▼2005年度 早稲田大学後期義転載レポート

面影ラッキーホールが提示する音楽界の病巣(友久 千澄)

【解題】
 面影ラッキーホールは、よくヴィレッジ・バンガードなどで、そのジャケットを眼にしていた。ヘンな予感があったが、やっぱりザッパに似ていたのか。ただし友久千澄さんの言によれば、ザッパの溶融的ジャンル混沌にたいし、面影ラッキーホールは粒だった配列のまま(つまり音楽ジャンルのジャンル規則を温存したまま)アルバム内の曲構造を並列-混沌させているようだ。してみると、その政治性と猥褻の複合、それに伴う悪意やユーモアの点で、面影――とザッパ=マザーズが、一種の近似性をもつということにもなるのだろう。
  ともあれ、友久さんのレポートは、僕に即座に面影――のCDを買わなくては、という気にさせた。この点で、もうすでにレポートの高評価が確定したようなものだ。加えて、緊密で自覚的な文章も、申し分がない。
 面影――を持ち上げ、その返す刀で、旧来フォークから受け継がれた現今Jポップの私小説的な閉塞を撃ち、同時に80年代的なサブカルバンドの栄光を希釈したまま、「サブカル」を目指そうとする現今バンドの「内輪性」もが友久さんの快刀でメッタ斬りにされる。痛快だ。いまの「サブカル系」がダメだという彼女の意見は、その音楽が参照系をもち目配せをするばかりで、絶対他者的な自立性をもっていないという点に尽きるだろう。
 友久さんのレポートをよく見てみると、面影ラッキーホールはそうした現今バンドの弱点を躯ひとつで危うくかわしているとわかる。彼らにも私小説があり、サブカル参照があるのだが、その精度や危険性に他のバンドとの径庭があるらしいのだ。この「躯ひとつの」「かわし」、これを聴者として認知できるか否かに、Jポップの唯物的な現象学が関わっているといっていいだろう。比喩はどうでもいい。ラルク~アン~シエルとGacktを見分けること。オシリペンペンズとあふりらんぽを見分けること。mooolsと他のネオ・フォークロックを見分けること。その場合にこそ、多様に音楽を聴いている教養が大きく物をいう。挑発的にまで固有名詞がちりばめられた友久さんのレポートは、この点の重要性を問わず語りにもしているだろう。
  僕は05年度後期の早稲田のJポップ講義では、ザッパに似ているバンドとして太陽肛門スパパーンを扱ったのだが、友久さんがどう捉えたのかを訊いてみたい。彼らを間違って「サブカル系」と認知した場合にハはねかかる猛毒の泥とは何なのか。
  あ、友久さんがレポートの末尾ちかくで抜いた、面影ラッキーホールの「360゜ノーマル」の歌詞、すごく好みだ(笑)。オシリペンペンズの歌詞に近似するものを感じるが、たぶんモタコの歌唱とは異なるのだろうなあ。
(阿部)

面影ラッキーホールが提示する音楽界の病巣(友久 千澄)



面影ラッキーホールが提示する音楽界の病巣

第二文学部 思想・宗教系4年 友久 千澄


 一.面影ラッキーホールというバンドと「音楽ぎらい」

 面影ラッキーホールを私が知ったのは今から八年前(1999年)のことであるが、すでにその時点から伝説的存在となっており、インターネットが普及した今日においても活動の実態は未だ謎に包まれている珍しいバンドだ。幸運にも私は2002年の芝浦工大での復活ライヴを体験することができた。その時のライヴ情報源は高円寺のとあるライヴハウスの便所の壁の一枚の張り紙だったため、このバンドの情報発信の消極さには大変感服した(彼らはメジャーデビューしているのだ)。

 バンド名の由来はダッチワイフ「面影一号」と簡易型ピンサロ「ラッキーホール」から取っているようであるが、バンド名というのは得てして、バンドの経年変化とともに新たなる意味づけが付加されていくので、バンド名に込められた意味合いについては言及を避けようと思う。面影ラッキーホールの数々の伝説はネット上のファンによる伝承やクイックジャパンのバックナンバーを参照されたい。

 アルバムとして入手可能なものはインディーズ時代の『メロ』(96年)、徳間ジャパンからのメジャーデビューアルバム『代理母』(98年)、セカンドアルバム『音楽ぎらい』(99年)である。インディーズ盤『メロ』に収録の楽曲の大半は、より秀逸なアレンジ、音質の向上が施され、メジャーデビュー後の『代理母』、『音楽ぎらい』に再録されている。従って、『代理母』、『音楽ぎらい』の二つのアルバムのみを聴けば面影ラッキーホールの音楽を聴いたことになったと言って差し支えないと思う。

 面影ラッキーホールは当初、ソニーミュージックエンタテインメントと契約していたのだが、アルバム発売直前にその歌詞の内容の過激さから自主規制のため発売できなくなった関係で徳間ジャパンに移籍し、メジャーデビュー作『代理母』を発表している。ちなみに頭脳警察の「1」やThe Stalinの「虫」などの政治的過激さに比べれば、面影ラッキーホールの性的過激さは遥かに小さいと私は感じる。そういった移籍のゴタゴタのためか、メジャーデビューアルバム『代理母』は全体としてやや散漫な印象と、サブカル的な臭いを感じる。

 それに比べてセカンドアルバム『音楽ぎらい』は簡潔にまとまった印象と激しいメッセージ性、サブカルとの訣別が感じられ、私にとっての20世紀最後の超盤である。

 作詞は佐々木”ACKY”あきひ郎(ボーカル)、作曲はSinner-Yang(ベースを中心にマルチに楽器を担当)が担当しており、The Smithsにおけるモリッシーとジョニー・マーの関係のような相互依存関係の成立を客観的に感じ取ることができる。この二人を核として半流動的なメンバー、ホーンセクションが取り囲み、大所帯のバンドが形成されている。

 今日まで面影ラッキーホールに関する評論において、カルト、サブカルの観点から論じたもの以外、私は目にしたことがない。Sinner- Yangらのその創作の根底にある思想や主張についての回答は、彼らの愛すべきユーモアによって意図的に避けられてきた。しかし、『音楽ぎらい』は「自分たちの主張の根底を自分たちが知っているということを知らない」という無意識の産物ではなく、明らかに意図的に創作された怪物的な作品である。その根拠は次のようなものだ。

 私はタイトルが「音楽嫌い(・・)」ではなく、敢えて「音楽ぎらい(・・・)」(ひらがな)と表記されているということに、フランスの劇作家モリエール(1622-1673)の代表作(そのタイトルは日本語訳で『人間ぎらい(・・・)』として広く知られている)を思い起こさずにはいられなかった。『人間ぎらい(・・・)』は、歯に衣着せぬ発言(批判を手厳しく率直に相手に伝える)をするような無作法な女に対して激しい恋心を抱く男の苦悩を通し、お互い批判をし合わない馴れ合いの人間関係が正しいのか、批判を手厳しく率直に相手に伝え合う人間関係が正しいのかを問う作品である。

 この300年以上も前の『人間ぎらい』の根底に流れていたものが『音楽ぎらい』の根底にも流れている。『音楽ぎらい』は現在の馴れ合いの音楽界(だけでなく文化界)にある病巣を徹底的に糾弾したような一枚である。私は面影ラッキーホールが捉えている音楽・文化界の病巣は「排他的私小説音楽の興隆」と「サブカル至上主義の興隆」であると考えている。

 面影ラッキーホールがフランク・ザッパと類似しているとする主張がたまに聞かれる(私はフランク・ザッパに関しては30枚程度しか聴いていないが、それでも10枚以上の名盤と10枚程度の凡作、幾つかの明らかな駄作を聴いてきた)。ザッパの音楽がごった煮音楽であることとユーモラスであることが面影ラッキーホールと類似していると考えた主張だろう。ザッパは詞、ユーモア、音楽の総合的な進歩を目指しているが、その中でも音楽的な部分への傾斜は特に顕著だ。マザーズのセカンド、『Absolutely Free』はストラヴィンスキーからの影響がダイレクトに現れているし、『Uncle Meat』では四度累積和音が爆発している。『Roxy & Elsewhere』ではフュージョンにプロコフィエフ的な近代音楽色を持ち込み、『Bongo Fury』ではキャプテン・ビーフハートを飼いならし、『Sheik Youbouti』では純粋なロックによるオラトリオの完成形がある。

 このようにザッパは音楽のジャンルを常に横断し、自分で噛み砕き新たなものを生成していった結果がごった煮なのである。

 しかしながら、面影ラッキーホールのごった煮は、元々のジャンルを加工せずにそのまま多ジャンルの音楽を用いることである。フランク・ザッパの R & Bは音楽的晦渋さを所々にちりばめたザッパ的R & Bとなっているが、面影ラッキーホールのR & BはR & Bそのものである。つまり、特定の音楽にこだわりを持たないことと、既存の音楽のみを使うということが面影ラッキーホールにとって特に重要なのだ。あくまで音楽は詞の伴奏、詞の魅力を最大限高めることと認識しているのである。


二.排他的私小説音楽の興隆

 坂本九の「上を向いて歩こう」は誰もが知るような極上の人生の応援歌であるが、歌詞中に「思い出す、夏の日…」と出てくる点に僅かながらではあるが私小説性を垣間見ることができる。私的(プライベート)なものが介在することで作品の私小説性は突如として現れる。

 特に歌詞中の固有名詞は特に私小説性を高める注意すべき要素だ。たとえば、「たばこを吸う」が「マイルドセブンを吸う」に変化しただけで急激に歌のもつプライベートな性格が前面に押し出される。「〇〇駅前の××商店」なんていうセリフが歌詞に存在すれば極度に私的になる。こうした、私的な固有名詞の増大は、聴く者に対する意図的な配慮の欠落によって、聴く者を選別していると言えよう。

 しかも、こうした固有名詞の乱用だけでなく、理解不能なセリフや文の繋ぎ方も、全体を抽象化することで聴く者を寄せ付けないことに大きく貢献している。具体的名詞と抽象的文脈によって聴く者を意図的に遠ざけ作者自身の中心に向かって縮み、埋没していく方向にある音楽を私は「排他的私小説音楽」と呼びたい。今日、この排他的私小説音楽は激増しているのである。敢えてそのようなバンドの例については述べないが、少し想像してみれば幾つもバンドが思い浮かぶだろう。

 こうした排他的私小説音楽のそもそもの源流はどこにあるのかと言えば、それは60代後半のアングラレコードクラブ(URC)系の音楽にまで遡るであろう。例えば、誰のことを言っているのか分からないような「キミ」の存在の原型は、数多の美しいラヴソングを生み出した西岡恭蔵、ディランⅡ、若者への反戦・市民思想を喚起させた五つの赤い風船、耽美的な生活感を歌い上げた初期遠藤賢司などに見られる。しかし、彼らの作品ではその「キミ」の存在は誰でも分かる恋人や若者であり、彼らの音楽は決して排他的ではない。赤い風船後の西岡たかしや豊田勇造にはいささか排他性は感じられるが、遠藤賢司の美しい生活感や、初期ガロの透明感には排他性は全く臭わず、この美しさは現在、小沢健二らに確実に受け継がれている。

 さて、ではなぜ、近年のロックバンドがその私小説性において排他的になっていったのだろうか。排他的私小説性が顕著なバンドは大抵、インディーズ時代に名門ライヴハウスのサクセスロードを通ってきた連中である。そして、現在、売れれば売れるほど、排他性が増している傾向にある。彼らはインディーズ魂のようなものを維持しようとするため、売れたCDの枚数に反比例して聴き手を選ぼうとする内側へのダイナミクスを働かせる。その結果として、極度に自己埋没した音楽が量産されるのではないかと思う。そして内側への縮退による自己縮小により外部(似通ったスタイルのバンド)との衝突を意図的に避け、恒常的に存在できる場を見出そうとするのである。

 こうして排他的私小説バンド群は馴れ合いの状況を作り出すのである。面影ラッキーホールは固有名詞の使い方に最新の注意をはかっており、それぞれの曲が描く生活のリアルさは、三上寛の自然主義に通じる。歌の物語の主人公たちはなぎら健壱や初期泉谷しげるの詞に登場するような階級感が付帯した人々であり、そこにユーモアをふんだんにふりかけ自然主義の臭みを取り除き、人生への応援歌に仕立て上げているのである。これはまさに聴き手を積極的に広げていく方向にあり、排他的なものとは全く逆のスタンスである。


三.サブカル至上主義の興隆

 サブカル至上主義は排他的私小説音楽が内に向かうのとは逆に、外に向かうことによって馴れ合いの社会を築く特徴があると私は考えている。サブカル的バンドはいわゆるカルトバンドと呼ばれているものと考えてよい。これらは主に、バブル絶頂時代前後、バンドブーム期に出てきたバンドである。

 バンドブーム時代のバンドの多くが、音楽経験は決して長くなく、映画、漫画、アニメ、オカルト、演劇などに興味を持っていた文化系の人々がバンドを組んじゃったようなバンドである。まさに何でもありな80年代の騒然とした社会が反映されている。彼らの音楽が実に面白いことは否めない事実である。

 筋肉少女帯の初期はピアノとハードロックが合わさった技術的にも理論的にも高度な音楽に、大槻ケンヂのお世辞にも上手いとは言えない歌でその天才的な詞が絶叫される。ファーストアルバムにして名盤の『仏陀L』に収録されている「孤島の鬼」(江戸川乱歩の代表的長編小説のタイトル)は歌を七五調にするという実に斬新な試みがなされている。

 人間椅子は和風の音階に載せて日本近代文学からのインスピレーションを曲に爆発させおどろおどろしく演奏する青森のバンドだ。

 これらサブカルバンドに共通して言えることは聴き手への啓蒙と、ユーモアである。サブカルバンドの曲はその中に多量の固有名詞を投じる。これらは先に述べた排他的で私的なものではなく、サブカル人たちが憧れてきた、作家、文学、漫画、映画、映画監督、役者、特撮モノ、兵器などの共通の固有名詞である。これらの固有名詞を通して、聴き手に主張を間接的に伝えるのである。つまり、自分の伝えたいメッセージを文豪、映画監督といった巨匠の作品にアウトソーシングするのである。「俺の言いたいことはこの映画を見れば分かるから見ておいてくれ」というものだ。

 確かにサブカル的作品は面白いのだが、こういったアウトソーシングの乱用は、主張する者としての怠惰であることは間違いない。聴き手は、音楽出身でない音楽家であるサブカルバンドのメンバーに親近感を持っており、彼らの提示するアウトソーシング先の作品を一つ一つクリアし啓蒙されていくことによって、憧れの音楽家に近づいていく喜びを感じるのである。メンバーの裏方気分になるくらいまで聴き手は内輪ネタの世界に引き込まれていくのだ。内輪ネタの世界はまさに一つの馴れ合いの空間である。そしてサブカル主義者は音楽だけでなく、様々な文化人を巻き込み、巨大なサブカル共同体を作るのである。もともと、音楽以外の分野に多大な興味を抱いている集団なので、その外側方向へのダイナミクスは凄まじいものだ。

 そしてここでサブカル主義者特有のユーモアが悪く働く。ユーモラスで実際は意味不明な比喩(例えば「菊地桃子はロックだ」というような)がまかり通ることによって、真剣で学術的な主義主張の討論がサブカル主義者同士の中で困難になっていくため、必然的に批判をし合わない馴れ合いの空間が出来上がるのである。私が先に、面影ラッキーホールの『代理母』はサブカル的な部分があると述べたのは、ナレーションに一部、田口トモロヲが参加していたりするためだ。

 しかしながら、『音楽ぎらい』においてサブカル批判は「360°ノーマル」という曲で爆発する。2コードの繰り返しによるレゲエ調の不気味なこの曲は凄まじいサブカル批判の曲だ。ちょっと無理してフリルの穴あきパンティを買ってきた彼女に彼氏が「グンゼの白いパンツでいい、グンゼのパンツがいい」と叫ぶ。ちょっと無理して金のシャチホコを試そうとする彼に彼女が「事務的なのがいい、正上位でいい、正上位がいい」と叫ぶ。アブノーマルな過程を経てやっぱりノーマルがいいなぁという360°ノーマルの意味はとても深い。

 2コードの繰り返しは360°の回転をイメージに相まっている。そして最後に、「鬼畜なもの」、「危ないなもの」が流行している社会を皮肉しているのである。これは「鬼畜何号」、「危ない何号」といった往年のサブカル雑誌であることは言うまでも無い。

 このように、音楽界の病巣が、「音楽ぎらい」の根底にある自然主義とユーモアによって凄まじいエネルギーで描かれている。そして、確信犯的にではあるが、最後の「男ののど自慢」は歌ではなく、フリースタイルのアコギと効果音をバックにした物語(ミチオさんの半生)の朗読なのである。これは音楽における詞の意味合いを諭し、音楽への過度な傾斜や、詞のあり方次第では音楽界を馴れ合いの怠惰な社会にしてしまうという危険性を暗示する、本当に音楽ぎらいな終わり方である。

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