▼コラボレーション

自分のように

自分のように





 
【解題】
既存の詩作者の詩業を参考に
詩篇を書くというこの演習だったが、
毎週毎週、そのような詩作を
受講生がなぜ嬉々としておこなえるのかわからない、
魔法にかけられているのか、という意見は
詩集を出し、世間認知されている詩作者から多々出た。

受講生の力量が一定程度に達していて
発表と評価が演習につきまとうことから
使命感とライバル意識が自然と醸成されたこと
(彼・彼女らは同じ投稿欄の同期のようだった)、
それと、ぼくが参照に供するそれぞれの詩作者の「傑作詩選」が
「現代詩病」にかかっていないために
空間と音韻がそこに威圧的でなくひろがっていて
受講者が閉塞的趨勢とはちがう詩の可能性に開かれたことが
彼・彼女たちの多作の大きな要因だったろうとおもう。

参照対象の詩作者は基本的に井坂洋子さんをのぞき
「現代詩文庫」になっていないひとから選んだ
(ただし中本道代さんと杉本真維子さんは
今後の刊行予定にはいっている)。

男性の文学的で硬直的な詩もうけつけず、
文体に個性が歴然としている作者を重視した。
この選択にはいわばぼくの「現代詩批判」も裏打ちされていて、
ぼくのしつらえたそのレールにのるほうが
受講者の詩作が促された点、これは強調すべきだろうとおもう。

むろん「○○のように」という「模倣」は
「創造」の第一歩にしかすぎない。
参照対象が明示されなければ、「原資」は自分にしかない。
これが案外、苦行だったのか
中川達矢くんや山崎翔くんや森田直くん、
高橋奈緒美さんや長谷川明くんといった
「常連」の詩作がいまだメールボックスに届いていない。
ただしそのときは「自分のように」を
「自分の好きな誰かのように」へと
変えればいいだけのことなのだが。
「柔軟性とは何か」は演習に秘められたテーマだった。
それをいうためにぼく自身も課題に参加した。

ともあれこの最後の課題で、
自由詩作でつくられる若いひとの詩が
「現代詩病」(手前勝手で目詰まりして自己愛的で自己誇示的なもの、
いいかえれば文学性と個人性と功名心が無媒介に結びついた処理不能なもの)
に罹るか罹らないかには興味があった。
演習全体がそうしたながれに歯止めをかけるとすれば、
素晴らしい詩作者を周知させたとともに
彼らに今後の指針を提供したという結論も出せるからだ。

結果は見事に「現代詩病」からみなが逃れているとおもう。
しかも「まねび」で封印されてきたのは抒情詩だったともわかった。
そうか、抒情詩への復帰こそが
詩を現代詩病から解き放つ、最大の方策だったのか。

今回は詩篇ごとに寸言をしるしてゆこう。





自分のように

中村郁子/二宮莉麻/齋田尚佳/森川光樹/鎌田菜穂/
荻原永璃/渡邊彩恵/大永 歩/斎藤風花/川名佳比古/
三村京子/森田 直/長谷川 明/高橋奈緒美/阿部嘉昭





【神隠し】
中村郁子


あかレンガの城にさよなら
きみどりと白の庭へ
こわれかかった鳥居を越えて
ふみはずしながら石段を進む
見えてきた青の泉
わき水はよごれない
永遠の子どもになるあなた
ホタルのたまごはふまないで
てまねきは遥か

宵にかがやくひかりには
夢の中でだけ会える





「赤レンガの城」は立教の校舎を指しているだろう。
夏休みに入り登校がなくなるというほか
四年の中村さんがいずれ卒業することも含意されている。
登校がなくなって赴いた場所は夜の神社。
そこで彼女はホタルを幻視した。
ホタルは恋情と死のにおいの象徴としてつかわれる点、
中村さんは意識していて、
全体が彼女の身体性をともなう静謐な抒情詩となった。
ただし少し「色」がつかわれすぎか。
中村さんは短い詩篇のほうが良いという気がする。次点。









【おかえりなさい】
中村郁子


くろい夜空に咲く花が
ひとつひとつ生きていたものであったら
重いものを
ひとは愛しているのだろう

水をうけた石と線香
火葬を思い出す炎
今年もあなたは
庭へおりたつ





これは圧縮度の高い詩篇で、噛むほどに味が出る。
江代充さんの詩風が意識されているか。
夜空に貼り付けられ瞬く花=星が
「重さ」を抱えているという直観が良い。
最終二行の余剰とともに、ぼくの好きな詩篇だ。次点。









【青い眼】
二宮莉麻


青い眼がほしい
となげくあの子に
花束を贈った
青い眼なんかなくてもなんとかなります
だってほら
あなたは
二重の悲劇にはさまれていないんだから

あの子がたてる
生活の音が好きだった
花びらをさいて
みずにながして
心をぬぐって

ただ今さらに
あの子がほしくなった





「あの子」の性別が明示されないから、
恋愛詩とも友情詩ともうけとれるが、
同性愛傾斜がひそむ友情詩とかんじた。
「青い眼がほしい」というのはたんなる西洋志向ではないだろう。
事物のヤバい「青」と同調し、壊れてゆく眼なのではないか。
「あの子がたてる/生活の音が好きだった」がグッとくる。
ただ、全体の語法が片言かな。省略の暴力がくわわっていればよかった。









【指切り】
齋田尚佳


ひとつ
指と指でまるを描いて
しぼませ、からませ
日は沈んでいった
細く短い夜は
さよならのうた

からだを孟夏の獣が駆けてく
こんなせまいところで
転んでしまわないかが気がかりで
もろい肢体を包もうと
私も一緒になって走った

叶わない願いを
待てるような気がした
めぐる夏の夜のそれは
きっと夢だったのだ





夏の短夜に出会うために
落ちてゆく日輪に指の丸をかさねる、というのは
仕種の抒情性だ。
《からだを孟夏の獣が駆けてく》という
怖ろしい一行がある。
ただ全体が朦朧していている。
齋田さんの力量からすればもう少し踏み込んでもよかったか。
彼女は「謎」で詩行を輝かす個性だとおもう。









【四時】
森川光樹


歯しかない
ザラザラいがい
のすべては四時だ
四時が日の出をみつめ
四時が思い出す
一日が四時のなか
つるつると五時のほうへいく





ぼくが演習で強調した「縮減」と「痴愚化」が活かされた詩篇。
夏の朝、早起きしたという散文的な事実が
簡単な言葉を奇異に連鎖させるだけで
異様な身体論と時間論へと接続されてゆく。
最後の二行には「いわずもがな」(再帰性)がギリギリで仕込まれていて、
この語法は貞久秀紀さんから学ばれたのではないか。次点。









【おへそ】
鎌田菜穂


その一点をあわせないと
まわる
が暴走するから
わたしはちぎれないように
ひとしいを
まもる
あさはもう吹いているのに
いつかの
おくをうめるために
まるまる
から
まわりだけふくれて
かわいたあたまを
ぶっとんで
かいそうは
食われ
わたしはただ中心をおさえている

ずれて ゆく
なか
おとこが
わたしのやわらかいを
まるむ
どんなにくぼんでも
帯はねじれ
あさが吹きこむ
ジャスミンのにおい
いつかの
あのひととおなじように
身覚は
いま
まわっている





鎌田さんは演習が回数をかさねるほどにみちがえていった。
ことばをひらき、寸止めにすることで
読み手の想像に余地をあたえつつ、
瞬間的に去来する「像」には恐怖イメージまで盛り込んだ。
この詩もそうして成立した彼女の作風の延長線上にある。
読み方は無限にあるのかもしれないが、これは性愛詩ではないか。
へそとへそを合わせればそれは正常位で相互の身体は回転しない。
ところがその抑制が解かれ、相互の身体が「展開」するようになると
「身覚」が世界発見をおこなうようになる。
そうした「翻弄」を実際は希求している詩篇だととらえた。
こういう穿ったことをいうと、
また「陶芸」を描写した詩篇だとかはぐらかされそうだが。
松岡政則さんゆずりの形容詞の名詞化も良い。最高点。









【おしり】
鎌田菜穂


おとなりのかのじょは
すぐにあるきつかれて
ぷりぷりしている
わらわせようと
おもしろいはなしをしても
つまらない
とぶたれる
うたをうたっても
へたくそ
だから裏側にのっけていって
ぼくのおしりをだしてみると
かのじょはやっとわらって
円みをちぎってこねて
さらに割ってあそぶ
ぼくはもんもんとしながらも
くうどうで夜を飼う
しばらくして
かのじょがねむたそうなので
いざ
ひっつこうとすると
ひげがじょりじょりする
とおこられる
なるほどぼくはおしりになりたい





これは面白い。鎌田さんと彼氏の主客関係が入れ替えられ、
彼氏からみた鎌田さんが描写されて、
さきの詩のもつ崇高性が、恥しいものとわらわれているのではないか。
意外な廿楽順治調への接近。修辞の一々を解くのが愉しい。次点。









【花息吹】
荻原永璃


水底にまいあがる花がある
岬の先
遥か下に青い魚がいる
早朝の
プールで一人泳ぐ
クロールの息継ぎの半分は
花息吹
かえっていく
と思う
いつでも
流れだして青くなる
水温がとけると
からだがひらかれて
海になる
呼吸のたびに
くちもとから花びらが
こぼれ
こぼれつづけるままに
花野へ
かえっていく
みなそこに
ひとすじの流れとなって
ひらき
ひらかれつづけ
花びらを吹きあげ
舞い上がり
やがて
天上から
早朝の
水を、照らす





何という、うつくしい詩篇。
早朝水泳に材をとりながら、そこで省察されるのは
体験ではなく、もっと原理的な自己身体だった。
身体は青い流れとなり、花びらを散らし、
最終的には彼女の泳いでいる水が花野になる。
自己身体をうたうことは抒情の本質だが、
それがメタモルフォシスを発現するうち、
外界までもがメタモルフォシスを結果してゆく。
こういう仕儀はふつう葛原妙子の短歌のように「幻視」と呼ばれるが
葛原短歌が大好きなようにこの詩が好きだ。最高点。









【喰】
渡邊彩恵


さあ
もうひとついかがですか。
その
まんなかにある
果実
かじってしまえば
たちまち
楽しいうらぎり
あいずをかかげるわ。
その
破戒させる魅惑の味と
かがやく果実のまるみ
わたしには
無理だけれど
枝にのぼって落としましょう。
貴女は
りょうてをさしだし
むしゃぶりつきなさい
すぐに
彼にもこの果実をわたしなさい
風がおとずれる前に





旧約聖書の「エデン/禁断の果実」に材がとられたとおもう。
味読しなければならないのは、
詩の主体が不可思議な媒介者/伝達者の位置にあるということだ。
なにか恋愛のステージから一歩下がったような
(実際は樹上にいる)そのポジションから
奥深い悲哀感がつたわってくる。次点。









【かまきり】
渡邊彩恵


白くてちいさな雄のかまきり
黒くてふとった雌のかまきり
雌は雄を食らうという
それが肉食女子というもので
それが草食男子のいきさきか
ああ でも
卵を産み落としたあとの
行方をわたしは知らない





短詩の可能性が追求された。
昆虫博物学的な知見が裏打ちされていて、発想は好きだ。
けれどもそうした「博物学」がさらに細部化され沸騰することで
詩は狂気にも行き着く。小笠原鳥類の詩のように。
渡邊さん、もう少しだ。









【まだらの】
渡邊彩恵


月明かりが
闇に
穴 をあけるころ
わたしは
ぽっかりあいた
まだらのひとつに
本をひろげていた
手を差し出してみたら
インクが漏れ出してしまったようだ
滴り落ちて
まだらの中にまだらを産み出す
うごめくインクは
一本の曲線をなした





これも短詩の可能性の追求。
月下での読書というありえないシチュエーションを
追求するのがモチベーションだっただろうが、
たぶん行数をふやさずにさらに驚愕が追求できたとおもう。









【うたうとき】
大永 歩


からだとこえの
ないを強調されて
かこいをなぞる
指のへそのよりどころを探し
なだれながら
まどろみの外側をえぐった
かげろうの羽のような時間が
はじけて
さめて
わたしは血をながす

ことばを知りたければ
葦になれ

うたとともに
きりとられたわたしは
音のないを見て
なだれた





これも松岡政則さん的な「形容詞の名詞化」が駆使されながら
全体を意図的に曖昧にしていて、
鎌田さんとの共通性をかんじる。
こういう詩風への接近が、
この演習の結んだ果実のひとつだったのかもしれない。
ぼく自身としては鎌田さん同様、とうぜん穿った読み方をする。
結論は部屋で静かにおこなう「自慰」を描いたというものだった。
そのようにして読むと、曖昧な措辞のすべてが魅惑化する。
自己身体を描く抒情はなんと可能性をもつのだろうか。最高点。









【夏の墨色】
斎藤風花


実が花にとって代わるころ
光る黒をふくませて
わたしは(それで)
わたし(は蕾)を
一気に汚した

暗くない黒をめざそう
つづかない憎しみはすてる
足し算はもうしない
うつろう誰彼はさとす

すらすらとながれる灰色に
清んだ匂いを否定された悠久

わたしはこういった綻びをみつけては
匿い大切にする
つまり
海原がにじむと
堤がやぶれると
海獺たちの手がほどけると
砂浜がよごれると
わたしは悦ぶのだ

老いた花弁の奥行きに
まやかしの灰色

すべてを隠し
なお脈打つのが
わたしが好きな
墨の色





自分に兆した黒色愛好によって
自分の純真が「綻び」「ほどけてゆく」感慨がうたわれている。
しかしその少女期の抒情を手放しで現出させることはしない。
その際のためらいと抑制を味読すべき詩篇。
けれどもともすれば象徴詩的暗喩で鎧われるべき主題に
どこかで大らかに風が吹き抜けてもいる。硬いようで柔軟。
その表情の多面性がぼくは好きだ。次点。









【あるく】
川名佳比古


そらのおもみの
ぬれた内側にたって
みちとみちのかさなり
をなぞり
ただうっすらとひらいた目であるく
くつおとに耳を澄ませば
そのきしみがうつす
焦点のかすかなささめきに
そっとツメをたてても
むかい風はつよい





「あるき」を主題にして、
歩行身体の抒情をその外界から補強することで
歩行身体を無名化=普遍化する。
だれの作風といえば「阿部嘉昭のように」になる。
その意味でたくらみの多い詩篇。









【鯉】
三村京子


バラの季節の
植物公園をあるいたことも
つかのまがふたりだったバスの休日も
井の頭池のめぐりも
玉川上水のわき道も
私は出てゆく
次の春にはもういない
木蓮をかぞえたひと
優しい女の子、などと
ゆるしてくれたひと
水先案内人だった
(睡蓮池を見に行った)
「君は失うの?」
夢の中で何度も呼びかけられた
それでいつでも、こくりと頷くしかなかった
急に泳げなくなった
錦鯉のように
たくさん変わってきたのに
このいけすから出ることができない
星霜をすてたの
水中のわたしの頭も眼も
見つけだせない
とけ始める
まだ水の上から声がする
肢体を縛り付ける声の糸
とけていつしかほどけるとき
この庭先もあらゆる糸の先々も
だんだんうたいだすのか





地名、多様なイメージも盛り込まれ、
恋愛期の終息が予感されたうつくしい「個人詩篇」といえるだろう。
三村さんはぼくの詩の演習に歌詞づくりのため
ずっと参加してきた。
自分にしかつうじない修辞を解き、
詩篇に空間をとりいれて音を緩慢化させ
全体を普遍化させることが彼女の課題だったろう。
提出された詩篇をみると、半分その課題が実現され、
半分はまだ発展段階だという気がする。
つまり「自分のように」という関門はやはり難関のままなのだ。
今回の演習での成果を今後も振り返ってほしい。次点。









【これからの】
三村京子


「かあさん、音に近いですか」
「いいえ、鳥が知っています」
じき、修正液が滲むでしょう
地上十二メートルほどのところに
漂うようにしてある我が家

飛ぶ意識をかんがえる
この世界映画が
いつか急に止まってしまい
真綿に埋もれて消えるふりをはじめる
ひきずる足で描いてゆく
それはにんげんの白線ですか

飛ぶ意識をかんがえる
渋谷の谷底で
私を燃やしたわたしは
いつだったか
聖書の書き換えの
残酷な施術にとりつかれた
それでもとうとう羽化しはじめた

緑銀にひかる
飛ぶ意識をかんがえる
かなしいこれは
羽虫なのか蝶なのか
それとも





端倪すべからざる細部をふくむ。
「飛ぶ意識」とはマンションの三階(?)にある自宅から
投身をする願望をも映しているようにみえるからだ。
実際そうした自己は何度も「是正」を繰り返されている。
よって前の詩篇に較べ修辞が締まっているが
「世界映画」のもつ無謬性にまだ意識がいたっていない。
《じき、修正液が滲むでしょう》や
《それはにんげんの白線ですか》のように
修辞が地声のところにこそ詩行の良い面が集中している。



 







【家を出る】
森田 直


昨日出た

なにもなくなって
狭くなった部屋で
不動産屋と気まずく
嘗めあった

家を昨日出た
さよなら
ゴムひもの緊張感
ゆやーんだか
ゆよーんだか
おれはそっちに帰ります

初日から
最終日まで
鼻毛出てた
大家のおやじ

鍵を一本くすねた





日常詩。力が抜けている。
斡旋されたことばが最小限に選択されている。
「少ないこと」にたいして真摯にかんがえられたのではないか。
結果、余韻が獲得されている。好きな詩篇だ。









【結婚したいひと】
長谷川 明


よくみると
つながっていない
ぼくはぼくのしたいを
ひとにのこして
だれかの内臓をかりて
あたたかくなる
結婚をしたひとは
自分のものでない顔を
みんなにみせていて
顔でないものに
お金がはらわれる
夏に
なんどもしたいにあいにいく
したいは
あたたかさでへんじをする
結婚したいひとは
あたたかさをうけいれる
僕は
したいとつながっている





「結婚」への疑念が原理的に書かれ、
それが原理的であるがゆえに恐怖がたちあがってくる。
相手の他者性、自分の代理性、「生」実感のなさなどと
それらは約言ができ、
長谷川くんはそれをフレーズの微差反復で詩にしている。
ただし課題のラストでは長谷川的破壊性の集大成をみたかった。









【帰る】
高橋奈緒美


安くなったパンを買って帰路につく
欅並木は一から十の数字の羅列にしか見えず
家々を反響する自分の靴音がうるさい
耳近くを飛ぶ蚊のようなすれ違い際の男女の会話
目前の木を形容する言葉さえ見つかれば
ひと思いに潰してあげるのに
長針と短針が空を指す
夜空の雲に違和感を覚えたのはいつぶりか
喧騒がナイフであった舞台
車が夜を裂くリアル

左手に提げた袋から香る
ガーリックの刺激
「お母さん
帰りにパンを買ったから
明日の朝ご飯はパンにしよう」

返事が聞こえたなら
私は帰る、
帰ってこられた





これも日常詩。深夜の帰宅過程の疲弊と違和が
比較的わかりやすいことばで綴られる。
それにしても存在を領している
この本質的な不充足性とはなにか、ともおもう。
《長針と短針が空を指す》で深夜十二時が告げられる。









【轍】
高橋奈緒美


がたがたがた
車輪が動いているのではなく
周囲が回っているだけだとしたら
横にならんだ車輪は
どこへ転がって行くだろうか
(わたしは何を押しているのか)

車輪の上から声がするから
道はまちがっていないのだろう
わたしは砂利道が好きなのだ
「がたがたがた」
祖母が笑って口にする

ほんとうに
わたしはどこへ転がっていたのだろうか
(わたしは車輪を)
(車輪はわたしを)
轍が家まで続いていたころ





これは前の詩篇よりもっとことばが限定され
限定されたぶんだけ謎がふかまった。
ぼくは「わたし」が「押している」ものをリアカーと捉え
それを押すことがかつて主体の生活の一部で
その記憶を語っている詩だとおもう。
記憶のある質感に向けて語りつつ形容詞がはいっていないことで
隠されている感情が慟哭にちかいものではないかという
判断もえられる。峻厳なことばの組成なのだ。
高橋さんは「祖母詩篇」で大成した。次点。









【掃〔はら〕う】
阿部嘉昭


朝はおもたげなものからはぶいて
それでひかりの柵をつくり
ゆめみる場所には数列をかかげる
知るものとはじぶんになにかと
こころがゆっくり帳になってゆくが
あるくことはめくることではない
ひたすらに歩を掃ってゆき
眼のまえの古池のおおきさへと
じぶんをまるめおえることだ
みるにつけ気色に節約などなく
穴だらけのハスの筒を吸いつくす
だれかのけむりにそうなるのは
きっとひろがりが残心をもつから
花とかおりの一帯を気持にゆわえて
きのうのほころびに魔法をとおし
もう雨あがりは空におわったと
まるまったじぶんを世へ放るだけ
暑気のちらばりをすぎゆく遅速として
この髪の藁がみるみる無糖になる
いろをうしなうものが色身なら
やがてひとの商もあせてゆく
静思このはらわたにある褪色や。
夏の着物のようなほのおとなって
ゆくさきに岐路をみいだすと
もとより拠ってきたものが
ひとつどころではなかったと気づく
わけても楽器に似ていない臓は
ねむりつづける肝だろうか
じぶんを買うためにじぶんを払うが
肝から腸にかけてがぼやける





演習最終課題「自分のように」への参加作品。
西中行久の音韻を借りたが、
音韻だけで意味がない、という
一部の自分への評に居直ってもみた







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