▼年譜

自筆年譜(0~43歳)

自筆年譜(0~43歳)

*1958年(0歳)
8月2日(中上健次生誕の丸12年後――ビートたけしの瀕死のバイク事故の丸36年前)、東京都大田区堤方(現・中央8丁目)に生まれる。容貌魁偉、「海坊主」とあだ名された。


*1959-1961年(0歳/2歳)
母親が体調を崩し、以後約1年半、母の金沢市の実家で、祖母を母親と勘違いして育つ。母親が平癒し、祖母と引き離されるときは大泣きに泣き、親戚一同から不憫の念を誘った。


*1962(3歳/4歳)
夢想癖のつよい内気な子供だった。ドブ遊びに興じ、その不潔な飛沫で顔に皮膚病を罹患。偏食がひどく、痩せこけていた。六学年年長の兄の、よれよれの「お下がり」をいつも着ていた。家は一戸建購入のために倹約していた。

このころ左利き矯正を無理やりなされる。以後、手先が不器用になった。


*1964年(5歳/6歳)
脊髄炎にて約半年の長期入院。兄からもらった見舞いがビニール地の球面全体にディズニー「101匹ワンちゃん」のプリントされたビーチボール。数を算えられるようになったころだったので、兄は「ボールのうえに犬を101匹算えられたら退院できるよ」と慰めをいった。その言葉を信じ算えようとしたが、高熱と球面の迷路性に幻惑されて、幾度も算え損ない、結局101匹目まで行くことがなかった。幼な心に死を覚悟した。ディズニー嫌悪はこのころにはじまっているのかもしれない。

私立めぐみ幼稚園の年長組に入園。母親の句に《渋柿や季節はづれの入園児》。


*1965年(6歳/7歳)
4月、大田区立池上第二小学校に入学。


*1966年(7歳/8歳)
母親の主張する「方違え」により、世田谷区玉川等々力町に一家で転居。それにしたがい世田谷区立尾山台小学校に転校。このころも夢想癖は直らず、遊び友達のほとんどが近所の女の子の同級生だった。成績はオール2に近かった。


*1967年(8歳/9歳)
7月、神奈川県鎌倉市七里ガ浜東に一家で転居、それにしたがい鎌倉市立稲村ケ崎小学校に転校。空気の透過度がまし、世界に向けた自分の視線の焦点が合いはじめた。オゾンの御利益か、小児喘息も快癒へ。偏食がほぼ直り、やや肥りはじめる。

色気づいた兄が聴きはじめたラジオのヒットチャート番組(邦/洋)にたえずつきあった。「ポップス」の芽が身体奥にしまわれていった。

当時、立ち読み(座り読み)の天国だった鎌倉市内の諸書店で漫画単行本を次々に耽読。家には本を購入する習慣があまりなかった。マンガ雑誌「ガロ」「COM」も親に隠れて読みはじめる。


*1968年(9歳/10歳)
腸の発育不全で腹痛を繰り返し、ついに2週間の入院。腸が過敏という宿痾はこの時期に決定された。

男子の同級生と打ち解けるような性格変貌がこの時期起こった。


*1969年(10歳/11歳)
4月、小学校入学いらい続いていた担任ぎらいという不幸がついに解除される。このとき自分に「天使」が取り憑く。塩沢芳子先生は生徒の創意を発掘する意欲的な若い教師で、その担任2年間では読書やら作文やら漫画描きやらの悦楽を植えつけられた。女子が早熟で美人揃いだった学級でもあり、学校に不思議な居心地のよさを感じた。この感触は現在おこなわれる同窓会でも不変だ。


*1970年(11歳/12歳)
このころから小遣いを溜めてはLPレコードを買うようになる。ラジオでの「ビートルズ・ストーリー」に魅了されていたので、まずビートルズを集めはじめた。

学級新聞づくりに精をだす。

父親に大阪万博に連れていってもらったのが、ほぼ父親との最後の記憶となる。


*1971年(12歳/13歳)
4月、鎌倉市立御成中学校に進学。

家庭が翳りはじめる。父親は家に寄りつかなくなり、母親は病気がち、兄は学生運動で不在がち、家庭内でも反抗をつよめていった。連日の怒鳴りあい。お手伝いさんが何人も変わった。世話ができなくなり愛犬も手放した。

偏頭痛に悩まされはじめる。風のつよい日は外出できないほどだった。ただしワンダーフォーゲル部で手緩くからだを鍛えてはいた。潮風が直に入り込む高台の校庭を走り回っていたので、陽灼けした。以後、「地黒」が決定された。

小学校以来の友人と鎌倉駅前「すみや」を舞台にレコードを分担で買いはじめる。以後3年のお気に入りはニール・ヤング、ザ・バンド、オールマン・ブラザース・バンド、ライ・クーダー、エリック・クラプトン、グレイトフル・デッドなど。


*1972-1973年(13歳-15歳)
家庭環境から当然、ペシミズムが身につく。自殺作家の作品を読み進むうち、いつしか兄の書棚にあったその他の本もすべて読了していた。啓蒙書や堕本の多さが兄を軽視する一因となった。

詩作をはじめる。ただし霊感源はボブ・ディラン訳詞や高田渡、それにマンガ雑誌「ガロ」程度だった。


*1974年(15歳/16歳)
4月、神奈川県立湘南高等学校に入学。県下一の進学高だったので成績が挙がらず、腐る。

音楽的には友人からブルースを中心にアメリカ黒人音楽の洗礼を受ける。

兄のギターを本格的に弾きはじめる。ただし運指の練習で指に血豆をつくりフレットを鮮紅に染めるような音楽好きの「運動部」的体質を軽蔑し、面倒なコピーも厭った。


*1975年(16歳/17歳)
父母の正式離婚が成立。母親側に引き取られ、4月から旧姓「広坂」を、母親の結婚前の姓「阿部」に換えた。以後、母親と兄、ふたつの疑似「父権」から挟み撃ちをくらい窒息状態となる。

4月、クラス替えで「不良」仲間との交流ができ、自らも完全に不良化する。体力はなかったが度胸だけはあり、「悪」への下降に怯まなかった。喫煙・飲酒はこの局面で習慣化。眼つきも悪くなった自覚があったが、麻雀仲間の友達の父親から「眼がキレイ」といわれた。

小遣いはレコード以外、文庫本購入に当てた。ヒーローはランボー、ジュネ、坂口安吾といったところ。むろん「流行」の域を外れていない。

文芸部に所属し、拙い詩や小説を発表していた。

日本テレビ系列で土曜日昼間に放映されていた任侠映画がお楽しみだった。


*1976年(17歳/18歳)
倨傲が昂じ、母親との折り合いが完全に悪くなる。母親は「いい子」に戻った兄を支持した。

高校3年間のギター練習の成果は、「何となく黒っぽい雰囲気の」ギターが習得されたのみ。以後、上達がほとんどなかった。ちなみに当時の最大のギター・ヒーローはエルモア・ジェイムスとデヴィッド・ブロムバーグとキース・リチャード。

鎌倉駅前の映画館「テアトル鎌倉」でオールナイト興行がはじまり、とうぜん「不良たち」がそこに屯した。ところが何げなくみていたATG作品に、自分だけが魅了されていった。仲間は寝ているか通路で騒いでいた。

このころ愛読雑誌に、「(ニュー)ミュージック・マガジン」のほか「映画芸術」が加わった。映画批評を生業とする者としてはあまりに遅い目覚め。ただ陽光燦々たる湘南地方では映画を観る環境ががんらい存在しなかった。


*1977年(18歳/19歳)
4月、慶応義塾大学法学部法律学科に入学。何の受験勉強もしなかったので浪人してどこかの文学部に入る予定が、偶然そこに引っ掛かったかたちだった。とうぜん学業に興味が湧かなかった。サークル活動に打ち込むことはその時点で予定された。

商学部不正入試で全学スト。スト実行委員だったが、ノンセクト・ラジカルの立場だった。スト中、水泳の授業が潰れたため、文学部転籍の途も閉ざされる。

7月、一家を挙げて町田市玉川学園8丁目に引越す。

入学直後、映画関係のサークルに入るつもりだったが、新人勧誘用の舞台写真につい魅せられて演劇関係のサークルに入ってしまう(女優が上半身裸だった――しかしあとでそれは女装した男優だったとわかる)。

そのサークルで2学年上の仏文科学生岸本健史(彼がその裸の主)と知り合い、徹底的な薫陶を受ける。とんでもない才能だとおもった。以後影響されて読んだ本には、ポオ、ボードレール、リラダン、マラルメ、ロートレアモン、シュルレアリストたち、江戸川乱歩、塚本邦雄、加藤郁乎など。聴いた音楽はジミ・ヘンドリックス(それまで食わず嫌いだった)、フランク・ザッパやジャズもろもろ、観た映画はゴダールやヨーロッパのアート系映画や実験映画やロマンポルノだった。

家庭教師と高校時代培った麻雀技巧で得たカネで、このころが一生をつうじ最もカネ回りがよかった。嗤うべきことだが。古本屋と名画座と小劇場通いを頻繁に繰り返しても資金は尽きなかった。アテネフランセで見たフランス人が「エコー」を吸いカッコいいと思ったことから、以後、煙草銘柄はエコーが中心となる。

サークルの冬の劇場講演で、かつて清水邦夫/蜷川幸雄の舞台で原田芳雄が演じた役をやる。出来は最悪だった。早口・悪い滑舌・華がないの三重苦。もともと戯曲執筆のまえに役者経験があったほうがいいと説得されてのことだったのだが。


*1978年(19歳/20歳)
夏、岸本健史作・演出・音楽の怪奇芝居に出演。

冬、初の自作脚本を演出。唐十郎ふうのエモーショナルな前衛芝居。岸本中心の生演奏の音楽つきだった(自らも演奏参加)。

公演稽古の合間を縫っての古本屋と名画座通いは以後4年、変わらず。


*1979年(20歳/21歳)
新入部員に美形が揃い、ますます創作意欲が湧く。夏と冬で、自作台本を演出(自作音楽も)。少女マンガを中心にサブカルのパロディを駆使した、容量満載のポップ芝居。動員数も上々、そのままセミプロ化できる勢いもあった。ひとつの公演で役柄に部員を配置することは星座づくりに似ていた。演出をつうじ持ち前の倨傲に磨きがかかる。

このころから部員との小さな恋愛がつづき、それで自分の性格の痛ましい複雑さを理解する。


*1980年(21歳/22歳)
芝居の道に進むか否かで結論が出ず、一年の猶予を欲して自主留年。

夏、自作台本を演出(自作音楽も)。幻想的艶笑譚を目指した。このころから芝居が難解、手前勝手という謗りを受けるようになる。

冬、才能を見込んだ後進に戯曲執筆を譲る。その舞台では音楽のみを担当。


*1981年(22歳/23歳)
夏、自作台本を後輩の演出に委ね、自身が主演(音楽も)。これはよりシンプルなかたちの幻想的艶笑譚だった。ゲネプロでは大受けしていたが、たった1回の本番は自身の拙い演技が祟り、すべて空転の感があった。いまでも夢をみる。

後輩が入ったセミプロ劇団《早稲田「新」劇場》での新人公演でお蔵にしていた自作台本の使用許可をもとめられ快諾。やがてその台本を読んだ早稲田「新」劇場の主宰者/演出家の大橋宏が「座付作者」候補生として入団しないかと勧誘してくる。就職をしたくなかったばかりにその話に「渡りに舟」と飛びついた。


*1982年(23歳/24歳)
3月、慶応大学卒業、以後は昼間はオーディオ・ビデオ業界紙の編集、夜は早稲田での稽古見学という日々がつづく。それまでは戯曲執筆の動機をすべて「当て書き」にしていたのだが、早稲田「新」劇場の俳優たちはあまりに求道的にすぎ、創作意欲が湧かなかった。

冬、お蔵入り自作台本での新人公演。ただし大橋演出は早稲田小劇場ふうの構成芝居に範をもとめ、台本にもともとあったポップなレビュー色がまったく消えた。曲をつけてあった劇中歌も、すべて「朗読」されてしまった。ドラマツルギーの決定的な違和を感じる。結果、劇団を曖昧に退団するかたちになった。挫折感を味わう。反動は全方向に及び、劇場で映画を観ることもほとんどなくなる。


*1983-1984年(24歳-26歳)
3月(83年)、兄の結婚で実家が手狭になり、やっと母/兄からの独立がかなう。新宿区下落合1丁目(高田馬場駅から歩いて5分)の中古マンションへ。早稲田古書街に連日通い、買い溜めた本を圧倒的な勢いで読んでいった。

オーディオ・ビデオ業界紙の編集はつづけた。折からのビデオソフト・ブームで、秋葉原電器街での取材記事のほかは、だんだんそのソフト評に原稿がシフトしてゆく。芝居はまだ続けていると嘘をついて残業を拒み、夜は名曲喫茶で読書の日々が続く。このころプルースト、ブランショをはじめ七面倒な本を次々に読破。詩歌人の贔屓は西脇順三郎、岡井隆、葛原妙子などとなり、また谷川雁や平岡正明や竹中労などにも手を出し、かつての「岸本」影響圏から離れてゆく。音楽はヨーロッパ・ニューウェイヴをよく聴いていた。お茶の水の貸しレコード店「ジャニス」によく出没した。

やがてその業界紙の出していた秋葉原電器街タウン誌で東野芳明、寺山修司、高橋睦郎、鮎川誠などのインタビューを敢行。先輩社員の退社を機にその編集長にアルバイトの身で抜擢される。ただ編集部の環境が物足りなかった。給料は悪くなかったのだが。


*1985年(26歳-27歳)
4月、編集プロダクション「ジャックポット」に入社。「ビデオコレクション」「TVガイド」「週刊文春」「NEXT」などのビデオ紹介頁を担当。様々な原稿を憑かれたように書き飛ばした。一月に一回、締切りが5つ程度重なることがあり、ほとんどタコ部屋状態での勤務をこなす。その社長藤丸哲雄からは企画の立て方、頁の細分の仕方、デザイナーとの折衝方法、雑誌原稿の書き方、活きのいい書き手の選定方法、見出しの立て方などで大きな薫陶を受けた。スパルタ教育だった。以後、どんな編集作業でも発想直後に頁の具体性がみえるようになる。

やがて編集業務に習熟してくるにつれ、藤丸と価値観のちがいで衝突するようになる(「難解」ごのみの新人類ライターふうの自分と、篤実で芯は真性映画好きの藤丸という相違だった)。論争では負け続けた。結果、「10年年長」世代を敵と意識することが多くなる。

あまりの激務のため、恋人と別れる。またそれ以前から密かにおこなっていた創作活動もすべて途絶してしまう。中学以来の創作ノートはすべてこの時期、廃棄してしまった。詩人の自覚が完全消滅する。語彙に大変化が起きた。

ジャックポットの事務所には豊富なビデオソフト・ライブラリーがあり、稀な休日にはそこから持ち帰ったビデオを自室で大量鑑賞するのが常になった。とりわけハマったのがアメリカのクラシック映画。律義に無字幕ものもみた。

雑誌「リュミエール」が創刊され、新しい映画評論の胎動を完全に意識する。「イメージフォーラム」をふくめ、そのころあまり読んでいなかった映画評論にふたたび接するようになる。

ジャックポット勤務経験をつうじては、宇田川幸洋、滝本誠、温水ゆかり、高橋源一郎、松村光生、青山正明などと知遇を得た。とくに青山は犯罪色のつよいビデオを豊富にダビングしてくれた。松村氏とはその後もしょっちゅう飲んでいた。


*1986年(27歳-28歳)
藤丸社長から「小規模事務所では社長に従わない社員は置けない」「レギュラー頁を存続する条件でフリーとなれ」「机と電話は貸す」「資料集めの労は免除するからレギュラー頁以外のギャラは自分で稼げ」「仕事の紹介もする」という破格の申し出を受ける。フリーライター/エディターとして自分の行く末を考えはじめる。

そのころ自分の高田馬場の中古マンションを足場にしていた兄から、「弟が家に全然帰っていない」と母に報告が入れられ、兄・母のふたりがこちらの就職を画策しだす。折から兄の勤める西友では映画製作が開始されていて、人材をもとめていた。結果、上記と比較衡量をしたうえで「西友映画製作事業部」への就職を決め、藤丸を裏切るかたちとなった。そのように決断した理由は単にからだがラクになりたいためだった。

吉田喜重監督『人間の約束』の配給宣伝に参加。

以後実現しなかったが、映画企画書も数多く書いたし、マーケット分析などにも精をだした。

ただ宣伝期間以外は暇だった。よって勤務時間終了とともに速効で劇場に行き、7時の回とレイトショーを梯子した。また休日も浴びるほど映画を観た。大学以来の劇場での映画体験の習慣はこの時期完全に蘇った。最も多く観たのは同時代ハリウッド映画だったとおもう。読書量も復活した。そんな生活が以後、数年つづく。

生活に余裕ができ、ここから数年間のあいだ、数人の恋人が短期間ながらできた。


*1987年(28歳-29歳)
森川時久監督『次郎物語』配給宣伝。

このころジャックポット時代のライター仲間の伝手でAV雑誌や通常のビデオソフト雑誌に小遣い稼ぎの記事を書き飛ばす。筆名使用。ほとんどが愛着のない原稿で、散逸したまま。AVレビューを大量に書いて感覚にどんな変貌が起こったのかは『AV原論』あとがきに記した。

実家近所の町田市玉川学園1丁目の中古マンションに引越し。


*1988年(29歳-30歳)
吉田喜重監督『嵐が丘』製作+配給宣伝。製作宣伝のノウハウは東宝が教えてくれ、現場の人たちが支えてくれた。この作品から宣材作成は販売促進部でという社内規約が崩れ、映画製作事業部自身でおこなうようになる。とうぜん編集経験のある自分が作業・立案の先頭に立った。東宝宣伝部との折衝でも火花を散らした。

吉田監督とは宣伝期間中、多くの時間を共有した。また、取材者の不勉強を「お前の仕切りが悪いからだ」といつも怒られ、下らない質問には代わりに答えさせられ、しかも「正しい質問」を誘導するよう取材の現場で報いていた松田優作からは、配給宣伝の最後に「お前は10年後に何やってる?」「たぶんプロデューサーじゃないですか」「そのときオレをどうするんだ」「脇役で使います」「上等じゃねえか――じゃ絶対に10年やってろよ」といわれたのがいい思い出となる。

また撮影現場に足繁くかよったことで、映画技術の実際にも習熟度を加えてゆくことになった。


*1989年(30歳-31歳)
熊井啓監督『千利休・本覺坊遺文』製作+配給宣伝。熊井監督の酒につきあわされるようになる。監督補・原一男からは製作宣伝のより現場的なノウハウを伝授されたほか、美術監督の木村威夫をはじめ熟練スタッフの知遇も得る。

松田優作逝去。ショックだった。


*1990年(31-32歳)
ロンドン留学から帰国した川森律子が同僚として入社してくる。その川森の力量が認められ、結果、代わりに自分がアムス西武三軒茶屋の販促にほおりだされた。若手社員に力が集中することを上司が嫌うセゾングループ特有の人事方式。その直前の、上司への冷たい態度も祟った。だが彼らは明らかに「映画の敵」だったから馴染めなかった。

付き合いはじめた川森は三軒茶屋で腐らずにとりあえず我慢しろと進言、その言葉どおり勤務を半年間つづける。合わない仕事のストレスと疲労で、酒太りの気味のあった体重が10キロ近く落ちた。

その勤務地に映画の宣伝で知遇を得ていた「キネマ旬報」の編集者が「ある用件」で何度も電話をかけてきたが、こちらの仕事がハードすぎ、何度も会見約束が流れてしまう。「ならばもう、ウチで働いてはどうだ」と逆提案され、11月、西友を退社してキネマ旬報社に就職。そのキネ旬がセゾングループにやがて編入されるのは皮肉だった。


*1991年(32歳-33歳)
キネマ旬報社では事業部に配属、単行本作成のほかは、「キネ旬」本誌の編集を遊軍的に手伝うというスタンスだった。中国語映画関係と古い日本映画の特集、それに映画書書評頁の担当が多かった。同世代の批評家の原稿には書き直しを頼むことが多かったが逆にそのことで信頼されていたとおもう。映画書書評欄では原稿入手を急ぐための社内依頼がつづき、それで「阿部嘉昭」の署名原稿が一部で注目を集めることになる。

年頭に郡淳一郎が入社してくる。入社即日彼は徹夜となったが、そのさい吉田健一と相米慎二の話を延々して、肝胆相照らす仲になった。8歳年少にして読書量はこちらよりも圧倒的に多く、おまけに記憶力も抜群。ずいぶん彼の読書指南や映画指南に与った。岸本・藤丸以来の第三の師匠だ。おまけに交際範囲も広く、評論家を中心に次々に若手人材を紹介してくれた。それらの人間と、当時竹橋のフィルムセンターや大井武蔵野館やアテネフランセで拡張的再会を繰り返し、連日夜の街を連れ立って歩き、そこには雑誌「リュミエール」以後の映画評論の動勢はすべて「われわれ」が導きだすという自負があった。知り合ったのは、田中眞澄、木全公彦、筒井武文、暉峻創三、市山尚三、その他大勢。本当に何でもできるような気がしていた。やがて幻想は終わる。

石原郁子『羊たちの沈黙』論に感激し、それに男性として寄り添うべく『羊たちの沈黙』論を書き、社内投稿、郡淳一郎によって掲載される。それが映画誌に書いた初の長論だった。石原さんに関しては以後もその『三月のライオン』(矢崎仁司)評に触発され、未発表ながら『三月のライオン』論も書く。「魂の姉弟」を勝手に任じていた。そのファン意識を滝本誠にからかわれる。この時期、石原さんと実際に知り合う。

この年、郡淳一郎と共同で編集した『タルコフスキー日記』がキネ旬での最大の編集物。翻訳者鴻英良の生きにくい性格を可愛いとおもう。「キネ旬」本誌ではそのプロモーション記事として鴻英良と滝本誠の対談を司会・構成。

大学の後輩が編集部に勤務していた『流行通信HOMME』のために、「映画本」特集を細部にわたり企画し、その執筆にも関わった。

台北にて張藝謀監督『紅夢』プロデューサーとしての侯孝賢にインタビュー。彼の主張する「アジアはひとつ」の具体性を本気で考えだす。魯迅を読みかえしはじめた。

仏滅の11月30日、川森律子と結婚式。媒酌人は木村威夫夫妻、新郎側の主賓は熊井啓。新婚旅行は降雪直前の閑散とした東北地方だった。


*1992年(33歳-34歳)
他社刊行物への執筆がつづいたことが上司の忌避に触れ、以後は執筆を自粛するほか筆名での執筆を余儀なくされることになった(「稲村凪彦」名を使用)。それでも郡淳一郎の人脈で、「カイエ・ジャポン」第2号に長大なエドワード・ヤン論を書いた。

上司の排除行為により仕事を制限されたことで、会社退社後のより充実した時間を過ごすようになる。たまの本誌編集の手伝いを余裕綽々でやっていたことで同輩の同僚編集者からは不公平感が出たようだが気にしなかった。

時間に余裕ができたことから、妻と一緒のTV鑑賞が習慣化する。妻の鑑賞態度は独特で、画面進展に辛辣な文句をいいながら、鑑賞を愉しむというもの。それに毒されて、TV鑑賞の愉しみを自分自身知ることになる。折から、トレンディドラマの絶頂期だった。この愉しみが昂じて、やがてハリウッド映画を観なくなってゆく。日本のTVドラマはハリウッド映画の代替物になりうるということだ。

郡淳一郎退社。ほかの既存退職者と併せ、社内に好きな人間がいなくなる。あとは攻撃性や創造性のない「社畜」ばかりという印象。つまり出社理由がなくなった。だんだんニヒリズムに陥るようになる。

『タルコフスキー日記Ⅱ』の編集引継ぎで武村知子の知遇を得る。彼女の天才はそののち様々な局面で思い知らされることになる。また、自分のメランコリー研究の師匠ともなった。


*1993年(34歳-35歳)
1月、筒井武文から「大和屋竺が死んだという噂があるんだけど、真偽を確かめてほしい」と会社に電話がかかる。調査の結果、死亡事実判明。ショックを受ける。

総務担当役員が退職、その後任としてヒラ総務職のポストを用意される。一部の上司による封じ込めに屈した恰好。社長の黒井和男も、鉛筆を握ったり、ワープロに向かったりすることすら許さなかった。総務職は営業管理までふくめ無難にこなした。小さな会社規模だから可能だったことにすぎない。文字どおりの閑職でますます暇になり、映画と読書に走る。

いっぽう本誌編集では人材が払底し、「総務職の傍らで」という条件付で、その手伝いへと促される。数々の特集をこなした。眷恋の新しい原稿執筆者に会いにゆき、長話をするのが愉しみだった。これ以前も憧れの上野昂志や平岡正明にはじめて電話したとき声が震えた。他の社内編集者は留守録とファックスだけでお馴染みの面子と原稿依頼・受け取りのやりとりをしていた。

本誌増刊「中華電影読み物データブック」の編集に従事、平岡正明と宇田川幸洋の対談を司会・構成した。平岡の武闘派の強靭、宇田川の柔らかい博識に圧倒される。構成にすごく自信を感じた。

「ガロ」誌上の新人評論賞に「安部慎一論」を「藤田嘉昭」名で応募、佳作入選で掲載される。このときの受賞者は『寄生獣』論の阿部幸弘だった。

「キネ旬」の『大島渚1960』書評特集で大島渚、それと青土社編集部・宮田仁へインタビュー。大島の理知的な言葉の展開力に圧倒されるとともに彼を美食家・健啖家とおもった。

『エイゼンシュテイン全集』第9巻を編集。そのプロモーション記事で山口昌男と鴻英良の対談を企画した。山口にはかつて『エイゼンシュテイン全集』の訳文を批判した有名な論文があり、山口への対談出席依頼は、訳文に自信があったうえでの確信犯的なもの。しかしそのことが監訳者山田和夫(彼はセゾングループの統帥堤清二の獄中の友)の忌避に触れ、彼の被害妄想的な申し出に卑劣な上司が同調、「協調性を欠く」かどで解雇が決定した。呼びだされたときの上司たちのあまりに幼稚な物言いに失笑、退職金上乗せを条件にこの不当解雇を飲んだ。いつも繰り返されるキネ旬内部での陰謀劇の当事者にたまたま自分がなったにすぎない。同世代の同僚たちは無気力に事態を傍観するのみ。山口は堤清二に不当性を進言しようかと申し出てくれたが、もうサラリーマンに未練はありませんと、その親切心だけを頂戴した。

妻に解雇の事実を告げるときには心配した筒井武文と郡淳一郎が同席した。妻はふたりにすら罵倒と説教を大迫力で展開した。朝ふたりが気圧されて帰ったあと妻は大泣きした。「頑張る」と宣言した。


*1994年(35歳-36歳)
1月末日付でキネ旬社員の身分から完全解放される。たしかこの有給休暇消化日程のあいだに福間健二/荒井晴彦ほかの編集による大和屋竺の遺文集『悪魔に委ねよ』を精読、折から熱狂的に読んでいたベンヤミンとの類縁性を意識し、想像力における非連続性は恐怖に値するかという命題を考えた。何かそれで自分の批評意識が確定してゆくような感があった。

キネ旬閑職の折りに間歇的な徹夜執筆で書きためていた『北野武VSビートたけし』の原稿を完成させ、キネ旬時代に知り合っていた筑摩書房の間宮幹彦氏に渡す。蓮實重彦の推輓あって、刊行決定。妻は逆の意味で大泣きする。刊行のタイミングがビートたけしのバイク事故直後だったため、例外的にこの処女作は版を重ねた。郡淳一郎の音頭で出版記念会が開かれた。このとき武藤康史の撮った写真は何か時代の幸福感にみちていて、いまでも見返すと眼が潤む。

木全公彦の紹介で、「イメージフォーラム」(とちぎあきら編集長時)7月号から、約20枚という大枠の、映画書書評の隔月連載をはじめる(同誌休刊の翌年7月まで連載は続行される――計6回)。

アテネフランセでの大和屋竺追悼映画祭で、福間健二、高橋洋、塩田明彦、井川耕一郎らの知遇を得る。「イメージフォーラム」でも『悪魔に委ねよ』と高橋らの編集による『荒野のダッチワイフ』を併せた書評記事を書いた。

人づてに、図書新聞への就職試験の話があり、同紙の当時の編集長山本光久の面接を受ける。「お前は俺の下で働くタイプではない」とされながらも個性に興味をもってもらい、以後、TV時評の連載を同紙ではじめることになる。連載は後任者(轟夕起夫)がようやく決定する98年2月までつづいた。

尊敬するフィルムアート社の稲川方人にキネ旬時代に考えた映画書企画を計10企画ほどもちこみ、「みんなやりましょう」と安請合される。出した企画の記憶はもう曖昧だが、上野昂志との共著による阪本順治『トカレフ』の受容問題をめぐる拙速本、「増村保造全集」、「宇田川幸洋選集全4巻本」、中国語映画の達者な書き手によるオムニバス論集「中華電影全十二講」などがあったことは憶えている。うち西河克己著の『「伊豆の踊子」物語』のみが実際に当方の編集クレジットでこの年フィルムアート社から刊行された。のこりは翌年ごろの稲川の突然の退社ですべて宙に浮いた。社内連絡もなされていなかった。詩人としては崇敬に値するが社会人としては失格と失望した。

『映画讀本成瀬巳喜男』の編集作業が、フィルムアート社の稲川方人の編集(のちそこに郡淳一郎が加わる)、編者・田中眞澄・阿部嘉昭・木全公彦・丹野達哉の面子で開始される。

橋本文雄の録音技師人生を振り返る『ええ音やないか』の編集が、リトルモアの孫家邦・竹井正和、それに上野昂志・当方の面子で開始される。むろんインタビュイーは橋本文雄。いたるところに映画関連の仕事があるという喜びがあった。それはやがてヌカ喜びと化してゆく。

朝倉喬司の出版記念会に出席。そこで初めて直の知遇を得る。酒席で朝倉さんの犯罪評論家としてのありかたを進言、その細身のからだで力いっぱい、「キミはいい奴だ」と抱き締められる。のち同じ行為を、鴻英良の出版記念会後の唐十郎からうけたこともあった。ともあれ15歳以上年長の男とは相性がいい。

情けない話だが、退職金、失業手当、単著が重版となったこの年の収入が、フリー以後での最高年収だった。そのことで「フリー」になることへの楽観姿勢が出、危機感のなくなったことが結果的に痛かったとおもう。


*1995年(36-37歳)
『映画讀本成瀬巳喜男』完成。

フィルムアート社編集、邦/洋の「映画百年」本にいくつかの短い作品評を執筆。

同じくフィルムアート社編集、『楊徳昌電影読本』に「楊徳昌キーワード事典」を執筆。暉峻創三に書きたいことを書かれてしまったと嘆かれる。

「イメージフォーラム」休刊にショックを受ける。「映画百年」というのに。

その「イメージフォーラム」5月号に書いた佐々木敦(キネ旬時代は彼と仲がよかった)の映画書書評の記事があまりに辛辣だったことから、佐々木自身の反論が同7月号に掲載される。以後、「カイエ・ジャポン」一派から間歇的に「鉄砲玉」が飛んでくるようになる。この時点で今後、「党派性」を一切まとわない、と決意。そうでないと褒め筋に意外性もなくなるだろう。結果、仲のよい評論家とも疎遠の色彩が出はじめる。

『北野武VSビートたけし』の効果あってか、この年から試写状が大量に舞い込むようになる。ただし試写会人種はキネ旬時代と一変してしまっていた。友達にあまり会わない。試写会を出たとき気を許すひとと飲む機会も激減した。早くもレールに乗り出した自分の生業が空しくなる。キネ旬時代によく電話をかけてくれたひとも、ほとんど電話をかけてこなくなった。あのときは仕事ゲットが目的だったのか。

眼精疲労が甚しくなり、たしかこの時期、石原郁子さんに映画評論家は十年つづけられないかも、と泣き言をいい、励まされた。

「図書新聞」に「たけしがオウムに勝利する日」を執筆。この記事はのち同社刊の特集ムック本『地獄のオウム録』に編入された。

「図書新聞」に切通理作『お前がセカイを殺したいなら』の書評を執筆。この時期から彼との電話のやりとりがはじまる。実際に会うのはもう少しあと。

『北野武VSビートたけし』に感銘した大島渚から、彼のインタビュアーにじきじき選定されるとともに、「大島渚VSゴダール」という厄介な命題をもつ原稿の執筆者にもじきじき指定される。それぞれの原稿は「野性時代」と「現代思想(臨時増刊)」に掲載された。この夏はゴダールと大島とで一苦労。寺尾次郎氏が資料を貸してくれた。

橋本文雄『ええ音やないか』の編集作業は大工事の連続。そのなかで孫家邦とは喧嘩・仲直りを繰り返した。彼の侠気には誰もが一驚するはずだが、次第に感情振幅のパターンがわかってくると、その人間味にとくに惹かれるようになってゆく。実は生きにくい奴ということ。それに「ヘタをすると俺より文章が達者なのでは」と批評家に危機感を抱かせるところもある。結局は正体不明の華僑系。

福間健二発行の「ジライヤ」に大和屋竺論「彼はその映画をたったひとりで観た」を執筆。大和屋の未発表台本や井川耕一郎によるゆかりの監督へのインタビュー掲載のほかに、福間健二、筒井武文、瀬々敬久、夢野史郎、石原郁子が評論を執筆したこの号は愛着のある一冊。

この年度より「映画芸術」のベストテン選者となる。

年末ギリギリに阪本順治『BOXER JOE』のプログラムの編集を、デザイナー清野僚一の事務所にて突貫工事でおこなう。この仕事は孫家邦の紹介。


*1996年(37歳-38歳)
「映画芸術」誌に「虚無的な機械――神代辰巳『女地獄・森は濡れた』」を書く。

武藤康史の推輓で「短歌往来」誌に女流短歌論「誰が女歌をうたったのか」を執筆。

「図書新聞」山本編集長から、お前のTV本を何か出したいが、いいテーマはないかと問われ、即座に「野島伸司」と応ずる。1カ月ほどで脱稿、即刻出版化。当時同紙編集部にいた、のちの芥川賞作家・藤沢周からは、「いよいよ阿部さんの時代到来ですね」と、勘の悪い世辞を頂戴する。藤沢め、ひとりブレイクしやがって。

郡淳一郎の編集で武村知子『どろろ草紙縁起絵巻』が出て、一読、感動とショックを受ける。「月光」誌上では『野島伸司というメディア』阿部と『どろろ―』武村の著者対談となる(司会は筒井武文)。エライ長尺記事だった。このとき「月光」編集長・南原四郎氏の知遇を得る。彼はのち、「ユリイカ」編集部とともに武村知子への原稿依頼の波状攻撃を開始、その意味で素晴らしい文化遺産をのこしている。

『ええ音やないか』完成。とくに本の完成する直前の修羅場過程で、橋本さんの録音技師としての偉大さを幾度も再認識した。ダンディ。耳がいい。美しい辛辣。実はテマティスム構造批評的な視点すら映画にたいしもっている――等々。一念発起し「映画芸術」誌では「橋本文雄特集」を飛び入り参加で編集した。

『キッズ・リターン』公開のタイミングで北野武にインタビュー。逆に喋らされた。テープ起こしをしてみると、たけしの言葉は速射砲的だが、一字一句そのまま起こせる。逆にこっちの言葉は速射砲的なのは似ているが、言葉遣いがあまりに不正確。言葉の運動神経がちがうとおもった。記事は「関東版」「関西版」「中部版」にヴァージョンちがいで書き分けた。単行本印税ほどの収入があった。「ぴあ」円満退職組で原稿執筆の既得権をもつ者たちの暮らしは成立しているなとおもった。

「笑いの黄昏」を「早稲田文学」に執筆。学生編集号で学生に自分のファンがいた。

「映画のリュエール性」を「図書新聞」に執筆。こちらのリュエール言及の隣に筒井武文のメリエス言及が対置されるという、対称形編集の二頁全段特集だった。

『映画讀本成瀬巳喜男』の余勢を駆って、『同・森雅之』を出すべきと田中眞澄がフィルムアート社に提案。編集同人として、田中、阿部、佐藤千広、永井正敏が参集する。しかし稲川が去り、郡も辞めることになる同社の編集部では一種の人材空洞化が進んでいたとおもう。結果、資料集めののち取材から執筆まで作業が以後1年以上、ほぼ塩漬け状態となってしまった。

孫家邦の紹介で山本政志監督『アトランタ・ブギ』の劇場プログラムを編集。これもデザイナー町口覚、「リトルモア」編集・今村真紀との大突貫工事。監督の山本とは以後、東京(府中)競馬場で、彼がオケラ状態のとき何度も出くわすことになる。

『野島伸司というメディア』の効能あって、「TVぴあ」の年度ベストドラマ賞の選考座談会に誘われる。以後、座談会収録がアンケート列挙のかたちをとるまで、年頭の座談会出席が愉しみとなる。それで多くのTV批評家の面々を知る。映画評論家とちがい抑圧のないひとが多く、好感をもった。編集は「蓮實」門下生の小林淳一と実にラディカルな怒りんぼ米澤多惠。名コンビだった。


*1997年(38歳-39歳)
1月、世田谷区北烏山に引越し。バスや自転車で中央線沿線に簡単に行ける立地なので、以後、古本屋通いも神保町から中央線沿線へとシフト変えされる。あるとき気になっていた草森紳一本が大量に見つかってそれを一挙購入、以後、草森本の蒐集がはじまったほか、某古書肆のドイツ文学本の在庫の豊かさ、その恩恵に与かることも多くなった。

セルジュ・ダネー『不屈の精神』書評を「図書新聞」に執筆。

前年度までは仕事が潤沢につづいたが、この年から急に暇になる。笑いごとではない。家にいるあいだ昔を懐かしんで自分のギター演奏の多重録音をしたり、詩集を一挙に3冊分書いたりしていた。詩集に関しては、のちにそれを福間健二と瀬尾育生に読んでもらう。福間さんはエロを喜んだが、瀬尾氏には詩句の多弁を厳しく戒められた。いちおう詩集は出せるが詩集出版はすべて持ち出しになるといわれ、ヒモの身として詩作を断念してしまう。それを武村知子は惜しんだが。

「ひとつ屋根の下2」放映のタイミングで、野島伸司研究の原稿を「TVぴあ」に書く。ところが米澤との打合せのとき新宿の路上で大転倒、ひどい捻挫となり、以後2週間ほど自宅蟄居をしいられる。そのとき詩作体験の余韻が残っていた。それで『AV原論』の「本文」部分を一挙に書いてしまう。発表のあてなく。

「映画芸術」にアルノー・デプレシャン論を書く(この原稿はのち、「カイエ・ジャポン」誌上で誤読した青山真治に厭味たっぷりに噛みつかれる)。

侯孝賢監督『憂鬱な楽園』について3媒体から原稿依頼がくる。「図書新聞」「ユリイカ」、それに劇場用プログラム。書き分けに頭を使うのが愉しかった。

このころ『雷魚』の試写会で、木全公彦から初めて瀬々敬久へ紹介を受ける。

孫家邦の仲介で、呉天明『變臉』の劇場用パンフレットを編集。これが自分の編集したパンフレットではベストだとおもう。文字がやたら多い。執筆者は平岡正明、武村知子、上野昂志、それに監督インタビュー構成原稿の自分自身ら。デザインは吉見真琴。

信じられないことにキネ旬から仕事依頼。ブルース・リーについての内藤誠と平岡正明の対談の司会・構成役だった。恩讐の彼方。愉しんで仕事をした。

余勢を駆って内藤誠『シネマと銃口と怪人』(平凡社ライブラリー)の解説執筆。

長大な三池崇史論「アジア化する日本映画」を「映画館に行こう!」に執筆。三池評価では他に先行した。ただしその掲載号が完成したのは翌年6月。

「ユリイカ」日本映画特集に執筆(「「顔」の基準」)。担当はフィルムアート社から移ってきた郡淳一郎。特集紙面全体を通読すると、細部が不協和音に軋んでいる。現在の映画評論は抑圧のなかで喘いでいるという認識をつよくもった。読んでも、そのほとんどが幸福感をあたえないだろう。監督/脚本家という実作者へのシフトをつよめている高橋洋や塩田明彦の選択はその意味で正しい。孤塁を守るということもあるが。

福間健二から東映化工での国映製作のピンク映画の初号試写に誘われる。アテネフランセでの「四天王」特集以後、亀有名画座でピンク映画の新作を半年ぐらいごとにまとめてチェックするのに手間がかかっただけに幸運だった。以後、徐々に瀬々敬久、佐野和宏、サトウトシキ、佐藤寿保の「四天王」、あるいはその下の「七福神」世代の監督や、伊藤清美・伊藤猛・川瀬陽太ら中心俳優たちと打ち解けてゆくことになる。国映の名物プロデューサー「朝倉大介」(佐藤啓子――俗称「おネエ」)には孫家邦と同じ侠気の匂いを嗅いだ。狼のように美しいおばさんだが。

「映画芸術」に楊徳昌『カップルズ』の映画評を書く。

アテネフランセでの黒木和雄上映特集が決定し、松本正道氏からそのパンフレットの編集を依頼される。デザイン吉見真琴。これも突貫工事で、黒木さんの腹心・日向寺太郎の適確な補助が有り難かった。監督の「自作を語る」では、こちらが作品ごとにインタビューし、目の前で打ったワープロ原稿を監督にみせ、直しを入れてもらうことで、大容量の原稿を奇蹟的短時間で仕上げた。そして本全体にも監督の既存発表論文から上野昂志の新稿などが加わり、もはやパンフとはいえない書冊の外観をもつにいたった。書名『映画作家黒木和雄の全貌』。ひと仕事終え、監督はこちらを「若いころの小川紳介に似ている」といった。顔か、エネルギーか。黒木監督はどうしても肩入れしたくなる詐術的な人格だった。よって「図書新聞」にもその特集上映の解説紹介原稿を書いた。それと、この仕事で日本のドキュメンタリーに関する知識が格段と豊富になった。

その実際の上映会でのある日の打ち上げで、上野昂志と絶縁。理由の真相は孫家邦への手紙のみにしるした。別にいまも上野昂志を憎悪しているわけではない。ただ仲直りの会合を俺がもつ、というお節介が多いのには閉口した。どことなく淋しい年末。


*1998年(39歳-40歳)
『HANA-BI』公開を機にした長大な北野武論『鬱王の長旅』を「ユリイカ」臨時増刊号に執筆。

この年から日本映画の映画評に仕事が極端に傾斜する。適材認定されるのはいいが、自分の仕事の幅の少なさには不満があった。日本映画への責任放棄もありえた。だが本当の打開策は、99年、大学で教えるようになるまで見つからなかった。

関西学院大学の宮原浩二郎教授から電話連絡。『北野武VSビートたけし』を愛読していて、当方の本を大学下に創設した版元から何か出したい、という。それで『AV原論』の本文部分を渡すと、本文に「註」をつけ出版化したいと再連絡がくる。大学出版だけに有り難かった。気合を入れ、その「註」はGW中に一挙に書いた。

突如『映畫読本森雅之』の作業に火がつく。先に仕上げていたインタビュー原稿と併せ、出演作解説などを手分けしてメンバーで書き、拙速で刊行。

『AV原論』刊行。朝日新聞読書欄に著者紹介の記事が写真入りで出る。また書評では石原郁子と武村知子の女性ふたりから最高の書評が出る(前者は「図書新聞」、後者は「月光」――「月光」では著者インタビューも南原さんがしてくれた)。そしてこれが著作のうちまともな書評の出た最後となったようだ(現時点の判断では)。以後の本は選択した素材と中心的な書評者の層に年代的分離があったり専門度がつよすぎるために書評執筆が忌避されるようになる。学生世代に情報を届かせたい当方としては書評紙などは関係ないともおもうのだが、この逼塞はどうにかならないものか。

ともあれ『AV原論』刊行の余勢を駆り、宮原浩二郎教授の推輓で、彼の持ち授業と持ちゼミで、二度にわたり飛び入り講義をおこなう。大学講師向き、といわれた。

このころ福間健二のウェールズ留学の話が決まる。それで彼は立教大学から来ていた講師の口をこちらに振ってくれた。感謝。題目は映画理論についてということだった。

その福間夫妻の送別会。国映の面々出席。いつもどおり佐藤寿保が吠えていた。そしてそれが石原郁子さんと長時間にわたって話す最後の機会となった。

近田春夫『考えるヒット』の書評を「図書新聞」に書く。

ベルナール・エイゼンシッツ『ニコラス・レイ』書評を「図書新聞」に書く。

孫家邦企画の「リトルモア・ムービー」がテアトル新宿のレイトで開始され、第2作『JAM』(陳以文監督)、第3作『ポルノスター』(豊田利晃監督)に肩入れする。『JAM』については「ユリイカ」に監督インタビュー、「図書新聞」に作品評を書き、『ポルノスター』については作品評が劇場パンフに掲載された。

宮原浩二郎氏上京。気鋭のベンヤミン学者にして映画史研究の中村秀之氏を同行していた。三人で愉快に飲む。

「文藝別冊」で松本人志特集が企画され、原稿依頼を受けた途端に原稿を仕上げてしまう。ところが吉本側から企画不可のサインが出て、特集は途絶。もらった原稿を活かすためにも単行本分量まで内容を膨らませてはどうかと「文藝」編集長・阿部晴政氏と西口徹氏から逆提案され、快諾。11月から猛烈な執筆活動に入る。12月初旬、脱稿。その結果、東京国際映画祭など、行かなければならない一回的映画上映機会をサボる癖が完全確定してしまった。

福間さんの友人で立教大学の英文学教授の千石英世氏から来年度の講義について具体的内容の打合せをしたい旨、連絡が入る。会ってみると、前期/後期で別内容の講義を、ということだった。「ならば前期に映画を、後期にサブカルをやります」と宣言。宣言してから、思わぬことを口走った自分にドギマギした。


*1999年(40歳/41歳)
南原編集長の『月光』、そのなぜか「結婚」特集号に、大枚の結婚論「家の中の白い女」を書く。文芸からマンガ、短歌論から犯罪論や経験談まで内容要約不能の列挙体原稿。むろん原稿の結婚観は妻との生活から導き出されたものだ。併載されていた武村知子の簡潔にして抒情味あふれる原稿に唸る。負けたとおもった。

「TVぴあ」で、野島伸司脚本の1月新ドラマ『聖者の行進』に合わせ、第3話までの脚本を読んだうえで作品論を書き、また同作の伊藤一尋プロデューサーにもインタビューをおこなう。知的障害者たちを主要人物に置いた、取扱い注意のドラマ。よって野島とTV関係者間の少数懇談会にも紛れこんだ。野島は拙著を読んでいるようだった。このドラマはとうぜん放映開始直後から話題沸騰となる。別途で作品評を書く必要のあった切通理作からエアチェック・ビデオを貸してくれと依頼があり、このとき初めて切通夫妻と面会。彼とはのち国映の初号試写などでも度々顔を合わすことに。

妻とJポップのヒットチューンを聴くだけだった堕落した音楽生活を脱却。最初は椎名林檎と宇多田ヒカルに興味をもち、以後、グレイプバイン、くるり、UAなどを皮切りに、よりウガった日本の音楽を愛聴するようになる。翌年には一部のインディーズにも手を伸ばしはじめた。郡淳一郎が育児のあいだ音楽ケーブルテレビをつけっぱなしにしていて、彼から「これがいい」「あれがいい」と電話で話されたのがキッカケ。ともあれこの年は日本のアーティストのCDをバカスカ買った。

『松本人志ショー』、河出書房新社より刊行。

立教大学で文学部中心、1-4全学年を対象にした前期講義がはじまる。題目は「長篇映画評論の書き方」。以後、7月中旬までの講義内容は、①「映画はイメージ上、なぜ廃されるのか」、②「エラソーな映画評論を書いてはいけない」、③「複製芸術としての映画」、④「音響としての映画」、⑤「映画ジャンル論」、 ⑥「映画とエスニシティ」、⑦「ショット分析について」、⑧「テマティスム構造批評について」、⑨「作家論の方法――北野武を例に」、⑩「俳優の演技について」、⑪「ゴダール」、⑫「政治的映画批評について」、⑬「映画と都市」。毎回、大量のコピー文献を大人数の生徒に配布したほか、テーマに沿って観るべき映画を指定し、教室でビデオはかけなかった。講義は草稿をつくらず、A4ペラ一枚の箇条書きメモだけでやった。大黒板に書いた文字は一講義あたりほぼ3往復、疲れたわりに、草稿をつくらなかったので、あとで何も残らなかった。よって以後は必ず草稿をつくろうと決意する。なお、⑬のときに講義全体の備忘録となる400字詰64枚の新規原稿を生徒にプリント配布した。

講義準備は1日間に限定した。しかしその準備日と講義当日で週日の2日がツブれるため、試写に行ったり、原稿を書いたりする日が激減する。この年から日々体力勝負の様相を呈してくる。だが1週間の推移がリズミカルになったことから、生産量は減少するにいたらず。

講義終了後、こちらによくブラ下がってきたのは大月美治と所雅俊のふたり。とくに前者はヒットチャートの埒外の、邦・洋の最新音楽事情を当方に伝授し、またCDもよく貸してくれた。このおかげで、後期の「サブカル」講義の内容の目処が立つようになる。その他の生徒からも現在の若者言葉、その思考方法、趣味情報などを満身に浴び、年齢が10年くらい若返ったような錯覚を感じる。回春。同時に、学生たちを取り巻く逼塞には大変に深刻なものがあるとおもった。だから彼らが可愛くなった。

ただ講義期間が終了すると、それまで買い溜めしていた本を狂ったように読みだすようになった。結果、しようとしていた夏休みや春休みの大仕事がいつも流れてしまう癖がつく。

「図書新聞」元編集長の山本光久がパソコン百科事典の外資系出版社「エンカルタ」社に移る。その月イチのTV時評を依頼される(これは契約者へのサービス配信用)。ほかに書評=四方田犬彦、サブカル=切通理作、犯罪=朝倉喬司といった面々だったようだ。ただ、「エンカルタ」自体が縮小経営を余儀なくされ、惜しいことに連載は計4回で終了してしまった。笹塚の同社にフロッピーをわざと手渡しにゆき、山本氏と毎月飲んでいた。氏は間もなく同社を退社する。

サブカルを講ずる後期授業では主題設定は漠然とした状態にとどめ、連句的に主題を移していった。女子受講者が多かったため、声や歌やからだや廃墟が主題となった面もある。このときの講義草稿は、のち『精解サブカルチャー講義』に、「サブカルとしての短歌論」計2回の講義を除き、収録される。

関西圏の大学教授を中心メンバーにしたクイズ文化研究会で、「クイズ番組の自壊」と題した3時間の講演を草稿を準備しておこなう。中村秀之氏の招聘による。この席で長谷正人、遠藤知巳両氏など、会いたかったアカデミシャンに新たに出会う。

「文藝別冊・宇多田ヒカル特集」に、「宇多田ヒカル、透明な「切なさ」」と題する長論を発表。編集・西口徹。

郡淳一郎世話人の「知恵蔵裁判」を考える会に出席し、鈴木一誌氏や中村鐡太郎氏の知遇を得る。このとき長時間、武村知子とも話した。

復刊「イメージフォーラム」第4号(最終号)に、瀬々敬久-女池充-田尻裕司を串刺しにしてピンク映画のエロス表現に迫る長論を発表。

『御法度』を発表した大島渚を特集する「ユリイカ」に、長論「中間化する大島渚」を書く。

年末、BOX東中野で「平野勝之特集」。男女比ほぼ五分五分の閑散とした客席。かつての評論仲間はフィルムセンターの「ハワード・ホークス」に日参していた。趣向の落差は決定的になったようだ。

「映画芸術」のベストテン選考委員を外れる(この年と翌年)。代わりに、大高宏雄主宰の「日本映画プロフェッショナル大賞」に大枚のベストテン選考理由を書くようになる。作品主体的な年度時評のつもり。


*2000年(41歳/42歳)
「ユリイカ」編集者(のち編集長)岡本由希子と最初の評論集の構想を練り始める。最初、彼女の多忙のためなかなか作業が進展しなかったが、やがて近作の日本映画評に内容を一本化しようという方向性が出てくる。具体的な編集作業はこの年の後半から開始。

一方、立教での「サブカルチャー講義」単行本は、ある版元にもちかけるが、長時間握りつぶされたまま、結局は色よい返事がもらえず、いたずらに月日が過ぎた。

「図書新聞」に中山信如『古本屋「シネブック」漫歩』の書評を書く。

「ユリイカ」5月号のために瀬々敬久にインタビュー。瀬々の陰謀で、インタビューが対等対談になってしまった詳細は『日本映画が存在する』に収録されている。

「図書新聞」に石原郁子『映画をとおして異国へ』『イースト・アジア映画の、美』抱き合わせの書評を書く。

立教の前期講義(映画)開始。題目は成瀬巳喜男。扱った映画は順に、①『浮雲』、②『妻よ薔薇のやうに』、③『鶴八鶴次郎』、④『まごころ』、⑤『めし』、 ⑥『山の音』、⑦『晩菊』、⑧『驟雨』、⑨『流れる』、⑩『女が階段を上る時』、⑪『秋立ちぬ』、⑫『乱れる』、⑬『乱れ雲』。授業形態は2コマぶち抜き。生徒にビデオプロジェクターで作品全体を観せてから、休憩10分、のち残り時間で作品分析をした。こちらは事前にビデオで綿密な解析をしていて、学生に「いかに彼らが映画を観ていないか」を突きつけ、しかも分析方法を毎回変えるという意味でも意地悪な講義だった。もぐり学生の姿がチラホラした。成瀬巳喜男のお孫さんも最初顔をみせた(就職試験のためその後出なくなったが、授業で成瀬を扱うことに彼は懇切丁寧な礼をいった――その顔はどことなく祖父に似ていた)。草稿はつくらず、A4用紙に20頁程度みっちり書いたメモをつくり、そのレジュメで講義をおこなった。のちこのメモの繊かすぎる細部、さらにはその未整理状態により、成瀬に材をとった単行本の執筆が膠着化して進まなくなる。講義草稿をつくればよかった。

「月光・17歳の犯罪特集」に長論を書くため、成瀬の受講生有志から「引きこもり」や「17歳の犯罪」について、いろいろな意見を飲み屋で聴取。ここでも彼らの絶望感のふかさに慄然、なおかつその前向きの姿勢に胸を打たれた。彼らの意見を盛り込んで「月光」に長論「「死にたい」と「殺したい」のあいだ」を発表。

「ユリイカ・ブニュエル特集」に、長論「ブニュエルVS松本人志」を発表。この奇妙な主題は同誌・岡本からあたえられたもの。

立教大学での後期講義(サブカルチャー)開始。前年サブカルチャー講義のノンシャランな構成から一変、「戦後民主主義」が終焉したという意識をもつ最前線の表現者たちを順に追っていった。キーワードは《少数派は多数派を解放する》。この講義の草稿はのち『実戦サブカルチャー講義』に収録される。

「映画ドットコム」のレギュラー執筆陣に加わる(邦画担当)。以後現在までに手掛けたレビュー(300字)は計6本。つまり4カ月に一度程度の依頼ということになる。

カジノ『鎖縛』の初号試写でカジノ(梶野考)自身と脚本家南木顕生の知遇を得る。

「図書新聞」に『おかえり』(張元監督)作品評を書く。

「図書新聞」に古屋兎丸『プラスチックガール』の書評を書く。

鈴木一誌氏の素晴らしい装丁で初の映画評論集『日本映画が存在する』が刊行される。10月ごろ執筆した数本の書下ろしを加えた。鈴木事務所の空間の濃密さに圧倒される。

数年前から企画進行していた『北野武VSビートたけし』増補英訳本の翻訳者ウィリアム・M・ガードナーさんが来日。妻と3人で飲み屋で楽しい時を過ごす。


*2001年(42歳/43歳)
企画迷走していた99年度の立教でのサブカルチャーについての講義草稿集を、旧知の河出書房新社・西口徹が、うちで出しましょうと助け舟を出してくれる。感謝。

「図書新聞」に相米慎二『風花』映画評を書く。

「ユリイカ」ワールド・カルチャー・マップ欄に北野武『BROTHER』の映画評を書く。

「図書新聞」に長谷正人『映像という神秘と快楽』の書評を書く。

「図書新聞」に三池崇史『ビジターQ』の映画評を書く。

『日本映画が存在する』の読後感をめぐり武村知子から来信。それが結果的に計3回にわたる「メランコリー」についての往復書簡となる。当方の各回の手紙の字数は四〇〇字詰で計32枚。これが自分の考える「メランコリー理論」の最深形だとおもう。

「GQジャパン」用に『ベレジーナ』公開を控えたダニエル・シュミット監督にインタビュー。記事はスペースが僅少だったが、インタビューは初期作品にも話題が及ぶ充実の約40分。この丸起こし原稿は「GQジャパン」の監督インタビュー特集号に掲載される予定だったが、のち同誌は潰れてしまった。原稿をどこかで公開できる機会があればいいのだが。

このころから拙著『北野武VSビートたけし』英訳本の注記をめぐって翻訳者とのやりとりが頻繁になる。

立教大学で前期講義(映画)開始。前年の映画講義につづく2時間ブチ抜き方式(つまり作品もビデオプロジェクターで観せた)。南木顕生の知人の脚本家志望生が毎回もぐりで出席していた。講義の主題は、「学生たちの映画創造力を涵養するため諸ジャンルの低予算映画を鑑賞・分析する」というもの。草稿は準備した(よって単行本化は即座に可能)。7月初旬までの授業内容を取り扱った映画題名のみでしめすと、①風間志織『メロデ』、②矢崎仁司『風たちの午後』、③山口貴義『恋のたそがれ』、④ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』+ケネス・アンガー『人造の水』+伊藤高志『GRIM』『WALL』、⑤ダニエル・シュミット『今宵かぎりは…』、⑥古澤健『怯える』+木村有理子『犬を撃つ』(ともに映画美学校作品)、⑦野中真理子『ミゼットプロレス伝説』、⑧大島渚『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE』、⑨寺山修司+谷川俊太郎『ビデオレター』、⑩篠原哲雄『張り込み』、⑪榎本敏郎『熟女ソープ・突き抜け発射』。⑨のときにロラン・バルトと松浦寿輝のひそみに倣って、福間健二・瀬々敬久・武村知子・切通理作・郡淳一郎、それに当方の「私の好きなもの」「私の嫌いなもの」を列挙した、当方の解説つきの大枚プリントを、⑪終了時に当方が10年近くまえ某監督のために書いた未発表・未映画化シナリオ「回帰な話」を、それぞれ配布した。

「創造力の涵養」という講義目的が奏効したか、提出レポートにはビデオに落とした映像作品、シナリオ、映像企画書が目白押しで寄せられ、うち映像作品については11月の立教の学園祭に、講義と同じ教室でビデオ上映された。その際に当方が監督インタビューをし、簡単な講評を加えた。ただし主宰学生は動員に失敗、それが残念だった。

この講義期間中に立教での99年度のサブカルチャーについての講義草稿集が、『精解サブカルチャー講義』のタイトルで河出書房新社から刊行された。

「図書新聞」に2号に分けて山本政志『リムジン・ドライブ』の映画評を書く。

「映画芸術」から久しぶりに原稿依頼。「ロマンポルノ、私の一本」特集への依頼で、武田一成監督の『順子わななく』を選択。以後、「映画芸術」編集部は夏号からはじまった「星取表」選者に当方を選定、その連載もはじまった。担当・武田俊彦(かつての担当だった市井義久と高橋賢はもうとっくに辞めている)。星取表ながら、放言し放題ではなく、客観評論を映画未見の読者にも理解できるように書くという方針で臨む。石原郁子さんからは星取表文体の鑑というお褒めを頂戴した(彼女は別雑誌で星取表を開始する――ただその雑誌は刊行すぐに潰れてしまったが)。筒井武文は当方がああいう仕事をやるのは意外だったと素直な感想をいった。自分自身そうおもうが、学校の授業準備に流され、邦画の鑑賞本数が減るのに歯止めをかける狙いがあった。ただ試写で観た映画の記憶をとりあえずある期間、頭のなかに全部とどめおくことがいかにプレッシャーかを実感する。字数は二百字、評論となるにはこれが最低限度の字数だった。ともあれ自分の律義さに驚く。

中嶋竹彦監督『人間の屑』劇場用プログラムに作品評を書く。

アテネフランセでの4人の監督による上映企画『シネマGOラウンド』劇場プログラムに、挿し込みのかたちで井川耕一郎『寝耳に水』に限定した作品評を書く。

「ユリイカ臨時増刊・特集『千と千尋の神隠し』」で同作について切通理作・小黒祐一郎と鼎談。

立教で後期授業(サブカルチャー)がはじまる。これもすべて草稿を用意。内容はズバリ、サブカルチャー表現における「悪趣味」(の価値)について。以下に講義内容をしるすと、①②『千と千尋の神隠し』、③④駕籠真太郎(漫画)、⑤⑥ゆらゆら帝国(Jポップ/インディーズ)、⑦⑧太陽肛門スパパーン(インディーズ)、⑨⑩⑪魚返一真-荒木経惟-大橋仁(すべて写真)の流れだった。⑪終了時に、ほぼ講義一回分の草稿に相当する自作の「悪趣味文献リスト」をプリント配布した。この講義には特殊事情があった。第一回講義のときの受講者が五百人近くいてとても教室に入り切らず(出席をとらず「楽勝」の噂が蔓延していたようだ)、「どギツい」講義内容で生徒数を減らす必要が講義2回目から生じたということ。笑うべきか、③から④で受講者数は見事に半減した。それでAV設備のある教室へ引越しすることができた。以後は毎回150人程度の学生が表現における「悪趣味」の可能性について、こちらの話に真摯に耳を傾けていた。耳の感覚が変わったと嬉しそうに嘆く学生も若干いた。大学の講義では限度的に奇怪なものだったのではないか。ちなみに「悪趣味」を課題にしたレポートを提出した学生は約360人、うち100人はほとんど「善良趣味」だった。

このころ長年のサラリーマン勤めを辞め、妻が元松竹の中根佳穂さんと映画に関わる契約代行などを主業務にしたシンクタンク会社を興す。社名は「オープンセサミ」。

「図書新聞」に平岡正明『キネマ三國志』の書評を書く。

「ユリイカ」ワールド・カルチャー・マップ欄に岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』の映画評を書く。

「図書新聞」に石岡正人監督『Pain』の映画評を書く。以後、石岡監督がらみの酒席に幾度か呼んでもらい、常に愉しい時を過ごす。

「ユリイカ」韓国映画特集に長論「都市論的不安」を書く。

荒井晴彦らが音頭をとった、足立正生の帰還を祝う会に出席。3次会で荒井氏の牙城「ブラ」に国映の面々と赴く。荒井氏に「お前らの世代」「映画評論家」、その両方が嫌いといわれる。酒気を帯びて倒錯をしていたのかその言が嬉しくなる。揚げ句、彼の指を触り、「指がキレイだ」と絶賛、気持悪がられる。ともあれ当方が抱いていた氏にたいする誤解はいろいろ解けた。

立教の2000年度のサブカル講義草稿集の企画(すなわち『精解サブカルチャー講義』の続篇)が河出書房新社で決定し、即座にフロッピー入稿をしてしまう。

立教大学の文学部研究センター長から、前期は結果的に週2コマ、後期は週1コマで、年間で計2コマ分の給金しか支払っていない異例性を詫びられる。よって来年は2コマぶち抜きの映画の講義だけにしてほしいといわれる。映画のみならずサブカルチャーの講義も毎年連続でとっている学生が多く類例の講義もないし、本も出ているのだから給金の問題など構わないと抗弁するが受け入れられず。それで残念ながら立教では次年度は後期に映画「のみの」講義を2コマぶち抜きでおこなうこととなった。

「TVぴあ」の年間ベストドラマの選考座談会で知遇を得ていた日大芸術学部放送学科の専任講師・中町綾子さんから日芸・放送学科2年生向け、週1の通年講義をもたないかという誘いを受ける。快諾したあとで、2年生の通う校舎は、江古田ではなく所沢奥地だと知った。

「映画芸術」と「日プロ大賞」から、「ベストテン」の依頼。カブリが大高氏に悪くて、後者には意地のように長大な「選考理由」を書いた(新文芸坐のHPで読める)。


年末ギリギリに『日本映画が存在する』の余勢を駆って企画を進めていた続篇評論集企画「世界映画が存在する」(扱う映画はアジア映画/洋画のほか日本の 60年代映画、ほか映画書書評など)が編集会議でOKが出ながら、社長御前会議で流れてしまう。取次・鈴木書店倒産の余波の影響もあったというその経緯にやや理不尽を覚える。憮然。ところが元気な「ユリイカ」岡本由希子編集長は、「今度はちゃんと自分が下駄を履き、絶対にリベンジしますよ」と明るくいった。


*2002年(43歳/  )
「ユリイカ・マフマルバフ特集」に100枚のモフセン・マフマルバフ論を書く。

「図書新聞」に中田秀夫監督『仄暗い水の底から』の映画評を書く。

「図書新聞」に塩田明彦監督『害虫』の映画評を書く。

「図書新聞」に轟夕起夫『映画あばれ火祭り』の書評を書く。

河出書房新社より『実戦サブカルチャー講義』刊行。

渋谷アップリンクでの佐藤寿保の特集上映後、駕籠真太郎と夢野史郎の紹介を寿保から受ける。同席した切通理作が当方の新著をさんざん売り込んでいた。

「ユリイカ」ワールド・カルチャー・マップ欄に豊田利晃『青い春』映画評を書く。

同じく『青い春』劇場パンフレットに、豊田利晃論を書く。

「図書新聞」に瀬々敬久『トーキョー×エロティカ・痺れる快楽』映画評を書く。

日芸放送学科2年生を対象にした、TV時評的な要素をふくむTV表現論の授業がはじまる。現在までの内容は、①オリエンテーリング:自己紹介+戦後民主主義とTVとの関係、②③『フードバトルクラブ』、④⑤『夢のカリフォルニア』、⑥『スーパーTV/25年間ひきこもった息子・その後』、⑦野中真理子演出『ザ・ノンフィクション/AV女優』、⑧森達也演出『NONFIX/放送禁止歌』。

河村隆一が太宰治を演じる『ピカレスク・人間失格』の劇場パンフレットのため、河村隆一にインタビュー。躍動感と含蓄に富む自信作となった(とくに未発表の全長版が)。彼の頭脳の明晰さには舌を巻く。

「ユリイカ・高野文子特集」に長大な高野文子論を書く。

「現代詩手帖・ドキュメンタリー特集」で福間健二と、日本のドキュメンタリー映画とドキュメンタルな劇映画について対談。その対談の当日午前、石原郁子さんの逝去を福間さんからの電話連絡で知る。享年48歳。訃報を聞き、まず考えたのは「90年代に映画評論を書いていたことの不幸」。それから彼女との数々のエピソードを憶いだした。そのなかで彼女は終始、当方を「海容」していたと気づき、その心の広さが胸に迫った。書棚から彼女の『イースト・アジア映画の、美』を取り出し、その『AV原論』評を再読、ついに涙が流れた。

立教の学生・大月美治から、当方の私設ファンサイトを主催したいという申し出があり快諾、それについての全面協力も約束する。

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