▼2005年度 早稲田大学後期義転載レポート

ブランキー・ジェット・シティ (安達 美和)

【解題】
 かつて椎名林檎がブランキーのモースト・フェイバリット盤は? と訊かれ、『国境線上の蟻』と応えたことがあった。ベンジー命の彼女にしては、「エーッ? なんでベスト盤?」という不満や疑義が飛んだが、この安達さんのレポートをみて、わかった。再収録された曲が、その曲順によって別の表情を湛えている構成力を、たぶん林檎は評価したのだ。
 安達美和さんは1曲目と最終曲に生-死の静けさを見、そのあいだに挟まれた曲に、ブランキーならではの不穏な雑世界を感じている。しかも、曲同士の偶然の隣接性によって、それぞれの歌の主体に同一化の擬制が起こることを鋭く指摘している。
 もう一点、彼女の真っ直ぐな感覚が発見したものは、ブランキー=浅井健一の歌詞の視覚性だった。僕自身はたとえば「絶望という名の地下鉄」についてもっと未来SF的、パンキッシュな解釈をとるが(『精解サブカルチャー講義』参照)、視覚性を動員した安達さんの解釈は、整合感と連続性にみちた世界を生き生きと捉えだす。当然、みなが確かに思いあたるはずだ。ブランキーの音楽の衝撃とは、その音のみならず、「音とともに」視覚像が連続してゆく歌詞の喚起力にもあったのだと。だから、浅井の歌詞は、「聴こえる」。むろん像は映画に似て、カッティング構成されている。つまりエディティングされている。そのエディティングと、浅井のロック史上におけるフレーズ引用の「編集」センスもがまた通うのだ。
 「悪いひとたち」への安達さんの解釈も素晴らしい。まず彼女は「悪いひとたち」に植民主義的横暴を嗅ぐ。次に、その恒常性に気づく。ブランキーはプロテストすると同時に、世界構造への諦念を唄っているのだ。次に気づかなければならない局相とは「善悪の彼岸」とか「悪人正機」とか、さらに幻惑的なものになるだろう。
 ブランキーはよかった。ただ、僕自身は、シャーベッツは評価しているが、JUDE以後の浅井をほとんど評価していない。スタンスの変貌が納得ゆかないのだ。そのあたりのことを奮闘しながら書いてくれた山口竜侍君のレポートも、この転載レポート欄に別に載っているので、ぜひ読んでもらいたい。
(阿部)

ブランキー・ジェット・シティ (安達 美和)



歌詞の視覚性によって、音とともに映像が流れる
       ――ブランキー・ジェット・シティに関する考察

第二文学部 思想・宗教系専修3年 小松葉子


  90年2月に東京で結成され、2000年に解散したロックバンドグループ、ブランキー・ジェット・シティの音楽について考えてみたい。その上で、私が最も重要と考えるアルバム『国境線上の蟻~The Very Best of Blankey Jet City~』を見てみよう。
 
 まず、98年に発表されたこのアルバムの構成を見てみると、とても興味深いことに気づく。この最初に収録されている「水色」は、曲によってはっきりと「動」と「静」がわかれる彼らの、「静」の要素をたっぷりと湛えた曲だが、この曲の出だしの歌詞に注目してみたい。

 「もしも誰かを愛したら 素直なその気持ちを その人に伝える それがこの世界へ 生まれ落ちた理由だから」

 まず、はじまりの曲に相応しく、世界へ生まれ落ちるところから歌詞はスタートしている。誕生である。そしてとんでラストの曲、「John Lennon」だが、これはジョン・レノンが銃に撃たれ命を終えた時のことを歌っている。「水色」で誕生し、「John Lennon」で息をひきとる。このアルバム自体が、ひとつの命のように感じる構成だ。

 収録されている曲の、その内の7割は彼らの特徴であるテンポの速い、いかにもこれぞロックと言ったシャウトやギターの早弾きが目立つものである。その中で、比較的ゆるやかなテンポのこの2曲を、最初と最後に持ってきている。曲に置かれる音はかなり余裕を持って配置され、詰めこまれてはいない。穏やかである。

 「水色」という曲でとても大切なことは、他者の確かな存在というものが感じられないことだ。他の曲について言えば、ボスがいたり、アメリカ映画を愛してる奴がいたり、かわいいお前がいたり、プラチナブロンドがいたり、とにかく誰かしら特定できる他者がいる。しかしこの「水色」には、それがいない。そこにいるのは「誰か」であり、「その人」であり、「みんな」だ。生きていく上における、様々な関係を結んでいないことがわかる。このひとは、ひとりなのだ。

 そして、「John Lennon」では、ジョン・レノンという、知らない人間のいない、実に多くの関係を結んでいる人物の死について歌っている。「水色」とは対照的だ。しかし、ここで注目したいのは、数えきれない人が涙を流していたとしても、銃に撃たれて倒れたのは、ジョンひとりだということだ。多くの人に歌という形でメッセージを発信し続け、関わりを持っていた彼も、逝く時は他の人間と変わりない。ひとりだ。人間、始まりと終わりはたったひとりであるということが、この2曲からよく伝わってくる。

 その間に挟まれた曲の中で、一番じっくりと考えなければいけない曲がある。それは、すでにメジャーで活躍していた彼らが、インディーズから発表したという経緯のある「悪いひとたち」だ。この曲は、ベースもギターも伸びやかな、まるで平面のようなおっとりした音を奏で、ヴォーカル浅井健一の歌い方も、一部分はまるで詩の朗読を思わせる静かなものだ。いや、むしろ詩の朗読そのままと言った方がいいだろう。歌っていないのである。明らかに語っている。

 しかし、その音や唱法とは裏腹に、「悪いひとたち」の歌詞は非常にショッキングだ。彼らがこの曲をインディーズから発売した理由は、メジャーではとてもこの歌詞をオリジナル発表できないからであった。出だしがすごい。

 「悪いひとたちがやって来てみんなを殺した 理由なんて簡単さ そこに弱いひとたちがいたから」

 これを聴いてまっさきに思い浮かぶのは、やはり植民地支配ではないだろうか。この手のテーマがロックに登ってきた時送ろうとするメッセージは、やはり「平和」だろうと私は考える。そう思ってこの曲を聴いていると、なにやら違和感を覚えるのだ。「平和」を歌っていないわけでは、ない。「悪いひとたち」への批判的なメッセージも、確かにたくさんある。しかしそれよりも感じるのは、「世界ってこういうものだ」という非常に淡々とした事実だ。

 こんな歌詞がある。

 「つけが回ってくるぜ でもやめられる訳なんてないさ」

 やめるべきだと言っていないのだ。「やめられるはずがない」と、半ば諦めているように思えるこの言葉で、「悪いひとたち」を歌っている。ここから受け取れることは、「悪いひとたちはずっと悪いひとたちのままだ。それはそれでしかたがない。そういうものなんだ。」ということである。それは、この大きな川の流れのように静かで穏やかなメロディからも、伝わってくる。逆らおうと、していない。バックにはいつのまにかオーケストラの静かな美しい演奏が加わり、穏やかさはますます増している。少し異常とも思える静けさだ。受けとめてしまっているのだ。変わらないということを。

 このアルバムの曲には、少年がよく顔を覗かせ、いつまでも純粋でいたいという、またいられるという傲慢さがうかがえるが、その中で「悪いひとたち」は珍しい曲かもしれない。理想ではなく、事実を冷たいくらいに描いている。

 ブランキー・ジェット・シティの歌詞は、見えていることを、そのまま写し取る。こういうものが見える、こういうものがみえる、と、淡々と見えているものを並べている。自分の想いを歌詞に載せることが少ない。もしくは載せていたとしても、容易にはわからない構造になっている。感じることは聴く者に任せているのである。その手法が、この「悪いひとたち」の描く世界が現実だと思わせることに一役買っている。命のはじまりと終わりの枠に縁取られたこのアルバムにおいて、「悪いひとたち」は生きていること自体の残酷さをよく表していると言えるだろう。

 先ほども述べた、見えるものを淡々と並べていくという独特の歌詞の創り方が、彼らの曲に新たな要素を加えている。ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルという聴覚で感じる世界に、視覚という観点をプラスしているのだ。彼らの曲の特徴は、どの曲も映像が鮮明に浮かんでくるという点である。音自体も想像力を喚起するが、それに拍車をかけているのが歌詞によって加えられた目線だ。ブランキーの曲ほど、映像を喚起させるものも珍しい。

 彼らの曲には、主人公が度々登場する。その主人公達の目はまるでカメラのレンズのように、映る風景や世界を切り取っている。それがそのまま私達の脳裏に映写される。奏でられる音は時にその映画のBGMになり、また音そのものが映像を呼び起こすこともある。

 例えば4曲目に収録されている「絶望という名の地下鉄」。イントロ、微かに音が聞こえる。何かがまっすぐにやってくるような、線にも似た2音が7秒間続き、そのあまりの静けさにますます耳を澄ませようとしたその瞬間、ドラムからヴォーカルに至るまで全てのパートがフルスロットルの状態で演奏を開始する。それはまるで、遠くに小さく見えていた2つのランプを、なんだろうとじっと見つめたその瞬間、いきなり目の前に地下鉄が轟音と共に滑りこんできたような錯覚を起こさせる。

 サビの部分である「絶望という名の地下鉄に I Love You 金属をこすりつけながら 今走り出した」という歌詞のリフレインとひとつのメロディのリフレインの相乗効果は、地下鉄の奏でるひどく単調な「ガタンゴトンガタンゴトン」というあのリズムを思い出させる。この思わず不安を催す騒がしさは、闇の中を進む地下鉄に乗った時特有の、あの奇妙な感じを思い出させる。その奇妙な感覚も演奏とヴォーカルがフェードアウトしていくにつれて、消えていく。地下鉄が遠ざかっていく。そして最後の歌詞。「絶望という名の地下鉄に乗りこんで 鼻唄まじりで行くぜ この世界を」地下から世界へ出て行くのだ。光に包まれるような感覚にも陥る。音そのもので、完璧に映像と感覚を喚起させている。

 そう思ってこのアルバムをよくよく聴いてみると、ここに収められている曲が、実はひとつづきの映画なのではないだろうかと考えてみたくなる。もちろん全ての曲がそうであるとは言えないが、少なくともある2曲においては成立するのではないか。その2曲とは、5曲目の「クリスマスと黒いブーツ」と6曲めの「Bang!」である。

 驚いたのはこれらの曲の繋ぎだ。一切の間がない。「クリスマスと黒いブーツ」が終わったその瞬間、間髪入れず「Bang!」のイントロがもうスタートしている。この2曲以外の曲の繋ぎ方は、いたってシンプルである。曲が終わり、余韻がある程度消えてから、次の曲が始まる。今までの曲世界を1度なしにしてから、新たな曲世界を創る必要があるからだ。間を取るのは、その2曲が別物であるという証拠にもなるだろう。ということは、「クリスマスと黒いブーツ」と「Bang!」を、ひとつの世界と考えてみてもいいのではないだろうか。

 その観点でこの2曲を考えると、見えてきたことがある。この2曲の主人公は同一人物なのだ。「クリスマスと黒いブーツ」に登場するのは、世界に汚されてしまうことを恐れ、いつまでも純粋でいたいと願うひとだ。自分に向かって、ゆっくりと足を広げてゆく彼女に戸惑いを覚え、君は変わってしまったと嘆く。そして、全ては変わっていくが、自分だけは変わらないと信じている。太陽や、冒険や、クリスマスや黒いブーツという、あまり現実感のないものたちを愛している。

 一方、「Bang!」の主人公は、恋人の頭を銃で吹っとばすという妄想を行動に移してみたくなる少しイカレている人物だが、そのことに自分自身気づいている。これだけ書くと2人はまったくの別人に思えるが、こう考えてみるとどうだろう。「クリスマスと黒いブーツ」は、「Bang!」の主人公の回想、もしくは夢なのだ。出だしの歌詞の「Bang!」というピストル音で一瞬にして現在、もしくは現実に引き戻され、歪んだ世界に汚されてしまった自分に帰ってくる彼。「僕」だった一人称は「俺」に変わり、かつて自分を翻弄した現在の恋人の元へ、戻ってくる。

 全て私の想像だと言ってしまえばそうだが、しかし彼らが同じ人物だと感じてしまうのは、「Bang!」の彼も、本当は汚れたくないと願っているように思えるからだ。「行き着く所だけはきれいな丘の上に決めているから」という歌詞から、せめて最後にはきれいな自分に戻りたいと願っていることが分かる。もしくは、いまだに自分たちが汚れていないと信じたいのかもしれない。「どこから見たっていかしてるぜ CoolなRockみたいにけがれ知らず」という歌詞からそれがうかがえる。自分だけは汚れないと思っていたのに、年を重ねて結局は汚れてしまい、しかしそれでもいまだにきれいな頃に戻りたいと思ってしまう男性の人生を描いているように思われてならない。

 今までそれぞれの曲の、歌詞や演奏について考えてきたが、これらの曲に共通しているのは「世界」という言葉である。自分たちが、生まれ、育ち、生活し、やがては息をひきとる、その全てをするこの「世界」というものは、いったいなんなのか。それが常に描かれている。汚れているはいるが、そこで生きるしかなく、受けとめていくしかない。最後に「John Lennon」をもってきたのは、彼が常に世界について考えていたからなのだろう。

 以上のことから、ブランキー・ジェット・シティの音楽は、見える「世界」をそのまま詩に写し取って音と共に聴衆に投げかけ、そこに繰り広げられる映像を私たちにみせるものである。何を見るかは各々の生きてきた「世界」によってまた変わり、そこでまた新たな「世界」が出現するのだろう。

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