それも新作『大人(アダルト)』と併せこの欄で考えようとしたが、これは長くなりそうなので、やめておく。
(阿部)

復帰後の椎名林檎~東京事変(三枝文子)



復帰後の椎名林檎~東京事変

第二文学部 社会・人間系専修4年 三枝文子


【巻き舌の消失】

 林檎の特徴的な歌唱法として「R」の巻き舌が挙げられることが多い。一度(『加爾基 精液栗ノ花』周辺)は意識的に巻き舌を封印し、意識的に椎名林檎であることを捨てた彼女であった。「どうぞさらっていって」(「迷彩」)の滑らかな「ら」音に、驚く。「泣いたら 何だってこの白い手にはいりそうで」(
「意識」)」には、林檎特有のかつて情念系・昭和歌謡的こぶしと賛辞されあげつらわれた「ら」音が消え去っていた。「毎日襲来する強敵 電話のベル」(「やっつけ仕事」)、これなどはアルバムバージョンのアレンジだけではなく歌唱法からまったく変わってしまったことを意識せざるを得ない。ディストーション、巻き舌多用、ゆがんだガリガリの初出「やっつけ仕事」は消え去り、爽やかに、たからかに歌い上げているのだ。『加爾基 精液栗ノ花』では巻き舌を意識的に使用せず、同時にそれまでの歌唱法であったら喉と巻き舌を使ったあの特徴的な「昭和歌謡的こぶし」で歌いあげようとも思える箇所でもあえて禁じた。

 勿論オフの間に歌唱力が変わり、オフ前の歌い方が自分でしっくりこないともインタビューでもらしていたこともあり、変化は当たり前のことであった。歌うことを辞める、椎名林檎はアルバム三枚で封印する、との数々の椎名林檎死亡説を自ら流布し、アルバム三枚目を作るまえのオフというのはファンをやきもきさせた。いつ復帰するのかはわからずただただ見守るしかなく、実際『歌い手冥利』が発売されてもなお、不安定な復帰路線に腫れ物を触るようであった。また次に出される『不思議 快楽 エキセントリック』(仮)というアルバムが出されれば椎名林檎は音楽活動をやめる――引退か、もしくはまったく違う形であの女の人が何かをするのではないかという憶測が次のアルバムへの注目をいやおうなしに引き上げた。

 女優になるのではないか、との憶測が生まれたのも、そんな状況のなかで『百色眼鏡』での謎の女主演という格好の材料が飛び込んできたからである。『加爾基 精液栗ノ花』への前菜的作品として、ワンクッションの意味で『百色眼鏡』は発表された。もうひとつの材料は「茎」であるが、これまでの作風とはまったく違うこと、それでもシンメトリーにこだわるさまなどはまだ椎名林檎的である。むしろ椎名林檎たりすぎるのではないかとの印象をうけた。

 3枚目のアルバムで椎名林檎というアイコンに落とし前をつけるということはどういうことなのか。椎名林檎を演じることなのか、それとも3枚目のアルバムでは新しい林檎の出現で終止符を打つのか。『百色眼鏡』はサウンドトラックにアルバム収録曲がちりばめられ、映像、覗き穴から謎の女を覗く、2面性を持つ女、本当の私とは誰なのかなどなどアルバムの曲を体現する作品であり、それだけではなくこれからの椎名林檎というものを考えさせられるものであったことは言うまでもない。それでもアルバムが出てからでしか評価・判断できるものではない、とそこへの大衆の反応というのはあいまいであり慎重であった。

 そこへ3枚目のアルバムという注目せざるを得ない作品の登場である。感想は、作風に・状況に触発されて深刻であった。「これまでの椎名林檎という制約をすべてとっぱらってやりたいことを全部できた」。そう語る彼女は次どうするかの発言は続けると答えていた。しかしそれもインタビュー記事からはうまく伝わってこず、はっきりと判断しかねるものであった。

 『加爾基 精液栗ノ花』という作品の一番の特徴は「非椎名林檎的」であることと、サウンド面においても民族楽器の多用ということがあげられる。「真夜中は純潔」で見せた東京スカイパラダイスオーケストラとの「シドと白昼夢」にも見られる「本当にやりたかったこと」的要素。デビュー前に、頭の中に鳴っていた音というのは、何もギンギンにギターを聞かせてこぶしを利かせたいものではなかった。オーケストラアレンジ、もしくは民族楽器を多用すること、とにかく楽器、ジャンルにとらわれず表現したかったという。『加爾基 精液 栗ノ花』は彼女の頭の中に鳴っていた音である。

 デビュー前に亀田誠治に聞かせた「意識」「葬列」などは今のJ popには受け入れられる土壌がないと温存する方向で話がまとまったという。よって「幸福論」から始まり『絶頂集』(「真夜中は純潔」含む)までのサウンドというのはバンド形式を基調としてきた。バンド編成、ギター、ベース、ドラム、キーボードその他アレンジといった形での表現技法であっても楽曲は評価され続け、(途中『勝訴ストリップ』ではBJORK的アレンジとまとまりのなさ、ズレが比較的低い評価を受けているが)3枚目では「本当にやりたかったこと」を表現できる土壌を作ることが出来た。椎名林檎というアイコンが一人歩きする、否かということよりも椎名林檎という表現者が表現したかったことが集約される作品というのは複雑なものであった。

 『加爾基 精液栗ノ花』は暗い。とてつもなく暗い。しかし真の林檎の音楽ということで評論にも『勝訴』ほどの辛らつな言葉は見られなかった。「これで本当の林檎ちゃんに会えた。私はわかっていたよ。待っていたよ。」という本当はわかってました的な、それでいて高尚すぎて、私的すぎて評価できないといった複雑さ。これまでスタンスを明確にし、『無罪モラトリアム』でも『勝訴ストリップ』でも『絶頂集』でも表現技法としては適切であったろうし、むしろ公的に聞かすべき楽曲ではなかったのかもしれない。

 こうして明確な三枚目への判断は下されないまま、あやふやに復帰を果たしたといえる。ビクビクと辞めないで欲しいと思いながら椎名林檎を終わらせないためにはどうすることもできずただただ腫れ物に触るようなあの時の大衆の反応といったら。自分のための生活のサウンドトラックがあったら、とおもって作ったという『加爾基 精液 栗ノ花』。それはあまりにJ pop過ぎず、つかみどころのないものであった。コレまでの林檎的複線は何も役に立たず、子どもが産まれ、育てするうちに出てくるまったく椎名林檎的でない女が作った曲たちだったのだ。


【りんごのうた~東京事変】

 「やっとわたしのながわかりました あなたがおっしゃるとおりのりんごです」と「わたし」のなまえを悟ったという形で幕を閉じる椎名林檎という物語。リスナーに椎名林檎というのはあなたが考える椎名林檎なのですよ、というメッセージを突きつける。こうして椎名林檎は落とし前をつけられ、短い潜伏期間とほくろの除去といったイベント的ニュースを含みながら東京事変の誕生へと推移する。

 「椎名林檎」が帰ってきたと思わせた第一作「群青日和」はこれまでの歌唱印象と少なからず違うものだった。シングル「茎」から始まる『加爾基精液栗ノ花』の復帰作品の中でもある程度は感じたことなのだが、東京事変による「群青日和」はより歌詞の音の面・歌唱法からそう思わせられることが強かった。カ行タ行の破裂音がより顕著になっているのだ。これは今に限ったことではないのかもしれないが、歌唱法の変化、もしくは強調してサウンド処理しているとしか思えない。歌詞的にも1フレーズにひとつはカ行タ行が出現し、カチカチと鳴るような印象を受ける。「群青日和」のPVを見ていても、アゴで歌っている印象を受ける。かきくけこ、たちつてとの破裂音が顕著なのである。これは意識的に行っている、もしくはカツカツした発音を近年好んでいるのではないかと感じる。

 以下「群青日和」をもって解説。


●「群青日和」東京事変
           作詞:椎名林檎  作曲:H是都M

                  タ行 カ行に注目

新宿は豪雨             しんじゅ く  ご うう
あなた何処へやら          あな た ど こ
今日が青く冷えてゆく東京      き ょう が あお く ゆ く とう きょう
戦略は皆無             せんりゃ く  か いむ
わたし何処へやら          わ たし ど こ
脳が水滴を奪って乾く        か わく

「泣きたい気持ちは連なって冬に雨を齎している」と、云うと 
                  な きたい き もちは つ らなって と いう と
疑わぬあなた「嘘だって好くて沢山の矛盾が丁度善い」と
                  た くさん  ち ょうど  と 
答にならぬ“高い無料(ただ)の論理”で嘘を嘘だといなすことで即刻関係の無いヒトとなる
                  こ たえ  た かい ただ
                  こ とで
                  か んけいの  ひ とと なる

演技をしているんだ         えん ぎ    し て
あなただってきっとそうさ      あな た だって きっと  
当事者を回避している        と うじしゃ か いひ し て い る
興味が湧いたって          き ょうみ   わい たって
据え膳の完成を待って        か んせいを
何とも思わない振りで笑う      なん とも 

突き刺す十二月と伊勢丹の息が合わさる衝突地点 
                  つ きさす 12が つと い きが しょう とつ ち てん
少しあなたを思い出す体感温度    あな た おもい だす たい かん おん ど

答は無いの?            こ たえ
誰かの所為(せい)にしたい      だ れか  し たい
ちゃんと教育して叱ってくれ     ち ゃんと き ょういく  くれ

新宿は豪雨             しんじゅ く   ご うう
誰か此処へ来て           だ れか ここへ きて
青く燃えてゆく東京の日       ゆ く と うきょう


 タ行カ行のおとをできるかぎり抜きがいた。

 うえのように、音節にあわせてタ行音で始まる、カ行音ではじまる音が多いことがわかる。またメロディーラインの骨子となる位置にはかならずといっていいほどカ行タ行の音が位置していることがわかる。本人も意識的に行っていた自らの作品中で、母音で発音しやすい音、発声しやすい音があるので調べてもらえばよくわかるとビクビクしていたらしい。林檎的であるといわれる歌詞の裏側にはこのように聞いて心地良い、もしくは発音しやすいなどの理由から歌詞が選ばれているようなふしもあるようだ。

 ちなみに曲名のぐんじょうびより という音のはじめもカ行系である。

 東京事変での活動を通して、より声質の変化・歌詞の扱い方(カ行タ行は意識的であるとしかいいようがない)の変化が見られる。声質の変化はタバコをやめた(もしくはやめる前の前段階で量を減らしたなどのことが)考えられるが、加齢によるものという気もする。

 子どもが産まれ子育てをすることで前椎名林檎とは趣が異なった椎名林檎ではあるが、東京事変というバンドを手に入れてますます新・椎名林檎を発展させていくことは間違いない。東京事変というバンドのメンバーという位置づけだけではなく、やはり世の中は椎名林檎の東京事変という見方をまだまだ弱めていない。ワンクッションの守ってくれるバンドメンバーに囲まれながら、精神的に参ることなく音楽活動を続けていってほしいと願うばかりである。

●同じカテゴリー「2005年度 早稲田大学後期義転載レポート」: リンク一覧

up