▼2004年度 立教大学後期講義転載レポート

自殺ネットアイドル、南条あやについて(乾 亜沙美)

【解題】
 フランス文学科一年、乾亜沙美さんが選んだ素材は自殺ネットのネットアイドル、南条あやだった。読まれるとおり、その分析は緻密な展開をみせている。そして自殺念慮が高く、それを決行に移してしまった南条あやにたいし、「痛ましさ」を覚える終始一定の距離が、乾さんの文章の倫理性を高めてもいる。
 乾さんは、ネットアイドルという座についてしまった南条あやの、演技意識、自己欺瞞を、最初、見事に証拠立ててくる。「女子高生」「リストカッター」という彼女へのラべリングは、短期間での彼女への欲望集中を促がしたが、その欲望を消沈させる自己吐露を南条に不可能にさせもした。その結果が、彼女に存在していた恋人の秘匿だった――その彼との仲が幸福を約束されればされるほど南条あやは自己矛盾にいたる。それが結局は彼女の自殺決行の主因だった――乾さんの論旨は、そのように伸びてゆく。そのスリリングな展開は実際に下のレポートを読んで確認してほしい。
 彼女のレポートから示唆を得たのは、自傷行為と自慰は、自己再帰性において連関があるが、自傷のほうが自慰よりも甘美性をともなっているのだということ。乾さんのいうとおり、たぶん自虐が自己愛に変貌する過程に、変化や運動の幻影というか、擬制が生じ、それが実行者を、反復に向け誘惑するのだ。
 自傷――自らの痛みの、血の、生の確認。それなくしては生を定位できない、だからそれは自殺念慮とはちがうし、しかも自傷は自己同一性の混乱の極みで起こることも多く、行為の瞬間を自覚できていない面も多い――精神分析(たとえば香山リカの著作)ではそう位置づけられている。ただ、その把握は自傷行為全体を一個の静態的な糖衣カプセルのなかに閉じ込めることに似ていないだろうか。たとえば視覚性を利用した男性的自慰では、自慰行為のただなかで、対象に向けての彼の「みること」がいくらかは内部方向に分岐することで全体を緩和される。その視線の属性の変化は、それ自体でカプセルに入れられない動勢をかたどっている。それと同じような変化が自傷行為にもあるのではないか。
 乾さんはそれを、自虐から自己愛への変化過程という。これにはさらなる言い換えも利くだろう。「禁忌侵犯という、とりかえしのつかなさ」から「日常性への再着地の確認」への変化であってもそれはいいし、「自らを徹底的に苛んだこと」から「それでもその痕跡は自己のなかへと陥没し、他人には無化されてしまうこと」への変化(虚無しか認識させない変化)であってもいい。ただその変化確認に、自分の血が再帰的に使われるとき美学的な問題が生ずるのではないか。それはどこかで通常の審美基準を「超出」している。その強度に、自傷者がやがて苛まれてゆく――乾さんの迫力ある血についての記述に出会って、ふと僕が考えたのは、そんなことだった。僕は日常生活では血が怖くて見られない。
(阿部)

自殺ネットアイドル、南条あやについて(乾 亜沙美)

他人から与えられる赦免は自己愛程には作用しない


 数年前、「卒業式まで死にません。」という公言を忠実に守り、高校卒業の二十日後自ら命を絶った一人の少女がいた。ネットアイドル南条あや。リストカット、薬マニア――彼女の若く健康なその肉体からは、身を刻んで噴き出す鮮血と悲痛な孤独と救いの叫びが溢れ出ていた。

 自己表現法に恵まれていた彼女が生前に書き残した膨大な量の日記は、彼女の死後、彼女の最も愛した父の手によって一冊の本となった。表紙の夕方の誰もいない教室の写真の下には「卒業式まで死にません。」、彼女の約束が表題として載っている。ページをめくると、俯き加減で笑っている黒髪の女子高生がいた。その笑顔の奥に潜在していた痛々しい程の少女性を、彼女の死に至るまでの約三ヶ月間の遺稿から探っていきたい。

 彼女が薬に興味を持ちリストカットを始めたのは中学一年の頃。両親が離婚してから父と二人の生活を営んでいた彼女は小学校六年の時期にいじめを体験し、その一年後には手首を切ることを覚えた。精神病と向精神薬に関するホームページに体験談を綴ったメールを送ったところ、その主催者が彼女の文才をかいインターネット上で日記連載をすることに決まったのは、リストカットに依存し始めてから六年目、彼女が高校三年の春だった。リストカット症候群という時代の流行性と女子高生という肩書きから、彼女の日記は話題になり雑誌社からの需要も高まった。なぜ彼女がネットアイドルとして時代の寵児になりえたのか。それは、読者や周囲に対するサービス精神とニーズを察知する力に優れた彼女の属性ゆえだろう。

 彼女の日記からは表面的に見るとリストカットの深い苦悩は読み取れない。彼女の日常は常に明るい文体で語られていて、読者に生き生きとした印象を受けさせる。時には気の利いた冗談をかます余裕すら見られる。リストカットの描写ですら、「やってしまいました自傷行為。鞄のサイドポケットに入っていた使い捨てメスで、ブスブスブスブス。」などと、語呂のいい言葉使いで明快さを前面に押し出しているのだ。また、父との不和の描写などを過激に装飾することによって、ありきたりの日常に表現の価値を持たせている。そこで読者は一瞬欺かれ、彼女のポップな自虐性に思わず心地良い笑みをこぼしてしまう。

 しかし、彼女の日記を読み続けていればすぐに気づくだろう。彼女の日常の物語性は彼女が読者サービスとして捏造したものであり、実際の彼女の日常に凹凸なんてまるでないことを。それに気づいた時読者は、夜更けに一人暗い部屋で能面のような白い顔でキーボードを叩く彼女を否応なく想像してしまう。そして虚ろな目で(爆)などと打ち込んでいる彼女に痛々しさを感じ、その細い体を抱きしめてやりたくなる。今まで読者にとって南条あやは大衆性を持って実在が浮遊している少女でしかなかったが、そこで初めて身体を持った血の通う一人の少女であることが認識される。そして、彼女を愛おしいと思った時、読者は彼女にもう一度欺かれていることになる。

 インターネット上で日記を配信し始めてから、彼女の肩書きはただの女子高生からネットアイドル女子高生へと変化した。アイドルとは常に欲望の対象であり、不特定多数の要求に適した行動を強要されるビジネス化された存在である。頭の良い彼女がそのことを考えていなかったはずはない。一般的にアイドルとは客観視できる他者の手によってプロデュースされるものだが、彼女は自分自身でそれをやってのけている。彼女の場合グラビアに載るようなアイドルと違い、リストカット症候群という特殊な売りだったので需要層は狭く偏っている。そのため、彼らの欲求に多様性は見られない。彼女は彼らの欲求に対する反応を冷静に判断して自分で自分自身を自己プロデュースしている。

 彼女には結婚を約束していた恋人がいた。しかし日記の中では恋人について一切述べられない。それ以前に日記には父親以外の異性に関する話題が出てこない。親しい仲の友人についてはそれぞれ固有名詞が用いられ些細な電話の内容でも詳細に記録しているのに、異性と思われる友人は「友人」という一言で片付けられてしまっている。ネットアイドルという肩書きを持つからには、当然男性ファンも多く存在する。日記に異性との交遊を記せば、アイドルとしての価値は著しく下がる。そう想定しての結果であろう。それは、需要層のニーズについての彼女の鋭い観察力と意識の高さの表れととることができる。

 読者サービスに溢れた日記を配信することによって、読者は彼女の哀しみを切に感じ取り彼女の身体の存在を認識させられる。それにより彼女を愛おしいと感じ、身体を持つ彼女を抱きしめたいと思う。彼女の身体性に気づくまでの一連は彼女のニーズに答えた名演技によって導かれるものだ。彼女の巧みな二重の欺きによって、読者は彼女に救いを見いだすことが可能となる。しかしそのような読者の満足感とは逆に、彼女は深く追い詰められたことだろう。本来常に救いを求めている状態の彼女が救いの対象とされてしまったのだから。彼女の内側で、求められることと求めることの二つが混乱していく様子を、死の一日前に書かれた詩に見ることができる。痛々しいや哀しいを超えた無に近い諦めの言葉だ。

私はいつでも追いかけられている
この世の中の喧噪とか
義務なんてチンケなものじゃなくて
自分自身に
誰も助けてくれない
助けられない
私の現在は錯乱している
きっと未来も
ならば終止符をうとう
解放という名の終止符を

 高校三年後半に入って彼女のリストカットの回数は激減する。友人という形で日記に恋人と推定される存在が出てきたのも丁度同時期だ。彼女には結婚を約束した恋人がいた。死の約一週間前には一緒にディズニーランドへいき、指輪を買って貰っている。その二つの事実には勿論大きな関連性があるだろう。

 血に対する意識という視点でみていきたい。

 彼女はリストカットで初めて静脈を切った時の感想を「ステキ!!」と述べている。またリストカットだけにとどまらず、注射器で自分の血を採血する遊びを繰り返していた。ポリバケツ一杯分もの大量の血液を部屋に放置していたこともあるそうだ。そのようなことから、彼女が血に対する異常な執着心を持っていたことが窺える。特に切った手首から血がぱっと噴き出すその瞬間について彼女は言う。「たまらなくイイ!!」

 女性の流血といえば処女喪失というイメージが第一に浮かぶ。恋人ができる以前の処女と推定される彼女のリストカットに対する執着は、処女喪失に対する無意識的な執着と関連づけることが可能だろう。常に救いを求めていた彼女は当然その救いの対象を異性に見いだそうと試みたはずだ。しかし彼女の通う学校は女子校であり、また頭が良いゆえに羞恥心や感受性も鋭い彼女にとって、性への依存によって救われようという発想はとても実現できたものではない。しかし少女期に体験することを免れない性に対する好奇心は人一倍強く、中学時代は同人雑誌の活動などもしていた。また、過度に強い欲求が暴力に変わることは必然で、彼女の場合その矛先は外へと向かわず内に向かった。自分の手首を切り刻むことによって安定をはかる。その彼女の暴力性には性への依存の要素が多く含まれていた。

 カミソリをスッとひいて、手首から噴き出す血を見て初めての性体験に伴う出血を連想する。その血は、根拠のない不安や罪の意識を一時的にしろ異性に救って貰うことの代償として流される重い価値のある血だ。彼女は暗い部屋で一人きりでリストカットをしながらも、自分の体内からの流血に体温の温かさを感じ、錯覚と理解しながらもその温かさを触れ合いの温度として感じていた。
 カミソリを手首に当ててから引くまでの数秒を理性的で性に依存することすらできない自分への懲戒とすれば、カミソリを引いて血が吹き出るまでの数秒はそんな自分を赦すための諦念を伴った自己への優しさと見ることができる。無意識的だったとしても、そのような意味付けがあることでリストカットは彼女の中で生活に欠かせない一種の儀式のように捉えられていく。自己自虐性から自己愛へ移行する甘さが内在しているこの儀式は、当然のように自慰効果を持つものとなる。暗い部屋で毎晩リストカットを繰り返す彼女は、本質的には男子中学生が毎晩覚えたての自慰行為を繰り返すこととなんら変わりはない。ただ少し彼女のほうが感じ易かっただけだ。

 しかしそんな彼女も恋人ができる。すると性への依存はイメージとしてではなく実現化される何回も自分対自分で繰り返してきた儀式が自分対他人の間で行われることとなり、そこには自己自虐性から自己愛への移行という最も重要な儀式の意義が消え、代わりに他人からの赦免が与えられる。そこで彼女は自分対自分の儀式を繰り返すことをやめる。自分の血の温かさの代わりに他人の体温の温かさを、多大な心身の痛みを伴う一人での儀式の代わりに受け身体勢を覚える。それは彼女を解放の方向へ向かわせる兆候のように見えるがそこには大きな誤算がある。他人から与えられる赦免や愛情は自己愛程には作用しないという事実だ。

 リストカット以外に自分に対する愛情を取り戻す方法を見つけ出せなかった彼女は、リストカットをやめた時点でどんなに恋人に抱かれても愛情を口にされても大きな空虚感を埋めることはできなかった。受け身体勢に浸かり身動きできなくなった彼女はその現状を幸せという言葉で括ろうとする。一緒にディズニーランドへ行った日、彼女は恋人への手紙にこう書いている。

「これからは、和やかに時間が流れるように生きたい。結婚まであと一年数ヶ月。たのしくてうれしくて愛おしくて分裂症になりそうです。」

 その言葉を綴っている時、幸福だと思う一方で彼女の空虚な心は急速に死の方向へ導かれていたことだろう。

 「南条あやの保護室」。死後、父親と恋人と彼女を慕う大勢の協力者によって彼女のホームページが公開された。そこには生前の彼女の写真もある。肩に少しかかるくらいの黒髪にセーラー服の後ろ姿。無造作に切られた感じのする彼女の髪は決して美しくはない。そんな彼女の特異性のなさが、普遍性を思わせる平凡な後ろ姿が私を悲しくさせる。


<参考文献>

「卒業式まで死にません」南条あや(新潮文庫)
インターネットサイト「南条あやの保護室


●同じカテゴリー「2004年度 立教大学後期講義転載レポート」: リンク一覧

up