▼2006年度 立教大学前期義転載レポート
『人というカタチ』(水戸部真里)
【解題】
06年前期「入門演習」での水戸部真里さんの期末提出課題はレポート、しかも人形愛という「特殊な愛」の考察を、彼女に可能な範囲で多元的に取り扱っている。着眼の清新さがまずあって、押井守『イノセンス』、売春制度、「ラヴドール」の機能と価格、「デリバリードール」という社会現象などさまざまに視野が延びてゆく論文構成をまず買った。しかも、「人形」という抽象物を介在させると、性欲処理において人間と人形が等価となる――こんな不穏な「爆弾」を論文内部に抱えている点も素晴らしい。
というか、もっとも過激なことをいうなら、あらかじめ人間と人形には弁別などないのだった。稲垣足穂にも『人間人形時代』という著作がある。サイボーグがSF的空想から身体機能の拡張として着々実用化されてきている現在、身体の同一性は機械的他者性に侵食されつつある。ここでは哲学的な意味での自己領域と他者領域の相互浸潤が現象していて、しかもサイボーグ同士の愛も容易に成立可能とわかるはずだ。そして水戸部さんが書くとおり、試験管ベイビーが促進されれば生殖が固有域に温存されることになるが、反面で生殖を前提としない愛には拡張が起こり、それが人間と人形の弁別の無意味、さらには愛と売春の区別の不能をも結果するだろう。当然、「現在の倫理」ではこれらの点に論難が生じるだろうが、倫理などは歴史的な一過性のものにすぎない。「想像力による愛」がどうあっても構わないという趨勢へと未来が導かれるのは当然のような気が僕自身はする。
問題は「愛」が自己に向かうか他者に向かうか、それだけだ。人形への愛は他者には決して向かわない――いまのところ。「いまのところ」人形が自己の投影だからだ。しかしその保証すら早晩消滅する。人形に他者性・予測不能性のプログラミングを施すことなど、未来の技術では容易だからだ。生殖は試験管ベイビーで確保されればいいのだから、人形愛を抑止する手立ては一切消える。
とまあ、意図的に過激なことを綴ったが、水戸部さんの着眼が、今後哲学的に大きな課題となることは間違いないだろう。この主題に道徳家めいた「しかめっ面」をしてみせることほどナンセンスなことはない。水戸部さんのレポートはそのような過激さを含んでいて、好感がもてた。
(阿部)
『人というカタチ』(水戸部真里)
『人というカタチ』
文学部 文学科 文芸思想専修1年 水戸部真里
【序・人形に愛を求めることは可能か】
可能か? と問われれば、これは可能であると答えるしかない。始めに、ここで私の言う人形とは、動物ではなく人型をしたものと限定しておきたい。
入門演習中「少女機械考」の講義を受けるに際して、映画『イノセンス』を久しぶりに鑑賞した。押井守監督はこの作品のテーマを冒頭オープニングにある、愛玩人形ハダリの瞳の中に投影している。作品のテーマは「人間は、なぜ人間を模倣するのか。人形に心は生まれるのか。」といったところであろうか。
しかし、今はこのテーマについて云々と述べたいのではない。この作品中に、かのデカルトが死んだ娘の変わりにフランシーヌという名を人形につけてそれを溺愛した、とある。その愛の形は、自らの心の欠陥を埋めようとしたものである。娘という対象を求めて愛した、ということは人形に愛を求めたことと同意であると言える。愛とは、心の隙間に入り込むものであり、自分と対称との深い繋がりを示そうとするものであり、セックスの欲求に対する口実である。
『イノセンス』において大きな地位を占める「ロクスソルス社製タイプ2052ハダリ」。ハダリとは、少女型セクサロイド、つまり性欲処理の道具として作られた挿入可能な少女機械人形なのである。
さて、同演習中、魚南キリコの作品『南瓜とマヨネーズ』を扱った際に売春という言葉に出会った。売春は需要と供給の関係のモデルともいえるほど、関係が明確である。売春を行った作品中の主人公“ツチダ”は金のために体を売りつつも、自らの心を痛めた。また売春は、その心無い行為を受けることから、自身を性欲処理の道具とみなすようになるモノと世間からも認識されている。ハダリによる性欲処理と、売春婦による性欲処理。人形と、本物の人間という差はあれども、性欲処理という目的は同じである。人間と人形。性欲の対象となる、人間と人形。
【売春】
売春婦は日本でも、平安時代にはすでにいたらしい。側近としての役割も大きかったため朝廷とのつながりが強く、始めは保護されていたようだが、中国の宦官よろしく、次第に朝廷を裏から支配しようとする勢力となっていったために朝廷に反発した者たちに排斥される結果となった。そして時代の流れから、貞淑の問題や貧しいものの仕事というイメージが加わり、売春=悪という存在に変わり、その位置は落ち着いた。
売春は、人間の欲望にうまくリンクしているため、一向に無くなる気配は見せない。加えて犯罪であるという危険性から、非常に高額な見返りが期待できる。欲望と金、という美しい需要と供給の形の上に成り立っているのである。
しかし体を売ったほうにとっては、人によってマイナス面が大きい場合がある。金儲けの商売として、女は人身売買の“商品”となる。そこでは人格を認められない、モノ同然に扱われる存在とされる。『南瓜とマヨネーズ』の“ツチダ”も、お金をもらって生活を成り立たせようとする心と、売春という自らの心を阻害された営みの間で、自分の存在意義の曖昧さに傷ついていった。
売春は心が阻害される。そのため自分が性欲処理の人形である、と感じるという。しかし、親密な間柄でも、倦怠期などで互いの意思疎通がうまく図れなくなり、ただ体を重ねているだけであると感じたとき、同じように、性欲処理の道具であると自分を認識することがある。つまり、性欲処理人形であると自分を認識してしまうのは、自分が本当には望んでいないセックスをする。あるいは、相手の欲望処理意識が強く感じられたときである。
売春で求められるものは何か。技術か、顔か。いや、やはり若さであろう。10~20代の時期は、生殖能力が最も活発に機能する時期であり、それに伴うセックスアピールを有する。また、貞淑観念から来た、未使用感が魅力にもなる。必ずしも処女でなくとも、使い古されていない新しさを感じること。これは独占欲、支配欲にも通じるのであろう。女子高生が売春の対象とされるのも、若さゆえである。
【性欲処理の道具】
人間は欲望によって生き、成長し、発展する。人間はその欲望によって生活を豊かにしてきた。安定した食物供給を求め、農業を発展させた。人類という集団と、相反して存在する個を両立させるため、規範をもった社会を作った。種族同士の争いから戦争のための兵法、武器、兵器、そして生産のための産業を発展させた。生理的欲求から始まり、自らを超越した存在におきたい、支配欲と名誉欲に至るまで、あらゆる角度からの発展を遂げたのである。
この、欲求による発展は、性欲の面からも起こっている。元々、子孫を残す本能から、性欲は起こった。本能を持続させるために、快感という要素が盛り込まれた。人間は理性を持った動物である、といくら偉い人が説こうとも、動物であるが故に本能には逆らえず、犬のように、猫のように異性を追い求める姿は動物そのものであった。
はるか昔に原型が作られた『千夜一夜物語』からも分かるように、意図した乱交パーティーというものはかなり昔からあったようだ。そこに宗教の概念が入り、貞淑思想や社会ができあがっていくと、年がら年中セックスにまみれた生活ではなく、生産行動を起させるために“禁欲“が叫ばれるようになった。イスラム教の都市から離れた離宮では、禁欲など忘れ、大いに酒と乱交を楽しんでいたようではあるが・・・
またここでは媚薬効果のある香料などがすでに重宝されていたらしい。快感は本能行動を促進する。宗教から来たこの”禁欲“の過程から、自慰という行動がうまれたのであろう。
抱いたまま射精すれば、相手が人間でなくても欲求は充分に満たされる、という事実は昔から広く受け入れられていたようで、ダッチワイフとして竹で編んだ抱き枕のようなものが始めに生まれた、と伝えられている。その後もさまざまなアダルトグッズが世に生まれたが、この抱き枕は、女性の体形に似せつつ、長きに渡って用いられてきた。その発展の延長線上に、現代では精巧な“ラブドール”という人形が作り出された。まさにハダリである。
【人形】
ハダリは球体関節人形である。球体関節人形はその名の通り、各関節が人間の骨のような球体をしており、可動する。元来、西洋人形に見られる伝統的な様式であるが、ハンス・ベルメールの作品が紹介されたことで、日本ではシュルレアリスティック、エロティックな面を意識した人形として広がった。現在の球体関節人形にも、どこかデカダンでゴスロリ的な印象が伴う。押井守監督は学生時代、ベルメールに魅せられた一人であった。同様にベルメールに影響を受けた人形作家、四谷シモンの作品「男」は『イノセンス』で登場する「キム」のモデルとなっている。
“ラブドール”も、可動率をあげるために、球体関節人形であることが多い。立つにはスタンド(支え)が必要だが、球体関節のおかげで、色んなポーズをとることができる。このラブドールを、美少女キャラのフィギュアのようなものとしてイメージしているかもしれないが、全く別次元のものである。背丈は150センチほどで、シリコンとソフトビニール(塩化ビニール)を使い、人肌に近い柔らかい感触をもっている。ガラスでできた義眼をいれ、ウィッグを変え、化粧まで施すことのできる人形である。また、”器官“を装備することで、上にも下にも挿入が可能になる。メンテナンスも水拭き程度、と比較的楽である。
自分で動くことはしないが、肉感的、舐めても無害、菌に侵される危険もなく、本物の女性器よりも快感を強く感じることができ、さらに女性器が人肌程度に温まる仕組みすらもっているものもある。まさに人型人形。価格は2~30万前後するが、このラブドールは人気である。性欲処理の道具としてだけでなく、着替えをさせて、写真撮影を趣味にしている人も多い。たかが人形に、そこまでするのか。と思うだろうが、ディスプレイにあるようなマネキンとは違って、何か、人を惹きつける存在感がある。そして理想を模した顔、姿形をもっているのだ。いやはや美しいモノなのである。
AVや成人雑誌は、物体がその場に存在しない。一方このラブドールは、明らかに存在感を放つ。ビデオや紙という非人間的なものに性欲が起こるのであれば、このラブドールにも性欲は起こりうると考えられる。
人形に挿入する行為を、人形とのセックスというのか、ただの自慰行為というのか、という問題が生まれる。しかし、心の隙間を埋めるものが愛、愛のカタチを求めるのがセックスであれば、その行為はセックスであると断定することも不可能ではない。自分では動くことをせず、音も発しないが、超越的な美しさを持つそれは、人間のように言葉をもたないため、自分の理想の女性像を当てはめることができる。人形に愛を求めることは可能なのだ。
また、普遍的な美しさを得るためには、単なる形そのものだけでなく、精神的な何かが必要である。昔から人形には魂が入る、といわれている。日本人形には、わざわざ魂の入る“隙間”を人形の胸の辺りに作っているものがある。魂とは、所有者自身の心なのではないだろうか。そのため、精神的にも魅力をもった人形は万人にとって美しい存在となる。
【まとめ】
元来セックスは生殖のための行為である。子孫を残すことは生物の本能的なものである。人類、哺乳類が体内に胎盤をもったのは、進化の過程で、子供が捕食される危険性を減らすためである。安全面から考えて、現在では胎盤というシェルターの必要性は全くもってない。
また現段階では、不妊治療やクローン研究のために人工授精を行い、その受精卵を女性の子宮に戻し、成長を待って産むことを行っている。どこかの人権団体の反対を抜きにすれば、胎盤のような装置に栄養を注入されて育った、試験管ベイビーが誕生するようになるのもそう遠い未来ではない。卵子と精子さえ結びつけば、試験管の中でさえ人間は発生する。卵子さえ作ることができれば、女の体は不要になる。もちろん逆に、精子さえあれば男の体は不要である。互いの体を必要としない。つまりセックスという行為自体が不要になる。長い目で考えると、子孫を残すための行動を起す必要がなくなったとすれば、遺伝子情報もどんどん変化していき、性欲それ自体が消失する可能性すらあるのだ。
肉体や精神のバランスなどを考えると、体の結びつきとしてのセックスは必要となるかもしれない。しかし、そこでハダリのような人形が存在するならば、売春という行為は必要とされなくなる。現に、ラブドールを貸し出して、お金を取る「デリバリーヘルス」ならぬ「デリバリードール」という商売がすでに発生している。人形に欲望をまかせるならば、売春もなくなる。
売春は、理由はどうであれ、需要側と供給側の要求が一致しているからこそ行われるものである。自分の好みに合わせた人形、完成された美しさを持つ人形、女性器の快感を超えた人形。これらの人形が人間に代替する恐れが生まれる。人形は人間のように言葉をもたないため、人形と接していても嫌な思いをしなくてすむ。姿形、性格ともに、自分の理想の女性像を当てはめることができる。精神世界の中で、肉体的欲求と同時に美意識も満たされる。平岡正明「縛られて菩薩となりぬ」の講義でも扱ったように、美意識が満たされれば、性的な欲求は二次的なものに成り下がるのである。
愛は、自らの心の欠陥を埋めようとするものであり、心の繋がりを求めるものである。人形が口を利かない、ということも、人間の一方的で強すぎる愛に対し、嫌悪することもなく常に受身でいられる存在故に普遍的な愛の対象となるだろう。完璧を目指す人間の心。そして完璧な存在を保つことのできる人形。人形に愛を求める人間の姿は、想像に難くない。
