▼書評など

めらめらしてるのは誰か?by依田冬派

めらめらしてるのは誰か?by依田冬派






【解題】
以下にお目にかけるのは、
気鋭・依田冬派くんによる
拙詩集『昨日知った、あらゆる声で』
への書評(執筆日:08/2/03)。
これがmixi上にアップされた書評中
いまのところ僕が最も喜んだものだった。
よく詩集の魅力を伝えてくれているし。

それで依田くんに許可をもらい、
「書評など」欄に転載させていただくことになった。

依田くんのこの文章について
何らかの論評をしたい気もするのだけど、
僕の肉体の秘密に触れている文章なので
どうも書きにくい(笑)。

やっぱり、「嬉しかった」とだけ書いておこう。

ちなみに依田くんは、
映画と詩を志望する好青年。
僕とは歌手の三村京子さんを介在して知り合い、
僕の講義に結構、モグったりもしている。

もうひとつ、書き落とせないのは、
小池昌代、森川雅美、杉本真維子、久谷雉、
黒瀬珂瀾各氏、あるいは僕などと「巻いている」、
十二人連詩の若手メンバーのひとりで、
しかもそこで詩作がどんどん深化しているということ。
客気あふれる「フレーズ主義」に
素晴らしい身体性や寡黙の悲哀も灯りだした。
近いうちに彼は
詩人として頭角を現すとおもう。





【めらめらしてるのは誰か?】
(『昨日知った、あらゆる声で』書評)
依田冬派


詩を書くことはもってのほかだけれど、
私は詩を読むことも得意としていない。
だけど、なぜか詩というものが好きだ。

詩に触れているときにだけ味わう感覚、
そのとき呼吸がぴたりと安定するのだ。
身体が、ようやく深部に届いた感動か。
音楽や性交による快感にも近いけれど、
もっとずっと孤独な、静謐なざわめき。
私には確かに「この眼」があるのだと、
そこにひとしおの歓喜が生まれるのだ。

しかし私には、
文字で語られたものを再現する能力がない。
基礎がないうえ、語彙もへったくれもない。
リズム、を感じ取る機能がかろうじてある。
だから、それだけを頼りにしか書けないが…
ある詩集への断片的な感想を述べてみたい。

『昨日知った、あらゆる声で/阿部嘉昭』(書肆山田)

まず第一に、この書物の手触りがとてもいい。
頬を撫でてみればよくわかる。軽さも丁度いい。
一読して、私がいちばん最初に思ったことは、
「まるで訳詞のようだ」という曖昧な感想であった。
私は中学生の頃から、洋楽が好きでよく聴いていた。
でも英語に疎かった為に、訳詞に頻繁に手を伸ばした。
音の印象と歌詞の世界観の差が、私の体験だった。
そのときの感覚が、ふと蘇ってきたのである。
この詩集の背後には、「隠された歌」があるのでは?
それも英語かなにかで歌われた洋楽が、ロックが…。
<ROCKであり、LOCKでもあるのだと思う>
だぶんおそらく、音は言葉と同時に産み落とされる。
だからいつも気にされているのは、韻律である。
音のみではない、姿勢の韻律までもが、対象となる。

「詩に対する自分の判断基準もたえず音楽性だろう。
 言葉の運びに音楽性が介在して、
 言葉が酔う姿をみるのが好きだ。」
彼自身が語ったこの一文は大きなヒントと言える。
「短歌」を出自にしていることも忘れてはならない。
洋楽の訳詞は、いつもどこか格好付けで、気障だ。
しかし私は、そこに距離を、違和感を感じなかった。
彼らの音の印象は、確かにそのように聞こえるのだ。
阿部嘉昭の詩にも、格好付けと感じるものがある。
(そしてまた、「括弧付け」もあるのだけれど。)
でもそれらは当然の帰結で、嫌みのないものだ。
すべては、明確な音楽が言葉たちを覆っているから。
もうなんというかモテモテだろうな、この詩は!と。

以前私は、阿部嘉昭をこのように記した。
「複眼的なひと つまり、見誤らないひと
 また書き誤ることを恐れないひと
 潔癖なひと つまり、秩序を保つひと
 また「虚勢手術」のうまいひと
 そして、「硬いのに柔らかい」という
 女性を喜ばせる質をたずさえているひと
 飛躍、断絶、迂回も、すべてはシンプルな感慨から
 ゆえに難解ではない あらゆる声で愛でるひと」
とりわけヒョーロンカの彼を思い浮かべて書いたが、
詩人・阿部嘉昭にもこれは当てはまると思う。
「詩人」というスタンスのときには、
そこに「ナイーブ」が加味されている気がする。
あるいは直接的に、「ストレートな感情が迸る」と。

日の出から日没までを、人ひとりの人生に例えたら、
まさに阿部嘉昭は、「夕暮れ」にいるのではないか?
そんなことを再読しながら考えた。
「夕暮れ直前/夕暮れ寸前」がより厳密かもしれない。
その時刻周辺のある淡さ、薄さの中での眼が印象的。
比喩とは別に、幼い頃からよく夕暮れの中で、
多くものを考えてきた人なんだろうなと感じる。
だからそこには少年と中年の、二重の夕暮れがある。
もちろん後者の夕暮れは、黄昏に等しい。
そしてなぜか、
「肌がやつれてきた女の哀しみ」という類いの、
夕暮れも同居しているのが阿部嘉昭という人の特徴。

遠回りしたが、この詩集には「夕暮れ」が頻出する。
「親しい者とは夕暮れを筆談する」
「修正液を滲ませて抱き合う恋人に
 夕暮れがさらに濃く追加されてゆく」
「あそこなら夕暮れが四囲を静かに流れる。」

ラストを飾る詩の題に「増殖」という言葉がある。
藤井貞和が指摘した「数の増殖」という見方も然り。
なぜ彼はまだ「増殖」を指向するのだろうか。
私の眼から見れば、彼はその詩業/修行の中で、
もう充分に「増殖」を繰り返してきたと思うのだが。
この詩集が、一応「処女詩集」となっているが、
阿部嘉昭ファンサイトに掲載された未刊詩集を見よ!
そこでの「増殖」の有様は、尋常ではない。
あけっぴろげで、大胆で、とにかく眼が眩む。
いったい、どれほどの「私」がそこにはいるだろう。
沢山の「書き手/書く手」が大手を振って暴れている。
そこで一度、すべてが「溶け合った」のだと思う。
もうすでに夕暮れ的な「邂逅(であい)」があった。
だから実は、この詩集における「増殖」は、
かなり戦略的なのではないかと、私は感じ始めた。
その戦略性は、当然「可笑性」と密に繋がりを持つ。
阿部嘉昭の「カショウ性」を聴き逃してはならない!
彼は「晩年に向け急いで調整中なのだ、」
安定し尽くした<完成した感性>を、再び壊す試み。
それが今回の「増殖の罠」である。

この処女詩集以前の未刊詩集には、
まだまだ評論家的な視座が色濃く残っていた。
しかし、この詩集に至っては、もはや完全に詩人。
詩を綴る手つき、その速さだけが、継続された。
「自分の評論と詩を分かつ符牒があったーー
 「反復」の有無だ。
 「私」の詩は「音楽」になろうとして、
  ふと「反復」を引き上げてしまう。
 「反復」が生じたとき、
  書かれたものが詩に傾きだしている。」
と彼は冷静に自己分析をしている。
「私の詩は怪物に祝言を施すこと」と綴られる。
簡単に祝言を施すことのできる怪物さがあるのだ。

「無限性」とからみあうステップを、
華麗に演じようとしていた阿部嘉昭は、
「私」にとって「書くこと」の原理は、
「有限性」を意識することへと変化したと言い、
いまの「私」は野心しているー自分の「能力低下」、
「老い」「訪れだした鈍さ」が、自分の文章に、
乱暴な「縮減」の印象をもたらす痴呆の暁を、と。
夕暮れから暁へ、ひた走る男の姿が見えるだろう。

「私の感覚は私の思考に遅れだしている。
 或は逆に、私の思考は私の感覚に遅れだしている。
 それが、「生」=「性」の感慨に近い。」
この感慨を伝えるには、やはり詩が不可欠だった。
「躯」を通過する機微の報告こそが、真骨頂である。

「躯も糸となるまでゆすられるだろう」
「潜るような体躯で窓外を見た、
 身の往来にこの世の匂いがする」
「絶望すれば人も螺旋を躯から取り出すのに」
「躯への探検すら経験の同一を病んで
 だからいつも自身が王座へと導かれる」
「だが躯の細部にこだわるのも愚行だろう 
 相手が辿り着いた瞬間全体を味わうべきだ、」
「棲んでいる穴のあかるさが
 躯の輪郭だけを数かず中に渡らせる」

(そして、指や手)
「ロボットの情緒は親指に籠められる」
「戸棚のうえに手を伸ばして
 多角形になるように私自身を引き絞る」

(それから眼)
「そこに満ちながら不在のもの
 いつも淋しさは空から眼に与えられる」
「眼には内在する光の先験があって
 それが溢れ出す世界の色彩と触れ合う」
「いつも視界が調和の一様さを獲得できない。
 固有の物質から、滲みだす藍があるのだ。」

(哲学的な身体/空間そのもの)
「別れ際にいうべきことではない
 われわれの分身が非場所に残されるから」
「女は女となることで自らを鋳返す、だが
 中心へ遂に辿り着けない螺旋運動でもある」
「やがて角度によって輝きだす光の川を
 あなたはどうやって語りに変えるのか」
「世界は通り過ぎたときにそんな窓の集積で、
 だから勝手に窓内の時間を停めたりもする。」
「硝子球のなかを満ちる小さな水
 のように 些細さが傾いていた」
「森の手前を動く男女が一瞬風に掻き消えて、
 辞書中に眠る万語を果物のようにおもった」
「機械と結婚した植物はあるか
 捨てられた自転車に蔓が巻く。」

私は、都合三度、この詩編を堪能した。
小池昌代さん同様、
「そのたびに退屈ではなく新鮮に読めた。」
初めに感じたロックであるという予感…
実は三度目には、あまりそれを感じなかった。
一読したときは、各所で大笑いしたのだが、
やはり三度目には、あまり笑わなかった。
三度目には、なぜか「哀調」の方に意識が傾いた。
上記に抜き書きしたのは、構成の都合ではなく、
そのまま私がグッときたフレーズでもある。
だからこれは詩集の内容を語るものではない。
あくまで私から見た場合の、
『昨日知った、あらゆる声で』の様子である。
冒頭で述べたように詩集を論じるのは初めてなので、
この程度の感想で、ご勘弁頂ければと思う。
映画評論家・阿部嘉昭を知る人も知らぬ人も、
一度手に取ってみてはいかがか。損はないと思う。
『僕はこんな日常や感情でできています(晶文社)』
と併せて読むと、より楽しめるはずである。

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