▼2005年度 早稲田大学後期義転載レポート

銀杏BOYZ『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』について(林 幹大)

【解題】
 銀杏BOYSはかなり前から立教の学生に、聴いてみては、と薦められていたのだが、ブルーハーツ的なものをイメージし、怖気をふるって聴かなかった。ただし、この林幹大君のレポートをキッカケに、聴いてみようか、とゆらぎだした。
 彼のレポートの着眼でまず面白かったのは、銀杏の特徴=「メロの完全パクリ」にたいし、「サブカル系」という形容をしている点だった。あからさまな「完全パクリ」は、批評停止や免罪をもちこみ、音楽が音楽としてある土壌が「サブカル」であることのみを提示する、ということだろう。そこには共時的ではなく、通時的な音楽観の眩暈がある。しかも銀杏はそこに、ディストーションをかけ、汚さ・ゆがみをもちこむ。となれば、それは批評精神の発露ということにもなる。たかだか「フォーク」にディストーションをかけただけのブルーハーツとはレベルがちがうのかもしれない(下品さのレベルがちがうということはすぐわかる――なお、日本のミュージシャンでブルーハーツを最も辛辣に揶揄したのは、mooolsだということを忘れてはならない――彼らの「フォーキー」はサイケロックやジャズが反転した、経路の奥行をもっていて、ブルーハーツ的な、恥しいストレートさが皆無だ)。
 次に林君のレポートで面白かったのは、その歌詞分析。柄谷行人というより、宮台真司の二分律、「内在系」「超越系」の概念を、林君は援用する。「他人と同じような幸福を得ればそれに安住する」のが「内在系」、「そこではどうしても満足できず、超越軸をもとめてしまう」のが「超越系」で、オウム信徒はむろん「超越系」だったが、「まったり革命」のブルセラ女子高生も「内在系」ではなく「超越系」だった――思い違いをしていた、という宮台発言は、一部で近年話題になったとおもう。
 林君は、銀杏の歌詞が、「内在系」→「超越系」の深化過程をしるしているという指摘を、端的だが具体的におこなう。その詳細は本文をみられたいが、問題は一見「内在系」とみられるものが、「超越系」の思い違いだったという現代的道筋のほうなのではないか(宮台もこのあたりを故意に道化的に振舞ったのではないか)。つまり、ここでは「アイ・キャン・ゲット・ノー・サディスファクション」を金科玉条にもつロックがもともと「超越系」だったという歴史問題をいっているのではなく、誰もが相対的「安心」に自らの生活や愛情をいったん覆いながら、そのじつその「安心」には必ず資本作用的な亀裂が入り、その亀裂模様が「超越論」的領域を指示してしまうということなのだ。そのようにして覚醒の道筋はある。つまりそれは資本主義=民主主義が「虚像」を撒き散らしながら、自己目的的にのみ己れを「運用」していることに気づくこと、その別の謂にほかならない。その罠に近づくために、童貞のぼやき、性的な妄想がかえって必要になる。あるいは殺意や、間近の幸福への利己的な執着が必要になる。
  僕が林君の文章を読んで、銀杏BOYSに感じた可能性とは、そういうことだった。となれば、その「露悪」は含羞の裏返し、というだけでは済まなくなる。彼らがナイーヴか否かは、この一点から測られなければならないだろう。
(阿部)

銀杏BOYZ『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』について(林 幹大)



銀杏BOYZ『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』について

第二文学部 表現・芸術系専修2年 林 幹大


 銀杏BOYZ(以下、「銀杏」)とは、峯田和伸(Vo&G)・我孫子真哉(B)・チン中村(G)・村井守(Dr)4人からなるロックバンドである(これは私の判断であり、パンクバンドと称するのが一般的かもしれない)。

 インディーズパンクシーンで活動し、2002年1月にツアー中に突然解散したGOING STEADY(以下、ゴイステ)を「銀杏」の前身といっていいだろう。メンバー4人中チン中村を除く3人がゴイステからのメンバーであり、引き継がれた曲も多いからである。

 ゴイステ時代には、衝動的なライブパフォーマンスと、「童貞」というキーワードや「宮沢賢治」からの引用を用いるなどした楽曲によって、少年少女の青臭さや夢想を歌う世界観によって、一部の若者からの熱狂的支持を得ていた。

 突然の解散後、峯田和伸のソロ活動として「銀杏」の活動は始まり、やがてメンバー形成、峯田和伸の映画『Iden&Tity』(監督:田口トモロヲ 原作:みうらじゅん)出演などを経て、2005年、初作品アルバム『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』の2枚を同時リリースしている。その後の活動もまた話題性の高いものであり、ツアー初日をはじめとする峯田の度重なる骨折、それに伴うツアーの延期、ロックインジャパンフェスでの下半身露出による書類送検騒動など、ともすれば衝動を表現するために過激さに依存していると捉えられかねないバンドである。

 さて私は邦楽をレポートするにあたり、「銀杏」を題材にした。自分のCD棚を眺めてみた時、

 メッセージ性が顕著になってきたMr.Children。
 ともすればグロテスクな世界観を持つスピッツ。
 リフに興奮させられる、ブランキー・ジェット・シティ。
 タナトスをくすぐられるThe・ピーズ。

 なども候補に挙げたがその中で、銀杏BOYZを選んだ。私は音楽を聴いている際に歌詞を言語として認識できる能力に乏しい。今回の機会をとらえて詩世界を意識することに努めた結果、銀杏BOYZの「意図」するものが、私の実存的な解釈のなかで見えた気がしたのである。彼らの意図は非常に現代的なものであり、身につまされる。身につまされるとは、陳腐にして傲慢な言い方だが、その「現代性」について考えてみたいと思う。

 素材は銀杏の『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』(以下、『君と僕』)と、『DOOR』である。


【銀杏BOYZの「音」について:パフォーマンスが形成する構造】

 アルバム全編に言えることだが、銀杏のメロディーは、~~の影響、などという以前にまったくの「パクリ」に思える箇所が多数見受けられる。顕著な例を挙げれば、『DOOR』所収の、(10)「銀河鉄道の夜」と、松任谷由美の「守ってあげたい」がそうであろう。他にも、音楽的蓄積を持つ耳からすれば一聴瞭然に指摘できる箇所は多いだろう。

 しかし私は、この開き直りともとれる潔さに別の解釈を適用したい。予め断っておきたいが、私は、「銀杏」を愛するがゆえの堕落した態度で論じているつもりはない。意識的に聴いた結果、戦略としてのメロディーではないだろうか、と感じたのである。

 それは、ポップさゆえの批評の回避、である。耳になじむメロディーとそのパッチワークによるポップな耳あたりは、聴く者の「油断」を誘う。また、耳の肥えた者の批評はその下品な引用に向かうだろう。「創造」ではなく「芸」だ、と。それらの「油断」は「銀杏」のライブに見出されるパフォーマンス性とあいまって、「ミュージシャン」というよりも「芸人」としての認識に近づくのではないだろうか。ここに、重要な効果が生まれると私は考える。それは、「音楽性」の「サブカルチャー化」である。

 もともと、サブカルチャーとは、音楽や漫画などを含んだジャンルとしての名称である。「サブカルチャー化」の私の解釈を述べたい。あらゆる概念や分野に、「逆説」や「相対的言及」を重ねることで、言及を受けたものはその「絶対性」を失っていく。「相対的」存在となったものたちは、その極点において全てが等価な存在になる。映画も漫画も音楽も横並び。この状況を私は「サブカルチャー化」と解釈しているのである。

 つまり、「銀杏」の、パクリやライブによるパフォーマンス性は、言葉は悪いが「これはパフォーマンスだから。」という批評回避性を生み、例えば「なんて悪意に満ちた平和なんだろう」(『君と僕』所収)や「なんとなく僕たちは大人になるんだ」(『DOOR』所収)などのフォーク的音楽性は批評の的となり得る部分だが、歌い終えるまでの自由をバンドとして獲得しているのではないかと私は考える。

 ここまでメロディーに関して言及してきたが、演奏に耳を向けてみよう。

 まず、端的に「汚い」。ディストーションをかけすぎた高い音圧での演奏は、もう少しで音が全てただの粒子になってしまう寸前にあるような印象を受ける。ギターは、テレキャスターのシングル・ピックアップに特徴的なソリッド感を活かし、ハウリングによるハーモニクスをディストーションで増幅させるなどの奏法も多用されており、ジミ・ヘンドリックスのファズサウンドを真似して失敗しているかのようである。
ヴォーカルも割れるようなシャウト、五線譜を外れる歌唱である。

 加えて、モタるようなドラムは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのギターが刻むリズムのようにエモーショナルな感覚を呼び起こし、全体的には、衝動的な演奏に苦笑い、半笑いといった感じだろうか。 

 一方で、ベースはルート音をなぞるようなものではなく、音の上下を自在にうねり、独特のグルーブ感を生んでいる。

 これらの演奏は基本的に全編に共通するものだが、両アルバムとも、前半の数曲に顕著である。中盤からは「聴かせる」曲が連続し、演奏は比較的丁寧になる。このような曲順の妙こそが、「銀杏」の戦略であり、演奏のパフォーマンス性との相乗効果から、「一方的に聴かせる構造」を形成しているように思える。

 では、曲順の妙について、詩世界を切り口に考察してみたい。


【「銀杏BOYZ」の詩世界について:「内在系」から「超越系」、その後】

 まずは、『君と僕』から。実はこの、『君と僕』から述べなければならない(聴かなければならない)ところが重要だと私は解釈している。先述した「曲順の妙」は2枚のアルバムにさえ鑑賞の順序を強いているように感じる。

(1)「日本人」

 「夕焼~けこやけ~にょ!あぎゃとーんーばぁぁぁ!」とアカペラによる始まりは芸人用語で言うところの「つかみ」に相当するだろう。注目したいのは、主語が「我々 日本人」と「僕」の二つが登場する部分である。『君と僕』のはじまりの曲であると同時に、2枚通しての始まりであることを象徴しているように感じられる。

(2)「SKOOL KILL」

 タイトルは「酒鬼薔薇聖斗」の犯行声明文からの引用。歌詞中の「僕」が非常に個人的欲望を抱えていることと、現実の葛藤との関係に酒鬼薔薇聖斗を見ることができる。「君のことが大好きだから」という甘い歌詞がサビで繰り返されることにより、自己正当化の論が、感情の純粋さと隣り合い区別がなく狂気的である。

(3)「あの娘に1ミリでもちょっかいかけたら殺す」

  (2)と共通する個人的な世界把握がエディプスコンプレックス的な衝動を持ち合わせている。

(4)「童貞フォーク少年、高円寺にて爆死寸前」

 「連邦警察」、実生活での「母ちゃん」「親父」、「仏像」と、「監視する者」あるいは「社会性」のメタファーが、個人的欲望を抱えた「僕」の前に現れる。

(5)「トラッシュ」

 キケンな「僕」の欲望、純粋さ、心を許している音楽、それらが「トラッシュ」のように一緒くたに並列され、「まっくろけの夜とまっしろけの朝」は、その紙一重の決定的な違いを歌っている。その価値の並列さに「僕はどこ 君はだれ」と混乱をきたしている。

(6)「なんて悪意に満ちた平和なんだろう」

 「僕」の価値観を決定付けている曲。これまでに、自らの欲望を、聖性や社会性との並置によって混乱していた「僕」は、自分ではなく「世界」を疑い始める。自らの葛藤=「第三次世界大戦」はすでに始まっているのに、そのことを「悪意に満ちた平和」が覆っている、と。

 ここまでの「僕」の軌跡は、『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)において、幻的なリリーを通してリュウが幻視した破壊すべき「宮殿」への思いが、『海の向こうで戦争が始まる』(村上龍)へといたった過程を、私は連想させられた。


(7)~(14)

  (6)をきっかけに「僕」は個人的な戦争の場=幻想的世界へと没入していく。甘い歌詞や演奏が聴く者にもその世界へ踏み込むことを要請してくるのは前述したとおりである。

 特筆すべき恋愛観として、

 「わたしはまぼろしなの あなたの夢の中にいるの 触れれば消えてしまうの それでもわたしを抱きしめてほしいの」((8)「駆け抜けて性春」)

 「人を愛するということはきっと 君が君以上に僕を愛してくれたこと 僕は僕以上に君を愛せていたのかな 僕はそんなこと以上に君を愛せていたのかな」((14)「東京」)

 などを挙げたい。

 恋愛というのは脳みそが見ている夢であり、思い込みである。その思い込みに殉じられるか、当人同士が美しく思い違うことができるか。それが私なりの解釈である。なお、(8)「駆け抜けて性春」では前述の歌詞部分のヴォーカルをYUKI(元JUDY&MARY)が担当しており、その夢幻性を高めている。

 また、「第三次世界大戦」へと旅立った「僕」は戦線でどのようになってゆくのか、その過程を読み取れる部分がある。

 (10)「漂流教室」

 「告別式」「あいつは笑ってギターを弾いて」「君と僕は一生の友達なのさ」など、ギターを武器と捉えた上で、戦友との別れが歌われる。深読みかもしれないが、「ゴイステ」を共に立ち上げたゴイステ時代のギタリスト・浅井威雄をイメージしたのかもしれないと思わされる。

 (12)「若者たち」

 主語が「僕」から「俺たち」になり、詩にも「少年よ」と命令形がつかわれ扇動するかのような勢いがある。ラストに「やるなら今しかねえべ」とシュプレヒコールのようなくだりがあるが、このコールにあわせ、右手を肩から腰へ振り下ろす動作を峯田はする。私の出身高校が旧制中学のバンカラ気風の名残を残した高校だったため、弊衣破帽を身に纏う応援団の封建的な雰囲気を思い出した。「僕」が「第三次世界大戦」の「革命軍」として懸命に生きている姿を想像させる。1曲目の「我々 日本人」という主語の示唆がいよいよテーマとして顕在化してくる。

 (13)「青春時代」

 「僕」に特徴的な価値観をあらわす詩がみられる。

 「PKを決めて英雄だったあいつが今じゃあちっちゃな町の郵便屋さんさ」

 「あああ 僕は何かやらかしてみたい」

 これらの詩は、『君と僕』の一つの答えであり、『DOOR』へのテーマ提起である、と私は解釈する。

 以上を踏まえ、ここまでの『君と僕』への考察を総括してみたい。その際、「内在系」と「超越系」という用語を取り入れたい。この用語は批評家の柄谷行人氏の著作「言葉と悲劇」から拝借させていただいた。私の読解に誤りがあり解釈に用語法として問題があるかもしれないが、便宜的に使用したい。

 私の解釈では、「内在系」は自らに周囲の大多数と変わりない幸福があるのなら生きていける、というタイプ。それに対し「超越系」は、自分が自分である必然がないこと、「他」との入れ替えが可能であることに満足できないタイプ。論理的に「超越系」は「内在系」の特質に気づいた上に成り立つ。

 『君と僕』は「僕」が「超越」性に覚醒する過程を表現した作品だといえるだろう。


 では、その続編としての『DOOR』を、「超越系」に覚醒した「僕」を観点に考察してみたい。

 (1)「十七歳」

 「あいつらが簡単に口にする100回の「愛してる」よりも 大学ノート50ページにわたってあの娘の名前を書いてた方が 僕にとっては価値があるのさ」

 完璧である。「あいつら」という一括りに対し、僕が僕であることの特別性、必然性を志向している。

 (2)「犬人間」

 「退屈だけが友達さ この世は白昼夢の小便さ シャンプー飲んだら血便出たよ 眉毛を剃って蠅と戦う」

 爆笑もできるが、痛々しくもある。「超越」的感覚で生きることと「世界」との葛藤に混乱している。社会学者・宮台真司氏の言説(「まったり革命」:「意味」から「強度」へ)を借りれば、生きる「意味」への混乱が「眉毛を剃って蠅と戦う」という「強度」として反映されている。だが、あくまでもこの「強度」は混乱であり、「眉毛を剃って蠅と戦う」ことで「まったり」できているわけではない。

 また、この生きる「意味」への混乱は、『君と僕』で歌われてきた「君」「あの娘」という女性への感覚にも影響を及ぼしている。そのような読み取りができる曲が数曲連続する。

 (4)~(6)

 「あの娘はどこかの誰かと援助交際」((4)「援助交際」)

 「女なんて嫌いだ 女なんてどっかに消えちまえ/ほんとはやりたいな かわいいあの子とほんとはやりたいな 僕なんてどっかに消えちまえ」((5)「メス豚」)

 「あの娘は猿だから アバズレ猿だから 僕たち猿だから 猿以下なんだから」((6)「あの娘は綾波レイが好き」)

 強烈な歌詞だが、こう捉えることはできないだろうか。「内在」的な自らの入れ替え可能性に耐えられない「僕」は何らかの「傷」によって自分だけの存在証明を持とうとする「あの娘」を欲する。「あの娘」を守ることが「僕」の生きる「意味」に絶対性を帯びさせる、と。

 (7)「SEXTEEN」

 「僕の目ん玉と 僕の内臓と 僕の排泄物を君に捧げるでしょう」

 Coccoの詩を読んでいるような感覚を持ってしまう。世界で一つの「傷」を持つ「あの娘」と一つになることで、

 「街にはドボドボとミカンが降ってきたし 僕等は踏み潰して蹴りながらキスをしたし」

と、まるで「猫猫猫」と書いた萩原朔太郎的世界の中で、「僕等」は周囲が「ミカン」にみえてしまうほどの聖地を手に入れている。

 これは「あの娘」という絶対性の確保、依存による「内在系」への回帰といえるかもしれない。

 (8)「リビドー」

 「ヒステリックに踊るしかないのさ 輝く明日なんてやってこないから」

 「内在系」への回帰の諦念は「ヒステリック」なダンスという「強度」として表現されている。

 (9)~(12)

 切なくロマンチックな曲が連続する。「超越系」の生き難さゆえの逃避だろうかとも感じられる。また、『君と僕』のように「内在系」と「超越系」の葛藤を再び繰り返す「戦地」へと旅立った、ともいえるだろう。

 (13)「NO FUTURE NO CRY」

 エンディングテーマのような楽曲。

 「死に急ぐのではなく生き急ぐのさ 傷だらけで恥をさらしても生きるのさ」

 生きにくい世界だがそれでもなんとか生きていかなければならない。という主張を感じる。つまり、「内在系」の特質を知った上での覚悟が歌われている。

 (14)「人間」、(15)「なんとなく僕たちは大人になるんだ」

 私の解釈では、「作品」としての楽曲は(13)で終わりだと感じる。厳密に言えば、(13)までの「僕」は作品「内」で「超越系」の生き難さを体験した「僕」であり、ラスト2曲の「僕」は作品「外」の「峯田和伸」であろう。「君」とは幻想の通用しない現実の、ヘッドフォンの外では借金取りの鳴らすインターホンや散歩を楽しむ犬の吠え声の聞こえる世界の「君」である。

 「僕を呼んでる声がしたよ 君はどこだ 僕等はなんにもできやしねえじゃねえか」

 「そう 僕は天使なんかじゃない 君の名前は神様なんかじゃない あいつはちっとも仏様じゃない そう 僕等はもがき苦しんでるだけの人間様さ」((14)「人間」)

 ここに、アーティストとオーディエンスの関係がみられ、それぞれの息苦しさ、共通の息苦しさがうたわれている。

 作品の「内」「外」を示すものとして、(15)の演奏前の音声を例にとってもいいだろう。

 「2004年11月22日、チン中村26歳誕生日。」

 まぎれもなく現実だ、という世界認識が作品の枠を破って伝えられる。これにより、作品全体で体験させた世界観を、作品の外、現実に持ち帰らせる効果があるといっていいだろう。


【最後に】

 私が、「銀杏」を聞くことが「身につまされる」ことだと述べたのは、「超越系」の葛藤を感じるからであった。現代的な意図があるから、と「銀杏」を題材にした理由はこの点にある。近代化を達成した日本は、国という「絶対性」に滅私奉公することで個人の生きる意味を得る、という機能を終了させたと私は認識している。やはり違う時代なのではないかと思う。その中で、「銀杏」の歌う歌にニヤリとした。ニヤリとした、とは距離感のある、落ち着いた感想だが、今回のように「銀杏」の世界観を独りよがりに、偏執狂的に読んでいく自分こそが一番痛々しいと感じた。

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