▼2006年度 立教後期講義転載レポート

高橋しん『最終兵器彼女』(浮田のどか)

【解題】
浮田のどかさんがレポート対象にした高橋しん『最終兵器彼女』を僕は読んでいない。まあ、生来のマイナー好みが災いしているのだといえる。ただ、浮田さんのレポート展開を読んで、この作品は僕が書いた『少女機械考』の恰好の題材だったのだな、と認識した。

 浮田さんは機械と融合過程にある「ちせ」にあって、その翼を中心に、躯の細部の形状が、少女的曲線から機械的直線へと進行してゆく様子を丹念に追っている。実は「註」の表示をそのまま残しておいたのだが、彼女のレポートには図像引用が付録として添付されていて、これも実に魅惑的だった。この過程で生じる「余情拒否」がたぶん、「地球規模の戦争」と「人類の滅亡危機」の熾烈化とリンクするとすれば、彼女の命運は地球大に拡大されていることにもなる。

 「シュウジ」はそうした「代表性」と擬似セックスをするらしい。「擬似」と書いたのは浮田さんの指摘による。二人は接吻や裸身での抱擁は行なうらしいが、「ちせ」の戦闘能力の低減を結果する(「処女喪失」につながる)挿入はずっとおこなわなかった、ということらしい。誰も抽象性とは具体的なセックスができない。それに敢えて侵犯すれば破局が来る。当然、「セカイ系」の匂いがぷんぷん漂ってくる。

 さて「セカイ系」とは何か。僕の理解では、自分、あるいは少数の知己に特定された逼塞状況があり、そのなかの相互関係や具体性を帯びない思索により、いかなり世界大の実像把握に「類推的に」達してしまう、他者性を欠いた(若年層特有の)思考形式を指すといっていいのではないか。その嚆矢は何とか、いろいろ有職故実もいま煩わしいようだが、これはむろん一面では単純に否定できない思考様式だといえる。なぜなら、個体性への凝視が全体性に延長されるということは、事実発見の定番でもあるためだ。

 ところで浮田さんは『最終兵器彼女』を、「セカイ系」に隣接しているが、「セカイ系」それ自体とは名指していない。ちせ-シュウジの「逼塞」が作品に一見前提されているようにみえつつ、この逼塞は読者あるいは無限の他者に代入可能で、そうした交換可能性によってこそ、作品は「セカイ系」を超える普遍性をもつ、としている。僕は当該作を読んでいないが、たぶんそうなのだろう。

 その場合、僕が考えるのは、この交換(連接)可能性そのものが(ドゥルーズ)機械性の現代的実質だということだ。機械は機械を呼び、より巨大で複雑で有機的な「機械」となる――まるで「ネット」ワークのように。となったとき、『最終兵器彼女』で最大に吟味される価値をもつのは、機械=ちせのもつ「伝播可能力」ということになるのではないか。いまや人は機械の現前に対して「機械になる」のだ。気になる。作品を実地に読んでみよう。そうおもわせてくれた浮田さんのレポートにも感謝する。
(阿部)

高橋しん『最終兵器彼女』(浮田のどか)



セカイ系、あるいは「曲線形の少女と直線形の機械」
       ――高橋しん『最終兵器彼女』

文学部 日本文学科2年 浮田のどか


【1、本作品の特徴】

 地球規模での戦争と人類の滅亡という重大なテーマを扱いながら、開戦の動機や戦争の経過などの情報はほとんど描かずに、あくまで「最終兵器」として改造された「ちせ」とその彼氏「シュウジ」の恋愛にのみ焦点をあてた作品である。サブタイトルを「THE  LAST  LOVE SONG ON THE LITTLE PLANET.」としている。本作品での戦争は、シュウジとちせの関係の延長線上にあり、世界はこの二人なしには存在意義を持たない。さらに言えば、本作品における世界の運命は二人の関係によって決められている。

 「ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki)」によると、

 この作品において独特の形態で提出された「きみとぼく―世界」の短絡性、中間的媒体たる社会や国家といった共同体の方法的後景化という手法は、本作品から数年後(2004年以降)に「セカイ系」のジャンル名で包括され、さまざまな作品群を先駆するものとなった。

 とある。確かにこの作品は、「ちせ」と「シュウジ」という二人の主人公の関係や精神状態が世界の存亡に大きく関わっている点、二人の主人公を取り巻く社会や戦争の状況に関する事柄が最後までほとんどわからないままであるという点で「セカイ系」と言うことができる。

 しかし私が注目したいのは、本作品では「二人の関係→セカイ」というダイレクトな因果関係よりも「二人の関係→ちせの内面→セカイ」というように、「きみとぼく」と「世界」の間に「ちせ」が独立して存在していることである。直接関係しているのは「二人」と「世界」ではなく、むしろ「ちせ」と「世界」であるようにさえ思える。

 この作品では、恋愛の発展、戦争の深刻化によってちせの内面が変化していくと、人類の寿命が縮まっていくという物語構造になっている。そしてこのちせの内面の変化は、作品の中で具体的に曲線と直線の葛藤で描かれている。緩やかな曲線で描かれていたちせの肉体が、直線的な機械と融合し、蝕まれていく。その過程には彼女の「少女(処女)性」が大きく関わっているように思う。恋愛が発展し、「何もわからない」ちせが恋人への執着心や切なさ、苦しみ、愛しさを知り「少女」から「女性」へと変わっていくにつれてちせは兵器化していくのである。


【2、ちせの「翼」の描かれ方】

 ちせの「直線化(兵器化)」と少女性の関係が最も顕著に現れているのが、ちせの「翼」の描かれ方である。これは、「ちせ=兵器」ということを示す主たるものが翼であるため、機械部分の中では比較的多く描かれているからである。

 初期の、恋愛に関して無垢であったちせの「翼」には完全な直線が一切なく、曲線も緩やかなものだけで構成された鳥のような形態(※1)だが、「シュウジ」の浮気を知ってしまったことや別れの決意をしたことなど、恋愛が複雑化していくと、定規をあてたような直線ときつい曲線で描かれるようになり(※2)、さらに自分の浮気(擬似恋愛)と、その相手が戦争で死ぬ間際に一度も自分の名前を呼ばなかったことなどを経験した直後に描かれた翼からは曲線も消え、ほとんどが直線で描かれるようになっている(※3)。

 例外として、一巻でちせが最初に「兵器」として登場するシーンの翼は直線的(※ 4)だが、これは読者の「ちせ=最終兵器」の印象を強め、作品の世界に引き込もうとしたためで、基本的には、ちせの心理状態が兵器部分の形態に大きく影響している(と思わせる工夫がなされている)と考えられる。またちせの心理状態は、本作品ではその大部分がシュウジとの恋愛によって左右されているのである。

 このように、ちせとシュウジの恋愛が複雑化し、ちせが少女から女性になっていくに従ってちせの「翼」が直線化していくことは、作者が「少女から女性になる」ことを「成長」ではなく「喪失」ととらえていることを表しているように思う。そして、本作品におけるちせの「少女の喪失」は、そのまま地球の「人類の喪失」と重ね合わせることができる。


【3、シュウジ・ちせの肉体関係とちせの兵器化】

 シュウジとちせの肉体関係の進展も、ちせの兵器化(直線化)を助長する役割を果たしている。本作品では、キスシーンや裸で抱き合う、触れ合うシーンなどの「濡れ場」が非常に多く描かれているにも関わらず、最終巻までちせは処女のままである。処女の喪失というラストシーンに向かってちせの性的体験がより深いものになっていくと、人間の周波数の声が出せなくなるなど、ちせの中で人間としての機能より兵器としての機能のほうがが徐々に強くなっていく。

 最終的には、ちせは処女を喪失した直後に人類を滅亡させ、少女としての肉体を完全に失った「兵器」の姿でシュウジの前に現れる。二人の肉体関係の成立が、ちせの曲線(少女性)を奪い、代わりに直線的な肉体を(兵器)を与えたのである。

 作品の中でちせは、自分が「恋をしていれば人間でしょう?」という問いや、恋が「あたしがあたしでいるためになくしちゃいけないもの」だ、というセリフを発しているが、実際にこの作品に描かれているのは「恋をしていること=人間であること」という公式ではなく「少女であること=人間であること」という公式であった。彼女の中の無垢な部分、少女性を残した部分、処女という存在の価値が、最後の最後まで彼女を人間として存在させ続けたのであろう。逆に、処女を失ったことに象徴される完全な少女の喪失が、彼女を人間でない存在に変えてしまう結果になったのである。


【4、シュウジから見たちせの兵器化】

 ちせの胸に、改造されたときからある傷「生体痕」は、ちせが「人間として生きている証」として設定されている。ちせの状態によってその大きさは変化し、ちせの兵器化が進むにつれて「生体痕」は小さくなっていく。つまり改造されたちせが少女として存在し続けるためには「生体痕」はなくてはならないものとして描かれているのである。

 しかし、シュウジの夢に出現する、自分はシュウジと浮気相手「冬美先輩」を殺すこともできるのだと言う「兵器化したちせ」の姿(※5)は、「生体痕」の内部から何十本もの無機質な管が伸びて「兵器」を象っており、「生体痕」自体が兵器としてのちせの「核」であるかのように描かれている。

 「生体痕」の大きいときのちせは寧ろ少女の部分を多く残しているにも関わらず、シュウジの内面にはその傷の存在の非人間性が強調されて印象に残り、自分の命を脅かすものとして夢に現れる。しかし、シュウジの夢に現れる「ちせの兵器」は、前に述べた機械化の進んだちせの翼のように直線的なものではなく、主に曲線で描かれている。

 このことは、シュウジの中でちせの非人間性「ちせ=兵器」のイメージが強まっているのを表す一方で、「ちせ=少女」のイメージを持ち続けたいというシュウジの願望をも表されているように思える。ちせの曲線と直線との葛藤は、ちせ自身に止まらず恋人であるシュウジの内面にも及んでいるということだ。もちろんこの葛藤に直面するのは二人だけでなく、本作品における人類全体の運命が、この葛藤に巻き込まれているのである。


【5、まとめ】

 ここまで、本作品において「ちせ」が緩い曲線の「少女」を失い、「女性」になればなるほど、彼女の中で直線的な機械の部分が増大し、世界は終わりに近づいていくということに焦点を絞って述べてきた。本作品における「人類(世界)の滅亡」は、ちせの「少女性の喪失」とそのままリンクしている。このように考えると、この作品での世界の滅亡は、少女性を失ったちせの精神世界の投影であるとも言える。

 そしてこれが意図的に表現されたものであるなら、この『最終兵器彼女』の世界観はウィキペディアにあるような“「きみとぼく―世界」の短絡性”などと言えるような閉鎖的なものではなく、思春期の少年少女なら誰にでもあるはずの「葛藤」や、その先にある「喪失」を地球規模の大事に重ねて描いた、開かれた普遍的な作品だと言えるのではないだろうか。だからこそ作者・高橋しんもあとがきの中で、この作品の登場人物には苗字が設定されていないことに触れ、「読者自身や周りの人に当てはめてほしい」と言っているのである。

 ただ「喪失」の先に「破滅」のほかは何も存在しないという設定は現実と異なるものではある。最終的にシュウジとちせ以外の人類が滅亡し、二人の死すらも予感させて物語に幕が引かれているのには、作者の思想の偏りが色濃く現れているという印象を受けた。作品全体を通して、細く緩やかな(少女的な)曲線を大事にしていることは少女性の神聖視と女性が成熟することへの失望の表れのようにも感じられる。本作品の「少女性の喪失」と「兵器としての完成」「人類の滅亡」が直接的に関係している物語構造の根底には、このような思想があるように思えてならないのである。

●参考文献・サイト

・『最終兵器彼女』高橋しん

・「ウィキペディア」http://ja.wikipedia.org/wiki

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