▼インタビュー

三村京子と新盤ができるまで

三村京子と新盤ができるまで



【解題】
さきにこのサイトに、新譜『東京では少女歌手なんて』発売を機にした、僕の三村京子に関するインタビューをアップしたが、同じく大中真慶くんのおこなった三村京子へのインタビューも関連でアップしておこう。そうおもったのも、臨席者の僕が、三村さん以上に喋っている気がするので(笑)。この二つのインタビューを総合してもらえれば、三村さんのこれまでや曲共作の全貌が完全につかめるともおもいます。
(阿部嘉昭)





三村京子と新盤ができるまで
――三村京子インタビュー


(聴き手:大中真慶)
(同席者:阿部嘉昭)




***(1)***




――最近はどんな音楽を聴いているんですか?


三村京子(以下、三村)


クラシックのセゴビアのベスト版とか、この間買った(三輪)二郎さんのアルバムとか。あと昨日、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビック・ピンク』を改めて聴いて、そしたらまた違って聴こえました。



――ザ・バンドはどう違って聴こえたんですか?



三村


歌詞の読み方が変わってきてますね。



――それは音楽活動をして、アルバムを作ってってこともあってでしょうか?



三村


そうですね。



――えっと、音楽を始めたきっかけってなんだったんでしょうか?



阿部嘉昭(以下、阿部)


なんでそうやって質問が飛ぶんだ(笑)。ザ・バンドのこともっと訊けばいいじゃん。要するにそれはメロディに盛り込まれてゆく、意味(情報)の「速度と展開」を把握したってことでしょ? 例えば「ザ・ウェイト」だったら、とても情報が濃いけども、やはりちゃんと歌になってる。聴き手に分裂的に迫って来る。逆に「ロンサム・スージー」みたいに単純な愛の言葉だけで、しかも「君の味方だよ」っていってるのに、悲しい歌にしか聴こえないみたいな美しい逆説もある。あるいは「怒りの涙」みたいに、あれほどの隠喩を使っても感情が一本通っているから歌として通じる、みたいな。


つまり、一つの歌メロに対して言葉がどう乗るかってことを分かったっていうのは、自分が歌を歌っている時に同じことしたからじゃないの? ザ・バンドはねえ、僕よく鼻歌で歌ってる。あの感覚って独特なんだよね。すごい好きだよ。ああいうのは日本語で出来んの?



三村


アナログフィッシュとかは近いんじゃないですか。坂本慎太郎の場合はサイケっぽい感じに偏るけど、やはり実現していると思います。



(沈黙)



――セゴビアを聴いているのは、クラシック・ギター奏法のため、このアルバムでいったら「孤りの炎」とか、ああいうクラシック調の曲を今後も作るつもりなんですか?



三村


そうですね。アコギでライヴをしていかないといけない期間が当面続くんであれば、曲に変化をつけるためにバリエーション増やしたいとは思ってます。



阿部


ストロークの曲とアルペジオの曲、あるいはクラシック系の綾がある曲、ラグタイム調の曲というバリエーションがあるとして、その中でストロークを嫌ってます?



三村


嫌ってますね。それは逃げ道がないというか、歌だけが出てしまう。そうすると存在感だけの勝負になるから、特にライヴで一人の場合は。それは若ければ若いほど楽だったけど。



阿部


でも普通の日本のフォーク・シンガーとはコード進行が全然違うよ。



三村


そうですけど。ただこれからストロークでも良いメロディとコード進行に重点を置いて作っていったほうが後々のために良いのだろうか、ということは考えますね。バンドを組むならそうしたほうが良いのだろうけど。



阿部


ストロークで割と単純なコードで歌った場合には、歌詞が不規則に乗せられる。今度のアルバムだと「もうじきあんたは1人で立てるはずだ」とか。その時に三村さんなら、作曲に綾がないと思って、転調部分を作る。あのアプローチは鋭いと思うよ。冒頭だけ聴くと友部正人調だけど、転調部分で「違う」ってなって、聴き手にも衝撃が走る。自分が二段ロケットだということだよね。



三村


でも表立って纏っているのが、アコギでフォーキーで緩いというイメージになってしまう。



阿部


いや、アコギでもフォーキーにならない曲はいくらでもあるよ。ディランの『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』ならロックビートを内包してるアコギとか。「マイ・バック・ページズ」はやっぱりみながびびったと思う。でも日本でそれをやっちゃうとゆずになってしまうんだけどさ(笑)。


ただしディランの歌として完成されているのはビートのないストロークの方でしょう。『時代は変わる』の「悲しい別れ」なんかは何度も聴ける。僕は三村さんに「悲しい別れ」みたいな曲を歌ってほしいと思うけどな。



――ちょっと単純な質問に戻るんですけど、どういう方法で作曲をしてるんですか?



三村


一番曲を量産したのは07年初頭に「ポップな曲を作ろう」とした時で、「だれだれ風」と特定のミュージシャンをイメージして、その人が作りそうな曲をその人になって作る、ということをしてました。



阿部


「なって作る」んだけど、独自のフィルターがかかってて、「エイミー・マン風」って本人が解説してても、元歌とは全然似てないんだよね(笑)。この人は模倣をしようとしても、模倣ができない宿命がある。それは実は恵まれてることなんだよね。



三村


たしかに、似ないだろうな、と自分でも思ってやってますね(笑)。




***(2)***


――曲を作る時に、どのような感じにしたいとかの、曲が向かう理想ってありますか。



三村


それはその時その時で違いますね。その07年の初めの作曲は、フォーキーな曲作りを脱却して、私の聴いていたJポップの材料を使って脱「3コード」をやろうとしたら、あのようなロック・ポップ調のものになったっていう。



阿部


ある全体イメージがあって、そこに向けて曲って作れるものなの? コード全体の印象やメロディの感情全体に向けて、とか?



三村


そうですね、結果的には作れましたね。十全ではないかもしれませんが。



阿部


でもギターの人に多いように、ギターをいじくるっていくうちに、「ああこの感じ」って曲が出来てくることもあるんじゃない?



三村 


はい。07年後半に作った10曲くらいは確かにそういう作りかたでした。阿部先生にトッド・ラングレン的に難しくなっているといわれたんですけど。あれらは手癖で作りましたね。そしたら「曲の要素が多すぎる」って指摘されて。それで例えばメロディがDメロまであるとしたら、そのBやCを削るようにしたんです。そうすると作った時は私の中で繋がっていた(ABCDの)流れが、AとDでくっついて曲に飛躍が起こる。去年の末に歌った「春が来た」とかはそういう流れで完成したんですよ。でも曲の分裂感が強い。先生も分裂的な歌詞をつけた。やっぱり07年の初めに作った曲の方がきれいに曲が流れている、メロディが滑らかに展開している、とは思う。



阿部


「みんなを、屋根に。」という途轍もない名曲もあるけどね。



――メロディはどのように作っていくのですか? コードを鳴らしながら、浮かんでくるんですか?



三村


いや、メロディを作る時は、まず先にメロディが浮かんで、そのメロディを裏打ちするコードを探すんです。でも阿部先生に言わせると、私のつけていくコードは普通の感覚からいったらずれてるみたいで。たとえば先生がある歌メロに対して、伴奏を付けていると、私はよく「私の感覚とは違うな」と思う。それは先生の影響をうけた時代と私の受けたJポップの影響の違いかな、と思いますね。



――具体的に影響を受けた音楽ってなんだったんですか?



三村


やっぱりJポップです。これは環境化してたからしょうがなかった。聴いていたし、YAMAHAの人[※注:三村はYAMAHAのティーンズイベントで入賞して、以後YAMAHAの関係者に曲を送っていた)に対してもJポップを意識した曲を送らなきゃならなくて、実際にいっぱい作っていたし、あとJポップのウタ本をみて好きな歌のコードを追って、ギターで歌ってましたね。UAとかもその時弾いていた。それでニール・ヤングを聴かずともニール・ヤング的なコード進行が身に付いていたのかもしれません。



――ロック・バンドを結成したこともあるんですよね。この時はロックンロール調の曲だったんですか?



三村


いやそれは曲作りというよりも、ライヴ馴れ、攻撃性をもってライヴをする訓練だった気がする。自分の曲も3曲くらいだったし、似非ミッシェル・ガン・エレファントみたいな曲をやってました(笑)。私はハンド・マイクで。若い女の子がハーレー・ダウィットソンに乗る歌ですよ(笑)。パンクになりきれてない、、



阿部


「ロケンロール」だった?(笑)



三村


そう、「ロケンロール」ですね(笑)。



――えっと、ではプロフィールによると、それからだんだんフォーク・ミュージック、三村さんが「いい歌」と思えるものに傾倒していったとあるんですが。



三村


複合的な要因がありました。一つはデジタルなものよりも肌触りのある音楽を聴くようになった。デジタルなものじゃなければ良かった。だからブランキーも好きだったし。アコースティックとも言えないんですけど、あれも音を加工してない。そういうものの延長にフォークミュージックがあったのかな。


あと私は協調性がなかったので、バンドも続かず一人になってしまった。それで一人で出来る音楽が弾き語りだと思ったんです。その時はアコギでJポップ調のコードの曲を歌ってましたね。



阿部


その頃の曲ってあるの?



三村


それが「僕は嘘が嫌いさ」[※原曲「you」、その歌詞を直したものが「僕は嘘が嫌いさ」]なんかですよ。その当時は「you」の歌詞で歌ってました。



――その頃って歌詞をどう捉えてたんですか? メロディを先に作ってから、歌詞を作ってたんですか?



三村


いや、歌詞が先でしたね。でも歌詞単体では考えてなかった。こういう感じの曲にしようと歌詞を書いて、歌詞が呼び寄せる音感みたいなのからメロディを作っていったのかな。



阿部


「僕は嘘が嫌いさ」の元の歌詞の部分を聴くと、歌メロと歌詞が同時に出てるような気がする。



三村


そうですね。そういうものが理想でした。



阿部


でもJポップの影響からか、かなりコードの地盤に対して歌メロの音数が不規則になってる。それなのに歌詞が付いちゃってる。その歌が三村さんの肉体じゃないと歌えない、という所がある。あれも独特の身体的なフィルターが入ってて、他の人の歌唱を拒絶する歌なんだよね。今度のアルバム収録曲だと「百億回の愛」なんかもそうで、不規則すぎて他人には歌えない。小節の切れるべき場所で切れてなかったりする。やっぱり、そういうのはJポップの影響を受けて、三村さんのなかに育まれた傾向だと思う。



三村


変なミーイズムというか、自分の世界に生きてたんだと思います。



阿部


この話はそういうとこには落ちないでしょ(笑)。ダウナーになるなって(笑)




***(3)***


――その頃の歌詞っていうのは何かテーマとかはありました?



三村


それは自分の好きな音楽があって、その好きな部分のように自分も表現したかったんです。



阿部 


自分の好きな音楽を自分もやりたかったってことだね。ただ「you」でも、三村さんの住んでるマンションの住居空間がはっきりみえる。ベランダに立って外を見下ろしてるような。自分の日常感覚を基盤にして、そこに感情を盛り込もうとしていたんだと思う。ただ、まだ技術が稚拙だから、それがうまく出来なかった。詩的な飛躍もない、ということで歌詞が終わっていたんだろうね。歌詞をカード見なければ、歌の中で歌詞がなんとなく聴けてしまうんだけど、やっぱり(歌詞の)一行の独立性が弱い。


でも「you」は曲のつくりが違うから、後の『三毛猫』に入ったようなフォーク調の曲とも、歌詞のありようが違っている。



三村


むしろ『三毛猫』が特殊だったんだと思います。あれは「Hello, west orange」と「雨の日」以外はライヴでやったこともないし、アルバムのために作った、歌詞も覚えていない曲だったから。



阿部


惜しいと思う曲もあるよ、「ZAZEN BOY SONG」とか。あれなんかちょっと歌詞を直してレゲエ・アレンジにして、みんなでわいのわいの歌ったりとかしたら「決まる」んじゃないかな。こないだ聴き直したら、そういう風にちょっと直したら、成立しそうな曲がいくつかあるとは思った。ただ「Hello, west orange」は自分の見聞に基づいてて、アメリカの空間の中を彷徨ってる三村さんがいて、場所・場所で飛び出して来る固有名詞をそのまんま歌詞に組み込んでいるから、全体が肉体化されてるんだよね。「雨の日」は、僕は買わないけど。



――「Hello, west orange」はどのように作ったんですか?



三村


あのときはルー・リードの「ワイルドサイドを歩け」みたいな曲を作りたいと思って。友部正人への意識もあった。あと、ギター一本で弾けるディラン、という狙いもあったかな。



阿部


あれは日本語で歌われてるトーキング・ブルース調の曲では、相当良いほうだよ。



三村


ありがとうございます(笑)。



阿部


ただ(歌詞中で)「天気がいいのよ」とか言われると、感動する人とへこむ人、両方いると思う。僕なんかは太陽が苦手だから、「うわあ、太陽か」ってなるけど(笑)。



――それで歌詞作りを真剣に考え始めたのっていつからですか? それはやはり阿部先生と出会ってからでしょうか。



三村


歌詞を単独で、「文学的」にも成立させたいと考えたことは、先生と出会うまではなかったと思います。ただ自分の体の思うように行動して、その場その場に行って感じたことを何かに記すだけでしたね。



――動物的に行動していたということでしょうか(笑)。それから自分を対象化し始めたのは、どういう過程ですか?



三村


いや「対象化」というと微妙なんです。当時でも「自分は、自分は」って過剰な対象化をしてたんじゃないかと。ただそこでは、自分を判断する軸が成立してなかった。それに自分の歌を歌うことがどのような意味を持つかということ対しても認識が甘かったと思う。それで、さっき、「動物的」って言われましたけど、私の10代までの生き方っていうのは動物的でしょうか?



阿部


そりゃ動物的ですよ(笑)。ただしそれは東浩紀の『動物化するポストモダン』じゃないけども、90年代後半の、全体の大きな潮流だった。その時に日本の若い世代が「瞬間反応をする、皮膚感覚的なコミュニケーションでいい」というように変わっていった。それで欲望だったり、孤独の忌避が前面に出てくる。


とうぜんJポップでも、その傾向が歌詞の作りかたに反映されて、歌詞として自立出来ないものが多くなった。そうやって動物的に語られた歌詞でも、聴き手も動物だから、同調はできるんだよね。



三村


でも歌詞作りでは、私は相手(聴き手)に伝わるってことは意識していましたね。フォークの人にあるように、聞き取りやすい言葉で歌うってことは、守らなきゃいけないと考えてた。ただし椎名林檎なんかは歌詞が難解でも(聴き手に)入ってくるから、すごいと思ってた。



阿部


林檎の初期はそうだね。ただしある時期から歌詞が入らなくなってくる。一発性では弱くなってくる。だから彼女は、「ミュージック・ステイション」でのテロップ表示をすごく便利と考えているとおもう。



三村


私も、最近まで椎名林檎は初期からだんだんシリつぼみに悪くなって行ったと考えていました。ずっと初期の方が好きだったですね。今は最近の出しているものも面白いと思えるけど。



阿部


ポジショニングを変えたよね、椎名林檎は。


それで話を戻すけど、今のフォークの歌詞っていうのは、聴き手の類推が利くように日常生活に隣接することを歌って、しかも大切なところを繰り返す、という堅実なやりかたをする例が多い。難しい語法や漢語を使わない、詩的にも飛ばない、とかね。



三村


あ、そういうことで言えば、アイテムは飛びますけど、クレイジーケンバンドなんかはどう思います?



阿部 


やっぱり彼らはある種の「商品」だよ。「タイガー&ドラゴン」なんかはすごいいい曲なんだけども。あれは「俺の話を聞け、5分だけでもいい」っていう時の「5分だけでもいい」っていうのがいい。あそこに、ツッパっても腰砕けのユーモアになるクレイジーケンバンドの本質が出てる。でも港がどうとか歌っている時は、60年代歌謡曲が使っていた「景物」を歌枕のように連鎖させていってるだけじゃないかな。ああいう歌詞は共通記憶に訴え、しかも了解性が高くて、フォークとは別の意味で、耳で聴いても分かる。曲もかっこいいんだけど。ただし現代的なレベルで、音じゃなくて歌詞が心にガーンと当たるかというと当たらないし、聴いた人間の人生も変わらないと思う。音楽はそういう形で消費されれば良いって考え方があるとしても、本当にそれでいいのか、と。昔はジョン・レノンやディランで人生変わった人がいっぱいいたよ。



三村


ただそれよりも前、たとえば戦前の日本だと、歌は人々にとってどういう意味があったのかなあ。それは人生を変えるためにあったんじゃなくて、生活のためにあったものなのでは?



阿部 


いや「おれは河原の枯れすすき」(「船頭小唄」)だって、世の中の厭世観全体を覆ったでしょう。「歌は世につれ、世は歌につれ」ってことでいうと、聴き手の歌に対する親和力も強かったし、歌はたえず(世の中の)深くにまで浸透していたと思う。だから「生活」「人生」両方だね。ただ当時の日本人の音楽教育のレベルを考えてみても分かるけど、歌は音楽的に低いレベルで浸透したの。それが戦前、戦後、60年代、80年代って推移してゆくに従って、高度化して来るんだよね。ところが、歌は美空ひばりの絶頂期なんかが終わると、国民感情的なものから遊離し始める。「分衆」も成立した。その劣勢を意識しつつ一番分かりやすいことを歌おうとして、歌詞のメッセージが必然的にゼロに近づいてくるんだ。浜崎あゆみも小室哲哉もそういう流れとして一括できるだよね。「それじゃいかん」と僕なんかは思うけど。


で、話を聞いていると、三村さんがJポップに疲れたのと、フォークに惹かれていったのは同時期なんでしょう? その時にはJポップをどう捉えていたのだろうか? 例えば、GLAYを好きだった小学生のあなたと高校生のあなたではどう変わったのか、とかその辺を自己分析するところから次回を始めようか。



(収録時間35分、08年2月28日、立教大学・阿部嘉昭研究室にて)




(第二回目、三村インタビュー)



***(1)***


――前回の続きです。三村さんがJポップを聴いていた小・中学生の頃と、高校生の頃とでは、どのように音楽への意識が変化したのですか?



三村


自分に「掛け合わせる」ものとして、Jポップのサウンドや歌詞が違うんじゃないかと思い始めたんだと思います。自分自身の意識が変化した結果、そこに希望が持てなくなったのか、あるいはJポップ自体が悪くなったのかは分かりませんが。



――それでJポップからどのような音楽を聴くように変わっていったのですか?



三村


当時も私はライヴをやっていました。その会場で、自分一人で探していたら出会わないような音楽に出会っていったのが大きかったと思います。大磯には「大磯フォーク村」があるんですよ、よく行っていたジャズ喫茶がやっていたイベントの一環なんですが。そこに出ていたおじさんが高田渡を毎回歌っていたので、それで高田渡を知ったり、そこに来ていた三輪二郎さんがランブリング・ジャック・エリオットを歌っているのを聴いて、「こんなのもあるんだ、こういう風にスカシをくらわせる音楽があるんだ」と思った。



阿部


高田渡の歌をそうやって間接的にであれ聴いて、どこが良かったの?



三村


「良い」って感じじゃなかったですね。「何だ、これは」と最初は思いました。単純な音楽だから「どうせ」と思って馬鹿にしていていたのに、見透かせそうで見透かせなかった。「鮪の刺身を 喰いたくなったと 人間みたいなことを女房が言った」(「鮪に鰯」)とか聴いてドキっとしたというか、自分に罪がある気が(笑)。



阿部


あれはシチュエーションが獏さんの詩らしくド貧乏だけど、ビキニでの日本船の被爆事件が背景にある社会派の曲。そこで歌詞の山之口獏には興味が行かなかった?



三村


行かなかったですねえ。



阿部


『ごあいさつ』だったら「鮪と鰯」じゃなくて、同じ山之口獏の詩の「生活の柄」はどうだった?



三村


「生活の柄」は最初わけが分からなかったですね。高校生だった当時は、一体なんなんだろうって、自分だけ取り残された気がしましたね。



阿部


あれが日本の放浪ソングの最高峰の一つなんじゃないかな。歌うと体が「素晴らしき乞食」にもなれる。日本の季節変化にも鋭敏だし。ジャズコードにもズラせるんだ。僕の弾き語りベスト曲のひとつだよ。



三村


そうですね。そのうち、頭では「そういうことなんだな」って分かったけど、自分の体と一致して「いいなあ」ってなったのは最近ですね。



阿部


高田渡の放浪ソングは、三村さんの普段の生活から理解出来るものだったの?



三村

 
いや、とても理解出来ないです。でも歌っている人が出している音の電圧みたいなのがあって、それが「飛んでるな」っという気がして。しかもそれが小さい、地味な形で実現している。そこに惹かれましたね。



阿部


高田渡の曲ってのは不思議なんだけど、みんなに歌い継がれるような構造になっているんだよね。歌う人はみんな高田渡調になるんだけど、「歌い継がれやすさ」も実は個性のひとつと言えるかもしれない。その個性がフォーク系の中で一番強いってこと。だから再評価の中心にいる。「日本の歌」が考え抜かれていると思う。



――そのフォーク村での経験で歌の興味が60~70年代の日本のフォークに向かうんですか?



三村


高田渡は私にとってはレベルが高くて、すぐに消化していけなかったから、まずはそれを起点に、友部正人とかURC関連のレコードを聴くようになりましたね。いや、ちょっと前から知っていたのか。家に友部正人の『にんじん』や遠藤賢司『満足できるかな』がずっと昔からあって、中三か高一で聴いて衝撃を受けた記憶があります。それ以前はJポップしか知らなかったから、ああいう音も聴いたことがなくて、「こんな風に自分のいる部屋の片隅で歌っているような生々しい歌のあり方もあったんだな」って。中三の時からオリジナル曲を作っていたから、そういった70年代4畳半フォークを消化して自分の曲に反映させていこうってことはあったかな、と今になって思います。


でもそういったフォークっぽい曲は私にとっては一線が敷かれていて、実際はうまく作れなかったし、歌うのも「凄みを出す」という意味合いが強かった。そういう意図から友川かずきをカバーで歌ったりもしてました。



阿部


怖いね(笑)。高校生としては「座敷女」系だったのかも(笑)。ただ、そういうタイムラグっていうのは、デビュー前のディランと実は似てるね。ロックンロール・ブームの後にフォーク・リバイバルが来たってアメリカだけの逆説のなかにディランはいた。ロックンロールが時代の基調となっているなかで、むしろ一番新しい音楽がより出自の古いウディ・ガスリーなどのフォークソングで、そのリバイバルブームに10代のディランが飛びついた。これには、赤狩り、マッカーシー旋風によってフォークソングがそれまでラジオなんかでオンエアを忌避されていたという特殊事情がある。同じように三村さんにも大手をふるっていたJポップよりも、存在が秘匿されていたフォークのほうが新しかったということだよね。



三村


そうですね、ギター一本で出来る実現の仕方が新しい、こんなにずうずうしく表現出来るのかと思った。



阿部 


それは歌い手の身体や声が前に出てる生々しさってことでしょう。女性のフォーク歌手は聴いたの?



三村


友部さんを聴くのと同時に、女性歌手も調べて、浅川マキ、金延幸子や中山ラビを聴いてました。丁度再発盤が出始めた時で。よりポップスに近いほうでいうと、吉田美奈子は何枚か聴きました。中流家庭風なものも嫌いなわけではなかったけど、初期の荒井由実名義のものはあんまり追いかけなかったですね。それよりもまず自分の表現に即結びつくものを聴いて消化したかったので。



阿部


アメリカの女性シンガーソングライターには二大潮流があって、うち一つは実はカナダ出身だけどジョニ・ミッチェル、もう一つはキャロル・キングもしくはローラ・ニーロ、っていう理解でいいと思う。そのキャロル・キング型っていうのが70年代の日本では荒井由美から始まって次第に席巻してゆく。吉田美奈子もその流れにあるし、それがポップ化、一発化、俗情化すれば当時の小坂明子にもなる。ビアノという楽器によって簡単に全体性がつくれてしまう欺瞞が問われない弱みがそこにはあると思う。松任谷由実はたしかにそれに抗った。


逆に、ジョニ・ミッチェルが好きだって女性の歌い手が世界的に存在してないんだよね。それは身体性の問題があって真似が出来ないんだと思う。キャット・パワーにしても、ジョニ・ミッチェルというよりもむしろニール・ヤングのほうに似てる。でも三村さんの音楽はジョニ・ミッチェル的って言われることもあるでしょう?



三村


そうですね。その時にフォーク形式の表現方法を自分に取り入れて、それを女として表現することに結び付けちゃったんだと思うんですよね。ジョニ・ミッチェルも聴いていたし、それで身体性で押していく路線に入ったのかも。




***(2)***


阿部


三村さんは実はピアノも弾けるんだけど、さっき僕がいったような、ありがちなシンガーソングライター系列にはならなかった。それはどういうことからだと思う?



三村


私はクラシック・ピアノを習っていたけど、その先生も元々ピアノの人じゃなくて、声楽をやってて声が潰れて声楽が出来なくなったという人で、しかも絵も描いている多面的な才能の方でした。だから私は段階的なクラシック教育を受けなかったんです。小学校の途中からJポップが好きになったので、こういう曲を弾かせてくれって頼み、クラシックから離れて邦洋ポップスのカバーをピアノで弾き語りできるようなことを目標にしてやってました。ただコードを抑えてストロークという感じでしたけど。



阿部


三村さんの曲はコードが難しいって言われてるけど、ピアノの時はさほどコードのことは追求していなかったの?



三村


全然。当時は作曲をしてなかったので。高校の時のジャズ喫茶でのライヴでもピアノは使ってましたが、自作曲が少なくて、カバーが多かった。なぜコードを多く知っているかというと、ビアノ的な楽理から得た知識ではなく、Jポップのカバーを沢山した経験からだと思いますね。臆面もなくJポップをカバーしてライヴをやったっていう(笑)。



阿部


女性でB♭のコードをアコギで抑えられるってなかなかいないんだけど、それはどこで鍛錬したの?



三村


それは「フォーク村」での賜物ですよ(笑)



阿部


あれはなかなか出来ないんですよ、僕もロック的に中指を、人差し指と二重にセーハする押さえ方ができず、指を4本使ってしまう。だから弦の高いアコギでそれを易々こなしている三村さんを最初の飲み屋で見て、悔しかった(笑)。「ゲゲッ、指の力が俺よりあるやん」と。



三村


高校のYAMAHA時代には代々木公園でアコギ一本ライヴをやったりもしましたからね。一応ステージだったけど。ただしお客さんはそんなに集まらなかったですね。



――その高校の時、地元の路上で弾き語りもしていたんですか?



三村


路上が一番最初なんですよ。その時はお金投げてくれた。一回のライヴで6000円くらい儲けた時もありました。でも一回顔を覚えられるともう貰えないんです。哀れだからお恵みっていう可能性が高かったかな、みすぼらしく見えたのかもしれない(笑)。



――大学入学前にアメリカに行ったという話を聞かせてもらえますか?


三村


高校の時はそのソロやバンドで頭が一杯で、受験勉強もしてなくて、将来の見込みも描けなくて、どうすれば良いか分からなかった。そんな風に迷っている時、ジャズ喫茶のオッサンが濃い人物で、「アメリカ行かなきゃダメだよ、アメリカ行ってこいよ。」って、、、



阿部 


なんでそんなオッサンのいうこと簡単に受け入れるんだ(笑)。あんたの宿命なのか?(笑)



三村


そうそう、私も馬鹿なんで真に受けちゃったんです。オッサンのいうこと聞き易いのかもしれない(笑)。そのオッサンもカリスマティックなオッサンだと思ったし。それで単身行ったはいいけど、ネズミの糞だらけの部屋で。



阿部


アメリカではどうしようという胸算用だったの?



三村


とにかくライヴハウスが日本より一杯あって、そこのどこかで歌わせてくれるだろうと。でもほとんど(出演の)アプローチはかけなかった。まず21歳未満は夜のライヴハウスに入れないという規則があって、さらに私は実際より幼く見えたから。(アメリカ行きでは)英語を上達させようという気もありました。


ジャズ喫茶のオッサンに「このジャズ・ミュージシャンは音楽は素晴らしいけど、そんなに儲かってない。でも音楽留学して英語が出来るから、翻訳をしながら活動を続けてるんだ」って人を紹介されて、そういう生き方が自分にもありうるかなと思いました。



阿部


それで私も、と。しかしすごく甘っちょろい考えだな(笑)。勉強もたいしてせずに、いきなり飛び込んで(笑)。



――じゃあ、高校時代から音楽で食べていくつもりだったんですね?



三村



迷ってたけどね。「迷いつつ、そのつもり」という感じ。ジャズ喫茶に飛び込んだのも自分を鍛えたいという気持ちだったし、ある程度の自覚もありました、一応ライヴは受けていたから。それは若いし、なんでもやったからだと思う。



阿部 


恐いもの知らずだったってことね。それでアメリカで結局?



三村


敗北しましたね(笑)。言葉の壁の問題も大きかったし、あとそこにいる日本人も独立意識が強くて、いままでの日本にいたやり方では友達がなかなか出来なかった。何ヶ月いたかはあんまり言いたくないけど、実はたった2ヶ月で帰りました。その体験が「Hello, west orange」になったから良かったとも思いますけど。ギターは向こうで200ドルで買ったエピフォンのがありましたが、部屋の場所はサンフランシスコのポーク・ストリート、ダウンタウンだったので治安が悪く、恐くて路上で歌うことも出来なかったです。



阿部 


サンフランシスコは人間味があるの? ロスは人工的だけど。



三村


人間味はありますよ。ベイサイドは綺麗な観光地ですが、ダウンタウンは汚くて、色んな人種がいて「セックス、ドラック、変態」という感じ。



阿部


サンフランシスコに憧れはあったの? 「サンフランシスコ3大バンド」とか言える?(笑)。



三村


そこら辺は知識がなかったですね。え~と3大バンドは、モビー・グレイプ、ジェファーソン・エアプレイン、ジャニス(・ジョプリン)のバンドかな。



阿部


モビー・グレイプじゃなくてグレイトフル・デッドだね。「太陽白痴の街」ですよ。アメリカの涯の西海岸で、あとは太陽と青い海しかないのだから、楽天的にみえても実は虚無的。それでサイケが花開いた。ザッパに代表されるロサンゼルス型知性とは大きくちがう。ゆら帝は好きだったんだよね? ゆら帝はデッドと共通性がある。とくに一枚目は演奏概念がデッドに似てる、まだメンバーが4人だったころのことだけど。



三村


サイケとは何かは分からなかったけど、憧れはありましたね。何かあるんじゃないかって。まあいまになって冷静に振り返ると、ただのLSDですよね(笑)。ジャニスは好きでしたね。それで一時期、黒っぽい節回しで歌ってみたこともありました。でも自分では持ちこたえられない、声が違うし無理だ、と思ってやめました。阿部先生は上田正樹を、よりオーティス・レディング的に歌えるみたいですが(笑)。




***(3)***


――それでその高校時代にJポップにリアリティを感じなくなったということをもっと具体的に訊きたいです。



三村


ゆら帝やブランキーのように聴けるバンドと聴かなくなるバンドがだんだん出てきたという感じかな。ブランキーも最後の「不良の森」の入ったアルバムは持っていたけど、あまり聴かなくなった。サニーデイ・サービスはだんだん悪くなっていったと思ったし。もう少しメジャーな所でシングルでいいなと思えるUAや元ちとせ、宇多田ヒカルの曲はウタ本でコピーしたりしましたけど、スピッツは最初からピンと来なかった。GLAYは中学で卒業していたし、ラルクは最初から聴いてない。ジュディ・アンド・マリーは解散にかけて悪くなっていったと思った。Coccoは1stはよく聴いたけど、それ以降は壊滅的な自傷系になっていって。



阿部


Coccoや椎名林檎の一部もそうだけど、自傷系のメッセージってだめだったのか?



三村 


そうですね、自傷系の「印」が私はダメだった。倫理的な問題だと思います。林檎は1stで信頼したから許した。3rd以降は選んでは聴かなかったですけど。



阿部


 「モルヒネ」とかすごいでしょう。「どうせ私は取り柄のない女ですので」って所はぞわっとする。あの自己卑下の仕方が。自傷系でも椎名林檎だけは凄みが違うよね。戸川純は聴かなかった?



三村


聴かなかったですね。というより知らなかった。



阿部


あなたたちの世代には80年代があんまり知られてないよね。



三村


だから今思うと、中学の時好きだったバンドが高校の時に悪くなっていって解散したのがJポップ離れの原因だった気がする。ジュディ・マリ、ブランキー、サニーデイが段々悪くなって、大味になっていく。



阿部


それは僕の「74年の絶望」と似ている(笑)。



三村


そうですね。ディラン、ニール・ヤング、ザ・バンド、ルー・リード、ジョン・レノン、リトル・フィートなど、大好きだったロックアーティストが、出すアルバム出すアルバム、そのころに調子を揃えたように作曲能力を失い、悪くなっていって、ロックへの興味を急速に失い、パンクが登場するまでは60年代ロックやザッパやジャズに走っていったっていう阿部先生の経験は、「そうなのか」と私も思いました。『精解サブカルチャー講義』のニール・ヤングの章に書かれてましたね。先生の74年というと・・



阿部


高校生だったかな。



――それで三村さんは大学に入って音楽サークルに入ったんでしたっけ?



三村


いや入ろうとしたけど、失敗して入れなかったんです(笑)。



阿部 


三村さんの内気な性格とか他者に弱いこととかが出てるよね(笑)。



三村


一応知りあいの子のサークルで遊ばせてもらった時もありましたよ。でも、そこは「ブラジル音楽」だったんです(笑)。フォーク系のサークルがあるといっても「ゆず系」なので、そこだと私とは関係ないので。



――それで大学2年の時には『三毛猫』を録るし、一緒にライヴをするミュージシャンもフォーク系の人が多かったんですか?



三村


最初は三輪二郎さんに東京に連れて行ってもらって(笑)、そこから知り合いの輪を広げていったという感じかな。だからフォーク系というよりも中央線系のサイケ畑の人達が多かった。フォーク系をやるようになったのはモナでアルバムを出してからかな。モナは西海岸のフォークというニオイがあるから。逆に中央線、例えば無力無善寺とかで対バンする人なんかはもっとダークな世界観の人が多い。灰野敬二フォロワーとかも住んでて、そうした文化が根付いてる。楽器もエレキ、演奏もディレイ系の方が多いと思う。



阿部


対バンする人たちの歌詞はどうだったの?



三村 


歌詞がいいと思えるバンドはあまりいなかったかな。良いと思うバンドはむしろインストの、音が面白いと思う人たちでした。



――その中で共感出来る人っていましたか?



三村


同世代の「おれはこんなもんじゃない」の人たちにはとくに感じました。「おれはこんなもんじゃない」の狩生さんが「日本ロックフェスティバル」っていうのも無善寺で開いて、サイケ~アングラの人を沢山集めてライヴをやって盛り上げてた。そこにはマジカルパワー・マコ、中川五郎や豊田道倫さんも出てて、そういうのも見てすごいなって。そういったサイケの人たちのほうに、自分とのジャンルの垣根のなさを感じていたというのはあったかな。


あ。それで二郎さんや私はフォークの形をとっていたけど、「これが私のロックだ」って勝負出来る場所が欲しかったから、自由にバンドをやっている人たちのなかでやりたかった。



阿部


フォーク的な音でアプローチしていても、精神性をそこに置いていない、という自覚があったんだ。『三毛猫』でもアナーキーなものに対する指向っていうのは感じないでもないんだよ。出来はともかくとしても、「ZAZEN BOY SONG」とかは歌詞もそういう風にしようとしてる。




***(4)***


――それで阿部先生には前回出会いの経緯は聞いたのですが、三村さんのほうからの阿部先生の第一印象ってどうだったんですか?



三村


なんだか悪辣そうな(笑)、それでいて鋭い人という印象です。サブカル全般に詳しいなとも思った。授業の前に『ユリイカ』のJポップ特集での文章(03年6月号、『椎名林檎vsJポップ』に再度所収)を読んでいて「なんでこんなに詳しいんだろう、こんな人がいるんだ」ってすでに思っていたんだけど、私はトロくてシラバスを読んだときにはつながっていなかった(笑)。最初の授業を受けてから名前を思い出して、やっと顔と名前が一致したんです。その原稿で「さかな」なんかを採りあげているのにはびっくりしましたね。文章だけだと、ベンヤミンを引用したりして、おじいさんっぽい人だと思っていたので、授業で外見に触れ、そこでも驚きました。そのジャズや現代音楽と繋げて太陽肛門スパパーンを論じた最初の授業も実は驚きで、、、



阿部


(スパパーンのリーダーの)花咲(政之輔)も驚いてたよ。あれは現代音楽をバルトーク系とシェーンベルク系に分けて、その系列のうえにフリージャズのエリック・ドルフィとセシル・テイラーを載せ分けた。それでスパパーンはドビュッシー~バルトーク~ドルフィ系だって話だったよね。むろんザッパ音楽との親縁も語ったけど。ザッパも同じ系列。



三村


花咲さんが授業の技術顧問になってギターを弾いていたのもスペクタクル的に面白かった。



阿部 


アナログフィッシュのときだっけ、僕が「ハーメルン」はビートルズ・コードだという指摘をした。それでビートルズ・コードの話になったとき、花咲が「マイナーコードとメジャーコードを楽理を外してテンション的に入れかえるのがコツですよ」っていいながら例示として「ミッシェル」を、コード説明付きで噛み砕くように弾いたりしていた。そういえば三村さん、ビートルズはどうだったの?



三村


GLAYのTakuroがインタビューでビートルズに影響を受けたと言っていたので(笑)、それですぐに聴いたのが、親のもっていた編集版。それだと良い曲があまりなくてピンと来なかったけど、そのあとに『ホワイト・アルバム』を聴いてすごいと思って、それで自分で曲作りたいなって思いましたね。



阿部


コード進行の幅や発想力でいうと、いまだにポップミュージックの中ではビートルズが一番ってところもあるからね。一時期、三村さんはジョン・レノン・コードを目標に曲作りしていた時もあって、今回のアルバムには入ってないけど、「私は終らない」とかは「セクシー・サディ」のコード進行をスケール理論で広げていったものだった。あれにはびっくりした。すごい作曲能力だと思った。さっきからお互いにびっくりしあっているなあ、ヤラセみたいだ(笑)。



――話は戻りますが、それで阿部先生にCDを渡す時はどういう気分だったんですか?



三村


すごい恐かったですね。この人は容赦があるタイプの人ではないし、相手が若いからってマイルドな返事がある人じゃないとも思ってましたから(笑)。私はそれまでそういう人を避けていたので、意を決して渡しました。そしたら、メールが来た。



阿部


書いた本人が忘れてるんだけど、どういう内容だったの?(笑)



三村


「いま酔っぱらって試写から帰ってきて、メールを開きました」から始まって(笑)、それで「一曲目はコードを拡張概念的に使っているのは良いけど、メロディに綾がない」って書いてあって、その通りだなって思いましたね。あと「女の子は20代ちょっと前に天才期間があって、それで二階堂和美はそれ以後をどう対処するかで曲を作っている」とかいうことや、それぞれの曲がどういう影響下で作られたのかという指摘もあって、それらにすべて納得して、千里眼だと驚嘆しましたね。



阿部


全然覚えてねえや(笑)。




***(5)***


――阿部先生へのインタビューでは二人の共作のきっかけも阿部先生は覚えていなかったのですが(笑)、実際はどういうきっかけだったんですか?



三村


最初の「ラララ」を先生に渡して出来たのは「自画像が消えだす」ですね。でもその前にYAMAHAの時に作っていたJポップ形式の歌に歌詞をはめ直しくださいって渡したのかな。フォークを身につけた後は、Jポップ形式の歌を歌えなくなってて、ストックのあったそういう曲を直してもらった。「すべておしまい」や「Cooking Song」がそう。あれ、それよりも前に、阿部先生が先に曲を書き始めたのか。あっ、「AVに捧ぐ」を私に宛てがって来たんだ(笑)。



阿部


とんでもないやつだ(笑)。しかもあれは自著の『AV原論』の宣伝にもなっているっていう(笑)。



三村


(笑)その一環でピストルズ『アナーキー・イン・ザ・UK』の異様な訳詞もありました。あっ、それよりも「水の方へ」という曲がさらに先ですね。阿部先生が「転調をもっとしなさい」ってアドバイスして、「例えば」って作ってきたのが「水の方へ」ですね。あれはアクロバティックに転調を繋ぐことで曲を作っていって、それでいてフォーキーな曲で。それを先生と教え子たちが見に来るってライヴの時に、「やれよ」ってもらったんです。「しあわせなおんなのこ」もそのときですね。こっちは4度転調。だから共作の前に先生が曲をくれていたんですね。



阿部


そっか、僕がなにげに曲を作り始めて、三村さんに宛てがってたんだね(笑)。急に面白くなったのかな。芝居で劇中歌をつくって以来だ。三村さんと会う前は2~3年ギターすら弾いてなかったんだけど。



三村


曲ではないけど、それよりも前に阿部先生の詩を即興演奏と共に朗読したのもありましたね。先生のサイトに載っている未刊詩集『壊滅的な私とは誰か』からパーツを選びました。それでフォーキーな曲作りから脱却し、曲から同定性を奪うために「転調をしろ」という指示があって、転調楽理――4度、5度転調、メジャー/マイナー転調、ドミナント転調とかをビートルズの曲を実例に示してもらうなどして学んで、自分の音楽を理論化しようとしたんです。それと、ライヴで阿部先生の作った曲、「AVに捧ぐ」や「しあわせなおんなのこ」を歌ったのは、いままでの曲のイメージを壊す、ショック療法の意味合いもありました。フォークのイメージが自分についていたので、「私はもうフォークじゃない」ってアナーキーに表明したかったというか。セックス系の歌をステージで歌って、違いを表現したかったんです。



阿部


そういう歌を歌い始めて、それまで三村さんの周りにいた人はびっくりしたでしょう。あの時は、三村さん変わったって、みんな言ってたんだよね。「エロ親父の影響受けて、アタマが炭酸になった」って(笑)。



三村


自分でウケないでください(笑)。でも「どう間違ってこうなったのか」とみんな思っていたと思う。私も歌い切っていなかったから、とりわけ違和感がつよかったと思います。



阿部


そういう経緯だったんだよな、たしかに。それに前のインタビューでも言ったけど、僕の作る曲は声域が合わなくて三村さんは歌えなかった。そういうことがあったから「岸辺のうた」は最初に歌詞を作って、曲を付けるように言ったんだけど、三村さんが作ってきた曲がさとう宗幸の「青葉城恋唄」みたいな曲だった(笑)。



三村


いえ中島みゆきのポップな曲というつもりでしたけど。でも先生はイージー・メイドだって、自分で曲を作ってしまって、それで先生のが良いってなったんです。あれはザ・バンドを意識したコード進行と転調で。最初はキーが高すぎて歌えなかった、阿部先生の作る曲は自分が歌えるからかキーがいつも高くて、下手したらGから始まるくらいだから(笑)。


その頃は阿部先生にレコードを借りて、80年代ユーロ・ニューウェイブとか自分の聴いたことがないジャンルの音楽に触れて刺激を受けたのも大きかった。自分で自分に対して決めていた決まり事がそれで解けたんだと思う。ああこういう風にも曲作っていいんだって。それで「ラララ」の曲を渡し始めたんですよ。



阿部


最初の「自画像が消えだす」にしても、それまでそういうコード進行の曲を作れると思ってなかったから、びっくりしたもんね。あれはヘンリー・カウとスラップ・ハッピーの「ストレイド」と同じコード進行が瞬間的にある。それからはもっと大胆になって、ロック・ビートを刻みながら「ラララ」を歌い始めて、そうすると歌メロの飛びがさらに大きくなってった。



三村


そうなんですよ。歌詞を付けなくていいっていうアドバンテージがあると、こんなに自由に作れるんだって思いましたね。



阿部 


僕自身も、そうやってメロディが飛んだり、リズムが激しかったり、音数が不規則だったりすると喜んだんだよね。歌詞をはめこむときの難度が高まる。挑戦意識が湧いてくるんだ。結果的に無理無理の音数とリズムによって歌詞世界が壊れるっていう所を楽しんだ。それは僕自身が変態だからかもしれない(笑)。



三村


このころ同時に、前に阿部先生が言ったように、詩集を読み始めようと、とりあえず現代詩文庫の詩集を集めて一通り読ましたね。堀川正美や鷲巣繁男がきれいだなって思いました。稲川方人や吉岡実は難しくて分からなかったですね。




***(6)***


――それでエイプリルフールの元メンバーで、キーボードの柳田ヒロさん(数々のジャズロックのソロやコラボアルバムもある)と組んでいた時もあったんですよね?



三村


渡辺勝さんたちと演ったライヴにヒロさんがお客さんとして来ていらっしゃっていて、そのときに話して、一緒にやろうってことになったんです。阿部先生も『七人の老人天国』とかをフォローしていて、ヒロさんの音楽性の高さを理解し、賛成してくれた。ヒロさんとの最初のライヴのときに阿部先生も来て、ライヴ後の飲み屋さんで、ヒロさんに先生がプロデュースをすぐ依頼してしまった(笑)。


ヒロさんはコード進行が面白い曲を評価してくれましたね。弾き語りで完成度があるかというのではなくて、曲を大きな視点から見てた。バランスがいい人でした。キーを無理矢理あわせようとしないで歌メロを変えること、ピッチをまず大切にすること、プロとしての心構えとか基本的なことを次々に丁寧に教えてもらいました。すごく感謝してるんです。紳士ですし。



阿部


でもヒロさんと組むのには実は難しい問題があった。やがて判明していったことなんだけど。三村さんの曲は不定形な感じがした方が面白いっていうのが基本的にある。ところがヒロさんはピアノだから演奏が構築的になってしまう。ヒロさんはタッチが抜群で、うまいから音数を少なくしてくれ、ってことも言えないし。それと三村さんの個々の曲にどのルーツ演奏が適用できるかってことをまずヒロさんは考える。ある意味で徹底的な実践派だった。



三村


だから船戸さんのようなタイプのミュージシャンが私にはちょうど良かった。音は女性的にふんわりしているけど、音楽的知識の引き出しも多くて、プロディースの力量もある。


阿部 


ヒロさんとの違いで大きいのは、ヒロさんはロック出身だからバンド音的な指向があって、全体を「固める」。でも船戸さんはジャズだから個々の楽器演奏が粒だっていて、その限りであとは自由に戯れればいいというように、不定形さを許すんだよね。ただしもし、ヒロさんのプロディースでアルバムを作っていたら、カチッとしたサウンドのポップ・アルバムになってたかもしれない。ヒロさんはクリックを打って、ギターも誰か名手を調達して、ダビングを重ねようって方向だった。何しろ耳が精確だから、相当ポップな実現域にアルバム全体をもっていったとは思う。ただしそれだと、三村さん自身が窒息しちゃう危険も伴っていただろうけど。



――船戸さんとの出会いはどのようなものだったんですか?



三村


大学3年の時に円盤でoff noteのイベントがあって、そこでそのoff noteのミュージシャンたちと共演をさせてもらい、そこのマスターに次の年(06年)の年末のツアーに誘ってもらって、そのツアーで出会ったんです。そのツアーの前には荻窪でもoff noteのミュージシャンと共演させてもらったこともありました。その時はバックはフリー・ジャズで、イメージとしてはアート・アンサンブル・オブ・シカゴとブリジット・フォンテーヌというような(名コラボレートアルバム『ラジオのように』を指す)。


このライヴ共演が基盤になって、次のツアーではoff noteの数人のミュージシャンと現地のミュージシャンとで演奏するという方向でライヴをやった。それで関西や名古屋に私自身、遠征していったんです。このとき船戸さんは、京都での当日に楽譜を渡して、演奏に入ってもらったんです。



阿部


off noteのミュージシャンたちは、例えば歌姫をポーンと中心において、それを周囲で自由に支えていくという集団性音楽の精神なんだよね。祝祭性もある。ライヴでは、楽器もジャズ的にズレてく、例えばベースレスで、代わりをチューバがブワブワ吹くとかさ。それも面白かったんだけど、そのように三村さんの音楽を作ると、聴き手が限定されてしまうという意識が僕にはあって、船戸さんと一緒にやったライヴの音源も当初、真剣に聴いてなかった。


でも三村さんのアルバム制作が難航していた時に、プロデュースを船戸さんにお願いする案を三村さんが出して、その参考にそのライヴ音源をもらって、これはすごいと思った。当日初めて知った曲なのに、音が読めて演奏にもソリッドな感覚がある。ただ祝祭的に広がるんじゃなしに、曲を解析してそこに切り込んでいく感じもあった。それでこの人とやればいいって話になったんですよ。


その前、アルバム制作が難航していた時に、デモ・テープを作ろうってことで、僕がデモの録音に立ち会って、歌い方とかをもう一度考え直すということもしていた。あれがデカかったよね。



三村


そうですね。改めて歌い方と演奏を先生に指導してもらいましたね。そこで私はそれまでのフォーク唱法を改めなくちゃいけない、それで楽曲を歌うんだって所に来てた。だから発声練習をしたり走ったりして体を変えようってなっていましたね。それで今度は失敗しちゃいけない、私は言葉の説明が下手だから、絶対にデモで船戸さんの気持ちを掴まなきゃいけないって思ってました。



阿部


あのデモ音源制作で、たとえば「岸辺のうた」の新しいアルペジオ奏法が確定したりした。その前に一緒に作ろうとした人の時も、やはりヒロさんと同じ手堅いアプローチだった。つまり、クリックでリズムを刻んで仮ギターを録って、ピッチを定めたあとにダビングで伴奏を重ねていくということをしていたんだけど、不器用な三村さんにはそれが結局出来なかった。それでその録音が失敗したので、ギターも歌も一緒に録るということは考えてたよね。この前言ったことだけども、三村さんはギターと一緒に歌わないと自己再帰が出来ない。気合いを入れて歌うとギターがうまくなって、ギターがうまくなると歌がうまくなってという再帰性の中でしか出来ないんだよね。


船戸さんは最初会った時から、そういう一発録りのやり方もあるって言ってくれていた。まあそのやり方は直し(切り貼り)が利かないから危険ではあるんだけど。




***(7)***


***「深夜の猫」***


――じゃあアルバムの話に入りましょう。一曲目の「深夜の猫」はどうやって作ったんですか?



三村


これは七尾旅人さんを意識しましたね(笑)。それで自分で歌詞を作ってみた。相変わらず「不思議ちゃんの歌詞」って先生に言われましたけど。それでも所々歌詞が埋まっていない箇所があって、そこは阿部先生が、曲がイギリスっぽいからレノンの「マザー・グース」のように「heaven」と「seven」で韻を踏んだらってアイデアを出してきて。「ああイギリスの猫か」って曲になりましたね。



――これは歌詞はひと繋がりに出てきたんですか?



三村


「にゃー」が出てきて、「ああ全体像が見えた」って感じでしたね。最初は英語で曲から見えてきた風景を書いていったのだけど、「にゃー」が出てきて、そこから猫をコンセプトに言葉を揃えていったんです。体裁を整えるために韻を踏んでいったり。この「塀(hey)」という書き方も旅人さんの影響です。



阿部 


「Seven Curse」っていうのが映画であって、その『七つの呪い』が起こらない(「will not do」)っていう。これはコードが不思議で、上の音に対してベース音が微妙にズレたりするでしょう。



三村


これは旅人さんのライヴを観た後に作ったので、指使いを適当に真似て作ったんですよ。これは分散コードだから、理論的に説明は出来ない。



阿部


船戸さんはよくこれにバックを付けたよね。船戸さんは「ふちがみとふなと」だとシンプルなコードを弾いているから、たまに変なコードで暴れたいっていうのもあるかもしれない。この曲で船戸さんがピチカートで弾いた音はデタラメのようで、実は合ってる。音の構成音を使って弾いているんだよね。天才的だった。



三村


それと歌詞の「にゃー」音をベースでユニゾンしてほしいって頼んだら、ああいう風に面白いペースの「弾き換え」にもなったんですよね。



阿部 


船戸さんは弓の持ち替えが神業のように速い。ブルースマンがハープをとって歌うくらい速いよね。



――これを録音したときは、三村さんとの一発録りだったんですか?



三村


そう、「せいの」で。すごい楽しかったですよ。



阿部


船戸さんもどちらかというと一発録りの方が気合が乗る人なんだよね。




***「CRAZY TUNE」***


三村 


これは柳田ヒロさんと組んでいた時に、ヒロさんが「ポップな曲を作るには良いコンビだね」って先生と私のことを評してくれて、その時に気を良くした阿部先生が作ってきたんです。ヒロさんがとても感心した曲ですね。私のチューニングがいつも狂っているってヒロさんに叱られていた矢先に、この曲が提出されて、ヒロさんがすごい笑ったっていう(笑)。



阿部


そんなことあったっけ(笑)。またこれが本気で作ったのか、適当に作ったのか、全然分からないみたいな歌詞で。安直に見えるんだけど。これは小池(昌代)さんも褒めてくれたよね、「サン」の字が全部違っててびっくりしたって。



三村


ニ胡の吉田(悠樹)君も気に入ってた。これは先生がギターをいじくってたら出て来たんでしょう?



阿部 


ウン、ふにゃふにゃ歌いながらギターでつくった。しかも音数が四音連鎖にしかならず、擬態語を連打せざるを得なかった。内情は実は苦しかったという曲(笑)。曲をつくっている最中に、女房がそれとなく聴いていて、あとで女房が散歩のとき鼻歌で歌ってた(笑)。それでこれはポップな曲だ、歌詞を完成しなければ、って気合が入ったんだよね。一部、ストーンズというか初期マリアンヌ・フェイスフルのパクリも入ってる。「As tears go by」ね。




***「母親を取り返しに」***


三村


この曲は07年の初めに曲を作っていた時に、もっと違う曲は出来ないかと考えて作った曲。阿部先生にニール・ヤングの「オールド・マン」みたいな曲を作ってほしいってリクエスト貰っていて、最初はう~んって感じだったけど、あっアイリッシュだ、と気付いて作ったんです。



阿部


ニール・ヤング・コードは日本では使われていない。遠藤賢司さえそうだ。「ラララ」が出来上がって、これもコードに驚いた。ニール・ヤング・コードを超えている。僕はこういうコードの型があるって知らなかった。



三村


それがアイリッシュ・コードで、ニール・ヤングの「オールド・マン」はそれを不完全に使用していたんだと思います。



――この歌詞の内容はどういうものなんですか?



三村


たぶん、私が「母のない子のように」なっていたから、先生が母親を取り返させようとしたんだと思う(笑)。



阿部


寺山修司かって(笑)。ニール・ヤングの「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」中の「マザー・ネイチャー」っていうのが発想に入ってる。それとはっきりさせてないけど、ネイティブ・アメリカンの娘っていうイメージも使ったね。



三村


そうそう。アイリッシュの移民がアメリカの田舎でアメリカ先住民と歌ってる感じかな。



阿部


西部劇だな(笑)。ともあれ、どうとでも解釈出来る寓意型の歌詞。で、フェミニズムが全体をつないでいる。




***(8)***


***「月が赤く満ちる時」***


三村


これは前からあった曲で、あとから歌詞を変えたんです。最初は太陽讃歌だったのが逆になって月光讃歌になった。これはトリン・T・ミンハのフェミニズム思想書のタイトルをそのまま貰ったんですよね。



阿部


当然、月は太陽に照らされてのみ可視的になるのだから、二義的存在。だから神話時代から月が女性性を引き受けてきた。それゆえに、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」の逆説もある。ところが月の光は太陽光に較べて柔らかい。夢想に人を誘う神秘性もあって、月なくしては人間の思念に循環も起こらない。一方で「月光は水を悪くする」など、月の魔性をバシュラールのように指摘する例もある。月光が狂気の要因だとは、ラフォルグの詩などにもあるし。当時、三村さんはフェミニズムによって自分の音楽を理論構築する必要もあるかな、と思って、僕がミンハの『月が赤く満ちる時』を三村さんに貸したんだよね。それでこの曲ができた。



――1番・2番のあとの「恋に刺され、笑う」とか、いい歌詞ですよね。




***「孤りの炎」***


三村


「孤りの炎」は関西でのライヴの前に自信がなくて、それで気合を入れる意味で、いままでと違う奏法の曲を作ったんです。



阿部


船戸さんも「あれが一緒にやった時にすごい印象に残った」って言ってたよね。



三村


あれは「レント」っていう古典派の曲を貼ったからね。パクリですね(笑)。でも古典のパブリック・ドメインの曲だから。それで私が最初に作った歌詞を先生が直した。歌詞発想についてはこないだ先生が充分に解説されています。




***(8)***


***「しあわせなおんなのこ」***


三村 


これは初期に出来た曲ですね。阿部先生が教え子に送ったメールが歌詞になったようです。よく見ると罰当たりな歌詞ですよね(笑)。曲は転調の見本として作ったよう。



阿部 


テニスコーツのパクリのつもりなんだけど、全然似てない(笑)。ただ歌い方をウィスパーにすることは最初から決めてた。ライヴではエコーをかけて歌おうと。みんな綺麗な曲っていうんだけど、歌詞の内容を考えてないよね(笑)。



三村 


先生の作る曲は曲調が優しいですよね。船戸さんも褒めてた。




***(9)***


***「もうじきあんたは1人で立てるはずだ」***


三村 


これは柳田ヒロさんと組んでポップな曲を作ろうとしていた時に出来た曲。またフォーキーな曲を作ってみるのも良いかなと思って作ったんです。でもフォークになりすぎていると思って、途中で転調を入れた。この転調はブランキーの「15才」の展開の感じをイメージして作りましたね。



阿部 


歌詞に混乱があってそれが僕は最初ダメかなと思ったんだけど、下北沢のleteでライヴした時に杉本真維子も来てて、この曲がすごい良かったって言っていたから、「ああそうやってライヴでは響くのか」と思って、この混乱もこれで良いなと考えるようになった。



――こういうトーキング・ブルース調の曲って「Hello, west orange」以来ですよね。



三村 


そう。でもまあこれは韻も踏んでないし、ただ混乱を吐き出しているだけなんで。コードは「ミスター・ボージャングル」[※ジェリー・ジェフ・ウォーカーというホーボー歌手のヒット曲=ニッティ・グリティ・ダート・バンドのカヴァーで流行った=デヴィッド・ブログバーグのカヴァーが最高]と同じようなんだけど、転調部分では工夫したと思う。自分がいままでやってきたフォークっていうのをまだ消化出来てないけど、アリバイ的に出していかないと、という気持ちもあったかな。



――こういう曲を聴くと僕はよく思うんだけど、三村さんは朗読も巧いじゃない? そういう言葉を発することが巧いっていうのは何でなんだろうか。



三村 


私は小学校の頃から巧かったんですよ(笑)。授業で模範として読まされて、それをテープに録られたりしてた(笑)。



阿部 


確かに巧い。ライヴで僕の詩を読んでいるのを聴いても、これは相当なものだと思うよね。



三村 


いま思えば、それが私の自己再帰性の原点というか、そうやって声を出すことで自己形成してたってことじゃないかな。



阿部 


象徴的なことだよね。朗読をすることで自己形成を覚えたとしたら、結果的にそれが三村さんの人生を規定したってことになる。この曲はアルバムの中でも良いテイクを残したよね。



――そうですね。アルバム中でも一つの山場になっていると思います。




***「自殺のシャンソン」***


三村 


そうだ、これが二人の曲交換の最初でした。「これ昔作った曲だから歌ってみ」って先生が下さったんです。劇中歌の候補だったらしい。どんなヒロインの歌唱を想定してたんでしょうか。実はもともとこの曲は中森明菜に歌ってほしかったみたいですけど(笑)。



阿部


「少女A」「セカンドラブ」の次はこの曲だ、って勝手に決めてた(笑)。あの当時の明菜は凄かったの。大ファンだった。



三村


この曲を演奏し始めたのは、ライヴでのパフォーマンス的な仕掛け、はったり的な意味合いもありましたね。



阿部 


ただ最初、三村さんはこれを友川かずき調に「自殺なのよ」の部分でギターをかき鳴らして歌ってて、曲を歌いきれてなかった。それでシャンソン唱法を身につけろってシャンソンのCDを貸したりしたんだけど、結局出来なくてさ(笑)。ワンラインごとに演劇的感情を加え、溜息とか強がりとかを示しつつ、総体を物語化してゆくっていう唱法だね。語尾の問題かもしれない。僕なら歌えるんだけど(笑)。そういう芝居的発声が出来ないなら、いっそフラットに歌ってしまえっていうように路線を変えて、その路線でアルバムも録音した。


びっくりしたのは、船戸さんがこの曲はベース・ソロでやりたいってアイデアを出してきたこと。そう言った限りはこれをどういう演奏や音形にするかがちゃんと船戸さんの頭に入ってた。ドキドキしたのはこれも(三村さんと船戸さんの)一発録りなんだよ。でもむしろ一発録りじゃなく、先にベースを録音して三村さんが歌うというようなことだと三村さんが歌えなかった。三村さんがこう歌うだろうってことを予想して伴奏をしたんだよね。僕はアルバム中でこの曲が船戸さんのベストテイクだと思う。とんでもないベース弾いてる。とりわけベースのボディがゴーン、と共鳴するところとか、二音弾きのところが好き。最大のサックスプレイのように鬼気迫っているんだけど、4ビートの切り方などは実は幾何学美だね。




***「有為転変ブルース」***


三村 


これはさっきの「女子高生ブルース」と同時に出来た曲ですね。



阿部 


このことは声を大にして言いたいんだけど、僕は録音の時に怒った。最後の「安穏を得(う)る」は「売る、売る、売る、得る」で「うる」の韻を踏んだつもりだったのに、「える」って歌ったっていう(笑)。「歌い直せ」って言ったのに、三村さんは「時間的余裕が、、」とか言って突っぱねた(笑)。船戸さんも「これは二人の問題だから」って相手にしてくれなくて、結局「馬鹿やろう、ちくしょう」って僕が許したの(笑)。まあ曲の狙いとしては高田渡の「靴にありついてほっとしたかと思うと ズボンがボロになってる」っていう有為転変を歌った「年齢・歯車」へのアンサー・ソングかな。




***(10)***


***「ジプシーのとき」***


三村 


これは古くからやってる曲ですね。エミール・クストリッツァ監督の同名映画を観て作りました。



阿部 


コード進行がすごい好きだね。AメロとBメロの間で微妙に転調してて、不安定なんだけども、ジプシー音楽的なものもある。曲からは情景が見える。



三村 


フォーク的なものからどうやってずれるかを意識しました。歌詞中の「小人」っていうテーマがベンヤミンに論じられているとかは知らなかったのですが。



阿部 


ベンヤミンの小人はベンヤミンの「不器用」を見つめる象徴存在で、カフカの鴉の転位かもしれない。事あるごとに出てきて、象徴的な使い方をされる。自動機械に入った小人、というイメージもそこに関わるから。小人自体はヨーロッパの芸術表現には多いんだよ。ベルイマンやフェリーニの映画にも小人が出てくることが多い。小人の存在が人間の全体を祝祭的にするということ。色んな類型のあるほうが世界像も豊かになるってことだ。神の造型の幅が大きく認められているんだよね。だから小人に対しては身体的な意味での蔑視や差別っていう視点がない。日本はおかしいんだよ。アメリカではいまでも小人(ミゼット)プロレスをやってて、それをみんな面白いから笑ってみてる。日本にもミゼット・プロレスってあったんだけど、テレビでオンエア出来なくなったから、どんどん活動が縮小していった。僕が小学校の頃はやってたよ、小人プロレス。みんなそれに鷹揚だった。そういうことでいうと、この「ジプシー」っていうのも、エスキモーがイヌイットに変わったように、いまでは差別用語ってことになって、それを「ロマ人」って言い換えてるんだけど。


差別語っていうのは意識の問題でしょう。だから「言い換え」もやがて差別的になってしまう。「眼の不自由なひと」という言葉がどれほど官僚的に不恰好かも考えられていない。




***「平行四辺形」***


三村 


これも昔にアシッド・フォークを聴いていた頃の曲で、それらのような、「淡いんだけど翳っている」というような世界観をギターで出すことを目指しました。これはコードが理論的に難しいって言われるんだけど、作り方としては『三毛猫』の一曲目(「春の庭」)と同じで、拡張的に指でコードを創作してる。



阿部 


開放音も入るから、指ではフレットを上下しているだけでも譜面化するとすごい複雑になる。



三村 


まあギターならではですよ。しかも一音一音に意味を持たせてしまっているから余計難しくなっているのかもしれない。普通ギターはそうやって曲を作らないから。



――この曲はアルバム中一番演奏者の多い曲ですが、録音前にアレンジのイメージってあったんですか?



三村 


それは船戸さんの指示ですね。というかアルバムのアレンジの最終判断は全部船戸さんが下したんです。船戸さんはこの曲はギターが難しいから、ダビングでやろうって言って、この曲だけダビングで作っていきました。船戸さんは作業効率やアルバム中のバランスも考えて、録音の仕方や演奏楽器を判断したんだと思う。



阿部 


そうだよね。だから逆に「ジプシーのとき」なんかはサビの部分でみんなが演奏するかと思ったら、三村さんのギターをただ三回重ねて作った。


僕の改作した歌詞は、三村さんの元歌詞の延長路線だけど、曲に合わせた夢幻調と透明な切なさを出そうとはしました。《ゴルゴダの丘/人のしずく》なんて、イエス・キリストの磔刑とマンドラゴラの伝説[※ギロチンによる斬首の瞬間、受刑者が射精し、精液が飛び散ったあとから、毒草マンドラゴラが生えるという伝説]のアブナいパッチーワークなんだけど、誰も指摘してくれないね(笑)。




***「ダラスについて」***


三村 


これは07年の初めにまとめて出来た曲のうちの一つ。色んなバリエーションを考えていた時に、阿部先生がキンクス・コードの曲はどうかって作り始めたんです。



阿部

 
キンクスの『プリザベーション第一幕』に入ってる「クリケット」だよね。でも「物蔭に男!」の所まで作ったあと、展開が分からないって放り出しちゃった(笑)。それで三村さんが完成まで持ってったんだよね。



三村

 
それで私はあんまりキンクスを聴いてなかったから、ポール・マッカートニーの「マクスウェルズ・シルバー・ハンマー」をイメージして作りましたね。



――ああ、確かにあの曲の感じがありますね。歌詞のことはこのあいだ阿部先生に聞いたからよいとして、この録音では二人でギターを弾いているんですよね。そのことを聞かせてもらえますか?



三村 


そんなに大した話じゃないですけど(笑)。これは船戸さんがアレンジに困ってて、最初は私がラグタイムっぽいギターを重ねるってことだったんです。その演奏の指導を阿部先生にしてもらったんだけど、録音当日に弾いてみても阿部先生には「まったくダメだ」ってダメ出しを受けてしまった。そしたら船戸さんが「阿部さんも弾いてみて下さいよ」ってことで先生が弾いたら、先生、めちゃくちゃ緊張して(笑)。



阿部 


俺、音楽の本番ってアガるんだよね。講義やトークショーとはちがう。以前、三村さんの演奏をギターサポートした江古田でのライヴもそうだった。もうピックを持つ指が汗で滑りそうで(笑)。このときは「もう一回弾かせてくれ」ってお願いしてまた弾いたんだけど、まだたどたどしかった(笑)。演奏指導したときとは全然ちがう。そしたら船戸さんは僕と三村さんのギターの音量を同じにしちゃった。そうすると酔っぱらったラグタイム・ギグみたいだってことで意外と良くなった。それでオモチャも入れちゃえってなったんだよね。僕は右のギターです。謙遜したけど(笑)三村さんよりもフレーズは歌いながらつながってアドリブ線形もはっきりしているし、部分的にはラグタイム以上のジャズアプローチも入ってます。右のギターのほうが絶対に巧い。聴くべし、です(笑)。ただ音が一瞬外れる箇所があって、ピッキングミスも若干ある。




***(11)***


***「別の肉になるまで」***


三村 


これは『三毛猫』の頃からある曲ですね。この成立過程は前の阿部先生のインタビューでいったから良いか。




***「岸辺のうた」***


三村 


これも話に出ましたね。転調を考えて気合い入れて阿部先生が作った。




***「昔みたいに」***


三村 


これも出来たのは07年の初頭。Aメロは優しい感じなんだけど、サビはロックというか。アルバムは最初、14か15曲の予定のはずだったんだけど、船戸さんが「まだ曲ない?」って言って、急遽デモに録音したんです。それがこの曲と「CRAZY TUNE」と「月が赤く満ちる時」。それらをアルバムに足したんです。船戸さんが暴れられる、リズミックな曲が入っていた方が良いっていうみんなの判断だった。



阿部

 
これは急遽録音が決定した曲だからキーが低く直されなかった。それに三村さんが録音直前にポリープになりかかったとか当日の状態も加わり、不思議な作用が起こってる。声がメタリックになってるんだよね。



三村 


そう、薬で抑えていたからメタリックになったんですよ(笑)。



阿部 


そこに変な色気があって、すごい良いテイクになってる。とりわけ声が高音に移る瞬間、翻るところがゾクゾクするほどエロい。曲のラスト、機関車が停止するみたいに次第にゆっくり「ズチャ・チャ・・チャ・・・チャ」と終わるのは、最初曲ができたときからの僕のアイデア。そのエンディングが二人の演奏に踏襲されている。デモ音源がそうだったんだよね。実際その終わるタイミングは一発録りの中で二人の呼吸で決めてるんだけど、すごいいい感じで行った。3テイクあったうち、一番短いテイクだったんだけど。


これも杉本真維子が褒めてた。「今でもまだ 見つからない 昔みたいな座り方が。」って所がすごい良い歌詞だって。女の子の琴線に触れたんだと思う。なんでそういう歌詞が書けるかというと、女の子の座り方を僕が昔から割と注意して見てたからだ(笑)。



三村 


そうなんですか(笑)。



阿部 


例えば自転車に乗る時にパンツをじかにサドルに当ててるか、スカートを挟んで乗ってるかっていうことに注意してたね(笑)。それと膝から下が腿の横に来て、お尻を地面に完全にペタッと付けて座る、「おばあちゃん座り」ができる子も好きだったし、単なる「女子の体育座り」も好きだった(笑)。「座りフェチ」だったのよ。



三村 


これは歌うのが難しかったですよ。「百億回の愛」とかの方が歌いやすい。



――でも「百億回の愛」は歌えないけどね。



阿部 


そう、あれは歌えないんだよ。一見気づきにくいけど、途轍もなく不規則な言葉の配置で、実はすごく三村個人の身体性の強い作曲なんだ。




***「百億回の愛」***


阿部 


これは宮川泰作曲、園まりの「逢いたくて逢いたくて」とかにコード進行が似てる。細野さんと清志郎と坂本冬美のユニット、HISがラグタイムっぽくカヴァーしてたこともある。このアルバムのなかでは、一番「レトロ」「昭和歌謡」の色彩の濃い曲。歌詞は壮大だけど。



三村 


先生は宮川風っていうけど、私はどの曲が宮川作曲って言えないくらいだからなあ。でもどこかで聴いたのが耳に残ってたのかもしれない。ジャズ・コードで作りたいなと思って、適当にデミニッシュとかフラット・ナインスとかを入れてフレットをいじってたら出来たという感じかな。



阿部 


いい曲だよね、これは。最初からアルバムの最後に入るかなと思っていたし、テイクを聴いてもそう思った。



三村 


最初から歌えていた曲ですね。歌詞にすっと入っていけたというか。



――三村さんの体の中で無理なく出来ているって曲だと思う。でもさっき話に出たように三村さん以外の人はこれを歌えない。三村さんが自分で思っている普遍と他の人の思ってる普遍がずれてる。それが三村さんの個性だと思う。



阿部


カヴァーの申し込みのありそうな曲なんですけどね。




(収録時間105分、08年3月4日、立教大学・阿部嘉昭研究室にて)

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