▼2006年度 立教後期講義転載レポート

横山裕一『トラベルTravel』にみるリアリズム(橋本 知甫美)

【解題】
橋本知甫美さんがレポートの対象にした『トラベル』は、僕じしん未読だが、科白や効果音のない一種の無音作品で、しかも列車内と移動する車窓風景だけが描かれる、非常に抽象的な手触りをもった作品らしい。しかし橋本さんはこの「抽象的」と述べた言葉に離反するリアルを作品に感じている。
 実は、著作権配慮から同時アップできないのが残念だが、橋本さんはレポート末尾に作品コピーを添付していて、僕はそれで『トラベル』の作品世界に初めて接することができた。驚いた。アブストラクトな構図で、そこでは「増幅」「図像反復」が強調されている。ところがそこに描かれているものは、建造物の柱であっても車内の椅子であっても、あるいは窓の外側を伝う水滴であっても、さらには車窓から乗客に投げかけられる光と影であっても、すべて具体的な出自が判明する図像なのだった。人物たちの顔の造型もすごく個性的で、「感情」を卒業した先の未来性を感じさせる。人物の全てが同じ眼の形象をもち、またその眼が顔にたいしては随分上についている。これまた感情を量るよすがを与えない、簡潔な線で構成された鼻と口。そしてそこに光と影が当たり、目元に影が生ずると、顔全体がモアイ像に酷似したものに反転するという、時間軸の遡行跳躍も起こる。作品では「時間」が幻惑的に刺繍されている。
 これは一見、たとえば往年の『COM』に連載された、石森章太郎『ジュン』と同類の、「イメージマンガ」と呼ばれるジャンルに分類されるとおもう。そしてたぶん、そのことにより作品は言語化を受け付けないのではないか、という予想も生ずる。ところが橋本さんは、実に緊密な文体を駆使して、この無音の状態に終始する移動性世界を言語化していったのだった。大した膂力だと瞠目した。橋本さんのしてくれたコピーは、レポート本文に見合う箇所の、作品からの断片蒐集らしく、よってそこでは連関性が崩されているが、たとえ作品の流れに連続性が見出されても、「人物たち」「移動する未来的な車窓風景」「光」「水滴」など着目点を分節して、このような読解を試みるのは、元々すごく困難ではないかとおもえる。しかし橋本さんはそれに易々と成功している。
 そういえば僕のマンガ授業の着眼が、マンガ作品に物質的に肉薄し、マンガの媒体性に則った評論を試みるというものだった。つまり、それはマンガを物語や好悪のレベルに縮減して語らない、ということの言い換えだ。ところが、マンガには、それが「像」を扱ったかぎりにおいて、原理的に言語化を拒む部分がどうしても出てくる。たとえば、ひとりの人物の髪の表象そのものを、過不足なく文字に「転写」「移動」することなどほんらい不可能で、このマンガの所有不能性こそが、マンガを所有したいという欲望へとスリ変わるともいえる。
 橋本さんがレポートを書くにあたって「所有」したのは、具体性と抽象性との過激な混交物だった。だからそれを詳細に分析することは、当然にメタ的なマンガ媒体論へと行き着く。このとき、マンガを語るにあたり副産物的に映画への言及が飛び出すのも、視覚性表現を語る際の必然だろうともおもう。
(阿部)

横山裕一『トラベルTravel』にみるリアリズム(橋本 知甫美)



横山裕一『トラベルTravel』にみるリアリズム

文学部 教育学科初等過程4年 橋本 知甫美

 横山裕一『トラベル』(2006年4月30日第1刷発行、イーストプレス)は、台詞や効果音の一切無いマンガである。もっと言えば、文字情報も極端に少ない(商品や広告の一部に刷られている程度)。ストーリーとしては、コミックの帯にあるように、”徹頭徹尾、列車の旅”、主人公と思われる三人組が電車に乗って二駅ほどを旅するシンプルなものである。

 しかし、このマンガ、ストーリー以外は極めて非常識。アンチ合理主義、アンチ採算性、アンチ安全性。登場人物も変な人ばかり。流れる景色は不自然過ぎる。全体的に極端なのである。マンガであるからデフォルメは当然であろうが、デフォルメの仕方が読者に不安定さを感じさせるものである。

 たとえば、人間を登場させるのであれば、その人物の良さを強調するような何かを、読者に訴えるように描くことが多いのだろうが(これは登場人物、特に主人公が常に美しく描かれる、という意味ではなく、その人物の美醜に関わらず読者に共感を残すように筆者がし向けるということを指している)、『トラベル』ではそのような意図は見られない。登場してくるどの人間も同じような感じである。差し詰め、横山(以下敬称略)にとってはこの主人公と目される三人はたまたま視界に入ってきたに過ぎず、丁度手頃であったのでちょっと視線を借りてみたといったところだ。

 つまりこの三人はこのマンガではよく登場するから主人公であろうと勝手に読者が思うだけのことである。もっと言えば、設定された主人公のその心情に寄り添っていくことでその世界に引き込まれていくという物語の作法に慣れている読者は、『トラベル』を何の気なしにさっと読んだ後、不安定な気持ちに苛まされるだろう。少なからず一緒に時を過ごした『トラベル』の主人公(と目される三人)を読後に思い出したとしても、特別な感情は沸いてこない。

 『トラベル』のあらすじを思い返せない、ただ、旅行していただけ。印象に残っているのは、何かとてもよそよそしく客観的な感じと不自然な世界観なのである。つまり、読後、彼・彼女は主人公を設定しストーリーを紡ぎ、そこから何らかの意味を汲み取らなければいけない物語の呪縛との間でしばし苦しむことになるのである。それでも、読者を惹き付けてやまないこのマンガのミソは一体どこにあるのか。きわめて客観的で、何にも寄り添ってこないこの感じ、きわめて日常のリアリズムに満ちている。このリアリズムはどこからくるのだろうか。

 まずはじめに、このマンガの台詞のない点に着目してみると、これは現代日本の列車内の風景に酷似している。現代日本の列車内のおなじみの風景は、列車という言葉を交わすことが極端に抑制された場において人々が黙々と目的地へ向かうものである。

 そもそも、私たちは自分を取り巻くあらゆるものを(自分勝手に)取捨選択して、(都合のいいように)ストーリー仕立てにする。できあがったストーリーはあくまで感情の、個体差に満ちた脳内化学変化の働きの産物に過ぎない。そしてコミュニケーションによってコミュニティーを形成してきた我々人間はその多くを言葉に依ってきた。言葉は人間同士の創造力を刺激し合い、イメージを作りあい、感情を引き出しあってきた。

 『トラベル』はその言葉を排除する。登場人物たちは何か言いたげな表情をするとき以外は自分を出さないので、読者は彼らが何者なのかを知るには徹底的に観察するしかない。われわれはこうした観察を車内で繰り広げる。勝手に想像して勝手に楽しむ。

 『トラベル』を読んでいて気味悪く感じるのは、時折、登場人物と視線が重なるときだ。しかも、その視線は、不躾な観察眼であるからだ。このような無遠慮な視線を車内で突如として感じた経験のある人は少なくないだろう。悪意でもなく善意でもなく、純粋に誰かの興味関心の対象として観察されるいたたまれなさ、居心地の悪さ、あのざらっとした感じが思い出されるのである。車内という密閉され、発言することが極端に抑圧された場所で、視線だけが無遠慮に、かなりの暴力性をもって相手を裸にするかのように感じられる。台詞が書かれないことで我々の世界から言葉が失われる。

 この異常な状態ををぎりぎりのところでかわし、一つの世界を成立させているのはこの場が電車内であるからだ。電車内で体験している一種の異常空間が、『トラベル』の世界と我々の日常世界をつなぐ役目を担っている。

 次に『トラベル』に描かれる光に着目してみることにする。電車に乗っている時、今まで曇っていた空が一瞬にして晴れ渡り雲間から鋭い陽の光が差してきた瞬間、見慣れたはずの車内空間が一変して見える。柔らかい光の元にあぶり出されていた人々の微妙な表情も、個々の物品の微妙な差異も一瞬にして強い日差しのコントラストに曝されてとんでしまう。光線の圧倒的な支配下でそのものの形のみが浮かび上がる。

 『トラベル』では32頁4コマ目から36頁2コマ目にかけてその様子が描かれているが、その前後に散りばめられた横山の心地よい遊び心(機能性、効率性度外視、楽しさ、面白さだけを追求したような座席やその他諸々のおもしろグッズたち)が醸し出していた不思議さも、電車に乗っていて光の加減で一瞬にして景色が様変わりしてしまうあの不思議さに比べればどうってことないような気がしてくる。奇妙な服の柄、へんてこな髪型など確かに常識ではないものだらけの世界ではあるが、雲間から光が差してきたあの一瞬間においてその異常さは瞬時にかき消されたのだ。

 この不思議さは、『トラベル』の世界にとっての異常事態であるとともに、我々の日常生活における電車シーンでも異常事態である。この奇妙な一致が、『トラベル』32頁以前と36頁以降での読者の心理に関わってくる。光線の支配下という異常事態を共に経験済みの『トラベル』と読者との間には、仮想敵を同じくした奇妙な連帯関係が生まれる。従って、光の支配のリアリズム表現により、36頁以降読者は『トラベル』の世界を単に異常でかけ離れたものとしてではなく、もしかしたら身近なものかもしれないと思い直すようになるのだ。36頁以降は列車のガタンゴトンという音を空で聞いてしまうくらいに。

 さらに今度は、『トラベル』の映像性に着目してみたい。横山は非常に水の表現のうまい作家であると思う。特に車窓に流れる雨粒の動きを表現した箇所67頁から72頁、続いて雨のざあざあ降りを表現した箇所 72頁から78頁は秀逸である。ここでは、『トラベル』が映像作品であるかのような細かなカット割がなされている。また、先ほどの光の表現とからめて雨上がりの車窓を描いた84頁から85頁は光のスペクトルが強調され、これもまた非常に映像的である。

 『トラベル』を仮に映像化するとして、場面を丹念に見ていくと、超ロングショット(extreme long shot)から超クローズアップ(extreme close-up)までかなり幅広くショットが使われることになる。超ロングショットに捉えられた電車や人は見えるものとしては意味がないまでに縮小され、それらを重要でない脆いものにみせる。背景とする大自然や工業化された大都市――広大で荒涼としているそれら――から疎外されているようにみえるのだ。

 また、超ロングショットから超クローズアップ、またはその逆という手法もよく使われる。その極端な距離感の往復が作品全体のデフォルメされたライン使いや幾何学模様とも相まって、心地よいリズムを生み出している。この極端な距離の往復は物理的に短時間に可能となるものではない。これは心理的な飛躍の描写である。

 現代を生きる我々は、映像技術の発達と共に、こうした心理的な飛躍描写に慣らされている。幼い頃からテレビ番組や映画で鍛え上げてきた映像技術の読み取り能力があればこそ、『トラベル』の持つ不可思議な論理跳躍にも対応できるのではないだろうか。その意味で、『トラベル』の映像性はその描写の仕方にリアリズムを感じさせるものがあるだけでなく、これを読む我々の映像技術読み取り能力をも引き出して独特のリズム感をリアルに生み出すことにも成功している。

 最後に、登場人物の表情に関して述べたいと思う。『トラベル』の登場人物は皆おしなべて無表情である。彼らの表情から読み取れることは、観察している、ということのみである。彼らは向かいに座った人の服装、持ち物などをよく観察し、通りすがりの人をチェックする。また、車窓を流れる景色を眺める。しかし、同じ「見る」という作業でも、人を見る場合と景色を見る場合とではその熱心さにおいて違っている。人を見る場合には先ほど述べたように、不躾で直接的な視線を送る。

 一方、車窓を流れる景色はただ眺めやるだけでそこに何かを見つけてやろうとか、そういった熱意は感じられない。次から次へと流れゆく景色とそこに含まれる情報はただただ流れゆくままであり、それを無表情に見送る人々・・。列車という限定された空間の中で近くにいる人や物は強烈な熱意を傾ける対象、列車外の自分から隔絶された空間に存在するものへの無関心。列車内を流れる時間・空間は人間の生理にあったものであるが、列車外を流れるそれはもう人間の能力の及ぶ範囲外であろう。

 車窓を流れる景色は大自然、巨大人工物(ダムなど)、メガシティなど人間よりも遙かに大きく、その存在感の前に圧倒されざるを得ない。そして突如として襲う大雨、雷。天災も自分たちの力ではどうにもならないものである。太刀打ちできない巨大な存在の間を、それらを他人事のようにのほほんと眺めながら、はかなく脆い存在の人間を乗せた列車は走り行く。安全地帯である列車の中では人が互いに無遠慮なまなざしを向け続けている。車内外での対比が空気感の違いとなって伝わってくるようで面白い。

 以上見てきたように、私は『トラベル』非常なリアリズムを感じたわけだが、それは私が映像に極端に依った視覚偏重世代だからなのだろうか。それともこの作品には何か世代を超えて響きあうものがあるのだろうか。

〈参考文献〉
『トラベルtravel』、横山裕一、2006年4月30日第1刷発行、イーストプレス。
『映画技法のリテラシーⅠ、映像の法則』、ルイス・ジアネッティ著、堤和子他訳、2003年11月13日発行、フィルムアート社。

●同じカテゴリー「2006年度 立教後期講義転載レポート」: リンク一覧

up