▼2004年度 立教大学後期講義転載レポート

田中エリス『かわいいホロコースト』について (宮田直美)

【解題】
 フランス文学科二年、宮田直美さんが素材としたのは、ネット詩人、田中エリス。僕自身も時々ネット詩を覗くことがあるが、宮田さんのいうとおり、日常生活を素材に片恋の思いなどを切々とつづり、しかも詩に現れる形象にはすべて馴致の手垢がついている。徹底的な同質連鎖――要するに岡田有希子型「ぽえむ」。せいぜいが自らの装った感覚異常を、手柄誇示めいて振舞う能天気が散見されるにすぎない。
 そのなかで宮田さんのとりあげた田中エリスは、確かに奇妙な眺めのようだ。「対象化」の手がかりをあたえないという韜晦(「インコ学士」)が奏効しているのだとおもう。「食べられないもの」を「食べたい」、その願望の異常列挙のなかで、詩の時間が連鎖状態で生起し、ナンセンスとリズムが魅惑的に手を結ぶ。しかも「食べられないもの」はその少女性のなかにさえ取り込まれ、彼女の身体そのものをいわば不連続の連続に変える働きをする。宮田さんの最初の論旨を換言すれば以上のようなことになるだろう。
 僕はふとかつての自分の振舞いを憶いだした。3、4歳時の姪っ子に、「ゾウさんて美味しいよねえ」とふといいだしたことがあったのだった。不意を付かれたその負けずぎらいの童女は、若干の混乱のすえ「ウン」と同意する。続いて「キリンさんも」――「ウン」のやりとり。彼女のなかで可食性のカテゴリーが不安定化し、瓦解しそうになっている。むろん、ゾウやキリンは通常、可食性カテゴリーのなかにない。その「ないもの」に可食性幻想をあたえたそのとき、僕が対象としているその3、4歳の少女そのものが可食存在に変貌しだす。あるいは「美は可食的だ」と喝破したダリの真意は、いま僕が述べた融即的階梯を念頭に置いていたのかもしれない。
 写真、プリクラなど「少女」を捉えたもののなかで、少女たちは人形めいた非親和性をかたどっている。ネットアイドルのサイトに掲載された写真もそうだ。だが、そこに日常やプロフィールが付帯すると一挙に親和化=人間化がはじまってしまう。大方は、その人間化を孤独な親愛の対象とし、だからネットサーフィンが繰り返されるのだ。ところが田中エリスはそうした「取り込み」を自ら阻む。だから素晴らしい――そのようにつづる宮田さんの第二の論旨には、「馴致されないもの」「冷たいもの」「約分不能の結晶性」、すなわち真の少女性への擁護が横たわっているだろう。
 そのように要約できる論旨の流れの前後で、宮田さん自身の文章が燦爛と詩化する。ふたつ、抜き出してみよう。「無理を承知で具体化すると、クッキーの型を抜き終わった後の生地だとか、白地に青の水玉模様の白い部分である。人間とそれ以外のものをカテゴリーとして分けるならば、少女はそれぞれの間に余った部分に存在する」。「少女には決まった形、名前が与えられていない。これによって非常に定まらない、しかしそれゆえに消えることのない形を得ていく。定まらないという点では人形は少女になり得ない。人形、または機械みたいな少女は存在しても、少女みたいな人形が存在しないのはこのためである」。何たる微妙。何たる明察。何たるプラスチックな着眼。これらの文もまた、容易な「人間化」「親和化」を決然とはねつけている。
 そうした自分の文章が、この「阿部嘉昭ファンサイト」に載ることを、彼女は予想しているだろう。となると事はサイトの媒体把握に通ずる。そう、宮田さんの「非親和性礼讃」の傾向は、僕自身の傾きと共通しているのだった。形象の非連続的連鎖、それによるサイト空間/サイト時間の「少女」化は僕自身の望むところでもあった。
(阿部)

田中エリス『かわいいホロコースト』について (宮田直美)



田中エリス『かわいいホロコースト』について



 田中エリス、彼女はインターネットで活動をしている、いわゆるネットアイドルだ。そして詩人でもある。

 ネットアイドルが「詩を書くのが好き」とプロフィールに載せるのはそう珍しくない。いや、ネットアイドルに限定せずとも詩が好きな女の子は多いのである。タレント、アイドルとしてテレビに出てくる女の子でも「詩を読んだり書いたりするのが好き」と語る子を見かける。本当に好きなのかイメージ作りのためなのかという区別は付かないが、一応可愛らしい女の子になる。そう、詩は可愛いのだ。

そんな彼女たちの作る詩はとても日常的で、日記のようだ。抽象的にして目的語を入れ替えて、リズムを付けましたという印象を受ける。皆が一度は考えたことがありそうなことを一様に綴っている。そんな詩を書く女の子たちは可愛い。彼女たちが逆らうことはなく、故に脅威を与えることもない。何を考えどう行動するか分かりきっている、その意味で可愛い。

 数多くいるネットアイドルの詩であってもそれは例外ではない。彼女らのとても日常的な生活観たっぷりの、それでいてきれいな世界がそこにはある。ところが、田中エリスの詩は生活観がどうのと考える間すら与えない。そこにはインコ、タニシ、アメフラシ、そしてエリスが生き続ける。

 彼女の詩は穏やかな語り口で淡々と綴られていく。ときどき語尾を可愛く変換させつつも、その内容は可愛くない。

 「血管ちぎりたい 口紅食べたい 白髪はやしたい 歯にヤニつけたい インコの目玉くり抜いて数珠作りたい」

 これはタイトルにもなっている「かわいいホロコースト」の一部だが、可愛くないどころか怖い。これが多くの詩の中で最も不気味なものだとしても、ネットアイドルの女の子というイメージには程遠いものだ。しかし、多くの少女の中に存在する欲望である。口紅を食べるというのが非常に分かりやすい。大抵の家にある物体だが、少女にとっては大人の女性の象徴でなかなか触れられない。その色、光沢、質感すべてが憧れであり将来においては義務となる。田中エリスにとってはタニシになる直前、人間でいられなくなるときに折る大切なものでもある。その口紅を「食べる」ことでめちゃくちゃにすることは恐ろしいほどの快感を予感させる。

 しかし、それを実際に行うことは許されない。出来ないから膨らむ欲望であり、やってはならないと自制することで感じる欲望でもある。インコの目玉も、血管も放っておかれるべきものである。その部分に踏み込んで乱してしまうことは恐ろしく、口に出すのも気味が悪い。それをあえて外に出すということには何故か奇妙な快感が付きまとう。禁止されているもの、恥じるべきものを自分の手によって表に露出させるとき、代償とともに快感が得られる。その行動は少女を思わせる。

 詩の中には意識してか無意識か、「食べる」という行為が目立つ。そして大概は食べ物以外のものが食べられる。「食べる」という行為は人間の基本行動であり生きるための行動である。「食べる」のは人間的なものを思わせるが、そこで食べ物でないものを「食べる」ことにより人間から脱してしまう。食べたものとつながり、関係していく。少女が「食べる」という行為に関わることには何かしらの不気味さがある。ある種の残虐性か生々しい生の象徴があるためであろう。

 少女の「食べる」という行為は通常と違うものがある。食べれば食べたものが吸収され、食べられたものは消える。しかし少女に「食べ」られたものは少女の中で生き続ける。食べられたものはそのままに少女に連結されていく。田中エリスは次々に変化していき、同じ状態で存在することがない。「食べ」ていないときでも「食べ」ているような印象を保ち続けるのは、彼女がつながり続けているためであろう。

 田中エリスの詩は一見暗号を思わせる。何かを必死に語っているようで文脈を追わせる力がある。確かに分かる気がするもの、物語に見えるものがあるのだ。一つ一つの詩は思想が語られるだけでもなく、気持ちが描かれるだけでもない。きちんとした時間の経過が認められて、物語性がある。田中エリスの言いたいことがもう少しでつかめるのではないかという気にすらなる。

 しかし、本人の「ナンセーーーンス」の声にかき消されてしまう。本当にナンセンスなのではないと感覚的に感じるものの、そこに意味を見出すことまではできない。「インコ誕生までのあらまし」は創世記に似ている。しかし、天地が創造されるのではなく今現在の人間の世界からインコ誕生までが日を追って記されている。

 「インコ誕生までのあらまし」によれば現在は7日目、インコが巣立つところまできている。そして人間は分析を開始し、インコに帰属する萌芽思想が生まれるのだ。その初めての人間が田中アリスなのだろう。彼女の職業は貪欲に語るインコ学士であるのだから。

 インコとは何なのか。インコはエリスの肩にいる、と同時にエリスでもある。「最終的にはインコなの。でも途中までアメフラシ。」ともあるようにただの鳥として用いられているわけではない。しかし、どう見てもただの鳥に見える部分もしっかり保存してある。インコはやはり「イ」、「ン」、「コ」の音の羅列に過ぎないのだ。その羅列が次々と意味を持ち、そして最終的に無意味なのはもちろん田中エリスの策略だろう。

 田中エリスを初めて知ったのは、ネットアイドルの紹介ページだ。何をもってネットアイドルと呼ぶのかも定まっていない中で、それこそ数え切れないほどのアイドルがいる。フリーアナウンサーもいれば女子高生も、様々な人がいる中で彼女たちは皆写真を載せている。写真をざっと見渡すだけで無数の女の子と目が合う。どうしても人形が嫌いだったことを思い出してしまう。本来目を合わせるという行為は恋愛関係を除けば、恐れをもって行われる。その恐れの対象である目をまっすぐこちらに向けている状態がどことなく人形を思わせる。

 その人形が少女を感じさせるとすれば、写真、プリクラ、鏡は少女発現装置になり得るだろう。しかし、ホームページを実際に開くと、少女というより女の子になってしまう。あれほど顔面アップ写真で感じていた少女性は一気に失われる。何故か。それは一人一人のプロフィールを見始める段階で起きたのではないかと思う。写真という切り取られた世界で人形のように見えた女の子が、人形にはない生を発揮し始める。何処に住んでいるのか、生年月日はいつか、スリーサイズは、という情報が入ってくると同時に少しずつ人間になってくるのだ。

 もともと、自分を見て欲しいとか知って欲しいという動機から始まるのだろうから、それはごく自然なことである。彼女たちが発する情報によって、私たちは彼女たちをつかむことができるようになるのだ。

 そんな女の子たちの中で田中エリスはつかめなかった。プロフィールでもスリーサイズはもちろん、誕生日さえも分からない。ひたすら周りからの情報を得るのみで本人からのアピールは「インコ」だけなのである。   

 「インコ学士の学園生活」の中にある「十九世紀英国のウサギの穴ではなく、二十一世紀日本の鳥カゴの中に落ち込んだ私は」という言葉の中にエリスの世界を見ることができる。「かわいいホロコースト」ではルイス・キャロルを超えた革命詩人と紹介を受けているが、その作品の中にいるアリスの方なのではないだろうか。

 そんな彼女のwebサイトは「Ellis in Wonderland」。写真でも自分中心に、というよりは周りの景色が入り込んでしまっていて、何となく違和感がある。コメント一つをとっても、エリスの目線で語られる世界はまさしく不思議の国だ。そしてなにより、大きくなったり小さくなったり忙しいアリスのように、エリスが場面によって変わり続けている。

 決まった田中エリスは存在しない。彼女の語る世界も揺れ動き、田中エリスとは何者なのかを言い切ることができない。このことが田中エリスの存在を少女的にしているのだろう。少女は決まった形同士をつなぐ、背景のように機能する。無理を承知で具体化すると、クッキーの型を抜き終わった後の生地だとか、白地に青の水玉模様の白い部分である。人間とそれ以外のものをカテゴリーとして分けるならば、少女はそれぞれの間に余った部分に存在する。大人と子どもをピックアップしていくと、両者以外の部分を埋め尽くすところに少女が作られる。

 少女には決まった形、名前が与えられていない。これによって非常に定まらない、しかしそれゆえに消えることのない形を得ていく。定まらないという点では人形は少女になり得ない。人形、または機械みたいな少女は存在しても、少女みたいな人形が存在しないのはこのためである。少女は生きていなければならない。そしてこの「生きている」という状態は少女に不可欠なあやふやさの塊なのである。

 田中エリスは他のネットアイドルに向かって「消費されるな」と言う。少女は戦わなければならない。少女であり続けるためにはあやふやさを含め、つかめない存在でなくてはならない。ネットアイドルを身近に感じ、可愛らしい存在として枠に囲ってしまおうと企む存在から自分を守る必要がある。そこにおいて田中エリスの詩はおそらく彼女にとっての最高の武器である。インコが何なのかと聞かれても、彼女は答えない。もしかすると、うまく言い当てられたとしても素直に認めてくれないのではないだろうか。

 初めに彼女の詩に接する者は、エリスが詩を振り回してやってくるようなイメージを受けることだろう。可愛らしい女の子では納められなくなる。何を言い出すのか、どう動くのか予測しきれない恐ろしさがそこに生じる。そこにこそ彼女の少女性が潜んでいる。少女には何かしらの「分からない」という恐ろしさが備わっていなくてはならない。そしてそれには「ナンセンス」がすばらしい効果を発揮する武器となるのである。

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