▼2006年度 立教大学前期義転載レポート

小説 『ピュア・トライアングル』

【解題】
新田晋也君の、06年前期「入門演習」の期末提出物は、男が書いた(しかも上品な)ボーイズラブ小説ともいうべきものだった。運動部系特有の「スポーツ的身体の熱さ」が、同性愛感情に巧みに接合されてゆく。僕はおかしくて、嬉しくて頬が緩んだ。
 「ライバル」「盟友」「先客」が一人の対象に重ねられる――これは運命的なことだ。しかもその重複の劇が、朝の凛とした空気のなかで上演されたとしたら。このあたりのくだりが僕には一生体験できない新鮮なものとして映った。しかも男同士の恋敵として、「佐々木はるか」という悪辣な少女が定番どおりに顔を出す物語のゆくたてにも、キッチュな味わいがある。
 新田君が最終的な愛情描写として行き着いたのは、「握手」。これも微笑ましい。きっともう一年経って彼がこの手の小説を書けば、自己蕩尽的な同性愛描写に小説が雪崩れこむのではないだろうか。頑張ってほしい――というと、不道徳をそしられるだろうか(笑)。
 いまの若いひとの小説の手法が混成的だともおもう。「鉄也」の客観描写ではじまったものが、「樋口」「はるか」の内面描写にアッサリととってかわられる。これは伝統的な小説技法としては瑕のはずだが、映画のシーン転換としてはありうる。この点は新田君の今後を測る手立てとなるだろう。二つの選択肢がある。ひとつは伝統的な小説技法の錬磨に努めるということ。この場合は夾雑物の破棄や小説用語の拡大・純化が望まれる。もうひとつは、映画のシナリオなどに触手を伸ばしてみるということ。どっちの筋道が出るのか、実は期待している。
(阿部)

小説 『ピュア・トライアングル』



『ピュア・トライアングル』

文学部 文学科 文芸思想専修1年 新田 晋也


 藤沢鉄也が樋口恭一に出会ったのは、彼らが高一のときだった。

 鉄也は中高一貫の、都内でも有数の進学校である私立K学園に通っていた。K学園は男子校だったので、また、鉄也が今まで外部の女子と積極的に関わろうとしてこなかったこともあり、彼には中学の三年間で女友達の一人さえできなかった。進んでいる者は既に女性経験を済ませ、周囲からもちらほらと「彼女がほしい」というような声や、男子校であることに対する不満が漏れるなか、しかし鉄也は気にも留めていなかった。彼には部活があったからである。

 彼は中一のときにテニス部に入ってから、ずっとテニス中心の生活を続けてきた。中学時代を部活に捧げたと言っても過言ではない。持ち前の運動センスに加えて、入部当初からひたむきに努力を続けてきたので、中三の時点で彼にテニスで敵う者は同学年には誰もいなかった。部内で一番手の先輩にでさえ試合で勝てることがあった。しかし中三の終わりの時期に、執行部である高二の先輩たちが引退してしまうと、自分とテニスで張り合える者が減ってしまったので、部活に対していささか物足りなさを感じ始めるようになった。
  高校生になるといっても、クラス替えと、あとは中学校舎から同じ敷地内にある高校校舎に移るくらいしか変化がないので、特に緊張感もなく、なんとなく張り合いのない生活を続けたまま、鉄也は高一の春を迎えた。

 「おーす藤沢!」
  「ああ……荻野。おはよ」
 その日、鉄也が一年三組の教室に入り自分の机に座ると、クラスメイトの荻野が待ってましたとばかりに声をかけてきた。荻野とは中一のときからテニス部で一緒だったので、かなり仲はいい。
 「相変わらず朝はテンション低いなぁ」
 「眠いんだから仕方ないだろ」
 「そんなお前のテンションが一気に上がる話があるんだけど。聞きたいか?」
 「なんだよ。もったいつけないでさっさと教えろよ」

 鉄也はあからさまに不機嫌そうに返答した。低血圧なのか朝はなかなか眠気がとれなくて、誰に話しかけられてもこんな調子なのだった。荻野もそんなことは百も承知なので、特に意に介さずに続けた。
  「なんと、新高で県大会ベスト8(エイト)に入ったことがあるやつがいるらしい」
 「えっ、マジでっ」
 K学園は中学で三百人、高校から新たに百人を入学させるというシステムをとっていた。そんなわけで、生徒間では中学上がりの古株生徒を「旧高」、高校から入学してくる新参者を「新高」と呼んで区別していた。旧高は中学時代に親しい友人を作ってしまい、また新高も同じ立場であるほうが仲良くなりやすいためか、旧高は旧高同士、新高は新高同士で結束してしまい、両者の間にはなんとなく壁ができてしまうのが常であった。
 「それってもちろんテニスでってことだよなっ」
 「ああもちろんだとも」

 鉄也が予想通り話に喰いついてきたことが面白いのか、荻野はニヤニヤと笑いながら大仰にうなずいてみせた。K学園のテニス部が出場するのは東京都の大会なのだが、鉄也でさえ都大会でベスト8に食い込めたことはない。何県かはわからないが、県でベスト8ということはかなりのレベルであることに間違いなかった。
  「それで、入部するのか?」
 「さっきタローに会って聞いたんだけど、なんか今日の練習から参加するらしいぞ」
 タローとは本名を神名木太郎といい、テニス部の顧問のことである。もう三十後半で所帯持ちだったが、テニスでは鉄也と互角以上に渡り合える実力者だった。国語の教師で現国を担当している。部員に限らず、面識のある生徒はみな、陰では「タロー」の愛称で呼んでいた。
 「そりゃ楽しみだ! じゃあ今日は部活までゆっくりと寝て力を蓄えないとな」
 「ははは。部活ない日だって授業ほとんど寝てるくせに」
 強い新入部員が入ってくることを聞いて、失いかけていた情熱が鉄也に戻り始めているようだった。
 

 結局その新高のことが気になってしまい、予定していた授業時間の睡眠はほとんどとれないまま放課後となった。鉄也は急いで着替えを済ませると、掃除当番だった荻野を置いて一人テニスコートへ向かった。

 ――パコーン……パコーン……
  どうやら五限が早く終わった誰かがもう打っているらしい。コートが近くなるにつれ、ラケットでボールを打つ音が聞こえてきた。校舎の角を曲がりテニスコートに出る。するとそこには、
「フッ、フッ!」
 見慣れない、いや見たこともない少年が、顧問の神名木先生と乱打をしている姿があった。鉄也は一瞬で、彼がその新入部員であると理解した。その少年――実際わりと小柄で、一心不乱にテニスに興じるその姿には「少年」という形容がぴったりだった――の打つ球はとても速く、精確だった。もしかしたら自分より上手いかもしれない――鉄也は思った。
 だがそこには、自分の地位が脅かされることに対する負の感情は微塵もなく、ただ体の内が熱くなるのを鉄也は感じた。鉄也はコートの後ろで彼が打っている姿を、じっと見つめていた。程なくして神名木先生が打ち負け、ラリーが終わった。

 「いやー、負けた負けた。おお、藤沢! 代わりに相手してやってくれ!」
  コートの向こう側で打っていた神名木先生がこちらに気づき、鉄也に言った。
 「え、俺ですか?」
 「そうだよ。お前以外に藤沢はいないだろう」
 突然のことに戸惑いながらも、彼と早く打ってみたかったので、鉄也は走ってコートに向かった。自然と鼓動が早くなる。コートでこんな感覚を味わうのは初めてのことだった。
 「おねがいしまーす!」
 ネットの向こう側から彼の声が飛んできた。少し高めの、爽やかな声だった。鉄也はなぜだかとても嬉しい気分になって、即座に「おねがいします」と返したのだが、
 「――ねがいします」
 緊張のため最初の「お」がかすれてしまい、ちゃんと言うことができなかった。たかが乱打なのにこんなに緊張している自分自身に鉄也は驚いた。

 まずは彼がロブを打ってきたので鉄也もロブで返した。そして徐々にお互い球の軌道を低めていく。
(強いっ!)
 彼が打つシュートボールは、速くて精確なだけではなかった。それは一球一球気持ちのこもった、とても「重い」球だったのだ。球の回転数が少ないので、すごく伸びる。これでは神名木先生が打ち負けるわけだ。だがそれは、打ち返せればとても気分のよくなる、そんな球だった。鉄也は必死で彼の球に喰らいついた。

 「ハッ」
  「フッ」
 互いの息を吐き出す音と、ボールがラケットに当たる音しか鉄也の耳に入らない。鉄也は言いようのない浮遊感のようなものを味わっていた。彼とのラリーは途切れることがなく、まるでこの時間、空間が永遠に続くように鉄也には感じられた。

 「集合!」
  神名木先生の声を聞いて、鉄也はやっと、もう練習が始まる時間なのだと気づいた。乱打をやめて彼の元に駆け寄る。すると彼が笑顔で話しかけてきた。
 「どうもありがとうございました! うまいんですね」
 「そんな、君だってすごく強いじゃない」
 鉄也も自然と笑って言葉を返した。
 「すごく球に伸びがあって、返すのだけで精一杯でしたよ」
 「え、じゃあ俺と同じだ。君の球もすごく伸びるから返すの大変だったよ」
 まだお互い名前も知らないというのに、彼と話すのはとても自然なことに鉄也は思えた。二人の間には、まるで幼馴染みのような雰囲気が、何かこれから育まれると約束された、膨大な友情を受け止める素地が既に形成されているようだった。お互いにお互いの感情が自分に向いていると強く感じていた。

 集合してからはお決まりの挨拶をして、まずは新入部員の彼に自己紹介をしてもらおうという運びになった。自分がしゃべるわけではないのに、なぜだか鉄也は緊張してしまった。彼が一歩前に出て、口を開く。
  「樋口恭一といいます。中学では三年間テニス部に所属していました。えっと、まだ不慣れなので迷惑をかけてしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」
 自然と拍手が起こった。鉄也も拍手をしながら、しかし頭の中では、
 (ひぐちきょういち……。ひぐち、きょういち……)
 と彼の名前を反芻していた。その名前は、彼の慎ましくも元気な雰囲気によく合っているように思えた。
 それが、鉄也と恭一の出会いだった。

 その日は、練習の合間に鉄也も恭一に自己紹介をして、軽く雑談をしただけで別れた。別れ際に鉄也が、明日は朝七時から朝練があるけどどうする? と訊くと、
  「藤沢くんも出るんでしょう?」
 「うんそうだけど」
 「もちろん僕も参加させてもらうよ」
 とのことだった。鉄也にはまるで「鉄也が出るから出る」みたいに聞こえて、そんな風に考えてしまう自分が恥ずかしかった。

 鉄也は、朝練の日はいつも五時に起きて六時には学校に着くようにしていた。まだ誰も来ていないコートで、一人黙々とサーブの練習をするのである。その日もいつも通りに登校して六時くらいにコートに行くと、なんと先客がいた。恭一だった。一人でサーブ練習をしている。

 「あっれぇ、樋口くんもう来てるの? 早いねぇ」
  「え? 藤沢くん! いや、遅刻しないようにと思ってたら早く来すぎちゃってさ。でも君も早いんだね。もしかして朝練はいつもこの時間に?」
 「そう。一時間早く来てサーブ練習やってんだ。誰もいないコートで練習すると気分いいからね」
 「え、じゃあ邪魔しちゃったね。ごめんなさい」
 「いや、全然構わないよ。むしろ嬉しいくらいだよ。二人いればサーブだけじゃなくて乱打とか、試合練とかもできるしね」

 「むしろ嬉しいくらい」と言ってはいるが、これはかなり抑えた表現で、本当のところ鉄也は恭一がいてくれてすごく嬉しかった。自分の心のピースがはまるような感覚さえ抱いていた。
  「そっか。……じゃあさ、もし藤沢くんが構わないなら、僕もこの時間から朝練来ていいかな?」
 「え、もちろんだよ! うん、じゃあ今度から二人で練習しよう」
 その日は二人でサーブ練をしてレシーブ練をして、また乱打をした。人気のない校舎をバックに、誰もいないコートで恭一と二人乱打をするのはとても清々しく、鉄也はその日ほど朝練で幸福感を感じたことはなかった。

 それから鉄也は、朝練のある火曜と木曜は、毎週恭一と二人だけで練習した。六時から七時までの一時間、誰もいないコートで、二人は二人だけの時間を楽しんだ。

 あるとき鉄也が「樋口くん」と呼ぶと、恭一が「ちょっと他人行儀ではないか」と言いだした。
  「じゃあ何て呼べばいい?」
 「そうだな、キョウって呼んでよ。昔はそう呼ばれてたんだ。僕はテツって呼ぶね」
 「キョウ、か……」
 「そうだよテツ。あ、もしかして恥ずかしいのかな?」
 「はは、やめてくれよ」

 そんな風に恭一にからかわれると、鉄也はすごくくすぐったいのだが、なぜか安心した。
 今まで相手を名前で呼ぶことはあっても、自分は大抵「藤沢」と苗字で呼ばれてきた鉄也にとって、名前で呼ばれることは新鮮だった。ましてや名前で呼び合う間柄の友達など一人もいなかったので、「テツ」「キョウ」と呼び合うようになってから、鉄也の中でも明確に、恭一は他の男友達とは一線を画す特別な存在になった。

 あるとき部活が終わって、鉄也と恭一と荻野の三人で帰っているときに、荻野が女の子の話をしだした。
  「S女学園のコでさ、塾のクラスで一緒なんだけどさあ、可愛いんだこれが。もうアドレスは交換したんだけどなかなかメールできなくてさー。ね、樋口は確か中学時代は共学だったんだろ? なんかアドバイスしてよ~」
 「いや、そんなの僕には無理だよ」
 「そーいえば樋口は彼女とかいないの?」
 「いないよ、残念ながら」
 「へぇ。中学んときも?」
 「中学のときは……いたけど、でも高校で別々になっちゃうから別れたんだ。お互い微妙な感じになっていたしね」
 「なんだよいたことあるんじゃんっ。いいよなー。俺らは彼女イナイ歴イコール年齢だもんなー。な、藤沢。なんかずっと黙ってるけどさ」
 「え? ああ、そうだな」
 「全くお前はホントにこういう話興味ないのね。テニスだけですか」
 「だけってことはないけど……でもまあテニスが一番かな」

 そう言いつつも鉄也は、恭一が過去に彼女がいたことを知って、軽くショックを受けていた。彼は自分とは違うのだということを突きつけられた感じがした。そして無性に焦りを感じた。それがどういった感情から来る焦りなのかは鉄也にはよく分からなかったのだが。

 駅に着くと、路線の違う荻野は一足先に離脱し、鉄也と恭一の二人だけになった。ホームで電車を待っているときに、鉄也は切り出した。

 「さっきのさ……」
  「ん?」
 「さっきの、いわゆる『恋バナ』っての? 聞いてて何が面白いんだかさっぱりわかんないんだよね」
 「はは、それはきっとテツが恋をしたことがないからだよ。でも無理ないか。今はテニスが恋人って感じだもんね」
 「そーそー。今の俺にはテニスだけで十分」
 「でも恋するのもいいと思うけどな。色々と発見があるだろうし……」
 そう言う恭一の目は、向かい側のホームに滑り込んできた電車を追ってはいたが、もっと遠い何かを見ているように鉄也には見えた。

 そのまま周囲の環境が変化することはなく時間は過ぎていった。テニスのほうは順調で、夏の大会では鉄也はダブルスで恭一と組んで好成績を納め、秋の個人戦でも、恭一よりも好成績だった。

 夏休みなど時間があるときは、鉄也はよく恭一と遊びに出かけた。そのうち家を出るときに、
  「また樋口くんと遊びに行くの? まるで恋人みたいに仲がいいのね」
 などと母親にからかわれるようになった。そう言われるたびに鉄也はぎくりとするのだった。

 そしてあっという間に二学期が終わり、冬休みになった。この冬、鉄也は親に言われて塾の冬期講習に通うことになっていた。そして講習初日、授業が終わると鉄也は同じ教室で授業を受けていた女の子に声をかけられた。

 「ねえ、君K学園の人でしょ? その制服、確かK学園だよね」
  「え、ああ……そうだけど」

 長いこと同学年の女子とまともに会話さえしていなかったので、加えてその子が結構可愛かったために、鉄也はすごく戸惑った。
  「すごいねー。頭いいんだね」
 「いや、そんなことないけど」
 「ねえ、もしよかったら、ちょっと勉強見てくれない? 明日の予習でわからないところがあって」
 「あ、うん。いいけど……」
 「やった! ありがとね。あ、そういえば名前は? 私は佐々木はるか。よろしくね」
 「俺は藤沢鉄也」
 講習が終わったのが夜の七時、はるかの勉強を見てあげて七時半。結局その後鉄也ははるかと二人でファストフードで夜ごはんを食べて帰った。

 それから五日間、講習の間ずっと、授業が終わってからはるかと勉強して帰る、という流れになった。二人でいるときははるかが積極的に話してくれたので、鉄也は特に困らなかった。こんな風に自分に接してくれる女子は初めてだったので、鉄也はすぐにはるかのことが気になりだした。携帯のアドレスも交換し、講習が終わってもはるかとの交流は続いた。しかし、はるかと一緒にいるときに、時々恭一の顔が脳裏をよぎった。何か恭一に後ろめたいことをしているような感覚が漠然と鉄也にはあったのである。

 そんなある日、鉄也は、自慢のように聞こえてしまったら嫌だなと思って今まで黙っていたが、部活の帰りにまた恭一とホームで二人きりになったときに、思わずはるかとのことを話してしまった。
  「そんなわけで、今でもちょこちょこメールしたりしてるんだけど……」
 「へぇー! 全然気づかなかったよ。よかったじゃん! これでついにテツにも春がくるのかなあ?」
 「やめてくれよ、まだそんな感じじゃないって」
 恭一は心から一緒に喜んでくれたので、鉄也は内心ほっとした。表面上は取り繕っても、心の底では嫌な顔をされるのではないかと不安だったのだ。

 「それで、相手の子はなんていうの?」
  「佐々木はるか。S女学園の子なんだ」
 「へ、え。佐々木さんっていうんだ。なんにしてもよかったね。応援するよ」
 「あはは、ありがとう」

 鉄也はこのとき自分が話すのに夢中で、明らかに一瞬恭一の顔に驚きが走ったのを見逃してしまった。恭一との関係にも慣れてきて、友情の油断のようなものがあったのかもしれない。
  その日、鉄也は心のつっかえが取れたので、ぐっすりと眠ることができた。

 「もしもし」
  『もしもーし。やっと電話してきたね。鉄也くんのことでしょ?』
 「なんであいつに近づいたんだ」
 『別に? 講習で一緒になったから勉強を教えてもらってただけよ』
 「講習はたまたま一緒になっただけかも知れないけど、鉄也に接近したのは意図的だろう? もし僕への当てつけなんだったらやめてくれ。彼が可哀相だ」
 『はっ、馬鹿じゃないの? 自惚れないで。私はただ彼が気になっているだけ。恭一には関係ないわ』
 「……そうか。わかったよ。ならテツに優しくしてやってくれ。あいつはすごくいいやつなんだ。じゃあ、切るよ」
 『……』
 「はぁ……」

 電話を切ると、思わず恭一は息をついた。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。はるかは、恭一が中学時代に付き合っていた子だ。向こうから告白されて付き合ったのだが、高校に上がるときに恭一のほうから一方的に別れを切り出したので、当時彼女は恭一のことをかなり恨んでいたようだった。
  彼女の家は恭一の自宅からそんなに遠くないところにあるので、頻繁に遊びに来ていた鉄也と一緒にいるところをどこかで見られたのだろう。だがなぜ彼女は鉄也に接近したのか?
「純粋に好きになっただけなのかな……一体何を考えているんだ……」
 恭一は複雑な気持ちだった。

 「……何がテツよ」
 そう言ってから、はるかははっとして口を押さえた。これではまるで、自分が嫉妬しているみたいではないか。しかも男に。そんなことがあってはならない。私はただ、ちょっと軽い気持ちで、昔私に恥をかかせたアイツに仕返しをするだけなのだ。はるかはそう自分に言いきかせた。そうしないと、感情が勝手に動いてしまいそうで自分が怖かったのだ。

 裏ではそんなやりとりがあったことなど何も知らない鉄也は、上機嫌だった。今度はるかと遊園地に行く約束をとりつけたのである。だがはるかの話をするたびに恭一の顔がわずかに曇ることに気づいたので、これからははるかに関しての話題は恭一に話さないようにしようと鉄也は決意していた。

 そうして冬休みをあと二日残して、遊園地に行く日になった。遊園地では、はるかは終始ごきげんだった。鉄也はそんなはるかに連れまわされてすごく疲れたが、はしゃぐはるかを見ていると心が和んだ。あっという間に夕方になり、じゃあ最後に観覧車に乗って帰ろうということになった。

 観覧車に乗ると、次第にはるかの口数は減っていった。鉄也はその雰囲気に戸惑ってしまい、何か話題を探さなくてはと焦った。そして、まだ彼女には恭一のことを全然話してないことを思い出した。

 「同じテニス部にさ、樋口恭一ってやつがいるんだけどね」
  鉄也は恭一が如何にいいやつで、自分がどれだけ恭一と仲がいいかを話した。だが、話していくうちにだんだんとはるかの顔は険しくなっていき、しまいには、
 「そんな話もうやめて」
 と言ったきり目も合わせてくれなくなってしまった。鉄也には、恭一の話でなぜここまではるかが怒るのか全くわからなかったので、ただおろおろするしかなかった。今度のはるかは明らかに機嫌が悪いために無言だった。

 その気まずい空気のまま、死ぬほど長い二十分間を耐えて、ようやく観覧車は地上に戻り鉄也は解放された。もうはるかとの間には、今までの楽しかった雰囲気は微塵も残っていない。その日はもう「じゃあ、またね」と別れの挨拶をするのが鉄也には精一杯だった。

 鉄也としてもそのままではどうにも納まりがつかなかったので、仕方なく恭一に電話をして、今から家にお邪魔させてもらうことになった。

 「まいったよもう。観覧車に乗ってたんだけどさ、いきなり機嫌損ねちゃって」
  恭一の部屋に入って開口一番鉄也の口をついて出たのは、はるかに対する愚痴だった。先の決意などどこえやらである。
 「なんか、大変だったみたいだね。テツが気に障ることでも言ったのかな」
 「そんな、俺はただキョウのことを話しただけだよ?」
 「んーそっか。じゃあなんでだろうね」
 恭一は頭を抱えたい気分だった。まさに原因はそれだ。しかしはるかとのことは、恭一自身鉄也には話しにくいことだったので、結局お茶を濁してしまった。
 「……やっぱり俺にはまだ、女の子とどうこうっていうのは早かったんだよ」
 「そんなことないって。テツは今疲れているからそんな風に思えてしまうんだよ」
 「俺はキョウと一緒にいるときのほうが落ち着くよ。はは、男同士なのにこんなの、変かな」

 突然こんなことを言われてさすがに恭一も少し戸惑ったようだが、微笑みながら答えた。
  「いや、変じゃないよ。でもねテツ、男に向かう気持ちと女に向かう気持ちは、違うんだよ」
 「違う……? どう違う?」
 「うーん……端的に言ってしまえば、性欲、かな」
 「せいよく」
 「そう。こんな例えはイヤかもしれないけど、テツは僕とセックスしたいとは思わないだろう?」
 「そりゃぁ……確かに」
 「佐々木さんとは? どう?」
 「……」
 「ね。そういうことだよ」
 「でも俺は、はるかかキョウだったら、キョウを選ぶよ」
 「いい加減にしてくれよ! だからそういうことじゃないんだってばっ」
 恭一がこんなに語気を強めたのは初めてのことだったので、鉄也は面食らってしまった。そして、恭一をここまで怒らせてしまった自分が、許せなくなった。

 「ご、ごめんキョウ。俺、何にもわかってないみたいで」
  「いや、こっちこそごめん、怒鳴ったりして……僕も少し疲れてるみたいだ」
 「押しかけちゃって悪かったね。今日はもう帰るよ」

 部屋を出ようとする鉄也の腕を恭一が掴んで引きとめた。
  「テツ。君は今、女の佐々木さんがよくわからなくなって、だから男の僕に逃げているだけだと思うんだ。現実逃避だと思うんだよ。もちろん逃げることが悪いわけじゃない。ただね、家に帰ったら、もう一度よく考えてみてほしいんだ、佐々木さんのこと」
 「ああ、わかった」
 「テツ。僕は君の、親友だからね」
 「ああ、わかってる」

 鉄也が帰ると、恭一は自室のベッドにバタンと横になり、枕に顔を埋めた。
  「言えなかったな、本当のこと。原因は僕なのに……」
 鉄也に嫌われたくない。恭一の念頭にあるのは、それだけだった。だから、真実を言うのが怖くて、はるかとのことを隠してしまった。
「あー……しんどいなぁ……」
 そのつぶやきは全部枕に吸収されてしまって、少しも外に漏れなかった。

 その翌日、鉄也のもとにはるかからメールが届いた。昨日のお詫びもしたいので、家に来てくれないかということだった。はるかの家の住所を知るのは初めてだったのだが、恭一の家の近くだったので鉄也は少し驚いた。今まで女の子の家に呼ばれたことなどなかったので、多少緊張しつつはるかの家に向かった。
  「いらっしゃい」
 はるかは今まで通りの笑顔で鉄也を迎えた。だがその雰囲気はどこか今までと違う。鉄也はいぶかしみながらも、はるかに続いて彼女の自室にはいった。部屋に入ると話もそこそこにベッドに座るよう言われた。はるかもその隣に座った。
 「実はね、今日両親は用事で出かけててね、二人ともいないの。夜まで帰ってこないんだ」
 「え、それって……」
 どういうことかと問い返すまでもない。つまりはそういうことである。鉄也の心臓は一気にはね上がった。そのまま鉄也ははるかに導かれるようにしてベッドに横になった。鉄也は頭の血管が脈打つのがわかるくらいにドキドキして、緊張して何をどうすればいいのかわからない。それに比べて、はるかは落ち着いていた。そう、そのはるかの態度から鉄也は気づいてしまった。
 (はるかは初めてじゃないんだ)
 そう思うと、はるかと自分の間には埋めることができないほどの溝があるように鉄也は感じてしまった。その差が明確になればなるほど、体の緊張とは裏腹に、頭は急速に冷めていった。

 結局、鉄也は勃たなかった。でもはるかなら「大丈夫だよ」と優しく言ってくれるのではないかと鉄也は思っていた。だが鉄也に浴びせられたのは、冷笑だった。
  「フフッ、ほんとあなたって情けないのね。いつも恭一とべったり仲良くしてるから、そんなところまで似ちゃったのかしら」
 そこには、鉄也の知っているはるかはいなかった。目の前にいるのは、歪んだ笑みを浮かべている女だけだ。鉄也は状況についていけない。
 「え……はるか? え、恭一って……」
 「あーもう、イライラするわ」

 はるかは自分が恭一の元カノであることを話した。鉄也の顔はみるみる青ざめていき、その様子がはるかには面白かった。
  「彼ね、私を振ったとき何て言ったと思う? サイコーよ。『ごめん、実は僕、ゲイなんだ』って。アッハハ! 何がゲイよ。もっとマシな嘘がつけなかったのかしら?」
 「……」
 鉄也はもう何がなんだかわからなくなっていた。はるかの声が遠くに聞こえる。もうひたすらに自我を薄くしていよう。考えるな、何も考えるな。そう自分に言い聞かせた。
 「そんな風に言われて納得できると思う? 私の心はズタズタに傷つけられたわ。だからいつか復讐するチャンスがないかと窺っていたの。そうしたら」
 はるかはビッと鉄也を指差した。
 「こんなところにいいカモがいるじゃない。自分のせいで友達が傷ついたと知ったら、恭一はさぞ自分の愚かさを悔やむでしょうねえ」
 「そういう、こと……か」
 「そういうことよ。ほんとはしてあげた後で全部バラすつもりだったんだけど、あなた勃たないんだもの。笑っちゃうわ。あ、わかったわ、あなたもゲイだったのね! だから恭一とあんなに仲がいいんだわ。アハハ! まさかゲイカップルだったなんてね。ほんとあなたたちサイコーだわ。アハハハハッ」
 鉄也は、はるかの高笑いを遠くに聞きながら、「そういうことか」とつぶやきつつ、よろよろと部屋を出て行った。

 一人になったはるかは、ぴたりと笑うのをやめた。
  「……だって、彼が羨ましかったんだもの。いつも恭一の隣にいて……恭一はとても楽しそうに笑っていて……。だって、だって仕方ないじゃない。好きだったんだもの!」
 彼女はそう叫ぶと、そのままわぁっと泣いた。

 鉄也はその足で恭一の家に向かっていた。はるかのこと、恭一がはるかとのことを隠していたこと、そして、恭一がはるかに「ゲイなんだ」と言ったらしいこと。色々ショックなことが重なりすぎて、鉄也の心は千々に乱れていた。足元もおぼつかない。だがそれでも彼は、恭一の家に向かった。働かない頭で考えた。はるかは、嘘だと思っているようだった。でも、本当に、嘘なのか?
  「ど、どうしたんだよ」
 幸い恭一は家にいて、他の家族は留守だった。打ちひしがれた鉄也を見て思わず恭一は駆け寄った。
 鉄也はさきほどはるかの家であったことの一部始終を恭一に聞かせた。恭一はただ絶句することしかできないようだった。
 「すまなかった……僕のせいで、テツが……」
 五分ほどの空白の後、恭一は泣いて謝りだした。ただ謝るばかりだ。鉄也は、ここまで歩いてくる間に多少状況を整理することができたので、恭一だけが悪いわけではないことはわかっていた。
 「俺も悪かったんだ。一人浮かれるばかりで、彼女のことも、キョウのことも、ちゃんと見ていなかったんだから」

 それよりも鉄也には、どうしても訊かなければならないことがあった。
  「キョウ、君がはるかを振ったときに言った言葉だけど……あれは本当なのか?」
 恭一は一瞬体をビクッと震わせたが、意を決したように答えた。体を絞って発するよな声で。
 「ああ、本当だ。僕はゲイだ」
 「そうか。わかった」
 覚悟はしていたが、この一言が鉄也にとっては一番重かった。テニスの夏合宿で一緒に風呂に入ったことや、冗談で尻を叩き合ったことなどが思い出されたが、鉄也はそれらをきっぱりと頭から締め出した。
 「今日は、もう帰るよ」
 「ああ……わかった」
 恭一の家を出るまで、鉄也がどんなに恭一を見つめても、恭一はずっとうつむいたままだった。

 キョウは、俺のことが好きだったんだろうか……。俺と、したいと、そう思っているのだろうか……。俺もキョウのことは好きだ。じゃあこの感情は何なんだ? ただの友情? ……わからない。自分のことがわからない。俺はさっき、キモチワルイと、キョウのことをキモチワルイと、そう思いかけたのか? 自覚がないだけで、本当は今も、キモチワルイと思っているのか? ……わからない。もう俺は、キョウのそばにいられないのだろうか。そばにいないほうがいいのだろうか。……わからない。わからない。わからない。わからない! 俺は、どうしたらいいんだ?

 深夜、リビングで一人、つけっぱなしのテレビが砂嵐になったことにも気づかないまま、鉄也は自分の内を、答えを求めて彷徨っていた。

 長い夜が明けた。今日が最後の冬休み。鉄也にとっては今までで一番長く感じた夜であった。鉄也は早朝のテニスコートで一人待っていた。恭一を呼び出したのである。日の出はまだだ。辺りは薄暗い。

 そして、恭一はやってきた。あんなに弱々しく歩く姿を見るのは初めてだった。うつむいているため、恭一の表情はわからない。鉄也は恭一に駆け寄った。

 「……、……」
  「……」

 何度も頭の中でリハーサルしたのだが、鉄也は言葉を紡げなかった。恭一本人を目の前にして、自分が言おうと思っていた言葉が如何に空虚なものかわかってしまったからだ。どうしていいかわからず、鉄也は空を見上げた。空は、一面雲に覆われていて、普段よりも低いように見えた。
  「すまなかった」
 恭一が囁くように言った。
 「君に、嫌われたくなかったんだ。隠してて、本当にすまなかった。もう、君のそばにいるのはやめるよ。テニス部も辞める。だから……」

 「俺さ」
  鉄也は、恭一の言葉をぶつ切りに遮って口を開いた。もう素直に思ったことを言うしかない。そう気持ちを固めていた。
 「俺さ、寝ないで考えたんだ。俺はどうしたらいいのか」
 沈黙。
「頑張って答えを見つけようとしたんだけどさ、結局ダメだったよ」
 沈黙。
 「でも、わかったことがある」
 沈黙。
「俺は、キョウのことを嫌いになれない。たとえキョウが、その……ゲイだったとしても、嫌いになんかなれないよ。もう俺の心の奥に、キョウはいるんだ。……俺は、キョウが望んでいるようなことはしてあげられないと思う。それでも、今までと同じように、キョウのそばにいていいかな」
 沈黙。……息吹。

 「無理しなくていいよ。君はもう、僕のそばにいるべきじゃない」
  恭一は顔を上げずに、聞き取れるギリギリの声音で言葉を垂れ流す。鉄也は堪らず恭一の顔を両手で掴むと、自分に向けた。恭一の目を見て言う。
 「それは俺が決める。俺は、キョウのそばにいたいんだ」
 「……ほんとうに……」
 恭一は驚いたように目を見開き、声は出さずに唇の動きだけでそう言った。
 「本当にそう思ってる」
 「う……うぅ……」
 恭一は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。恭一の頬に触れている鉄也の指を、涙がつたう。恭一の涙は温かかった。鉄也は、冷静に手を離すと、恭一が泣き止むのを待った。

 「僕は、君のそばにいていいの?」
  落ち着くと、恭一は涙で腫れた目で、鉄也を見つめながら、恐る恐る訊ねた。恭一にこのようにまっすぐに見つめられるのは、随分久しぶりのことに鉄也は感じた。自分が満たされる感じがした。
 鉄也は無言で肯定すると、声の調子を少し上げて言った。
 「なぁ、いい加減『君』って呼ぶのやめてくれないか、キョウ。前みたいに呼んでくれよ」
 「……テツ」
 「よし。改まって呼ばれると、なんか恥ずかしいな」

 いつの間にか日が昇っていた。だが曇っているために、遠くのほうの雲がオレンジ色に滲んでいるだけで、相変わらず辺りは薄暗かったが。
  「お、朝日だ。はは、なんだか微妙な朝日だなぁ」
 「いや、キレイな朝焼けだよ」
 嬉しそうに目を細めながら恭一が言う。確かに、雲がオレンジ色に滲む様は、まるで空と地上の境界を曖昧にしているようで、美しかった。

 「……なぁキョウ。握手しないか」
  不意に鉄也が提案した。
 「握手?」
 「そう。今の俺たちにぴったりだと思わない?」
 「……うん。そうだね。じゃあしようか、テツ」
 誰もいない校舎をバックに、テニスコートで、二人は固く手を握り合った。
 何の解決にもなっていないのかもしれない。だが鉄也は、これからもずっと恭一と一緒にいようと決めたのだった。
 
 明日から、三学期が始まる

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