▼2005年度 早稲田大学後期義転載レポート

二階堂和美のイノセントな世界(本田裕子)

【解題】
この本田裕子さんの二階堂和美論は、決定的に正しい。僕が『椎名林檎vsJポップ』に収録した二階堂和美論(ツジコノリコ論と串刺しされている)よりも正しいかもしれない。「驚愕」の印象に傾いているからだ。本田さんは、まず、彼女の「ホニャ語≒喃語」に注目し、歌声ではなく純粋ヴォイス(楽器としての声)、歌詞の言葉ではなく音素へと変えて歌が表現される二階堂の「純粋還元論的な」音楽が、なぜ意味論を超えて聴き手の心を打つのか、その分析をおこなう。子供が子供にたいして覚える新鮮な驚き、僕なりの言葉で言い換えれば、そういうことになるだろう。ただし、それは唄い手-聴き手の、通じやすい「同質性」反射ではない。聴き手はたとえば童心に帰らされる「衝撃」を受けているのだ。二階堂は他者であり、聴き手の無意識の触媒ではあるが、手なづけられやすい対象ではないだろう。
 二階堂和美が終始おこなっているのは、音楽という「消えやすいもの」の瞬間的な定位だ。しかもそれも、生成の瞬間の定位だ。そこには遊戯性が表面的にあったとしても、それ以上に表現そのものの厳粛性が存在している。何しろ、「飛び出してくる」のだ。「消える」のは、だいぶあとからだ。このときの圧力が、音の強弱に関わりなく高いのだった。それでこの唄い手の音楽度がつよいことを、観客は存在論的に思いしらされる。そこで、本田さんの言を借りれば、ある刹那、既聴と未聴の弁別がきかなくなる。
 本田さんはもうひとつ、重要なことをいっている。二階堂の声とその伴奏楽器(多くはアコギ)が、声と声の織り成す関係のように共鳴的だということだ。主従関係ではない。これが、『Nikaidoh Kazumi US Tour 2003』のdisk3(僕は未聴だった)へと発展する。単純な共鳴の聴取から音場の空間性が把握され、それが音楽の人間的リアルとなる――そう綴れば、二階堂和美は音響派音楽の正統だともわかる。ただし彼女の端倪すべからざる点は、ひとつのジャンルへの囲い込みを拒む定位不能性(それが二階堂の「少女性」の本質だ)をも体現しているということではないか。何しろ彼女は、最大振幅ではダダにすら傾斜する。だとすれば、聴衆は、一旦彼女の「ホニャ語」に安住しても、別の瞬間には、それが突然「歌詞」となって、意味を分岐してゆくことに驚愕もするだろう。
 本田さんはこれら僕の綴ったことを、より噛み砕いて見事に説明している。その「噛み砕き」には、二階堂にたいする長年の聴取体験が生きているだろう。慎み深い崇敬が感じられて、素晴らしいとおもう。
 僕が付け加えたいのはひとつだけ。「定位」の取り囲みを外し、たえず自らを逃れ去る二階堂の音楽には、僕の考える「ネオフォーク」の実質がきらめいているということだ。そして「逃れさること」の哀悼、それは音楽に常に向けられる本質的感情だが、その逃走線には同時に音楽の快楽も宿っているのだった。音楽はそこで「二律背反」となる。
 二階堂和美はもっと聴かれなければならない。「不思議系」の語で彼女をおとしめてはならない。第一、それはもう死語だろう。
(阿部)

二階堂和美のイノセントな世界(本田裕子)



二階堂和美のイノセントな世界

第二文学部 文学・言語系専修3年 本田裕子


二階堂和美の歌を聴くと、いつもある情景が頭に浮かぶ。

 夏の日の公園。ひとりの子供が友達から少し離れた場所で一本の樹を見上げ、頭上の蝉の音の物真似をして声をあげている。その子供の声は驚くほど蝉の音に似ていて、蝉の音なのか子供の声なのか判別できない。子供は恍惚と蝉の音に自分の声を合わせ続ける。やがてふたつのバイブレーションが完全に一致すると、子供は満足したのか、声を止めてぷいと友達のところへ戻っていく――そんな情景だ。

 二階堂和美の歌の世界を一言でいうならば、「イノセント」である。ではどんな部分が彼女のイノセントな世界を作り上げているのか、歌詞と歌唱法、演奏の側面から分析してゆく。


【意味を持たない歌詞――「ホニャ語」】

 二階堂の歌を聞いた人の感想には「天然奇抜」「自然体」「ほんわり」「幸福感」、あと嫌いな言葉だが「癒し」などのキーワードがよく挙げられる。ステージ上の彼女の素朴なスタイルもさることながら、何よりも歌詞に使われる「ホニャ語」がそれらのキーワードが象徴する世界を作り上げていると私は考える。「ホニャ語」とは二階堂自身が名づけた言葉で、曲中で何度もリピートされるスキャットのような独特な発音を指す。「ホニャ語」で歌う理由について、彼女はインタビューでこう語っている。


 「んーなんて言っていいかわかんないんだけど、曲を作る時に最初に口ずさんだフレーズで、意味はないんだけど、でも毎回必ず同じ発音でしゃべっていて、このメロディに対しては、この発音が一番しっくりくるっていう。ドゥビドゥバとか、ラララとかだけじゃなくて、日本語でも英語でも何語でもなくて、その発音で歌いたかった。」


 「ホニャ語」には意味がない。発音が大切なのだ。ここで思いつくのが、赤ん坊が口にする「喃語」である。喃語とは生後二ヶ月ごろの赤ん坊が「あー」「ぶー」など繰り返し口にする非言語音声である。いわば言語を獲得する前に行う発声練習のようなもので、突然低い声を出してみたり、日本語にはないような発音も混じったりする。赤ん坊は自分が発した音を聞くのが楽しくて、いろいろな声色を繰り返し発してはそれに反応して一人で会話を楽しむのだ (特に機嫌がよい時に多く発する)。

 「日本語でも英語でも何語でもなく、その発音で歌いたかった」という二階堂の発声に対する純粋な欲求は、喃語を口にする赤ん坊の発声への欲求とよく似ている。言葉の意味を持たぬ点も同様である。つまり、「ホニャ語」とは「喃語」なのである。二階堂は赤ん坊にしか持ち得ない発声を再現しているのである。そう考えると、「天然奇抜」「自然体」「ほんわり」「幸福感」といった二階堂の歌に対する感想も、喃語を楽しそうに口にする赤ん坊の声を聞いたときの大人の感想と一致するのではないだろうか。


【言葉は意味から音へ】

 このように二階堂の歌において、たとえ歌詞が日本語であったとしても歌詞の意味はさほど重要ではない(もともと“歌詞に込められたメッセージ”なるものは皆無と言ってよい)。 重要なのは言葉の「意味」よりも「響き」なのである。「意味」から解放された日本語、もしくは元から意味を持たない「ホニャ語」
は、もはや言葉ではなく「音」である。言葉が音の粒に分解されて、聴き手の耳に流れ込むのである。

 ある言葉が音に分解され、何度も何度も繰り返されると、聴き手にジャメ・ヴ(未視感)のような現象が起きてくる。「知っている言葉のはずなのに、聴いているうちに初めて聞いた言葉のような」感覚になるのである。それが体験できる曲として一番分かりやすいのは「さめない夢」である(オリジナル曲ではなく、原曲はテレビアニメ『赤毛のアン』のエンディング・テーマ)。


 「走っても走っても 終わらない花の波 湖は遠く もえる雲はもっと遠く 花の中で一日は終わる さめない夢みたいに さめない夢みたいに」


 二階堂は原曲をアレンジして冒頭の「走っても走っても」の部分を延々と繰り返す。偏執狂かと疑うくらい、何度も何度も繰り返す。それは原曲よりも二階堂のアレンジの方が「走っても走ってもきりが無い状態」を如実に表現している。聞いている方はそのうちランナーズ・ハイに陥ったかのようにクラクラしてくる。

 「ハシッテモ…ハシッテモ…」と音だけが頭の中に響き、もとの言葉の意味がぼやけてくる。「ハシッテモ…ハシッテモ…ハシッテモ…」。身体ごとを音の波に漂わせているような気持ちになる。そのうちに音が止み「花の中で一日は終わる」のところでふと我に返る。そのときに自分がいままで実際に走っていたかのように感じていたのに気付く。つまり「走る」という言葉の意味の理解から、「走り」の体感へといつの間にか移行してしまっていたのだ。聴き手は、言葉よりも五感で世界を捉える子供の状態に戻るのだ。

 二階堂は言葉を音に分解した後に、その分解された音を再構築してもとの言葉が表わす意味・状態をより深く再現しているのである。ちなみにこの曲の二番の冒頭は「眠っても眠っても」である。私はライヴでこの曲を聞いて、どこか遠くに連れて行かれそうになって怖くなった覚えがある。


【限界を知らない歌唱法】

 さらに二階堂の歌が聴き手にイノセントな印象を与える要素に、彼女の即興的な歌唱法がある。二階堂の歌声は一曲の中でクルクルと表情を変える。澄んだ声がどこまでも伸びてゆくかと思えば、突然独り言のようにささやき、一転してサッチモばりの野太いスキャットをとどろかす。かといって歌唱技術を誇って聴衆手練手管で魅せるのとは違う。二階堂の即興性は、前項で述べたように、色々な声色を発して遊ぶ赤ん坊のような純粋さを感じさせるのだ。もしくは自分が出せる声の領域をまだ把握しきっていない変声期を迎えたばかりの児童の、自分の声に対する並々ならぬ好奇心、とでも言おうか。

 限界が分からず、とりあえず一番高い声を(もしくは一番低い声を)出してみたら、想像以上の高くて澄んだ声(もしくは低くて力強い声)が響いた。咽喉から生まれ出た新しい音の発見に、彼女は夢中になってつぎつぎと、大胆に、様々な音色を探ってゆく。こんな音が出るのか、こうすれば次はどんな音が? クルクルと表情を変える即興的な歌い方は、「歌うことを知ったばかりの子供」のような高揚感に満ちている。


【楽器と声の共鳴】

 二階堂は伴奏におもにアコースティク・ギターを使っているが、楽器を「自分の歌を引き立たせる道具」のような扱いはしない。どちらかというと対等な関係である。


 「私の場合、ボーカルといっても楽器のかわりというか、声っていうか。コトバがコロコロと転がっていってくれれば、いいなあって。詞より音が先に入ってくるものにしたいんだ。」


 自分の声を「楽器のかわり」とすることからも二階堂の「音」に対するアプローチが読み取れる。彼女は自分の声(音)と、自分の外側にあるもの(楽器)から発せられた「音」と共鳴しようと試みる。ギターと声、ふたつの楽器の共鳴である。

 楽器と声の共鳴が余すところ無く表現されているのが『Nikaidoh Kazumi US Tour 2003』のdisk3に収録された全12曲のインストゥルメンタルだ。USツアー中に地元の音楽家たちと作った曲をレコーディングしたもので、実験的な作品である。全曲とも自由な雰囲気で、目の前にある楽器をとりあえず鳴らしてみて、思いついて口ずさんだメロディをそのまま録ったような気楽さが感じられる。

 使われる楽器は基本的に一曲につきひとつだけ。楽器の種類はドラム、マーチング・ドラム、ベル、オルガン、アコーディオン、ギター、スティールパンなど様々である。なかにはドラムのスティックを叩き合わせた音だけのもある。それらの楽器ひとつひとつの音に、二階堂が歌でどう共鳴するかが聴き所となっている。

 楽器の旋律は非常にシンプルである。オルガンで2つのキーをひたすら繰り返したり、マーチング・ドラムでリズムだけを刻んだり。曲の始めに楽器の音がしばらく続いたあと、二階堂の声がからんでくる。英語の歌詞で歌っている曲もあるが、ほとんどがホニャ語である。ここで不思議なのは、人間の(二階堂の)声が登場したのにもかかわらず、同じ種類の楽器を重奏しているように感じるのである。

 べつに二階堂が使われた楽器の音を物真似したり、楽器と同じ旋律を重ねて歌ったりしているわけではない。二階堂はその楽器のもつ音色の特性を殺さずに歌うのである。いやそれどころか、二階堂の声が混ざったことで、よりその楽器の音の性格がはっきりと感じられるのだ。あたかも二階堂から「ほら、この楽器ってこんな音がするんだよ」と音色を披露されたかのように。

 聴き手はかつてその楽器の音色に初めて出会ったときの、新鮮な感覚を思い出す。ああ、オルガンの音ってお腹に響くんだ、ベルって最後は音が薄まって消えてしまうんだな、と。

 私が二階堂の世界を「イノセント」だと呼ぶのは、二階堂自身が「初めて歌うことを知った子供」であるのと同時に、二階堂の音そのものに対する純粋な反応が、聴き手に「初めてある音を耳にした時」の子供の頃の記憶をよび起こさせるからだと思う。それは旋律に込められたなにかしらのメッセージや感情を受け取
るのではなく、この世にあふれるすべての音に惹きつけられ戯れていた子供時代である。救急車のサイレンや、父親のくしゃみの大音響を耳にして頭の中で“ピーポーピーポー”“ハクション”と擬音語に転換してしまう以前の、音そのものに触れていた時代である。

注) 本文引用の二階堂和美の発言はすべて下記サイトのインタビュー記事から抜粋した。

「TIME MARKET NET MAGAZINE」
band files二階堂和美インタビュー http://homepage2.nifty.com/timemarket/inds/034nikaido.html

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