▼2006年度 立教大学前期義転載レポート
畑美樹の句集『雫』について(水野 桂)
【解題】
水野桂さんがレポートに採りあげたのは、現代俳人・畑美樹の句集『雫』。僕が講義で短詩形文学(盛田志保子歌集『木曜日』)を採りあげたことが契機となり、短詩形文学に眼が開かれたと文中にある。講師冥利につきる逸話だ。
このようなレポートについては、3つの成功因があるとおもう。(1)名句名歌を選びだす(それには鑑賞味読に値するという意味と、作者の資質をティピカルに伝えるという意味、この双方がある)。(2)各々への鑑賞が緻密で、かつ筋道も正しい。(3)上記(1)(2)が総合されて、名句(名歌)鑑賞がそのままま作家論に拡大する。この3点の要請を、下記水野さんのレポートが満たしているとおもう。
掲出された句で、僕のとくに好きだったのが、《ふたりのよるに水栽培のクロッカス》《人形をすべてわたしに向け 眠る》《毎夜毎夜ひとり広げるアフリカの地図》《そっと解く拳わたしの現在地》《恋人よ私は月が沈む場所》などだった。
これは水野さんだけではなく、講義で詩や短歌を扱ったときに受講生全体に見られた傾向なのだが、分析能力のある学生は、詩句にある象徴関係をほどき、そこから「作者の事情」を掘り起こしたうえで、解釈に「正解」をもとめようとする。水野さんのしるすとおり、畑美樹の俳句では性的な喩が取り込まれているのは確かだから、ここでの水野さんの解釈も、独身女性の性的生活への解釈という一本道が歩まれてゆく。
ただし、俳句という媒質は、たぶん読解の筋がそれだけではない。解釈の多義性の磁場に浮かび、その謎の多さによって逆に強迫となり、読者のまえに不敵に自立する句というのがあるのではないか。《ふたりのよる》なら、婚姻がならずに絶望の果て自死した恋人同士がクロッカスになったというギリシャ神話をもとに、そのクロッカス未然の関係性が、ふたりの性的な夜を不吉な未来形として彩りながら、しかもそれが「水栽培」であることで虚構、生活の彩りとして逆用されているという読みも生ずる。このとき「ふたり」「クロッカス」が照応しつつ、そこに「水栽培」という限定が施されているという関係だけが句の読解の中心に置かれているとわかるはずだ。その意味でこの句は他句との並立性を自ら拒絶する。このような経緯を重ね、魅惑的な呪文となることでほぼ解釈不要になってしまった完全名句がたとえば「そっと解く」だとおもう。この句からは「私」という拠点を自負しつつそこに哀切をあたえる少女の甘く、かつ自信げな声を聴けばそれで済む、ということにもなる。
水野さんには、今後も短詩形文学の解釈や実作に取り組んでほしい。そこでは、言葉は世界を描写しながら、描写によって逆に世界の具体性を抹消する逆の魔力も働いていて、たとえば伝統的な俳句(発句)では「感慨」以上に「季語」が主語になる逆転だってあるのだった。
水野さん、作家の事情忖度を拒絶する前衛的名句には、たとえばこんなのもある。《一満月一韃靼の一楕円》(加藤郁乎『球体感覚』)。面白いでしょう。今後はこんな句も視野に置いてくれたら。
ともあれあなたは、いいレースのスタートラインについた。
(阿部)
畑美樹の句集『雫』について(水野 桂)
「わたし」の変化
――畑美樹の句集『雫』について
文学部 文学科 文芸思想専修1年 水野 桂
授業で短歌を研究し、文語ばかりでなく口語が使われている短歌が詠まれていることも知った。今まで堅苦しいと思っていた短歌のイメージが変わった、ということもあって、限られた文字の中で表現される世界というものに惹かれた。
畑美樹さんの川柳も、パラパラとめくって見た時点では難しそうな文語は使われていない。しかも短歌よりもさらに文字数が限られた17文字。そこでどのような世界を表現するのかが気になった。そこで私は畑美樹さんの句集『雫』から気になった句をいくつか考察していきたいと思う。
この句集『雫』のなかの句にはひとつひとつに関連性があるように思われる。その関連性もふまえながら考えていきたい。
私が畑美樹さんの川柳集を選んだ理由としてパッと見てレポートのテーマである「性」を感じさせる句があったからというのもある。その句とは、
すこしずつ大きな声を出す月夜
ふたりのよるに水栽培のクロッカス
声あげて部屋をわたしの色にする
タンカーをゆっくり胸に沈ませる
鍵穴の湿りけ合鍵をつくる
人形をすべてわたしに向け 眠る
いずれも句集『雫』より
この6つの句である。
声と夜、この関連は性的なものを想起させる。また声が部屋に満ちていく様子を「わたしの色にする」と表現しているところもエロさを感じる。本来目に見えない声というものが部屋に色をつける。つまりこの部屋の闇の中では視覚というものが無意味であって、声だけが響き、その声だけがこの部屋の情景となっていることが感じられる。またその声だけが唯一「わたし」の存在を感じさせる。その視覚が無意味であることと聴覚だけが研ぎ澄まされる感覚がなんとなくエロいような気がした。
また、ここの句には「水栽培のクロッカス」や「タンカー」、「鍵穴の湿り気」なども語句などから「性」と「水」の関連性もみられる。「タンカー」は一見関係なさそうだが、調べてみると「液体貨物を運搬する船」とあるので一応関係ある。これをふまえると「タンカー」は男性器を思わせるところがある。また次の句の「鍵穴の湿り気」が女性側であるなら、「合鍵」というのもこのことでないかと考えられる。
それにしても、「タンカー」や「合鍵」、そして「人形」と、男側と考えられるものの表現に生命感が全くやどっていない言葉ばかりが使われている。何故だろうか。これはあとに考えるとして「水栽培のクロッカス」に注目したい。ここでこの句を紹介したい。
あきらめの早さを競う雨やどり
あのひとの生家につづく川の泥
君だけと言うあなたには母がいる
いずれも『雫』より
ここでクロッカスについて説明すると、春に咲く花であり、ギリシャ神話に登場する美青年の名前が由来だそうだ。この青年は羊飼いの娘(スミラックス)と愛し合い結婚の約束をしていた。しかし神々に反対されてしまい、絶望のあまり青年は自ら死を選び、その死を悲しんだスミラックスを見て花の神フローラが二人を花に変えた…という逸話があり、それを作者は「ふたり」に重ねているように思われる。
前記した句からもわかるように「あなたの母」と「わたし」の中に対立が感じられる。つまり「あきらめの早さ」とはその母とわたし、どちらが先に折れるか、そのことであり、また「生家につづく川の泥」からこいびとの母との関係が円滑にいってはいないことが感じられる。そうして三句目には恋人を通してちらつく“母”の存在を嫌がっているようなわたしが読み取れる。おそらく恋人は母とわたしの間の中間点にいるのだろう。
そこで前記した「人形を~」の句で「わたし」は恋人の全てを「母」ではなく「わたし」に向け眠っているのである。そこで愛するふたりが花になった、そのクロッカスと自分たちふたりを重ねているのだろう。そうして、そこから「わたし」の「人間はめんどくさい、いっそ人間以外のモノになりたい」そんな叫びも聞こえてくるような気もする。
そこから先ほど指摘した男性側の生命感のない「合鍵」や「タンカー」などの表現が生まれたのかもしれない。それにしてもクロッカスの逸話は一見美しい愛のお話に聞こえるが、花になってしまったという結末はなんとなく恐ろしさを感じる。
そこでこの句をあげる。
バラバラ死体が望みなのです恋人よ
『雫』より
クロッカスの逸話はこの句に通じる「危うさ」があるように思う。死んでしまえばわたしたちの体は「モノ」になる。バラバラになってしまえばなお「モノ」に近くなれる。そこまでして二人の世界に入れ込もうとする執念というものが「愛」とか「恋」とかいうものを超越したところにあってそれが「危うさ」を感じさせるのだ。
またこのような句もある。
毎夜毎夜ひとり広げるアフリカの地図
夕焼けの部屋に広げる世界地図
そっと解く拳わたしの現在地
いずれも『雫』より
ここではふたりの閉塞的な世界が読み取れる。おそらく一句目は「ひとり」のときは満たされるふたりの世界は世界地図でいうとアフリカぐらい、ということが言いたいのだろう。実際アフリカの場所を日本が中心になっている世界地図で見てみると南西の端っこに位置していて、これがひとりのときの「わたし」であり、このときの「わたし」だけでは世界は不完全である。つまりふたりになることで世界が満たされるのだろう。
それが二句目で現れている。この句は前記した「声あげて~」から「人形を~」の句に連続する句であるので夕焼けの部屋に広げるのは二人の世界であると考えられる。ふたりになることで世界地図は完成するわけなので、恋人が占める世界はアジアやらヨーロッパやら、世界の大部分を占めることとなる。つまり、わたしにとっての世界において「わたし」より「恋人」の占める世界のほうが大きいということになる。
また三句目の「拳」が恋人のものだとすると、その拳のなかに私がいるということになる。つまりここでは恋人が世界全体となってしまっていてわたしが存在するのはその拳の中のみ、ということになる。完全に恋人がわたしにとって世界全体になっていてわたしという存在は恋人がいるからこそ成り立っているという、不安定さの中にわたしが漂っていることがうかがえる。
また夜に広げるのがアフリカの地図(わたし)であるのに対して夕焼けのなかで広げるのは世界地図(ふたり)である。夜にわたしという存在を重ねていて、夕焼けをふたりの世界に重ねているようにもとれる。つまりわたしは“陰”の存在であり、恋人こそが陽のあたる存在であることを示唆しているようにも考えられる。だから“陰”と“陽”が重なる夕焼けがふたりの世界ということになる。
ここでなんとなく平塚雷鳥の「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」という言葉を思い出す。まさしくこの「わたし」もこのように恋人によって輝き、恋人によって存在を決定されている状態なのだろう。このような盲目状態は恋の恐ろしさを感じさせる。ふたりだけが世界のすべて、この閉塞的で排他的な世界には「わたし」のその世界に対する執念の強さがうかがえる。おそらくこのようにふたりの世界だけに入り込んでしまうのは「恋」であって、「愛」ではない。それがこの句からも読み取れる。
あらためて恋ねと思う雨の図書館
恋はまん中愛はノートの隅に書く
いずれも『雫』より
「わたし」は恋であるということを自覚していることが一句目でわかる。しかし、「雨の図書館」という場所から「わたし」は「恋」に対してもやもやとした感情をもっているのではないか、と考えられる。ここで「雨」が「晴れ」だったら、また「図書館」が「遊園地」とかだったら、なんだかメルヘンな一句になってしまうが、「雨」が持つ暗さ、そして本がぎっしりと並んだ「図書館」特有の圧迫感、そしてみなが息をひそめて黙りこくっている、図書館に入ったときのあの一種の自由を奪われた感じ、それらが組み合わさって、「恋」というものの窮屈さを感じさせる。
また、「雨の図書館」はふたりの世界のように閉塞的であり、排他的である。私は図書館という空間は現実と離れた異空間のように感じる。人と人があれだけ近くにいるにも関わらず、だれも他人に干渉しようとせず、他人の世界に入り込もうと邪魔もしない。みながそれぞれ黙々と自分の世界に沈んでいく。つまりみな図書館に行くと人とのつながりを絶ち排他的な世界に入り込む。それがふたりの世界と通じる気もする。またその図書館に雨まで降っている。雨によってますます図書館と周りの環境とのつながりは絶たれ、図書館はますます孤立する。つまり、「雨の図書館」とはこのふたりの世界の閉塞感、そして排他的な世界観を持っていて、そしてふたりの世界と重なるのだ。
二句目は「恋」が「まん中」に対して「愛」は「隅」である。ここからわかるように「わたし」の心のうちは「恋」のほうが扱いが大きい。またノートのまん中に書かれた「恋」と隅に書かれた「愛」との距離感が「わたし」の中の両者の隔たりでもあるのだろう。そうしてこのふたりが別れを告げるときの句をあげると、
君との朝に話す地球最後の日
一ミリずつ私をあなたから剥がす
恋人よ私は月が沈む場所
いずれも『雫』より
「地球最後の日」、この地球=世界と考えると、「ふたりの世界最後の日」となる。おそらく、一句目で話しているのは別れ話であるように思われる。また「朝」に話していることにより、「地球最後の日」というダークなイメージが「朝」のさわやかなイメージによって調和される。そうして二句目、「一ミリずつ」という表現に未練は感じられるが、「私」はあなたから離れようとしている。また「剥がす」という言葉から、「私」は「あなた」にシールのように貼りついていた、そんな依存状態であったことが想像できる。
そして、三句目、ここで「私」は自分を「月が沈む場所」と表現している。ここで前記した平塚雷鳥の言葉を思い出すと、「月」ではなく「月が沈む」(実際、月は沈まないような気がする…)ということは「太陽が照らす場所」に私はなろうとしていることがわかる。わたしはもう陰で生きる存在ではないということだ。
それは「私」の表記からもうかがえる。前半の「私」の表記は平仮名が多かった。平仮名の「わたし」は柔らかな印象とともに幼い印象も与える。この「わたし」は恋人に依存しているような「わたし」であった。しかし、漢字での「私」は一文字で簡潔な印象としっかりとした印象を与える。この「私」は「月」ではなく「太陽」となって自ら光を放つ「私」である。ここから、「私」という存在が変化したことも示唆しているように考えられる。
このように、畑美樹さんの句をほんの一部とりあげて考察していったが、畑美樹さんの句は全体を通してなんとなく「怖い」と思った。なぜなら、17 文字の世界の中に夢のような感覚と妙なリアリティーが共存しているからだ。まだまだたくさん興味惹かれる句があった。他の句集にも触れようと思っていたのに触れることも出来なかったので、またこの畑美樹さんの句について考察できたらいいな、と思う。
