▼2006年度 立教後期講義転載レポート

古谷実作品における表象などについて(貝沼 龍)

【解題】
貝沼龍君の古谷実論レポートは、文体が緊密、参照系も文学的で、一目で普段から評論を書きなれている学生だとわかる。全体が3章に分けられていて、うち「2」「3」の明晰な議論には全く異論がない。古谷実ファンの読者も、読まれれば即座に納得するとおもう。
 僕が面白く、挑発的だとおもったのは、第一章で貝沼君が展開する「キャラクター光源論」だった。中心的な人物がいる。それに照らされるのが「脇」キャラ。ドラマが企てる実際の邂逅によって、脇キャラは光を当てられて作品に具現化するが、邂逅の状態が解かれれば自然消滅する。何だ、当たり前のことじゃないか、と読者はいうかもしれない。ところが僕の考えはちがう。
  この貝沼君の考えによれば、作品の「基底材」は元来が光源出現前の暗い映写幕であり、作品の「物語」も、読者の主情化に訴える手前で、すでに光源の(交錯=機械的)運動をしるしづけているということになる。つまり、貝沼君の考えは、随分と即物的なのだ。
 邂逅した者についてしか具体的な認識が生じない、とするのは、読者というより、人生の渦中にある者が常に意識しているリアリティだろう。貝沼君の議論は、まずは古谷実の「シリアス」路線マンガが、そうした人生の分岐的時間進展の感覚に忠実である点を当然言い当てる。だから古谷マンガはリアルと称されもする。同時に、そこで描かれた人物たちは光源によって偶有的に照らされた単なる映写幕であり、本来は闇とも無名性ともいえるものを原理的にもつ、ある種の「殺伐体」なのだった。貝沼君は古谷マンガにおける男子キャラには、女子の「お人よしキャラ」にはないザラザラ感があるとしるすが、この殺伐の匂いを嗅ぐことが現在ではリアルな感覚の醸成に寄与する点も、いうまでもないだろう。
 「天才」映画作家、大和屋竺が、映画に原理的に映写幕が存在するのは当然だが、それ以前に映画は作中人物が「観念」の映写幕になって現れる怪物性をもつ、といった意の卓見をしめしたのを僕は憶いだす。そのとき映画は宿痾としての二重性というか、入れ子構造的な陰謀性を把持しているという二次見解が生まれるだろう。そして「現在」では、「一重のもの」より「二重のもの」がリアルに映る時代なのだった。
 照らされる人物たちに映写幕特有の画布性がある一方、「光源」たる主役たちにはその物質性が存在しない。物語作品における主役たちは、原理的に感覚できない識閾――認識の「盲点」に位置し、その周囲世界をただ回転させるだけの職能に徹することになる。主役という欠落態。相対性の沸騰。当然、この過激な考えは矛盾を来す。たとえば豊かな陰毛と豊富な乳房を描きこまれた『シガテラ』南雲さんの像の、物質的な幻惑を想起すればそれで済む。ところが僕が授業でいったように、それはやはりどこかで実質を欠いている。つまりそれは、『シガテラ』で裸身を披露する、他の女子キャラの裸体細部の「反映」「偏差」としてあり、実は自体性を欠く幻影としての性質も兼ね備えているのではないか。そうして原理的な不可知論、つまり「陰謀」のリアルな感触に、読者がふたたび舞い戻ってしまうことになる。
  長くなるのでこのあたりで僕のフラッシュアイデアを披露するのはもう控えるが、ともあれ貝沼君の「キャラクター光源論」は、芸術作品を安直に主情化しないための、熾烈な契機となる点は確かだろう。その意味で意欲的な立論だとおもう。
(阿部)

古谷実作品における表象などについて(貝沼 龍)



古谷実作品における表象などについて

文学部 英米文学科4年 貝沼 龍


 古谷実は私自身好きな作家であったが、このたびの授業で触れられるに当たって、いくつか考えさせられることがあった。それらを軸にいくつかの章立てをもって論を進めようと思う。

【1 表象について】

 私は、かねてから表象とはなんであるかということを疑問に思い続けてきた。しかしいまだに根本的なレベルで把握できていない気がする。例えば、ウィーバーのコミュニケーション・モデルというものを知ってからはなるべく作品を見る際に構造を考えてはみるのだがあまり正しく理解できている気がしない。そんな私が先生の古谷実の授業で、「1話だけパッと出て、そのあとまったくいなくなっちゃう」といったお話をされていたときにふと思いついたことがある。それは、「キャラクターとは光源ではないか?」ということだ。

 漫画の世界はもともとが真っ暗(真っ白ともいえる)でなにもなく、そこに光源としてキャラクターが表れていると考えることはできないだろうか。いや、むしろキャラクターを登場させた時点でそこにフォーカスがいくと言った方が適切かもしれない。

 古谷実という作家は群像劇のような作品は描かない。物語は常に主人公(たち)の周辺を飛び回っている。一旦主人公のもとを視点が離れても、後々になってやはりそれらは主人公と関わってくる。『シガテラ』では、当然荻野少年と南雲さんが主人公である。この二人が巨大な光源となって、まわりの人々が映りこんでいると考えることは可能ではないか。

 こう考えると少しだけ出て、すぐにいなくなってしまう人々に関しても納得がいく。「いる」ということが、「光があたっている」ことと同義とするならば、例えば南雲さんと住んでいる場所が近いという理由だけで一瞬だけ交錯した、胃ガンの恐怖に見舞われた男が飛び降り自殺したときの最後のコマが黒ベタだったこともうなずける。彼は南雲さんの生活の一端に触れたという理由で表象の機会を得たが、死によってその舞台から去ったのだ。

 こんな思い付きをしたのは、古谷作品(特に最近のほう)の「暗さ」が印象的だったからである。よくある内省のシーンなんかでは真っ黒の中に光があって、そこに言葉が入る。そうでない場合は白い文字。

 また、多少話は変わるが、キャラクターたちはその輪郭と背景との間になにもない空間をまとっていることが多いことも気になった。タタミの目やフェンスなどもまばらに見えない部分があったりして、光と闇、見えていることと見えないことについて考えさせられるものが大いにあった。これらは同じ古谷の作品でも過去にはない手法だ(例えば3巻の68ページのアキコちゃんのアップなんかは非常にその「オーラ」が広くて、ここからしばらくは話の中心になる=荻野の光が当たるということを予め示していると考えられるかもしれない)。

 暗さの中にある吹き出しは本来の文法的な約束事を越えて、もはや光にさえ見える。そんな考えをさらに敷衍していくと、会話そのものが光と考えることもできるのではないかと思われてきた。伝達可能性というか、コミュニケーションを媒介するものという意味において同義ではないだろうか(光は目が機能するために必要な媒介と呼べ、会話=音は耳が機能するために必要な媒介という意味)。それが表象物として存在するときに、我々は二種類の光を同時に見ているのだ。

 追記:いわゆる「シリアス路線」に入ってからのタイトルには共通項があるように思われる。それ自身についての判じ物はくだくだしいし、誰もがやっていることなのでここでは触れない。ただ、『ヒミズ』はもぐら、『シガテラ』は魚に貯留される毒、現在連載中の『わにとかげぎす』は深海魚であり、どれも人ではない生き物の生態に仮託した寓話性を持っている。これらのタイトルから見えてくる暗さのイメージ(土中、体内、深海など)は、私が上に述べた暗さの感覚を裏付けているように思われた。

【2 メタな精神性とベタな設定】

 先生が『シガテラ』の授業中にポツリと漏らされた「絶望さえできない」という主人公の精神性の話を聞いて、北田暁大の『嗤う日本のナショナリズム』という本をだいぶ前に読んでいたときに感じたことを思い出した。この本には連合赤軍からそれに続く安保闘争、サブカルチャー隆盛の時代における若者たちの「反省」の形の変転を述べていたのだが、現代に関しての記述はない。そこで私は「さしずめ現代は、『反省することさえできない時代』だろうか」と思った。これについて多少の注釈を加えると、現代は反省した先にあるであろうものが反省する前から見えてしまっていて(見えているつもりも含め)、それがバイアスになる時代ではないかと感じた。

 詳細に関しての言及は当レポートの趣旨と異なるので割愛させていただくが、この「見えちゃってる感」とも言うべき精神性は『稲中』の時代から古谷作品には通底していると考えている。例えばこれを『シガテラ』の主人公に当てはめると、彼らは加害者である谷脇も含めて「いじめ」という現実の中にありながら、どこかそのあり方が脱臼している印象が強い。(「森の狼」による報復の際の谷脇の対応など)ある面においてメタ化されているのである。それは彼ら自身の性質もあるだろうが、私は「いじめ」にまつわる前後関係の情報が参照可能な質と量を持ち始めたことが大きいと考える。

 恋愛関係においても同様で、「運命の人」などといった感覚が崩壊している。そういう中にあってこの関係はスペック(モテる要素)が至上のものとなる。そのスペックもまた明瞭で、大概の現代人ならば自覚せずにはいられない。そして荻野少年は己のスペックを決して高いところにあるものではないことを自覚している。

 そこに突然現れたのが南雲さんである。正確には南雲さんだけではない。これには古谷作品に通呈する「救済の技法」(平沢進から拝借)とでもいうべきロジックが存在する。つまり、決してスペックが高いとは言えない男たちが超高スペック美人に愛されるというものだ(しかも向こうからのベタ惚れが多い。具体例を挙げるならば、『稲中』の井沢に神谷ちよこ、『グリーンヒル』のリーダーに夢の女、現在連載中の『わにとかげぎす』の主人公富岡に隣家の羽田さんなどなど)。

 これは古谷作品のほかの全てのドライな要素を軽々と突破してくる。実に理不尽だ。なぜここまでリアリスティックな物語を紡ぐ作者がこんなご都合主義をかますのか? しばしばアンチファンが攻撃の筵旗とする特徴である。私が考えるに、「そこが織り込み済みでないと救いがない、または絵にならない」のではないか。

 彼女たちは非常に滑らかでしなやかある。肉体的にも精神的にも。男たちが非常にザラついているのとは対照的である。決して異物にはならないし、彼女たちがテーマに深く関わるような出来事を引き起こすこともない。男たちにとって非常に都合がいいのである。

 例えば『シガテラ』5巻28ページの荻野の将来の夢に関しても、南雲さんは「立派な夢じゃん」や「すごくいいと思うよ」などと、具体的な意見は述べず、ただただ荻野を励ますだけである。それ以外でも、否定的・対立的な意見を言ったり、荻野の欲望を拒絶したりすることはまずない(2巻と6巻で一度ずつあるが、その場合は荻野が突拍子もなさ過ぎた)。

 彼女たちは男たちにとっての許容や欲望、許しの対象として前景化している。ただ、そのような性質を持たされない女性たちはかえって徹底的に異物として現れる。先生が授業で取り上げられた荻野を犯そうとする同級生や、異様なほど顔をデフォルメされたギャグキャラなど、その過剰さゆえに女性性が揮発している印象が強い。その意味で本来の意味での女性とは上記のような「愛する」者としてしか存在しない。

 まとめると、古谷が描きたいテーマ(とそれに伴うネガティブさや深い内省)は男が背負って、その重さにつぶれないように支えている(男たちも、読者も)のが古谷作品の女性たち、ということができる。極言すれば、古谷作品において女性は道具的な機能を持たされている。ここで気をつけねばならないのが、この関係性はあくまで物語の手法として用意されたもので、変形したマッチョイズムではないということだ。ただ、女性の心理を研究するのには向いた作家ではないのは間違いない。彼の作品は従来の意味ではなく、「少女まんが」の対義語として「少年まんが」と呼ぶことができるのかもしれない。

【3 作品を越えて繰り返されるモチーフについて】

 古谷作品に通底するテーマとして挙げられるものを考えると、「人生」、「普通」、「運命」、「走ること」、「おばけ」、「バイク」といったモチーフが見えてくる。一つ一つ考察しては分量オーバーになるので今回のレポートでは控えるが、繰り返されること自体に興味を惹かれた。

 私が思うに、同じモチーフを、作品やキャラクターを変えて登場させることによって、重層性というか多面性というか、より広い角度からそれを見る視線を手に入れられるのではないか。「群盲象を撫ず」という言葉があるが、人によって物事の手触りが違うという認識から始めて、個々のキャラクターが同じものとどのように触れ合うのかを、作者自身興味を持って思考実験しているのではなかろうか。

 ただひとつ、「おばけ」については考えたことというか、非常に気になったことがあった。『ヒミズ』におけるそれと『シガテラ』におけるそれの差異についてである。前者は絶望や死の妄念にとりつかれた住田の、彼にしか見えない無意識的表象と考えられるが、後者におけるそれは確かに無意識の発露という要素も孕みつつ前者のような危険性はない。むしろ多少コミカルにすらなっている。

 最も気になったのは『シガテラ』6巻201ページの声である。これは荻野の知らない情報をもたらしている(高井が元気にやっていること)。ここにおいて『シガテラ』の「おばけ」は荻野に属するものではないことになってしまう。それでは一体なにか。その情報を知りうる者は、読者と作者しかいない。それを踏まえると、この場面は一気にメタ化する。
 

●参考文献:なし

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