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詩大陸への接岸--阿部嘉昭インタビュー

詩大陸への接岸--阿部嘉昭インタビュー

詩大陸への接岸
(なぜふたたび詩は書かれるようになったのか)
――阿部嘉昭インタビュー
(聞き手・三村京子)







―― なぜ最近、詩を書かれるようになったのですか。



阿部


本当のところはよくわかりません。90年代の終わりごろ、パソコンを購入しメールを打ってゆくうちに、読みやすさを考え改行・行アキ文を駆使していったのがキッカケになって、「改行リズム」が躯を貫きはじめ、それが自然と詩作につながっていった――そんな説明をよくしていますが、実はそれも定かではありません。ただ、「改行」が現在の詩作の原動力になったのは確かだとおもいます。



―― それはどうしてですか。



阿部


僕は実は大学のころ現代詩における「改行」というものがずっとわからないできたのです。短歌・俳句なら律があって、詩の成立要因は規則として理解できる。それぞれは基本的に一行棒書きです。改行行為はなく律だけが自立している。ところが現代詩の改行は律が外因となっているわけではなく(内在リズムがあるとは読み下せばすぐに理解ができますが)、それらの改行がすごく恣意的にしか当時の僕には映らなかった。接続詞の「が」だけの一字で改行がなされている場合などは、いくら景の転換という理解が及んだとしても、僕の吝嗇が許さなかった(笑)。紙面が勿体ない、と本気で憤ったものでした。分かち書きの空間美というものもあまり信じませんでした。


だから僕は大学時代、自分で詩を書く場合の改行原則を、偏狭に設定することでしか詩が書けないような気がしていたのです。別の言い方をするならば「定型」をもとめた。


たとえばソネットをつくって、ソネットの決まりどおりに脚韻を踏むことで、個々の改行を施したりしました。鈴木漠さんのようなアプローチですね。鈴木さん同様、「マチネ・ポエティカ」よりは複雑な脚韻を踏める自信がありました。ひらがな単位でいう、一音ではなく、一音半、もしくは二音の脚韻ですね(いまからいうと、このような脚韻詩はJラップを先駆けるものになっていたような気もします)。当時は、塚本邦雄『水銀伝説』での、短歌における脚韻実験に驚倒していましたから、それくらいのことは自分でも考えられたのです。そうして自分の詩作に、すごく実験的な人工的な条件を課し、それをクリアすることが詩作の動機になっていたといえます。字数揃えの幾何学形詩篇も、同様にしてつくりました。


ただ自分が人工物をつくっている――パズルをつくっているという後ろめたさからは開放されませんでした。ロートレアモンやらマラルメやら、その他、自分の好きな西洋詩の「精神」をもちこんだという自負があっても、それは一面、当時憶えていた稀用語彙の展覧にしかすぎず、詩作の動機が「魂」から湧き出ている感覚がなかった。とうぜん僕には「人生」が足りなかったし、それを言葉の実在へと転化する意識もなかった。すべては机上の出来事、砂上楼閣の作成に尽きていた。また、当時の僕の文学的知識は具合の悪いことに、それを「架空のオペラ」と自負して恥じない面もつよかった。振り返ってみると、あの当時の驕慢な自分、実に嫌いですね(笑)。



―― すると先生は大学時代を中心にした詩の習作期以後、詩作を断念された、ということになるのでしょうか。



阿部


まさにそのとおりです。あるとき、自分でつくっていた清書ノートを見直したことがあった。20代の半ばごろかな。見直してみて、書かれたものの殆どすべてが下らないとおもった。「青臭かった」のです。自己顕示欲やら文学的野心やらが溢れかえっていて、この「自意識」は誰にも掬されないだろう、と暗然とした。それで僕は詩篇のごく一部を例外的に転記して残したあと(これも吝嗇の賜物です-笑)、ノートそのものは破棄してしまいました。これらについては惜しい、という気もしなかった。自分の文学的出発が錯誤だった、とその当時の年齢で、醒めた眼で確認したというにすぎません。



-- 文学的出発という点をもう少し詳しく語っていただけませんか。



阿部


よくいうように、僕は高校のころ勉強ができなかったので、「不良少年」が陥るような文学愛好のパターンを典型的に踏んでいた、ということですね。詩は自分の「不良化」のアイテムでした。僕の世代ならばお定まりの、安直な詩的研鑽を積んでいったのだとおもいます。古典が苦手。だからまずは詩よりも先にロックやマンガがあった。中学時代の僕の詩は記憶にはっきり残っていませんが、ボブ・ディラン崩れや鈴木翁二崩れのような駄作ばかりを書いていた、非常に頭の悪い子供だった気がします。大学に入って、塚本邦雄をはじめとした現代短歌、あるいはフランス詩などにも出会いますが、出自の悪さは終生、僕につきまとうものです。無手勝で詩を書く悪法から逃れる手立てがなかった。


ただ、自負心だけがどうしようもなくつよかった。それで細々とながら、20代半ばまでは詩を書いてはいたのです。決定的な事柄があった。80年代前半、「現代詩手帖」の賞に自作を応募に出したのです。そのときは平田俊子さんが受賞なさいました。僕の詩は、最終選考の座談会の俎上にはのぼった。大岡信さんは「このひとは後ろ向きに詩を書いている」と指摘なさった。吉増剛造さんは、この後ろ向きのかたちは嫌いではない、と助け舟を出してくださいましたけども。それと、大岡さんは、「このひとの詩は短歌的喩を実験的に詩作にもちこんでいる」と喝破なさいました。つまらない異種交配を端的に見抜かれて、選評を読んだ僕はすごく赤面したものです。僕はすぐに識者に見抜かれてしまう、野心的な振舞をしたにすぎない。これが、僕が詩から離れる大きな動因になりました。



―― そのとき先生が応募されたのは、やはり脚韻詩だったのですか。



阿部


いえ、散文詩でした。「改行原則」を理解できなかった僕は、当時は散文詩の作成だけに活路をもとめていたのです。この散文詩への退却はすでに敗北の兆候だったとおもいます。


当時の僕はアルバイトで散文というか、コラムを書き飛ばしていて、躯のリズムに散文性が組織されつつあった。そのリズムにたいし、詩を持ち込もうとしていたのだとおもいます。


変な言い方ですが、死に損なった、という暗い気持だった。別に自殺願望はなかったですが、ものすごく不健康な生活を繰り返していましたし、躯も弱かったので、自分が早死にするという傲慢な確信をもっていたのです。ジミ・ヘンドリックスやロートレアモンの没年はいつも頭にあった。あるいはランボーの詩的夭折も。詩はその意味で「少年」が書くものだという偏った考えをしていたのです。このとき、もしかすると三島由紀夫の短篇「詩を書く少年」の影響が尾を引いていたのかもしれません。詩は少年期に書いて、その詩的少年がやがて死ぬ。あとは砂を噛むような「散文精神」で己れを組織しなければならない(とくに男の場合は)。


ポール・ヴァレリーのいう「詩=舞踏/散文=散歩」の区分については深く考えなかったままでした。「散歩」のように詩行が進んでゆく詩の素晴らしさに眼を開かれたおもいがしたのは、身近な存在だった福間健二さんの詩を読んでからです。考えてみれば愚かなほどに開眼が遅い。同じ「兆候」は僕が詩を書かなくなってからも親しんでいた西脇順三郎や稲川方人の詩にもありましたから。ただ「散歩」を端的にテーマとする福間詩に出会って、「詩行も散歩している」という驚嘆を覚えた。「雪解け」のひとつだったかもしれません。


僕は散文詩を書くと、自家中毒に陥ってしまう自覚があった。平出隆さんの『胡桃の戦意のために』などに憧れすぎていたのでしょう。逆に改行詩は「少年」、もしくは「女性」のものだ、という偏見もありました。僕の代わりに平田俊子さんが受賞なさったことは、だから実に象徴的なことでした。80年代は確かに「女性詩」の時代で、「少年期」が完全終了した自分は詩大陸から撤退しなければならない、とおもいこんでいました。


ただ、僕は当時隆盛だった女性詩が肌に合わなかった。それで俳句・短歌に「女性の声」を探したのです。俳句では、三橋鷹女、中村苑子、短歌では葛原妙子、安永蕗子などですね。それと僕は西友というスーパーで映画製作の部門にいたのですが、あるとき製作された映画が、亡くなった熊井啓さんの『式部物語』だった。これは秋元松代さんの傑作戯曲『かさぶた式部考』を原作にしている。それで柳田國男が式部伝説を追った『女性と民間伝承』の記述にあたるうちに、和泉式部の和歌や「存在の並立・伝播性」自体がすごくいいとおもうようになりました。導きとなったのは、寺田透の著作でした。『和泉式部』。躯から「あくがれいづる蛍」、それしか「詩」がないのではないか。塚本邦雄の著作によって、式子内親王など新古今時代の女性歌にも親しんでいましたが、僕にはもともとロックジャンルでも何でも女性は表現者として劣る、という偏見がある。与謝野晶子はいちばんいいものでも絢爛すぎて臆していました。


その意味でいうと、葛原や鷹女など一時期の女性の詩がいいのは歴史的例外ではないか、ともおもっていた。不勉強も甚だしかった。そのうち、「ラ・メール」が創刊される。それで新川和江を読む。ただ、それでも例外以外に女性の詩への興味が永続しない。そういう逼塞を説いてくれたのが、僕の場合、水原紫苑の短歌でした。そのあとが小池昌代さんかな。あと、椎名林檎のデビューが大きかった。というと、もう90年代も後半の話になってしまいますが。



―― 「女性好き」だったことが詩作復活の一因となったということですか(笑)。



阿部


これは僕の魂の秘密に関わることなので、深くはいいたくない(笑)。ただ、一言だけいっておきましょう――詩を書くことは僕の場合、たしかに魂の女性化、あるいは中性化に関わっています。だから、「女になってみせる」ことで、詩作が妙に進む場合があります。僕のサイトに、『壊滅的な私とは誰か』という未刊詩集がアップされているのですが、これは立教の女子学生に自分を仮託して、その子の書きそうな詩を一気に書いてしまったものです。稲川方人の『アミとわたし』、あるいは吉岡実の『サフラン摘み』が体現している素晴らしい女性性・少女性に対抗する意識がありました(笑)。この未刊詩集中のいくつかの詩篇は、あなた――三村京子がいまライヴで演奏つき朗読をしています。こうして架空の女性性がバトンリレーされた。「してやったり」とおもいます(笑)。



―― 散文精神と詩作に関わる「その後」をお訊きしたいのですが。



阿部


雑誌コラムや業界紙コラム、あるいはレビューを僕は80年代、書き飛ばしていました。さっきからの話でおわかりかもしれませんが、僕は大学時代、映像漬け・音楽漬けとなるとともに、文学漬けとなりました。鏡花だって日夏だって江戸物だって耽読していたから語彙幅は異様です。そういう自分を韜晦して散文を書いていた。僕、自分でいうのも何ですが、コラムがすごくうまかったんですよ。情報度が高く、圧縮がうまく、しかも文章が軽く、流麗だった。いちばん気にいっていたのが、最も実験的な書き方が許されたAVレビューだったかもしれない。リズムがよくて、それだけで読者を笑いに導いた。このとき自分の文章の特質は、語彙でも凝縮力でも情報度でもなく、リズムではないかとおもいはじめた。


これがのち、単行本単位の散文を書くようになってさらにはっきりしてくる。もともと一文の発想は、自分のリズム感覚に切り込まれるように現れてくる。打っているリズムが自分の躯を強烈に覚醒させ、それをさらに錐揉むように抉ってゆくことで、文が次々に連打されてゆく。入れ子構造に入ってゆく感覚があります。疲弊でこのリズムが失われかけたときには、文頭に戻って書いたところまでを読みなおし、すでにあるリズムを「貰って」、また書き継ぐといった厄介な書法です。「散文精神」などとは程遠い(笑)。ただし多くの読者もまた、こうした潜在している僕の文章のリズムを「貰い」、酩酊にいたる、といってくれますね。


「リズムを貰う」というのは、すごく大きなことなのではないでしょうか。僕はそのことのために、詩集を繰り返して読む。最も多く読んだのは、稲川方人さんの80年代までの詩集や西脇などですね。彼らの詩集を読むと一日程度は心地よいリズムが躯に永続する。それを味わいたくてその詩集を読むということは、詩集体験がほぼCD体験とも等しい、ということになるのだとおもいます。


散文詩は、そのことでいうと、読了してしまうと達成感が出てしまい、その後を読み直すことがあまりない。その緊密な空間を、縛りを解き読み解いていった喜びを、記憶力の悪い僕はすぐ忘れてしまうのです。となった場合、詩集空間はどこかで「未了性」を残しているほうが、再読の魅惑にあふれているといえるのかもしれません。事実、完璧な詩集を僕はあまり再読しませんね。吉岡実なら『静物』も『僧侶』も打っ棄ったままになっている。逆に中期後期の詩はよく読み返す。ただ、吉岡実は後期になると、リズムが「貰えなく」なってきます。


「リズム」というのは、推敲原理と離反するものですね。フロベール的な「最良の文字運び」が世に存在するとする。ところがその意識はたぶん書く者を失語に導いてしまう。リズムは文の最良性を個体性に縮減するものです。肉体の場所はそこから鳴動する。フロベール的理想からいうと矮小化ということになるのかもしれませんが、そのような完璧な「文」もいま流行らない、のではないか。


僕は小説を習作にせよ書かなくなって久しいから、自分の書くものには散文原理がなくなっている。単行本単位の評論をリズムで書ききるなど暴挙というに等しい(笑)。ただ、出自の悪い自分の身の丈には、それが見合っていると考えています。こういう自分にとっての理想が平岡正明さんですね。


そういえば、小池昌代さんは詩も小説もお書きになる人ですが、詩作と小説執筆では逆の原理が働くとおっしゃっていた。最近出た『僕はこんな日常や感情でできています』でも書かれているエピソードですが。小池さんは、詩は「一つの息」で書ききるのだという。小池さんのいい詩はリズムが清潔で、すごく静謐です。失敗していると感じられる詩は、おそらく一つの息では仕上げられずに、説明的な散文脈が舞い込んでしまったものではないか。それでもそのタイプの詩では、「散文+詩=詩」という不思議な加算がおこなわれています。そこがあのひとの特質だとおもう。この感覚があるから、詩集の全体構成がすごく見事です。


逆に小池さんの場合、小説は、推敲しだすと、一箇所を直せば別の一箇所が必然的に動く――というような、すごく神経症的な自己改定に迫られるらしい。僕などは面倒くさがり屋なので、そんなふうに小説などはもう書けなくなっていますね、年齢的にも。


詩に推敲は一体どのくらい必要なのか。昔、稲川方人さんと、京王線の終点近くの西河克己さんのお宅にお邪魔して、その帰り、ずっと京王線に並んで座って新宿に向かっていったとき、稲川さんの詩作について僕が「インタビュー」をしたことがありました。郡淳一郎くんなどは、「よくそんな大それたことを」と吃驚していましたが(笑)。


稲川さんはご承知のように、詩誌初出の詩篇を厳密に再構成して、各詩篇の仮題を奪い、全体を連詩的に並べ替え、一冊の詩集を完成させる、という経路をとっているひとです。個別性の剥奪が普遍化につながる回路は、地名などの剥奪とともに、詩篇名の剥奪とも相即している。稲川さんの詩は、その独特の硬質な語彙に馴染みさえすればすごく抒情的に響きはじめる。「喪失」がテーマだし。「怒り」も明らかですが、その「怒り」の質も好きで、しかも言葉には動悸させるような冥府性やら脱臼やらも仕込まれる。


で、その稲川詩は、僕などはそのリズムが好きで、速読してしまうのです。だから再読もする。それで自分の流儀で稲川さんに、詩も速成するのでしょう、と訊いたら、稲川さんは怪訝な顔をした。つまり稲川さんには、血の滲むような推敲が当たり前だったのですね。詩篇発表時に推敲を繰り返し、再構成時には並べ順の検討もふくめ、そこでも推敲を繰り返す。で、リズムは「本質」として練磨の果てに顕現してくる。「エピファニー」の用語にふさわしい、一種神秘的な詩作方法が遵守されているのだとおもいました。むろん流儀にはいろいろあっていい。そういうことでいえば、練磨の果てにせよ、リズムがくっきり現れたものが、再読の誘惑をもつ、という単純事実だけを指摘すれば済むのかもしれません。



―― 先生は詩をすごく早く書く、とよく話題になりますね。



阿部


はい(笑)。というか、僕は雑誌コラムでも評論でもメール文でもブログ文でも、書くのがすごく早いですよ。ガッガッガッガッという身体リズムがある。キーボードを打つというより引っ掻くような音が自分の躯のなかにあらかじめ鳴っている。その打刻や摩擦の音に、言葉が次々とからげられだし、それが見る見る連接して、文章ができあがってしまうのです。下品な書き方、といえるかもしれません(笑)。


随分と仕事で文章を書いているから、書き出す前に、自分の書こうとするものの過半はみえています。ただ、指の踏み外しというか、フッと書いてしまったことのほうが、その文中では抵抗圧になったり命になったりしている意識もある。リズムを鳴らしながら、フレキシビリティへもってゆく、というのが、自分の中ではコツになっているかもしれません。まあ、一種、集中を要求される作業ではあります。


これを、事前認知をほぼゼロにして、それ自体の「運び」だけで自己組織を完成させるのが、僕にとっての詩作です。


とうぜん、「想起」という問題がそこに舞いこんできます。論理ではなく想起で詩行を運んでゆくことを、僕自身は「弱い」ことだと考えています。『僕はこんな日常や感情でできています』での保坂和志の書評記事にも書いたことですが、「想起」の痕跡が認められる瞬間に、その詩篇や文章が個人性の枠組で書かれた証拠が露出する。ただ、そうした「弱さ」も詩には必要なのではないか。


「私」を「想起」によって詩に登場させてもいい、とおもうようになりました。ただ書かれる「私」は、自分にとって既知ではなく、未知の「私」です。それだからこそ、自分の詩を、他者性の何かが介在したものとしてスリリングに再読ができる。そうして詩はその作者と契約を結ぶのだし、詩特有の「それ自体」と「それ以外」を同時にふくむ修辞は、かならず有形無形に「思考」自体の更新へと飛躍的な変化を遂げる。だから詩作は実利的に有効なのです。


「私」が自分にとって自明でないのはなぜか。それは「私」が複数だからです。それで、ひとつの「私」の影に別の「私」が隠されている事態が生じている。詩は、とりわけそうして隠れている「私」を書くのだとおもう。



―― 詩は「私」を書くにふさわしい文学形式だということですね。



阿部


そういえるとおもいます。ただし、そのことだけをいうと語弊の生じる惧れがあります。詩のもっと大きい権能は、「文」を切断的に変える契機をふくんでいることです。


たとえば、こういってみましょう――「想起」でひきずりだされてくるものは、そのおおむねが「文」の単位です。ただ、この場合の「文」は詩にとっての敵対要素。だからそれは自然、足りなかったり、ひしゃげたものになろうとする。そうした畸形的な「不足文」を単位として詩に喚起し、それらを切り貼り・コラージュのように自己組織してゆくのが僕の詩作の特徴かもしれません。


そのいびつな文をつなげてゆく接着剤のようなものが「助詞」です。この助詞の用例こそが発明されなければならない。助詞に負荷をかけて、助詞を変成させるのです。それで詩的な混乱状態が導きだされる。


その意味で、僕は詩篇を読み、そのなかの「詩語」に惹かれる度合が少ないのかもしれません。それに「荒地」から出発した現代詩の場合、詩語が極度に偏向している。それよりも言葉の壊れた状態に目覚め、とりわけ、助詞の逸脱に動悸する、というほうが僕には多かった。僕の現在の連詩仲間に若手女性詩人の注目株、杉本真維子さんがいますが、彼女の新しい詩集『袖口の動物』でいちばん驚嘆したのも助詞の新規な用例でした。


いっぽうで僕は「リズム的思考」というのを信じているのです。実際に、精神療法にも活用されていると聞きます。音楽療法というのもあるでしょう。音楽療法ということで憶いだしましたが、あなたは自分の音楽活動が立ち行かないようなら、「音楽療法士」の資格を取りたい、と一時期語っていましたね。



―― はい。



阿部


そのあなたの曲の作詞を僕は30曲以上していて、あなたはそれをアルバムに収録したりライヴでも披露していますが、大体の曲づくりの手順は以下のようになります。充分ご存知のあなたにいうのはヘンですが、読者のためにいいます(笑)。


あなたがコードストロークなどギターの伴奏をつけ、歌メロを「ラララ」音の連鎖で唄い、それをCDに録音してくる。僕はまず、音数を○○○…で転記し、あとはその「ラララ」を繰り返し聴く。すると5分くらいして、まさにその「ラララ」に、これしかない、という歌詞が実際に聴こえだすのです。それでやおら〇〇〇…を埋め始める。ここまでが勝負。あとはABCメロが組み込まれた複雑な構造であっても一番がスルスルとできてしまい、すると二番もその対照性か物語展開を考えることでできてしまう。最後に自分の嵌めた歌詞を「ラララ」音源を聴きながら眼で追って、唄いにくいところのチェックなど微調整をおこなうだけです。


このときの自分の作詞原理とは一体何なのか。やはりまずは「リズム」によって言葉が虚空から吸着されてくる、ということです。同時に、メロディやコードの表情というものも考慮されている。それに従順にしたがうか、対位法的組織をおこなうかはそれぞれですが、適切な言葉、というものが必ず出てくる。律動性・旋律性が言葉を確定させてしまうのですね。僕はこの作業も異常に速い。つくりかけのまま放置、ということも一切ありません。



―― 文章とリズムの相関を考えることが、歌詞・詩のリズムを考えることにつながったということですね。



阿部


そうです。そのときパソコンを購入したことがすごく大きかった。いろいろな相手にたとえばメールを打つ。この作業を日常でつづけてゆくと、リズム意識が躯に昂進して、昂進のまま蓄積し、いわば余剰が出てくるのです。それでしょうがなくなって詩が生まれてくる。あるいはメール文そのものが詩の断片のようなものへと変化してゆく。というのも、詩文のほうが通常文よりも圧縮的、かつ音楽的で面白く、より少ない字数で相手の心をさらうことができるから。だからサーヴィス精神を向上させてゆくと、自然、メール文に詩が混ざってくるのですね。そのときの僕は、不自由な意識を感じることなく、行分け詩を打っていました。


ただ、それだけでは達成感が不足する。それで、一年か半年に一回くらい、一念発起して、詩のリズムを書き下ろし詩集のかたちで放出させました。いずれも数日間の作業です。そうして『あすは濃からぬ者に…』『壊滅的な私とは誰か』『悲歌の生垣』などをまとめてゆきました。それらは僕のサイトに未刊詩集としてアップされています。『あすは』だけが制作条件が少し異なるかもしれません。これは学生時代に書いた詩を再利用しつつ確定してしまおうという動機もあったからです。



―― これらの未刊詩集を『昨日知った、あらゆる声で』のように実際に刊行しようと動かなかったのはなぜですか。



阿部


ひとつはおカネがなかった(笑)。もうひとつは自分のオリジナリティへの不信から、完全な不特定多数へ自分の詩をさらけだすのを拒んだんだとおもいます。


実は、『あすは』の原稿をまとめる前に、福間健二さんにそのころ書き溜めていた詩をみてもらったことがあるんですね。福間さんはエロチックで面白いけど、瀬尾育生さんにも見てもらう、というふうに動いて、結局、瀬尾、福間、阿部で飲んだことがありました。瀬尾さんは、言葉をもっと削ったほうがいい、「68年詩」に似ている、等々の意見で、その意見には僕自身は違う、といいたい気もすこしあったけど、いずれにせよ、自分の詩が読者を魅了しきるものではないのだなとおもいました。福間さんは詩集を出すのは必ずおカネがかかる、ただ「阿部君のヴァリューなら思潮社でも詩集刊行が可能だろう」と予想してくれましたが、当時の僕はヒモの身で、出来に自信を完全にもっている詩集以外は出す気がしませんでした。


ただ、その前に、一種、詩集めいたものを僕はすでに刊行していました。『AV原論』がそれです。分かち書きに近いような改行が「本文」でところどころになされ、全体の「本文」も、散文詩的な印象をもたれるだろうなとはおもっていました。これは書名どおり、アダルト・ヴィデオを男の欲望の側から属性分けをして、それら諸点を章分けして、原理的に考察したものです。僕は、画像に現れる女の実体ではなく空隙が欲望の対象になっていて、必然的にその中和的な女の現れがメランコリーを組成し、それが利用者のメランコリーへと反射されてゆくという論旨を展開した。


しかも扱われたAVモデルたちは、80年代後半の黄金期における複数をいわば非人称的に抽象化したものでした。本を書いた時点で90年代後半になっていたので、対象は実在ではなく喪失性そのものだったのです。ところが、いくらそのような論旨・対象であっても、やはり扱われている事柄が生臭い。それを消すため、僕は自分の単行本にあっては例外的に詩的な文章で自分の記述を組織しなければならなかった。空隙だらけで流麗感に富む、ある程度難解であっても他人に愛される文章になったとおもいます。


あの本は関西学院大学出版会という版元、つまり大学出版でした。しかも立ち上がったばかりだった。営業基盤が脆弱なので、本はあまり売れなかった。だから自分の詩的文章がどの程度、評価を得たのか、わからなかった面がつよい。ただし亡くなった映画評論家の石原郁子さんがその美しさを絶賛してくれた。ドイツ文学・メランコリー研究の武村知子さんも、あの本の「本文-解説」の構造を木霊の関係と見抜いてくださり、本が緻密な論理で書かれたものである点を明かしてくれた。アダルト・ヴィデオにたいする欲望を描いた本だったのに、女性のかたが褒めてくれたのがとても嬉しかったんですけど。


ともあれ、詩大陸に接岸してようとしては逡巡、果ては別の海域に航海に出てしまうということを繰り返しながら、メールを打つうちに詩を書きたくなる衝動がつよまっていったというのが、二年ほど前の僕の姿だったといえるのではないでしょうか。



―― 「二年ほど前」といえば、先生がmixiを開始された時期。そこからまた、先生の詩への考え方が変化する、ということですか。



阿部


実際、mixiをやりだす前にいろいろ段階的な変化がありました。まずは勤めていた立教大学で少人数の演習授業を任されるようになった。要請としてはクリエイティヴ・ライティングの講座を、ということだったとおもうのですけれども、最初、ライター講座をやってみて、即座にそれが詩の創作講座に変化していった。そちらのほうが面白かったからです。少ない字数で受講者の資質がわかる。技術論ではなく魂の論議ができる。しかも集まったものを一堂に納め、コラボレーションとしてもまとめやすい。言葉そのものの面白さを相互観賞するとエロチックな授業にもなる。それで僕は福間健二さんや、映画監督の瀬々敬久なども巻き込み、詩の各行アタマを「あいうえお・・」と頭韻のかたちで流してゆく「あいうえお唄」の共同創作を、武村さんの文章の一節からまず考えた。これが僕の「改行コンプレックス」を決定的に除去するものとなったとおもいます。


それから早稲田二文の大教室授業で、「Jポップをアーティスト別にインディもふくめて考える」「60年代~70年代のロック・ジャイアンツを考察する」という講義もやりはじめた。このとき日本語・英語の歌詞を真剣に考えたのも大きかった。あなたなどとも知り合いになり、その歌詞づくりに手を染めだした。これもコラボレーションというものに、一種のユートピックな魅力を感じていたことが背景にあったとおもう。


それであなたにつよくいわれ、mixiをやりだした。自分の好きなジャンルの文章をmixiでは書けるという嬉しさもありましたが、「書き込み」がユートピックなコラボレーションとして機能している点が僕にはとりわけ魅力と映ったかもしれません。ただ、最初のうちは詩篇そのものをアップすることはあまりなかった。ただ小池昌代さんと同時に立教で特任教授に昇進し、研究室を折半するようになって、詩的な環境が当時、徐々に整備されつつあった。それまでの僕は一介の映画評論家としての活動に限定されていて、出会う詩人も、詩人にして映画評を書くひとだけ――つまり稲川さんや福間さんに、ほぼ付き合いが限られていたのです。


それよりも学生とコラボレーションをすることに魅力を感じていたかもしれない。詩的達成という点では、立教の学生だった明道聡子さんとおこなった連詩、『木霊する場所で』が最も大きかったかもしれませんね。


mixiで詩を書くようになったのは、久谷雉くんという若手詩人とマイミクになったのがきっかけのひとつだったかもしれない。その前、僕は杉本真維子の朝日新聞に発表された詩篇について絶賛記事を書いていて、それで久谷くんが僕にマイミクを申請してきたのだとおもう。むろん久谷くんは映画評論家としての僕も認知していた。その久谷くんが司会をした女性詩人の朗読会にあなたと出席し、一挙に僕は数多くの詩人とまず知り合いになる。当該の杉本真維子さん、その年、「詩手帖」で詩書月評をやっていた森川雅美さん…


自分の詩をよく読んでくれる人が周囲にできた、ということで、僕はmixiで休筆宣言をしていた時期に、例外的に詩篇を発表していった。



―― それらがのち、『昨日知った、あらゆる声で』に収録される詩篇ですね。



阿部


はい。森川さんほか、限定されたマイミクが僕の詩篇アップを応援してくれました。これが精神的には大きかったのかもしれませんね。



―― このころの詩篇は、以前の自作と較べ、どのような変化があったと自覚されていますか。



阿部


その前、前言した明道さんとの連詩の作成で自分のなかの何かが弾けた、という気がありました。すごく自由に詩が書けだしたという自覚。まず、「聯」の意識によって、書こうとした詩世界を分割し、分割を配剤することで複雑な効果がもたらされるという方法確認をしたのです。それは詩に自分の日常を盛り込むという約束から生じた付帯効果でした。それで詩が多様な単位の細部によってコラージュされるのだけど、一方、一行一行の流れには、流麗感や可読性がほしい。それがすごく自在にできるようになったのです。福間健二さんが『詩は生きている』で扱った詩人、とりわけ西中行久さんの影響も大きく、そこからは瀬尾さんが以前に指摘された「切断」ということがすでに学ばれていた。


自分ながら得心したのは、詩の細部をコラージュにしつつ全体を「流す」という感覚のなかで、その細部の詩想は以前に体験した短詩系文学の「塊」ではなく「詩想のほぐし」のようなかたちで再出現をみる、ということでした。書いてみて気づく――たとえば自分にとって岡井隆さんの影響がこれほど大きかったのかと。短詩系発想を「最小核」にして、詩篇のなかに配備することで、詩行が自在な運びへともちこめる。喩といってもいいのだけど、詩のディテールの連絡も自由に組織できる、と気づき、西脇順三郎の詩法に近づけたような気がしました。むろん西脇には音韻という、さらなる検討事項もあるのですが。


僕の代表的な北野武論のひとつに、『日本映画は存在する』に収録されている「鬱王の長旅」という文章があります。この「鬱王」が何かの詩的出典をもっていることを、この原稿を執筆した当時の僕はまったく失念していました。実は影響元は僕が尊敬してやまない現代俳句の赤尾兜子の代表句だったのです。《大雷雨鬱王と合ふあさの夢》。どうです、すごい句でしょう。「鬱王」は赤尾兜子の造語として、現代俳句界では広く認知されているとおもいますが、僕はまったく失念していて、自注を忘れました。このように記憶力の悪い僕ですが、短詩型文学の「核」は、ロラン・バルトのいうプンクトゥムのように全身にちくちくと溶けこんでいるのです。


実はあなたの歌の歌詞の制作でも同じ原理が働いている。この場合の影響元は和洋の歌詞も多い。映画なんかもあるけど。ただしこちらのほうは「歌詞」なので、可聴性の判断という別次元も動いている。だから一見すると気づかれにくいのだけど、自分としては詩作と作詞に弁別をもうけているつもりがないのです。


このような前段階があって、07年の冬から春にかけ、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を間歇的にmixiへアップしてゆきました。喩を解いてゆくとかなり複雑な次第となるとはおもうのですが、相変わらず、躯のリズムを動力にしての速書きです。



―― 森川さんは批評用語までふくめた硬い漢語が駆使されているのに、詩の文脈が柔らかくて新鮮、ということをおっしゃってましたね。



阿部


森川さんはいい意味での詩壇的感性をもっているかただから、いまの詩壇詩にないものにするどく反応したのだとおもいます。僕の漢字は、いかめしさを演出するためではなく、漢字の字意を露出しながら、世界を空間的に圧縮する道具としてつかわれています。漢字を多用する気分のときと、漢字を忌避する気分のときが、割合単純に、交互に来る、という自覚ももっています。そしてそれが、自分が同じような詩を量産しないための歯止めともなっている。だから漢字使用がすごい、と褒められると、少し面映い感覚もありました。


それよりも詩行を書く速度によって、詩行同士がスパークしながら、詩行そのものはその連絡が単純な加算性に負っていない、その点で連句が参照されている、というのが指摘として大切ではないかとおもいます。付け句のような詩行加算、向かい句のような詩行加算、見立て替え、飛躍・・・これらはたぶん、膠着的に書いていると出てこない詩的着眼で、それが漢語の負荷の高い使用と相俟ったとき、語的飛躍・行的飛躍だけが印象されて、僕の詩が60年代詩や70年代詩と似ているという、印象が書き込み欄に飛び交ったのだとおもいます。


ただたとえば「68年詩」なら言葉は変革の熱い道具として過信されていて、だから詩的沸騰を自明に正、と捉える趣があったとおもう。それで、「飛躍」も語的信頼の硬い枠組に守られていた。僕は、ちがう。飛躍をしているつもりがないのです。僕がやっていることは「運び」。それで、僕は最終行をどう書くか、どう書かれ(てしまう)か、ということに詩作時の神経をひたすら集中させていた。


それと森川さんが見抜けなかったのは、前言したように、詩行細部の核に「短詩系発想」の粟立ちがあるということです。それが詩行全体をもちあげて駆動させていた。そして各フレーズは時空を挟んで連動し、その連動の内部分割がなおかつ、詩の流れ行く肉体をつくりあげていたということです。『もののけ姫』のデイダラボッチのような詩的身体。その最もプリミティヴなかたちが明道さんとの連詩『木霊する場所で』にあったので、そこへの注意を喚起すればよかったのかもしれません。


もう一個、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を特徴づけるのは、幾何学形への志向だとおもいます。大した幾何学形ではありませんが、聯の行数を揃え、行アキで聯を連鎖してゆくという方法をすべてとりました。これは横組で頁概念なし、ただ下へスクロールされてゆくだけのmixi画面の特性を考えてのことでした。「記憶単位」をそのようにしてつくることで、愛唱性をもたらそうともしたのです。ただ僕は、愛唱性を大事だとはおもうけれども、それを詩の第一義として単純に考えることはありません。僕は、石田瑞穂の詩だって、藤原安紀子の詩だって、大好きなのです。


あと、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇では自分の感情的な定位が以前の詩とはまったく別物となりました。中年になって、老いの自覚が出てきたこと、「幼年回想」などを普遍的行為としてもいいこと――これらの年齢的「保証」は、詩を書くいとなみをすごく楽なもの、同時に甘美なものにしたのです。若年に書いていた詩のように、限定一者として詩を書く気負いなどとうに消え、多数者のうちの一人として自分の「当たり前」を詩に変容できるようにもなった。これが詩に余計な荷を負わさない歯止めとなっていたとおもいます。


詩大陸への帰還は、勝者がすることなのか、敗者がすることなのか。若い詩的才能が自己にたいする勝者として詩を書き始めるというのが、詩のすべての大前提です。とするなら――僕のような年齢の者が曲折あって詩作を再開するというのは、「弱さ」から来た営為以外の、何ものでもない。ところがその「弱さ」こそが共有されなければならない。それはmixiの媒体特質にも見合ったことでした。だから僕の今度の詩集は、完全にネット詩集、ブログ詩集として遇されてよい――そのように自覚しているんですよ。



―― 先生はやがて、そのようにしてmixiに発表された詩篇を編まれて、それを小池昌代さんにお見せになる。



阿部


面白いよ、これー、詩集としてぜひ出しなよー、といわれました。ただし、長すぎる詩篇もある、収録詩篇数も多い、と指摘を受け、一日で僕は直してしまった。小池さんの指示どおりに直したのです。ズバッと切った。「全体を七割にしたほうがいい」「要らない」「ほぼこの長さでいい」というように小池さんが感覚でいった言葉をすべてメモしていて、そのとおりに切ったのです。小池さんは読者の間口の広いひとだから、そのひとの感覚にすべて従ったら自分の読者が増えるという気持もありました。ただそれよりもむろん、小池さんの視界が澄んでいる点を信頼していた。そうしたら吃驚しました。小池さんのいう比率どおり詩篇に無駄があった。だから一日で簡単に切れてしまったのです。なんと勘のいいひとだろう、とおもいました。


むろん、このように後ろ髪を引かれることもなく自分の詩篇を切れたのは、さきほどいった自分の詩篇に滲み出ている「弱さ」に関連しています。自立性がもともと弱いということでもある。だから余分な手足がスパスパ切れる。切ってみると、たとえば詩が歪形になるかもしれない。なったって、それが弱さの美しさにつながってゆく。ともあれ小池さんの助言に従ったことで、詩集は五割がた、魅力が上昇したという気が僕にはあり、大変に感謝しているのです。



―― さきほど「連詩」の話が出ましたが、先生は森川雅美さんと「共謀」なさって、小池昌代さん、杉本真維子さん、久谷雉さん、黒瀬珂瀾さんから、末席に明道さんやわたしまでふくめた総勢12人のネット連詩を構想なさる。それは詩の共同性を考えてのことですね。同時に、それと平行するようにして、同じ運びの規則による一人連詩『大玉』の連載を、さらには一篇十行でひとつの動詞の実体に迫るという規則をもつ16章(一章の詩が同音の五動詞で構成されている)80篇の連作『動詩』を、それぞれ完成なさる。



阿部


連詩の法則は明道聡子さんとやった『木霊する場所で』と同じですね。現実を盛り込む、前詩の語句やフレーズを部分的に反復して受け、前詩の発想をズラす、行アキをふくまず数えて、トータル30行を厳守する、というもの。ただ、『大玉』『動詩』の詳しい話は別の機会に、ということにしましょう。


mixi上での詩作者との付き合いでとくにいっておきたいのが、廿楽順治さん、田中宏輔さんのことです。廿楽さんは、12人連詩のメンバー松本秀文くんが同人所属誌『ウルトラ』を送ってきてくれて初めて知りました。本当に不勉強だった。その後、連詩の会合のとき、この廿楽順治というのはすごい才能だ、と僕がふと褒めた。そしたら同席していた久谷くんが「改行屋廿楽商店」のハンドルネームでmixiをやってますよ、という。調べてみると、もう僕のmixiにその名前の「あしあと」が付いている。即座にマイミク申請しました。


廿楽さんは僕より二つ下だからほぼ同世代といっていい。マイナーポエットに親しむ感性が素晴らしい。廿楽さんは当時、自作の詩と一緒に、自分が昔感銘を受けた詩篇を転記打ちして、そこに若干の解説を加えるという連載をmixiでしていて、僕は中心的な詩壇ばかりに眼が行っていた自分の不明を恥じることになった。たとえば貞久秀紀さんとか広部英一さんとかを廿楽さんはフィーチュアした。女性詩人でも川田絢音さんや日和聡子さんなど、僕が読まずにきた書き手に言及していた。廿楽さん自身は松下育男さんをリスペクトして貞久さんに限りない畏怖を覚えるという独特のポジションで、松下・貞久のもつ怖いような人世哲学のうえに、独特のやくざな改行を駆使する、一見「小さな」――そのくせ「深く怖い」詩を書く。僕は廿楽さんの紹介する詩篇に耳目を開かれ、同時に廿楽さん自身の詩にも圧倒されて、励まされるようなかたちで『大玉』を書き進めていきました。こういう出会いによって、mixiがその最良の部分では詩に開放されているという感慨を得ることになります。この廿楽さん一人との出会いによって、さらに飛躍的に詩作者との付き合いが広がってもゆきました。


もうひとりの田中宏輔さんは僕の三つ下ですけど、『みんなきみのことが好きだった。』『Forest。』の二詩集で僕がずっとその学識と自在な精神と、詩の構築力に畏怖していたひとです。あしあとをつけてくれてマイミクになりました。彼の書く日記がまた独特で、面白く、廿楽さん同様によく書き込みをしていた。瞬時の記述に、哲学的スパークがあって、何かを書かされてしまうのです。そして彼とは「空間」についての考えをやりとりすることになり、いつの間にか僕の『大玉』に廿楽さん同様、「登場」してしまう。それで『大玉』完成の暁には、宏輔さんが全36篇を、一篇ごとに解説する連載を敢行し、それを完成させてしまった。


ともあれ、mixi上での現在の詩作者たちとの付き合いを語りだすとキリがなくなるのだけど、mixiが詩のホットポイントになっているのは確かです。ネット詩無視という詩壇の悪弊は、自己の権益を守るためのものにすぎないのは自明でしょうけど、それはもうこうした勢いにより、足許から崩れ始めているのです。



―― 先生は貞久秀紀さんの詩篇「夢」(『空気集め』所収)を俎上にして、廿楽さんたちと改行原則の議論を展開なさいましたね。あれもすごく印象に残っています。



阿部


そう、それで最初の話題に戻ることができます(笑)。そのとき交わした議論の結論だけをいうと、改行原則とは、「呼吸=身体性の顕現」「景の転換」「反復」「多様性」「空間性の確定」「サーヴィス」などから複合的につくられるものだということです。とりわけ改行によって、リズムがはっきりと現れ、そのリズムが読者の躯に打ち込まれる。だからそれは最大の同調材料というか同調箇所なのです。そこに「語調」が登場する。


それに僕はたぶん連句原則を考えている。自由律無季俳句のような詩行が、連句の付け合いのように並んでゆくようなもの。僕の詩の改行でいうと、その傾向は『昨日知った、あらゆる声で』と『大玉』にとくにつよいですね。


最近、現代詩の「改行」を無意識の産物と糾弾する風潮が起こっていますが、とんでもない誤りです。「改行」にずっと懐疑を覚えていて、ようやく改行の呼吸を体感したこの僕がいうのだから、間違いありません(笑)。口語自由詩は改行こそがポイントなのです。次が「助詞」。それらが実はリズムと脱臼にみちた世界観をつくりあげる。ともあれ自分で納得のゆく改行が可能になって、僕も詩集を公にすることができるようになった――そう換言してもいいです。


僕も廿楽さんと同様、「改行の達人」になりたいとはおもう。あのひとの改行には殺気がある。それとあのひとの詩は各行が多様性によって組織されていて、それが行末語尾の口語助詞の展覧にも現れてくる。ただ、「聯」を廿楽さんは使わない。いっぽう僕の詩の本質はきっと「弱さ」だとおもいます。廿楽さんと同じオヤジ詩、人世派だろうけども。で、僕の改行のおおむねには「唄う」意識がよりつよいかもしれない。まあ、僕の大切な出自のひとつが音楽だから、そうなるのでしょうね。

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