▼コラボレーション

椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』をめぐって Part 4

椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』をめぐって Part 4

(最終回) ●浅井秀一◆内海賢朗★阿部嘉昭


●浅井秀一

 全体的な音の流れ、歌の流れ、時間の流れ。これは、凄まじい問題ですね。僕なりの林檎論の総括になるので、ひらすら独白のように長く書き込みますがご容赦ください。

 逆倒ということさえ意識しなければ、「宗教」から始まる音の流れの、始まりは、まさに、ビックリ箱の初めみたいに、いきなり騒音に近いような音をかき鳴らしますね。でも、これは、このアルバム全体のチューニングとも言うべき音で、そこから、ゆるやかな林檎の声が伝わってくる。この冒頭の詩は、「葬列」の物語を受けずに進行していきますから、その物語については完全な知覚のできぬままです。林檎の沈んだ、微妙にエフェクターのかけられた、音のゆるさ、弱さ、遅さが、このアルバムの全体の時間の流れを予告しているようなんですね。で、そのゆるさを覆すように、いきなり過剰なバックサウンドが犇き合う。この一発目の「宗教」は、前述したとおり、ルースターズの池畑潤二のドラムと、モーサム・トーンベンダーの百々和宏のギターが音割れしながら膨張的に膨らんでいきます。ただし固有名詞抜きにして、おそらく音が流れている。しかし、固有名詞を意識しはじめると、その音の方向性が、わりと、新譜のアルバムの世界を飛び出してしまうような危険性さえ含んでいる――そういう冒頭です。

 「宗教」における歴史的な音楽の類似性などは、以前の論議を蒸し返すことになる部分は控えます。ただし、歴史的な音楽の類似の背景も、今では阿部先生や内海君の中で若干変容しているとおもいます。僕はあきらかに変容してしまいました。前言では、シンメトリーの関係性で「葬列」との関連を含め、民俗学音楽的、宗教音楽的、東洋音楽的ということで、井上さんのバックサウンドを耳に入れて、その流れで「宗教」を聴きました。しかし、ここでは、底割れしている百々和宏のギターの膨張音と、池畑潤二の鬼気的なドラムが中核を成し、そして、少年っぽい弱い声、それが結局のちに、物語では息子の肩代わりの声であったという仮定がなりたっています。「宗教」で物語を知覚しないと、その子どもっぽい声と、命法を促す母性的声の二重構造が浮かび上がるに留まります。素直に聴いた場合、これが母性に近しい声であるということは知覚できても、母の声ということは到底確定できませんから、音の流れとして林檎の声が、二つに分かれ、わりと、サビの部分で母性が滲み出ていくという薄い推察の結果になっているということになるとおもいます。サウンドも、陰と陽の使い分け、収縮と膨張の使い分けはしていますよね。

 そして、次の曲の「ドツペルゲンガー」における詩句の反復差異構造。この二元論的な音と言葉の構成は、やはり、何かシンメトリーではないか―― とおもわせるような素振りを無意識レベルに示すわけです。で、かなり話は飛びますが、その無意識層への働きかけは、曲を進めるごとに早まっていく。なぜならシンメトリーの関係が「茎」を中心にしていますから、それに近づくにつれ、シンメトリーの距離感が狭まり、収縮していく。その点、純粋に「茎」を過ぎたあたりから、勘の鋭い人だと、同じ楽器を使っているのではないか――同じ奏者が演奏しているのではないか――と無意識への働きかけに反応します。ただし、どんなに勘の鋭い人でも、よほど歌詞カードを凝視し、バンド構成のシンメトリー関係を発見でもしていないかぎり、「茎」に行くまではそのような特異な構造を発見せぬまま、音の流れに付き合うことになりますよね。

 つまり「宗教」から「ドツペルゲンガー」への音楽的推移は、この時点で、「音の流れ」がどこに向いているのか判断せぬまま、知らない階段に登ってしまったような違和感を覚えることになるとおもうんです。ただ、曲の掛け橋は、冒頭と終末が繋がるような、そういう楽曲作りはしてます。ようするに曲間の否定ですが。「宗教」の最後は、ドツペルゲンガー的な、二重構造になる前の、多声性というべき、一人の多重コーラスで終わる。ただし、この時点では全体的な曲の主張などは知りませんし、個々の楽曲にそれぞれバラバラな主張がなされているとおもっている人が大半だったんじゃないでしょうか。そして歌詞を開いて読む。あまりにも抽象的な文言が執拗に繰り返される。ですが、「宗教」から「ドツペルゲンガー」への流れ以降は、音楽背景的には、わりと、接続点を持っている。それは栗ノ花薫オーケストラと、森俊之のアレンジが入り込んでいるということです。

 また「宗教」においては、その音楽的な地域性が、地中海的、中東的という流れになっていましたが、それには楽器的な要因も含まれているのかもしれない。一つに地中海的、イタリア的ということでマンドリンの音(ここで先生はフェリーニを持ってきたというのは絶妙)。リュートの派生系として一六二〇年にヴェネチアのバロッキによって作られ、後に十九世紀のパスクワーレ・ヴィナッチアによって改良された楽器です。八本の弦ではあるけど、二本で一弦の役割を果しているこの楽器は、通常カントリーやブルーグラスに使用されるものの、ポピュラーミュジック史的にはレッド・ツェッペリンの『Ⅳ』やR・E・Mの『OUT OF TIME』などで聴くに至ります。先生はここで、地中海的というのはあくまでも、西欧音階ということを前提にしていましたし、二重三重のはぐらかしがあったということですが、主に、音階の一致しない楽器が使われていることも、その問題用件に関わるものではないでしょうか? 

 たとえば、琴の使用もありますよね。奈良時代に中国から伝えられたと言う楽器ですが、八橋検校と二人の弟子によって、生田流、山田流と別れた歴史的背景はとりあえず置いておき、林檎がむりやりピックで弾いちゃうわけですね。そうすると地中海的というイメージが途端に散逸されて、東洋的なものも混入してくる。しかもピックで弾く我流であるから、東洋概念自体も純粋ではない。更にシタールだって使用しちゃうわけですから、こうなると楽器の宗教戦争だってある(笑)。つまり「音の流れ」について考えると、楽器の背景にある歴史まで遡る必要さえ出てきます。

 シタールはインドが原産で、十三世紀にイスラム教徒の侵入によってインドにもたらされたと言われる楽器ですからね。もっとも、シタールは「葬列」で多様に使われるわけですが、先生の言われる「命法」の問題も、音楽的に、こういうところにも微妙にからんできているのではないか。雷光的イメージは奏者同士によるセッションにおける熱と、楽器における決定的な音楽的な構造のミスマッチの摩擦でも起きるのだと。そしてアミール・クスローの紹介などによって、元々三弦が今や十一弦くらいにまでなっているシタールは、ポピュラーなミュージック史においては、やはりビートルズのジョージ・ハリスンにたどり着く。彼はラヴィ・シャンカールに影響を受けたそうですが、その最初の音色は例えば「ノルウェイの森」などで聴くことができる。だから先生が、たびたび発言したビートルズの残影は多分にあって、『サージェント・ペパーズ』に限らず、その余波が新譜にかなりあるとすれば、とても音楽の流れということをまとめて言うことはできないものの、いろいろと興味深い問題が浮上してくるとおもいます。

 「ドツペルゲンガー」においては、そういう問題と地続きになっているというわけではないですよね。前述の事情を除けば、音楽的な構造がまた変わりますから、「ドツペルゲンガー」「ポルターガイスト」などにおけるメロトロンはビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」風といっても構わないとおもいますが、ビートルズの残影だけでは語れない。実際はメロトロンをサンプリングしたキーボードを林檎は使用しているわけですけども。この楽器はアメリカ人のハリー・チエンバリンが発明したものですが、普及したのはイギリスですよね。メロトロニクス社から一九六三年に出て、多分社名をモジったものだとおもいます。この楽器の構造としては、各鍵盤ごとに音程を合わせた録音済みのテープをセットし、鍵盤を押すことによって、その音源テープを再生するもので、現在のサンプリング・キーボードのルーツと言われています。ようするに、「ドツペルゲンガー」は、音楽的にはサンプリングの歴史へと遡っていくのですけども。僕は単純に打ち込みとか、ミニマルという言葉、オーバーダヴィングや、スクラッチノイズということで、やはり、そこにはわりと詩と係わり合いのある些細な断片的技法も拾い上げていきました。また、反復差異や、シャワー効果的な詩の入れ違いを感知するにいたり、少なくとも、音の流れが直線的に進んでいるわけではないという推測にもいたる。オーバーダヴィングという点においては、メロトロンも、本物のメロトロンを使用しているわけではない。また、林檎の声、それもまた音の流れに入りますから、そこで、反復差異構造で裏返る声(ウィスパー効果)と、地声の、その使い分けによって、自分の声のサンプリングをしているようでもあるということを考えます。

 で、「宗教」と「ドツペルゲンガー」への音の流れ、あるいは接合点を見出すということができるかどうか。少なくとも、先生が、ギミック的ではあるけど、危機感や不穏さが一挙に増大する原因を「宗教」で作ったと指摘されているのは百々和宏のギターなどが中心でした。彼の圧倒的なシャウトは『LIGHT,SLIDE,DUMMY』の「革命のうた」にあるとしても、百々和宏のギターや歌は、ジャパニーズサイケを呼び起こすものと、ニューヨークパンクを呼び起こすものとしてジャーナリズムでは取上げられていましたね。「宗教」においてはナイーブなほどの、たとえば純粋なサイケ感覚を伴うような「echo」のようなギターフレーズではなく、パンキッシュなギターです。しかし不穏さということでは、百々和宏のストロークは、底割れしてても、音が拡散していかない不思議な音なんですよね。やたらと膨張としていく。ですから「宗教」の冒頭の圧倒的なチューニングが、今回の楽器の全てを弾き鳴らしたような凄い音で、そこにも、百々和宏のギターは非常に微妙に、(また林檎の弾き鳴らす琴の音色も混じっているとおもいますが)、ある意味、ビックバン的な始まりによって開始され、それ以降は、ひたすら膨張し、広がっていく音楽なんですよね、外形的には。ここにかつて、日本のパンクを牽引したルースターズの池畑潤二の鬼気迫るドラムが入る。

 しかし、パンクかとおもえば、林檎の冒頭の声は、ビックバン的冒頭と逆倒するかのように、あまりに弱く、死に瀕している。このアルバムは全体的にも、わりとパート、パートで、音楽のジャンルがたくみにすりかわる構造があるとおもうんです。「宗教」は8小節ごとに、「葬列」は18小節ごとに、3パートに分かれ、森俊之特有の打ち込みなども混入され、栗ノ花薫オーケストラのバックも入る。「ドツペルゲンガー」で、ここから残る音は、前述したとおりですが、わりと、「ドツペルゲンガー」は、音楽的にサイケであるとか、ストラヴィンスキー的であるということが語られましたね。サイケについては大分言葉を費やしたので、避けますが、もしも「ドツペルゲンガー」と「迷彩」に掛け橋があるとすれば、「ドツペルゲンガー」のサビの純粋な歌唱が、「迷彩」における、ジャジイな歌声で接合している点なのかもしれないとおもっています。

 また、「迷彩」は「宗教」とは別の地点で大掛かりな構成になっています。アイザワアヒトの起用は、池畑潤二の「宗教」での起用に正面衝突していますし、秘密部隊という天上桟敷ばりの怪しい集団を含め、渡辺等のウッドベース、そこに、対位法としての音が組織される。この点は阿部先生と僕では、解釈の差がありましたけども。この対位法的なものすらにも、シンメトリー的な関係性を意識していたのかもしれません。またジャジイということで、即興があるのかないのかで、林檎の生パーカッションである銅鑼は凄い即興だということを先生が仰っていました。そして「ねえ」の低音のスローなところ。わりと、今回の林檎の新譜の出だしは、総じてスローテンポですよね。ガールズポップスの文脈に入るべき存在のシーガル・スクリーミング・キスハー・キスハーで言うような「SLOW START」とは別の視点でしょうが。そのスローでゆらめきのある始まりがわりとサイケ感を引き出しているとおもうんです。もちろん「ねえ」の部分がサイケであるということではなく、どちらかというと「ドツペルゲンガー」の引きずりでサイケ的な傍流が、そこへたどりつくとおもうんです。

 そしてテレキャスターらしき、ひっかき音に近い音が発せられ、その後、先生の指摘する、ボサノバ風の音楽が始まる。とにかく、「ねえ」とサビの部分での、音の収縮、または減速性というのは、これはジャズにしかできないテンポの激しい振幅なのかもしれません。わりと、そういう減速性というのが、このアルバムの幾曲かにはあって、減速性は、以前の林檎の加速性と対をなすものだとおもいます。そのあきらかな減速性の宣言が、「やつつけ仕事」でしょう。ただこの「迷彩」から「おだいじに」への移行も、まず、ピアノから始まるわけですけども、ゆっくりしている。弾き語りの調子です。

 しかしここまで行くと、一口には言えないとしても依拠音楽ジャンルの多様化・分岐・融合がすごく露わに出てきているという点に気づかざるをえません。「宗教」でパンク&東洋系・地中海系・中東系・クラシック&ミニマル。「ドツペルゲンガー」はサイケ&ミニマル。「迷彩」はボサノバ風ジャズ。「やつつけ仕事」で弾き語り。ということになるとリスナーは、この多様な音楽性に、もはや統一性はないのだということで、音楽的には先生の言われる万物不一致的な感覚に襲われ始める。唯一その概念を突破するのは「茎」であり、その天上界的なイメージは、地獄、煉獄を通り過ぎた天国への掛け橋なのだといまはおもっています。「茎」の幽閉的な塔が浄罪山的な目論見を果たしているとすれば、そこで全て罪が洗い流される、ということになります。で、とりあえず「迷彩」から「おだいじに」への掛け橋があるとすれば、その曲ごとに、ジャンルの違うものが投入されるということがまずありますね。

 また、「おだいじに」では、ギターの弦を震動させるE-BOWが使用されている。それは井上という人がやっているわけですが。もちろん、シンメトリーの関係性を無視して聴き進めると、わりと、ギタリストも、ドラマーも、ベーシストの特徴に変化があって、もちろんコンセプト上、シンメトリーの関係の中でバンドは構成されているわけですが、単純なリスナーはこの多種多様の奏法の変化に耳を疑うわけですね。一人の人間が、ここまで熟練した腕と多様な技巧を凝らせるのか、ということです。この点、音の流れは必然的にジャケットに、ある程度方向性を示されているということになるだろうとおもいます。疑問を感じて、歌詞カード、もしくはジャケットを見るという行為がなされる可能性が高いですから。すると天地逆倒のコンセプト、シンメトリーのコンセプトというのが明らかになりやすい。また時期的にもシンメトリーのことは林檎自身も数々の情報誌で発言してますから、発売当初で聴く印象と、発売から半年以上たったときに聴く印象では、その差が歴然としてくるともおもうわけです。

 愚直に、「おだいじに」を聴いた後に「やつつけ仕事」を聴くと、なんて整合性のない音の流れなんだろうとおもいますよね(笑)。もちろん林檎をある程度聴いている人であれば、そこで『絶頂集』の過去へと回帰していく運動を読取ることはできますが、わりと「おだいじに」から「やつつけ仕事」までは溝があるとおもいます。「やつつけ仕事」から「茎」への移行は、ミニマルから、逆流するようなベースと打ち込みで、とりあえず繋がっているのかなと錯覚しますが。「茎」以降に進むと、その音の流れというものに若干慣れのような感覚が伴います。ただし、やはり「おだいじに」から「やつつけ仕事」は、どうも断絶していますね。またシンメトリー上の順番の推移でも「おだいじに」から「とりこし苦労」への音の流れがあるかと言えば、これも首を傾げざるをえない。結局、逆倒の物語も、実は、一部、二部、三部といったような精緻な物語を把握するには完璧には至らなかった。おそらく、先生はこの後の発言で、それを完璧化するやもしれませんが、細部における断片的な話には、かなりタッチしたようにおもいますし、先生の導きで、全体の視野として母と子の意識ゲームや、子どもの過呼吸から呼吸するに至る成長の軌跡、茎を頂点とする導管的繋がりなどが視座に入ってきた。また、シャワー効果というものも、明らかにあるのですが、それでもなお、綺麗に纏まった起承転結のドラマを見出すことはできなかった――そう僕はおもっています。

 そのため、物語の存在しなかった、あるいは意識的に逆倒の論理に貫かれた物語性のない物語――そういう新譜の局面を語らなければ、結局、林檎の二重、三重の巧みな仕掛けに騙されたままになるという危惧があって、先生は全体的な音の流れの再解釈、その呼びかけに及んだのだろうとおもっています。留保付きで意味を確定しようとしていた試みは、逆倒、さかしまなコンセプトから外れて聴けば――ようするに普通の新譜を何気なく聞くような態度で聴くとすれば、荒唐無稽になってしまいます。そしてわりと以前の林檎が反映論のようなものを好んでいない、「誰にでもなりすます」的な変化型・多様性の歌手であったため、自分の生活に対する隠蔽や、虚実などを故意に塗り重ねていったという経緯がある。そのために阿部先生は、子と母という、単純な図式で解釈することを最初は厭っていたんだとおもいます。

 音の流れは、おそらく意識の流れということにも影響しますよね。僕は母性感知という最初の段階で「葬列」と「おだいじに」と「ポルターガイスト」を挙げました。だから最初の段階で――つまり順番で聴いたときに僕が初めに母性感知をしたのは、「おだいじに」ということになります。むろん一発目で、それを感じたわけではないですから、弾き語りで、これは何かの絶唱的な愛を唄っているのかなと聴き入っているうちに、その歌に込められたものが把握の対象になってきた。どうやら、音の流れには反して――つまりは、「世間と迎合する」と先生の指摘した桑田佳祐やポール・マッカートニーの、極めて大衆的なオーソドックスな作曲性をこの曲が感じさせるという印象に反して、唄われる対象は、どうやら大衆ではなく、まったくの個人――しかも限定された個人なのではないかということに気が付くことになります。しかも、それは、恋人や夫に対するものでもない。先生は「ドツペルゲンガー」と「おだいじに」と「茎」に子守歌的な要素があると指摘されましたが、たしかに、その点で考えると、以前の林檎が厭っていた「反映論」的な自らの文脈を打ち崩し、極めてナイーブに、私小説的に、更に巧緻の限りを尽くして自叙伝を語り始めたということができるのではないでしょうか。林檎自身は、いわば、「RAT」的な文脈の解釈では、決意のほどを太宰の入水自殺に見立て、そのような戯画性・劇画調で、語り始めたということになります。

 だから、悲劇を劇的に喜劇化する運動さえする道化の心理というものがやはりあって、「茎」以降の「とりこし苦労」はわりとナンセンス、B級の音楽になってますよね。というか、これは「はぐらかし」というか、鬼気迫る状態をはぐらかす効果があります。結局、林檎自身は自分の作為性というものをことさら自ら分解するような方法でインタビュ―に臨むことが多いような気がしますし。偶然性の強調や、言葉足らずの方法で、過剰な作りこみを、隠蔽しようとしますね。これは一種の自己防衛的な戦略だと僕はおもっています。いわば安全弁を何重にも仕掛けていく。つまりダミー効果といってもいいような、詩の裏側を意図的に読ませるものと、詩の裏側を探っても何も出てこないような、そういう仕掛けもしたのだろうと推測します。「とりこし苦労」はその点、ダミーっぽく、詩も他の詩に比べ光彩度も薄く、曲調も単調で、非常にくだらない。ですが、こういう仕掛けをしないかぎり、真実の吐露をすることができない。シンメトリーでは「茎」は終着点ですが、しかし純粋な順番、カタルシスを過ぎてしまった「とりこし苦労」は、その終着点すら「はぐらかす」効果がある。

 その「はぐらかし」、いわば多重装置によって、時間の流れはそれぞれの個人の解釈で、かなり差が出てくるとおもいます。先生は東浩紀のことを前言された。その東浩紀的「急ぎ」についても、時間的な関係性と結びつけることも可能かとはおもいます。ただ僕は東浩紀を根っからは信用していないんですよ。僕は、彼と大澤真幸の対談を見に行きましたし、そこでのセキュリティ論、及び「群像」における大澤真幸の見解を含めて、なんかしっくりこないんです。ここで余談になりますが、少々私見を書きますと、セキュリティのことについて、東浩紀はスターリン・システムを持ち出して説明しますよね。そして、彼の研究していたソルジェーツィンの『収容所群島』なんかを持ち出して、そこで現代の監視システムを対象させる。そこでもう一つ、大きな問題になっていたのが9・11の問題で、あれが完全に映像化された映像であったということで、人がまるで死なない映像だったということを語るわけです。大澤真幸はカフカの『審判』のことなどを中心にして、不可解な了解のようなものを示すわけなんですけども。

 林檎自身も隠遁時にこの9・11の恐怖を受けて混乱した様が、復活第一声のインタビューで如実に表れるわけですが、東浩紀の言い分では、確率的に決められた場から、逮捕される冤罪の囚人のようなモチーフが、現代のシステム配備で再び現実化していくということになります。その逮捕というのがわりと過剰な正確性に裏づけられた不正確性みたいなものなんですけどもね。というか、そのシステムにおけるセキュリティ化の問題は、二〇〇〇年問題を含めて、セキュリティに加担すること即ち、セキュリティの内的矛盾と契約するということで、その当事者は、セキュリティの暴論的論理にも振り回される危機に取り込まれます。ただ僕は、東浩紀が意識的に避けている、その確率論で作られるスターリン・システムによってつくられる冤罪の犯罪者では「ない」ほう――実際に存在している不透明な犯罪者のほうがより重要でもあるとおもうんです。それが、犯罪表明型ともおもわれる神戸の事件から、だいぶ質が変幻している。おそらくその不透明さを、彼等は9・11の敵の不透明さで語りたかったのではないか。だから東浩紀の着眼は、政治的・宗教的なレベルでの問題を含め、ちょっと違うなとおもうんです。

 今、都市で溢れている犯罪者の一端は9・11時の、マインドコントロール、もしくは完璧に訓練されたエリートの犯罪者ではないと僕はおもっています。計画がわりと破綻している。無目的性という特徴もはっきり感じられる。この経緯でいうと、そういう破綻した犯罪者は証拠を残しているから捕まりやすい。が、警察は捕まえられないか、捕まる前に犯人が自裁しているか、捕まえても犯罪の根拠性を見出せない。ということで、わりとセキュリティの象徴である警察は、一番効力を発揮するべき場所で、すでに行動が遅れているというか、誤差を生んでいる。たぶんセキュリティの矛先となるべき対象への情報収集能力が低下しているか、誤作動を起こしているかなのですが。わりと東浩紀的なセキュリティへの信仰が幼稚ささえ孕んでいるとおもうのは、セキュリティを無化する何かが確固として現代に現われているのに、それを無視しているからだとおもうわけです。そこには、不可解な了解というような言葉で語られるようなものではなく、もっと奥深いものがあって、それがある種、セキュリティの完全信頼と同時に、システムの内的矛盾、及び、暴論的倫理観=国民総背番号性への異議を差し挟まないバランスのとり方を「急ぎ」という見解で示せばいいのか。

 この意味でむしろ今回の林檎は、故意に「遅れている」からイマ的なのだと僕はおもってます。もっとも、それが不整合性ということであれば「急ぎ」も「遅れ」も変わりはないとおもいますが、あくまでも、林檎自体が体現しているものって犯罪者的な側面ですよね。東が言いたいのは、どちらかというとシステムの危うい正確性に基づいた確率論的な誤作動の方だとおもうんです。でも、よくよく考えれば、林檎自体は、商業ベースに乗ってまでして母と子の意識ゲームを含め、このような作業をする必要性が本当にあったのか、ということは疑問で、正直言うと、わりと林檎のそんな目論見って破綻しているのではないか。しかし、僕らは、そういう破綻した目論見の細部を嗅ぎ取ろうとして、いろいろ検証してきたのだとおもいます。林檎が目した効果が、実現化されていない点はかなりあるとおもいます。にもかかわらず、現実的にはCDをセールスしているという実行の点が、現代の不可解な事件と合い通じる部分があるのではないか。もっと砕いて言えば、CDを聴く側のリスナーの情報収集能力が低下している。もしくはその方向性に誤作動があって、スターリン・システム的・冤罪的犯罪者の確率論で音楽を聴いてしまっているということなのかもしれません。それが林檎の実態を捉えていないし、林檎自身も不完全なアルバムを作ってしまったのではないかという危惧が、やはり僕の現段階での概略的な結論になりそうです。もしくは完全な意図はあったけども、その目論見が、実際の場で思った効果を発揮できなかったと言い変えることも可能かとおもいますが。

 ようするに時間の流れということでいうと、その意識的に「不整合」で「遅れる」時代錯誤の林檎の文脈は、わりと、その「遅れ」の暗号の解読が、思った以上になされていない。もしくは解読に予想以上の時間がかかっているとでも言いましょうか。

 また、犯罪を意識しない犯罪者ではなく、犯罪の文脈が破壊されていることを知覚した行動者という点で林檎の歌の流れを再び検証するとすれば、林檎の歌世界に登場し投影される男性的主体こそをイマ的犯罪者と呼ぶことができるのかもしれません。記号、模倣の段階までに平板化した人間は、どこの誰ともつかない、交換可能な人間だから、一人いなくなっても変わらない。そうすると主体というものは平板化が完成した時点で消えますから、存在としては死者と選ぶところがなくなってくる。同時に、自分が死者であれば、他者もすべて死者であるという、平板ではあっても無限な夢想も可能となるわけです。「宗教」がそういう指示をあたえているといえば、これはアメリカニズムへの強烈な批判ですよね。しかしわりと林檎は、それを直接的には明示はせずに、意図的に回避していった。むしろ、そういう明示的な文脈を壊して、暗号化した。その暗号が、わりと、林檎自身は特定の人間に理解されるはずだと目論んだとおもいますが、暗号の電波力が、思った以上に少なかったのかもしれません。

 音の話に戻りますが、「茎」以降に、大方が気づくのは、バックサウンドにノイズが微妙に走り出すということです。「やつつけ仕事」と「とりこし苦労」の外人の声はほぼ同一です。ただ順番に聴く時に、このノイズが接合点になっている。そんなことがこのアルバムでは多いわけです。しかも、その接合点もちょっとした不整合さを示している。またノイズがやたら無機質的で、しかも安っぽく、よくある、癒し系の紛い物の音楽に近いような、けっして、良質とは言えないものといえるんじゃないか。これが今度の新譜がプログレのように僕に聴えた理由なんですが、わりとリズムの刻み方も安易で、これが林檎自身の目論見を破綻させた一つの要因にもなっているような気がします。結局、林檎の繊細な詩や唄いまわしはリズムが命なところもあるんですけど、バックサウンドに打ち込み系の音楽が入ると、それが死んでしまうんですね。統合されて、個別の力を発揮しない。やはり打ち込みと、生演奏は相容れない関係性というものがあって、森さんじゃなくて、以前のように亀田さんがやってれば良かったなというのは、こういう点からです。

 そのため、ここで唯一敏感にノイズを突き破って響いてきたのは、子と母との意識ゲームの末の「茎」を通した天上の世界観だけが残り、それ以外の文脈はなし崩しに崩壊していく構図です。この新譜ではたびたび、子どもと、母の関係を示唆する文句が断片的に散りばめられていて、通底感覚としても、歌が男女の普通の恋愛を対象化していないという認知が起きる。ダミーや道化の心理で、「とりこし苦労」のようなものは作ったけれども、たしかに、子と母との関係上でしか交わされないような文言が、浮上している。それは、「とりこし苦労」「おこのみで」を過ぎ去り、「意識」にまで進まなければならないけども。「意識」ということで言えば、単純にここで、母と子の意識ゲームを「意識」させられてしまう。「意識」と「迷彩」はシンメトリーであり、解釈上は、「宗教」と「葬列」VS「意識」と「迷彩」は、鬼気迫るようなバンド構成の争いがあるような気が僕にはします。また阿部先生のいわれる同心円的構造と破線の構造のほかに、力学的な「茎」を中心とする渦巻き上の外に広がるイメージを、コロナというふうに僕は視覚イメージします――太陽的なものなんですが。死の寸前のひたすら膨張としていく太陽と、ガスが渦巻状に中心にあつまる再生のイメージがある。ようするに「茎」の目指す天上界は、天、つまりは太陽にも向かっているのではないか。その意味で「宗教」の世界も、終末世界特有の、膨張的太陽の図を思い起こすんです。「宗教」の言いたい極は諸行無常の世界であり、「茎」は地獄、煉獄を過ごした後の、浄罪山を通り越した、そういう、いわばダンテ的なキリスト教学的な救いの世界だといま僕はおもっています。

そのため、「茎」と「宗教」がアルバムに隠された最後の対であるという論を僕は捨てません(ただし、一般的定義は、世捨て人エントリーナンバーワンで良いとおもいます)。だから、あの「茎」の、吸い込みながら回転を示すような音の始まりが、再生のイメージを喚起させる。惑星的な生成イメージということです。いっぽう僕が対になると考える「宗教」は、詩句でも、膨張しすぎた死の烙印が、ビルや道路の圧倒的な膨張を示している。こうした増殖のイメージが、飲んでも飲み切れぬという破裂状態とも直結されています。で、僕は、そんな太陽の死の爆発状態から、全体を諸行無常のイメージとして捉えたわけです。ただ番外で、ここのノイズで現われる外人の声や空間は、わりと林檎の中では定位されていて、「おだいじに」は実は飛行機の空間であり、「おこのみ」は新幹線の新横浜駅、「ドツペルゲンガー」はバスで、「ポルターガイスト」は小田急線ということになっています。この解釈を含めると、わりと詩の世界も、変幻していくとおもいますが、余計な煩雑さを避けるため、この話題は措いておきます。これはあくまでも背景のノイズの空間定位ですから。

 だから、僕は、こういう解釈も付け加えます――つまり、シンメトリーの完結における「茎」で救いが現れたと思いきや、ふたたび「宗教」で諸行無常の文脈に突き当たる、と。ひたすら冷たいし、何もわからない暗黒の空間は、純粋に順番どおり聴いた、チグハグな感触と似たものとなる。ですが、「葬列」に至ると、わりと、そういうチグハグさこそが生命の鼓動を生み出すような、危うく転生的な、永遠の循環を示すのであって、いわばこういうイメージはニーチェ的な永劫回帰運動にもつながる。また、「葬列」からは、ダンテのごとく、地獄めぐりのあとの浄罪山の天界へ駆け抜ける運動があり、「茎」に至る。そういう収縮と膨張、死と生の流転が永遠に繰り返すということを、林檎はやってみたかったのではないか、とおもいます。

 ただし、そのような作業において、やはり、全体的なコンセプトの組み合わせがあまりにも、複雑すぎたし、暗号化も多く、その中の副題も多すぎた。子と母の問題を含め、音楽における地域性の無目的な拡大、楽器のミスマッチ、バンド構成の不必要なほどの豪華絢爛さ、時代錯誤、ダミー、詩の難解さ、などなど。混乱、混沌を呼び起こす原因が点在しすぎている。ただし、この混乱、混沌は、現代の世界情勢にわりと偶然か意図的か追いついていて、すべてが破壊されて、何かが生まれるといったような――または生まれたものは皆死んで、バラバラに崩壊するというような――天地逆倒の矛盾を投げかけてもいる。アルバム全体はこの意味でも非常に厄介な構造になっています。

 この厄介な流れに拍車をかけるのは、歌の流れが、わりと、母と子の意識ゲームの見立てをすることがなければ、ほぼ、主題らしき主題がみつからないということでしょう。母と子の関係が濃縮されているのは、主に子守唄と分類された「ドツペルゲンガー」と「おだいじに」と「茎」、そして、母と子の意識ゲームの「意識」、また、最終的に諸行無常を言い表し、同時に「葬列」の流れを組んで読み込む「宗教」は、「葬列」とのシンメトリーの関係で母と子の物語が浮上する。

 ここで、最も厄介だとおもうのは「とりこし苦労」です。「やつつけ仕事」は基本的には林檎の回顧なので、とりあえず主題から除外。「ポルターガイスト」と「おこのみ」と「迷彩」では、抽象的文言ですが、そこに母と子の関係を読取ることは可能でしょう。しかし、ここで問題なのは、ここに精緻な逆倒 ――先生のいわれる「生んでは子に従え」といったような歌物語が発生しているかどうかという点です。もしくは導管的な、植物的な成長と結びついた何かしらの隠喩的寓話があるのか。

 もっとも、今回のアルバムには植物をおもわせる例えば「光合成」という言葉があったりします。そうするとわりと、「茎」は赤子の幽閉された環境と、そして、息子そのものの身体的比喩、ということになるのかもしれません。その「茎」に情愛という水を注いでいるのは母のほうだとおもいますが、「宗教」における、その情愛の水は溢れきって、破裂寸前で死にかけている。酸素というのも重要な植物の運動ですが、わりと「茎」の段階を経るまでは、陰湿な室内栽培のようなもやしのような脆弱ささえあって、死に絶えそうで、呼吸できるか、できないかという危いといころにある。「おだいじに」では、そういう脆弱な茎を保護して、呼吸しようという試みもあり、「茎」ではついに燦燦と太陽が照る。しかし再び「宗教」では枯れるのが常という強烈な否定があって、燦燦と太陽の光を浴びて、「茎」に花が爛漫と咲く。「茎」のそういうイメージはPVのアニメーションにもありました。それは常に死と表裏一体ということになっています。結局林檎が世捨て人ナンバーワンみたいな解釈を促している。だからこの希望的観測とも言える「茎」に終着点があるとすれば、ナンバーワンといっても「厭世的ナンバーワン」になってしまうのではないか。

 また、時間の流れと、歌の流れを重ね合わせるとすれば、それは植物の微妙な呼吸に関わる速度のようなものにも転化しえます。そう考えると、「迷彩」なんかの風景も、人間からみた描写というよりは「植物」、もしくは土に根を生やした、いわば定住性の象徴とも言うべきものからの視点としてイメージできる。そのような視座をもつと、より光景が鮮やかになるのではないか。だから「迷彩」の揺れの文句は、風にたなびく、「茎」の姿とリンクする。そうすると全体的な姿がより鮮明になって、ああ、視点は「茎」から見ている風景だったか、という新境地さえ見出されてしまう。ただし、それは全体を俯瞰するような壮大な構図にはなりませんね。あくまでも、「茎」は子であり、また、子は男であり、男は息子である、ということですから。必ずしも、植物的視点がすべてではないが、わりと林檎がストレートに表現した絵柄は庭とか、土とか、「茎」とか、そういう自宅でぼんやりと、見ていた植物園みたいなところに永遠の何かを見出そうとしているような気がします。また、語句の助詞の一つの変化によって、「生んでは子に従え」といったような効果も示されているのかもしれません。「茎」では「が」と「の」の助詞が、そして、「意識」では「君が愛した 僕」という、不思議な言い間違えのような言葉さえある。また「おこのみで」では、「愛という言葉は不要です」「愛という言葉が嫌いです」という、「が」と「は」の差異もあります。他にもそういう、普通の言葉を執拗に裏返すような文言がありますね。それはとくに「ドツペルゲンガー」で顕著になりますが。

 とりあえず、「植物を育てること」「育てて花を摘むこと」「そこから採れる種を蒔くこと」――その繰り返しは永劫回帰です。音の流れ、歌の流れ、時間の流れは、大まかに、そこをぐるぐる回っている。ただし音の流れだけを読み込むと、途端に混乱しはじめ、「意識」がそのようなテーゼに沿ったものなのかと問うことさえまったくナンセンスで、意味をなさなくなります。それはアルバムの多重装置によって、カモフラージュによって……常にはぐらかされるからです。そしてその後の「ポルターガイスト」から「葬列」への曲間の否定も、わりと厳しい、音楽的接合面ではないでしょうか。詩的世界において、「葬列」から「ポルターガイスト」の世界は、間に「宗教」を挟むということで、物語性が発生するという仮定にはなっていますが、案外、その曲間の否定も、完璧な数珠繋ぎのようにはなされていない。むしろ数珠を崩すようにしているようにおもえます。もしくは、数珠の繋ぎ方が、シンメトリー的・メビウス型の繋ぎとしてある、ということでしょうか。

 ここで、僕の発言は終止します。阿部先生と内海君にバトンを渡します。大変遅れて申し訳なかったとおもいます。



★阿部嘉昭

 いやあ、すごい言葉の洪水だった(笑)。本当に圧倒されました。別に皮肉でいっているのではないよ。浅井君はこれまでの座談会の流れを完全に有機的に取り込みながら実に見事な総括をし、同時に新たな問題提起をもしているとおもう。だからいまの発言は浅井君のこれまでのうちで白眉を形成するものです。サイト読者には、ぜひこの発言を味読してもらいたいし、座談会の全体性を端的にしめす箇所として、僕もこれからは、いまの浅井発言を推薦することにします。

 ただ、すごく多岐に亘り、しかも長丁場の発言だったので、刻々にしめされた問題提起は、メモをとるなどせず、ふつうに読むかぎりは、読者の多くが「いま」意識に蘇らすことができないのではないかとも危惧する。で、いまの浅井発言をうけてどうしようか僕も迷ったんですが、以下の方法を採ることにしました――こうなった以上は、まず、僕なりのアルバム全体の音の流れにたいする考え方を最初にしめす。それで付帯的に、「おもいついた」もののみ、浅井発言との呼応その他を図る――というように。たぶん、この流れの形成が作用して、次の内海君も同じようなポジションで、自分の発言の総括を図ってゆくのではないかという気がする。それと僕は、これからの自分の発言をしるすにあたり、もういちどアルバム全体を一聴してみたんだけど、歌詞解釈にかんするこれまでの見解を変える必要を認めなかった。したがって、以下の発言はひたすら、音楽的な指摘に傾斜してゆくだろうという予想を立てています。それでは行ってみます。

 アルバムの最初を浅井君はビッグバンというふうに形容したけれども、マンドリンが掻き鳴らされ、そこに多様なノイズがほぼ無媒介に参入するというかたちではじまりました。これは僕も前言で、冷笑的な混沌、というような言い方をしたかとおもいます。ただ、もっと強調されていいことは、そのノイズ総体が限界を超えたような低温性――あえていうなら、「絶対零度」に近いような、前代未聞、目が眩むような結晶的感触を湛えているという点でしょう。結晶がぶるぶる震え、必殺的冷気を放ってるんだ。そこにちょっと楽器特定の自信がないんだけど、たぶん林檎のピッキングによる琴のストロークがつながってくる(林檎はそれをハープを爪弾くように弾いているのだとおもいます――若干の音色変化をあとで施しながら――結果、これは弦楽器なのに鍵盤楽器のような響きもつことになった)。これはさきのノイズ争鳴に地続きとして入る音で、そこにさらに林檎の弱い声がカブり、歌が始まったのでした。逆にいうと、林檎の声はその前のノイズの連続性とカブり、半分隠される位置から生じている。そのことが実際の声の「弱さ」とともに、属性的な「弱さ」をも印象させる要因となっている。この着想は実に見事だとおもいます。

 最初の聴取体験を何とか憶いだそうといましてるんだけど、僕は明らかにこの声の「弱さ」の魅力にヤラれたんだとおもいます。それで即座に「新しい音楽的な価値の付与」がこれから開始されるんだ、と身構えた。たとえば「弱音機」という概念があります。これは英語が母語のベケットが、フランス語で文学をやりはじめたときに使用した概念です。つまり英語を使ってあきたらなかった彼は、英語の「弱音機」としてフランス語の使用に目覚めたということです。吉増剛造に、詩作/映画的思考/他者との出会いの記録――そのどれにも収斂しない不思議な書物として、『燃えあがる映画小屋』という、快著というにはあまりにも憑依的で魅惑的な本があるんですが、そこで吉増さんは、宇野邦一と対談をし、ベケットの話題となって、その「弱音機」という概念を知るんですね。その概念と邂逅した瞬間の、吉増さんのふるえるような「ときめき」が紙面に確かに記録されている。彼はたぶん「弱音機」を、「曇り」や「消え」や「小ささ」や「幽霊」などといった類似印象をつくりだすために活用できると直感した。つまり、詩人として自らを装置化するときに、この「弱音機」の介在が必須だという、やや不穏な功利的天啓を得たんだとおもいます。で、この林檎の声の「はじまり」もまた、僕にとってはそのような「弱音機」が介在しているという感触があった。その瞬間に、林檎の声の位置や縮率に「ある孤独で決定的な定位」が起こっていたということです。

 話はややもどりますが、しんしんと冷えたノイズによってアルバム全体が開始される点も、当然に衝撃だった。そう、憶いだしましたが、この段階で僕はビートルズ『サージェント・ペパーズ』のラストで盛り上がってゆくあのノイズをすでに重ねていたんです。で、ビートルズのそれは、アルバム全体がある一定の、宝箱をぶちまけたように魅惑的かつ不定形なイメージ連鎖をつづった段階で、最終的に出現してくるものだった。このとき、このノイズによって、サイケデリックな楽園への誘導が危機的に促されていったととることができる。すると、この椎名林檎の冒頭からのノイズ提示は、そこへの回帰を唆すものではないのか――そのような、ポピュラー音楽史的な位置づけを自らしているのではないか――そんな、感動というより、恐怖か危機感に近い感触が生じたんです。つまり、それをいまおこなえば、「狂気」への閉じ込めもが付帯されてしまう。で、事実、林檎の唄いだしのメロディは、それを完全に成就しようという意気込みにみちて、とても「甘美な」旋律をかたどっていったんです。それが「誰か僕に…」のAメロだった。しかもそれは浅井君のいうとおり、ゆっくりとしていて、ギリギリで張り詰められた繊い線としても組織されている。いま改めて聴きなおすと、とくに詩行でいうところの1聯目、その2行目と4行目にかかるエコー・エフェクトが巧みだよね。それで声が遠くなって、これが弱音機機能の決定打ともなっている。それと「嘘で元々さ」の林檎のエロキューションと旋律付与がすごく繊細なんだ――それが学童期の少年が歌の主体という印象を確実に定着させる原因となっている。つまり、この曲の音の組織や進行法は、林檎をはじめとしたミュージシャンたちの「耳のよさ」に確実に裏打ちされているという敬意が走るんだ。

 浅井君の発言とここでリンクしようとするなら、やはりこの段階で、彼のいうように、琴やマンドリンの使用に、通常の楽器文脈からの転位―― 「ディペイズマン」が認められ、困惑を覚えさせられるという点を指摘しなければならない。楽器の「さかしま」な用法展示会。こういった衝撃が前置されているから、「立て」以下の命法列挙(Bメロ部分)が開始される時点での、暴力的な音の、垂直的な立ち上がりが心底の脅威ともなる。モーサム・トーンベンダー百々和宏のギターは、ここでは本当に不吉で不埒な、遠い唸りをあげている。モーサムを聴くと、彼はパンキッシュなギターから抒情的な分散和音奏法まで変幻自在なんだけど、特徴的なのは、彼の声の印象ともシンクロするんだけどどこかでギターフレーズが「柔らかさ」を湛えてしまうその上品さにあるんではないだろうか。僕にとって彼は浅井健一のスピードと自己分解力と脱分節化の暴力、あるいはモールス酒井泰明のギターの変幻自在性と味、さらにはゆら帝・坂本慎太郎の「ゆらってる」感触とともに、Jギタリストのなかでも憧れの的となっている。僕はこの「宗教」に参加した百々のギターを、カンのミヒャエル・カローリのギターに比定した。ただ、これはちょっと単純な類似印象だったかもしれない。カローリのギターが遠くに鳴り響くときは、いわばもっと「布」がたなびいているような感じがするんだ。ところがここでの百々のギターは繊維質じゃなくて、魚類的でしょう。鱗が動きの変化で無気味にゆらめいてみえるような感触がある。細部増殖的なサイケ性があるというか。この不穏さには改めて驚愕した。

 それと特筆すべきがベースということになる。このベースを弾いている井上雨迩(うに)というのは一体どんな経歴なんだ? サイトで調べてもスピッツ「スピカ」にも参加しているエンジニアだとか、そんな表面的なことしかわからない。このベースがまた不穏なんだ。僕は砲弾が次々に繰り出してくるようだと前に語ったけど、ファズ的なエフェクターを若干噛ましているんだろうか。で、この彼のつくりあげるフレーズがまた、「ディペイズマン」的なズレをたえずつくりあげているんだね。あとでいうけど、このアルバム全体の音構成では、森俊之の打ち込みの規定性と、井上のベース・フレーズの脱規定性が一種の「闘争」を起こしている。で、井上が勝利したときにのみ、演奏が目覚しく震えはじめるんじゃないか。むろん、ここではザ・ルースターズ出身、池畑潤二のドラミングも危機的な迫力を演出している。ただ、ルースターズ自体は僕は80年代パンクの典型だとおもう。つまり、パンキッシュなポーズだけで、実際は「健康」な音楽を演っていたんじゃないかとおもうんだ。ルースターズ時代の池畑のドラミングも既存性を脱していない。その彼がルースターズの後、どのような経歴を重ねていったのかは、不勉強でよく知らないけど。

 で、この「宗教」がアルバム随一の佳曲だというのは、たぶんこの曲のみがCメロを際立たせた、完全な3パーツの曲だという点にも起因しているとおもう。つまり「丁度好い」以下の部分ね。ここで曲が長調転換するんだけど、それに伴ってシンセによるオケが入る。それで単純に音色的には平穏や安心といったプラス価値への架橋が図られることになるんだけど、この局面で、アルバム全体のパッチワーク的な、数小節単位での複合性・貼り付け状態が顕在化してくる。そしてこのとき、とりわけオケの介入が決め手となるという宣言がなされることになるとおもうんだ。このCメロ部分は末尾の「凝視せよ」の「よ」でマイナー/メジャー両コードが重複するんだけど、楽器演奏上の重複はともかく、こういうメロディ/コード上の重複はなぜか以後、みられなくなります。それが残念ではあるんだね。

 「宗教」の音の話をまだ続けます。「季節は…」で二回目のAメロに入ったときから、マンドリンの正統的なトレモロ奏法がバッキングにはっきりと加わってきますが、そこでは半音単位でフレーズが下降してゆきます。まあマイナー曲には常套的な味つけではあるんだけど、僕はそこでのコードの翳りが体質的に好きなんです。それと歌詞カード上は「芳醇」と書かれている間奏部分。そこではバイオリンが10台程度集まったような感じで高音を響かせるんだけど、そのときの音の組織法が見事だとおもう。浅井君も内海君もそれから僕も、このアルバムでの音の組織決定者として森俊之を強調することが多かったんだけど、この曲、「弦アレンヂ」としてパースネル表示されているのは林檎なんだよね。ほかの曲でも彼女がオケ譜を書いたと意味する表示がまだある。僕はこの曲の彼女の唄いだしのときに響く琴のストロークなんかの演奏能力を買っているんだけど(林檎もまた、どんな楽器でも30分いじくれば弾きこなしてしまう、ブライアン・ジョーンズのような半獣神なんじゃないか)、このオケ譜を書いた彼女の能力にも、いま全体を聴きなおして、改めて驚嘆したんだ。つまり僕はやがて林檎がザッパというより、カーラ・ブレイ的なビッグバンドの統率者となることをこのアルバムで視野に入れたんだとおもう。

 「宗教」は1曲目、つまりアルバム全体のイヤー・キャッチear catchだということもあって、まだ音の面でアルバム全体に効力をもたらしている要素がある。この曲が終わりに近づいて、「あ、通り雨」以下、さらに印象を変えてゆくくだりがそれです。ここでは林檎は歌を多重録音させている。彼女の地声と、オクターブ下の声を。つまりオクターブで架橋されるユニゾンなんだけど、ここから、脱力性、奇怪さ、不可思議な感触といった複合的で要約できない印象があふれだすとおもうんだ。なぜそうなるのか。それは象徴的には「一者」が変圧や重複の作用に織り込まれて「双数」に分岐する契機が生ずるからだとおもう。といえば理解されるだろうけど、この時点で次曲「ドツペルゲンガー」の世界が予告されているんだね。しかもこのあたりから演奏上、ヘンなことがさらに生起する。池畑のドラム打ちが打撃音を軽くしながらもヘンなふうにフレーズを頻繁化・細分化させてゆくのにたいし、百々のギターはフェイド・アウトを決意したように一層、遠隔化してくる。しかもその全体がサイケ時代のテープ逆回転のような感触をもちはじめる。何か、この音の組合せと展開そのものが「逆倒」を意識させてしまうんだ。

 で、この曲の最後。林檎の「ah」の高音のあと、ふたつの声が互いを追いかけ、交互に入れ替わり、時に重なるように、左右に振り分けられながら繰り出されてくる。「模範だらけ」以下の声は低音で、これは「母親」を指標している。それと「行け」以下、いちど現れた命法を反復する声は高音でこれは子供の声を指標している。ということは、「茎」で現れた命令の逆流を、実はこの部分が先取りしていたということになる。このアルバムが母子の(精神的)相姦を一貫テーマとしてもっているという点もまた、実はこの部分の声の錯綜で予感的に出現していたということ。そして死への接近を図るように、以下、楽器構成がどんどん間引かれてゆく――消えてゆく。このとき最終的に残る楽器もまたパースネル表示からは自信をもっていえない。パイプオルガンだろうか(だとすると掠れすぎている)。ただ、もうこのときに聴き手はヘンな世界にからげられている自分の、不安な鼓動を感知しているだろうとおもいます。

 で、ここから2曲目「ドツペルゲンガー」への架橋が果たされる。最初はトライアングルのような音が入り、それからメロトロンの反復旋律が加わる。ドミソでいうと「ラソ・ミレー・ドシドレドシドシー」の旋律。気をつけなければならないのは、「ファ」抜きだという点です。つまり和音階的欠落をかたどっている。これがのち地中海的な主旋律と化合したときに、メロディ面での無国籍化を最初にかたちづくることになります。けれども音階に隙間があってもこの導入部と、「ムーン・チャイルド」的な主旋律の感覚は微妙に異なっている。「今日は」以下のシンセによるだろうオケ・アレンジではオーボエを意識した木管の奏でる裏旋律が素晴しい。いまおもうと、これがクリムゾン「ムーン・チャイルド」で使用されるリコーダーと同じ効果をあげていた。で、このときのオケ演奏が「栗ノ花薫オーケストラ」(統率:後藤勇一郎)ということになっているんだけど、「栗ノ花薫」というのは、このアルバム・パースネル上の林檎の変名というか分身体じゃないか。つまり後藤勇一郎の指導を受けつつ、林檎もオケ譜づくりに参画したのではないか。そうすると、ここで「管弦楽アレンジ」を担当している森俊之との職分が不明になってしまう。いまのサンプリング技術ならナマ音と打ち込み音の完全な聞き分けなど、誰にも不可能だろうから。

 それにこのCDのパースネル表を改めて探偵のようにジトッとみると(笑)、変名も紛れこんでいると確信できる部分が他曲にあるし、納得できない表示欠落もある。たとえばこの「ドッペルゲンガー」にしてからがそうで、ここにはなぜかドラマーの表示がない。かなり下手なドラミングなのは間違いない(笑)。このドラム奏者が、打楽器担当のオーケストラ成員だという考えはリアルではない――そう、逆にこの下手さがまさに林檎自身による演奏を暗示しているのではないか。つまりこのドラムはドダドタッとやたら叩いて、同時に神出鬼没感があるんだけど(短い打楽器打ち-沈黙が間歇的に反復される箇所を聴いてください)、これって「対」になる曲「ポルターガイスト」をまさにドラムをもって象徴的に体現しようとしたということなんじゃないか。

 で、この曲はアルバムの多くの曲同様、二部構成です。で、「見えてしまつたよ」以降のBメロ部分では、やはり井上雨迩のベースが分類不能なんだ。ここでも歌の曲調とミスマッチを刻印するように不穏な唸りをあげているんだけど、このベースをどういっていいかわからない。ドラムン・ベースでいいのかな。それにしてはアミン・アリ的な破壊性が強すぎる気もする。それだけじゃない。各楽器が続々と侵入してくるんだけど、それも決して一体化を成し遂げずに、むしろ異なる界面をつくりあげたままのような感覚になるとおもう。それがギリギリでバラバラにならずに全体化されているというか。しかしそのことで「不統一」感が確実に刻印されるんだね。そこに二度目からは前言したように、ストラヴィンスキー的なオケメロが入ってきてザッパ楽曲的な感触が出始める。このオケメロそのものが凄く鋭い感覚だよね。それから終盤に繰り返される「樂にしてあげる」のところ。「樂にしてあげる」が「ラソーミレードシ…」のメロトロンの調とは完全に外れはじめ、ここでも異様な「逸脱感」が露わになる。これはすごい演奏です。

 三曲目「迷彩」。トライアングル的に静かに響く金属音があって、のちすごく意外な展開になる。つまりラウンジ・リザーズ的クール/パンクジャズがはじまるんだけど、スロー化されていて、異様な崩壊感覚があるという話を僕は前にしました。「浮雲」とクレジットされたギターと渡辺等のウッドベースの絡みがうねるような音場を刻々と展開してゆくんだけど、ここでそれに終止符を打つような林檎の銅鑼が入る。その入りかたにサイケ的な界面異常を感じたという話もしました。この曲での林檎の歌唱はこのアルバムでの彼女のジャジィな歌唱中、スピード感という点では随一です。声の痙攣も取り込んでいるけど、それも歌唱の断片化・細分化という点でこのスピード感に寄与してくる。で、ここでの速さはアブなさに直結しているんだよね。そこで「斎藤ネコ」とクレジットされる奏者のバイオリンがさらに加わる。これは明らかに即興演奏的な高揚をかたどってゆくんだけど、これもまた、精神的な異常や叛乱を明らかに企てようとする不穏な意志に貫かれているという確認を僕はしました。この点、僕は何度もいうように、浅井君のいう、クラシカルな対位法の存在を認めない。

 で、僕がここで新たに注意を促したいのは、ここで「浮雲」とクレジットされているギタリストが誰かという問題です。初期マクラフリン的でジャジィな、ハイコード・ストロークがすごい。音の空白に匕首を閃かせ、時間がゆっくりと狡猾に出血してゆくような効果が最初に図られる。そしてバイオリンの狂言綺語化と前後して、ギターがやがてリード楽器特有の力感をしめしはじめると、まるで仮面を取り外したようにフレーズがパンク化しはじめる。そのリードのエンディングというか断末魔の息絶え部分でギターのフレーズ切片がハードボイルドに剥落、その幻影を自らちりばめてゆくような段になると、そのギターの出所がジャズでもパンクでもなく、ロカビリーにあった点が不意にはっきりしだす。スピード感。脱分節性。スロー化してもスピード感が残存してしまうこのギターにはとうぜんみな、既聴感があるはず――浅井健一です。それもいまの浅井というより、僕がいちばん好きだった『C.B.Jim』のころの彼に似ている気がする。僕は雑誌情報その他でこのアルバムのことを一切調べなかったんで壊滅的な誤解をしているかもしれないけど、僕が「浮雲=浅井健一」とおもう根拠はここにしめせたとおもいます。「浮雲」とは映画でいうところの「アラン・スミシー」みたいな表示なんじゃないか。

 そうして断末魔を刻印したあと静寂への回帰があって、そこで清澄という意味で救済のようにも響く林檎のピアノが入ってきます。四曲目「おだいじに」、ピアノのクラシカルな奏法。やがて弾かれるピアノの音が複音化し、和音も美しい響きをかたどりだす。そこに外国人男性の声をサンプリングしたノイズが加わり、トレモロ状に震えるe-bowエフェクターのエレキギターが入る。このギターは前曲に比してそれほど超絶技巧というわけではないけれども、すごく筋がいい。で、誰が弾いているかと確認すると、これがベーシストだったはずの、あの井上雨迩だった(笑)。やっぱりアイツだった(笑)。誰なんだ、コイツ? 

 林檎の歌は真摯なんだけど、すこし少女モードというかブリっ子モードも入っている。つまり解読された意味性としては歌の主体は少年ということになるんだろうけど、同時に歌唱自体からは林檎の身体性によって印象される少女性が分岐してくるんだね。浅井君は前言で東浩紀についての見解を披露してくれたんだけど、そこで現在的な犯罪者への考えがしめされた。つまり、狡知さを欠いた、行き当たりバッタリの弱い犯罪者に注視したとき東的「セキュリティ」概念の欠落部位が明瞭になるという意見だったとおもう(けれども、東のいうセキュリティは倫理的な自己保全が権力的な監視装置と不可分になる現状において、どうやって権力と折り合いをつけ、その折り合いによってその権力をいかに脱権力化するかという点に力点が置かれているとおもう――そういう戦略的に性急なパラダイムの組み換え=自己組織化は、幼稚さといった形容では決して括りきれない――なぜなら判断作用点の基準がまったく異なっているからです――以上、括弧内は余談)。その意味でいうと、林檎の今回のアルバムでは少年性=彼女の子供側の領域に弱さが重ねられ、それが折りたたまれて、女=母親の領域のもと、消えなんとしているような、全体的な感触があるよね。ただ、その感触を勝利宣言として林檎は出していない。それがとくにこの歌では、少女性との二重発露という回路を経由して出てくる。その姿が、実は倫理的なんだろうとおもう。ともあれ、「私、可愛いでしょ」の暗示に終始するような――あるいは「私、イタいでしょ」の押し売りに終始するような――女性Jポップ・アーティストの趨勢のなかで、少年性の弱さの提示が少女性の脆さの提示と相即してしまうような林檎の表現回路は独自だとおもう。

 で、それが音楽的にはどんな効果をもたらすのか。つまり少年性と少女性の同時(並行)的現前化はやはり不穏な「重複」として現れてくるという点がここで顧慮されなければならない。つまりここでも音場は外国人の声のノイズが入るとはいえ基本的にはシンプルに設定されている。なのに、界面重複の異常が察知されてしまうんだ。僕も最初はこの曲がミニマリスムとサイケの融合の可能性をしめすものと考えた。最終的にその可能性は音の粒、音の単位のふるえという些少領域への検証によって立件されるだろうとも。それはその時点では林檎のピアノ、外国人男性の声のノイズ、それとe-bowギターの相乗効果によるものと単純に睨んでいたんだけど、いま考えるとそれ以上に、この意味での林檎の声それ自体がミニマルとサイケの同時実現に聴き手を導いていたんだとおもう。ともあれ、このシンプルなピアノ弾き語りによって音楽を高揚させてゆく林檎のポテンシャルの高さには、『絶頂集』「幸福論」の林檎をおもいうかべてしまう。

 で、改めて聴くと、この「おだいじに」終息までの音の展開は、現在のJポップでは前代未聞の、本当に考え抜かれた達成、という気がします。とくに弱さと異常さ、その時間軸上に点滅的に生起する「出し入れ」が見事なんだ。で、浅井君のいうとおり、このあたりから、音声ノイズの混入、その相同性によって曲がつながれてゆくという手法を曲のある部分がかたどるようになる。つまりは掃除機ノイズ、FENをおもわせるラジオノイズ(DJの喋り、番組のオープニングテーマ、など)が混入し、それが次の「やつつけ仕事」の歌のアタマに接続されてゆくんだけど、この手つきに僕はちょっと大友良英のサンプリングをおもった。

 ただ、そうしたサンプリングはバック音の多彩な楽器のサンプリングへと自然架橋されだすと、途端に違和感が生じたのね。つまり、音圧の高い音は、アルバム中、これ以前では実はすべて恐怖化という効能をもっていた。しかしここでは高音圧は平板な強調という効果しか感じられない。音の出所と思想がこの局面でまるでちがってきちゃってるんだ。軽薄。雑。ここで初めてアルバムの時間の流れに断絶が露わになる。なんでこうなってしまったのか考えてみたんだけど、いったようにこの曲のAメロの主旋律は実はすごく複雑だった。で、森俊之のピアノ伴奏は、その旋律要素をそのままコード化したものをストロークのかたちで弾くにとどまる。つまり演奏水準が低いんだね。その低さを糊塗するため、空間恐怖的、強迫観念的に、たぶん多彩な森の打ち込み音が導入されたとおもうんだ。あるいは「機械になつちやひたいのに」の一歌詞にすべてが引きずられすぎたのかともおもう。林檎自身の声すら平板化し、歌唱が記号化している。エロキューションさえ、ここではサイボーグ的なんだ。抑揚を欠こうとしている。女とサイボーグというとフェミニズムの文脈を形成しそうなんだけどね。ただここで改めて聴きなおすと、実は僕は、チボ・マット、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハー的なガール・ポップスとの音楽史的な意味での有機的連続を実はここに見出せなかった。なぜか。つまり森の音解釈そのものが事大主義的で、意味形成においては、唖然とするほど隠喩信仰に貫かれているからだろうとおもう。音が記号的に指標する何かをもっているという単純すぎる信念。それでは「音自体」にたいする畏怖が生じないということです。

 この曲が惜しかった。なぜならこの曲のへんてこりんな組成こそ、サイケデリック・レノン的だったからです。それに林檎がちょっと間奏部分で入れるハープシコードのフレーズもちょっとビートルズ的というかジョージ・マーティン的だったでしょう。ただ、この曲にはまだ余禄があった。前言したように、林檎のハープシコードと森のピアノのデュオが、ザッパの生ギターとイアン・アンダーウッドのピアノのデュオのやりかたをなぞったから(むろんそれはラリー・コリエルなんかが誰かとやる生ギター・デュオのやりかたといってもいいんだけど)。

 ビートルズ的サイケは「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」の無時間性、「ルーシー・イン・ザ・スカイ」のキメラ合体、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の崩落感、「ハッピネス・イズ・ア・ウォームガン」の脱-自己参照性、「セクシイ・セイデイ」のアレンジ面での界面異常といった局面などに現れた。その現れ全体をとると、総花的といってもいいカラフルさがあるでしょう? ところがLSDどころか麻薬全般を嫌うザッパは、その総花性に「カット」「接合」をかけた。つまり目もくらむような人為的「編集感覚」によって、奇妙なもの・ビザールなものの、「単位変化」する総花性こそを彼は時間化したのだった。それが70年ごろまで、絶頂期だったザッパの営みです。彼ほど編集感覚にあふれたギターを弾くロックアーティストもいなかったし。つまり、話をもどすと、このレノン的な曲「やつつけ仕事」は、ビートルズ的サイケが、ザッパ的編集感覚に歴史的にすりかわる音楽史そのものを描く可能性をもっていたんです。ただ、このザッパ的(テープ)編集感覚とも一見かようサンプリングが、この曲のばあい壊滅的だった。理由ははっきりしています。ザッパの編集にはコラージュやディペイズマンといったアート理念がはっきりしてるんだけど、森のサンプリングはただ、獲得物の撒布といった状態に終始しているからなんです。それでザッパには「音自体」がある――いったように森にはそれがない。

 わずかな曲間があって、次の「茎」につながります。この曲の冒頭から響く井上雨迩のベースは「内側」に巻き込んでゆくような、ヘンな誘引力をもっています。これは4ビートと8ビートの差異を無化するようなヘンな内部衝動とも感知される。で、この巻き込みには蔓草「クレマンス」の成長特性が予告されているということになります。これは暗喩的か。やっぱり僕は「音自体」だとおもう。林檎の歌と歌メロもここで差異消滅的になります。つまり、いったようにこの歌の旋律はよく聴くと子守唄的な属性があったんだった。ところが林檎はそれをあからさまな倦怠で唄いきろうとする。ここで、もしかすると「倦怠>子守唄」という、「母性」にとってはあってはならない図式が混入したのかもしれない。ところがこの曲は二部構成によって救われた。つまり長調移行部分に清澄なオケが侵入し、「茎」内部の導管によって光の領域へと導かれる運動が生起したということになります。そしてこれが「宗教」の長調移行部分と同じ手法になっている。その意味で浅井君のいうとおり、林檎はもしかすると、ラストの「エントリーNo.1」に一曲目を再参照せよ、というメッセージを籠めたのかもしれない。ふたつの曲連関で生じる大雑把な意味は、いわば魯迅のいう、「絶望の虚妄なること、希望の虚妄なるにひとしい」に似たものとなるはずなんだけど、ここでは深入りしません。ただ、「彷徨」とともに「逆倒」こそが絶望脱却の方法となるという、アルバム全体の大きな視野がここに定立することにはなるとおもいます。むろん、ここでは曲の流れの分析をしてるんで、「茎」「宗教」を対にしたことで生じる意味の分析はサイト読者への宿題、ということにしておきます。

 ただこのあたりからノイズ断片が音場全体を暗色化させる機能が発揮されはじめる。林檎のピアノはコードを転がすように弾きながら装飾化していますが。それと長調化したときの井上のベースが凄い。やっぱり帰属不能の音連鎖をかたどっているからです。彼はミスマッチそのものを音楽化している、この曲全体にカプせられた抽象的な影のような存在になっていますが、情動はそこから湧出してきてもいる。で、さっきもいいましたが、アルバム全体の音を既定しているのは一面ではアレンジャーの側面がつよい森俊之でした。そのいっぽうでそれと咬合するように、井上雨迩のベースを中心にした音がアルバム全体の音を既定(脱既定)している――底支えのかたちで。この井上が音の既存性から脱却するためのベクトルになっていたのではないか。で、この曲では森の参加はありません。だから音に一種豊饒な隙間が感知される。それとここでのオケは、「女性上位オーケストラ」とクレジットされ、林檎のアレンジによっています。終わりのほうの間奏部分は、スピード感はないんだけど、音の足し算としては実に「イイ感じ」なんじゃないか。ここで一瞬、林檎のピアノは和音階を閃かせますし。

 ただ、忘れてはならないことがある。このアルバムは歌のメロディ創造という点でいうと、冒頭二曲の目覚しい達成のあと、終始、衰退過程をたどるんです。で、この「茎」もいい曲なんだけど、そのメロディの独自創造性が摩滅してゆくから、ここらあたりで僕は初聴時、疲労を覚えはじめたという記憶がある(途中、「やつつけ仕事」の複雑な感触のAメロがあるにはあったんだけど)。以後は、これはもうさんざん話されたことですが、旋律そのものが既存ジャンル音楽に依存しはじめ、音的にはアルバムが急速に精彩を失うことになる。その反作用で、森俊之の前面化が起こる――そういう構造なんじゃないか。

 僅かな曲間があり、ポン・ポポンという男声が入る。「とりこし苦労」です。ドゥワップのベースパートを模していますが、ドゥワップへの愛情が感じられない――たとえばザッパの無償のそれのようには。で、ここに林檎の声のみが最初カプさる。その歌唱が昭和歌謡、とりわけロックを意識した60年代女性歌手の日本的に「ブルージー」な歌唱だった。裸のボン・ボボンと、裸の林檎の歌唱の合体。この単純組み立てを宰領したのは、やはり森俊之なんだろうか。つまり、自己達成意識のつよい、構造定着の悪癖が、曲アレンジ全体から感じられて、僕はすごく閉口させられる。逆に井上雨迩的なものは、すべて脱定着的作用として、アルバムに縦走的な擦り傷を入れているんだよね。それと林檎の歌唱も、「おだいじに」に続き、ここで錯誤をしるした。つまり、彼女のこのアルバムにおける歌唱戦略とは、ジャズボーカルの洗練の域を磨すること、そして弱さの声を弱さのまま強さに変えること、この二点だったはずです。それでカメレオン的な自己同定の不能性、引用過多、点滅歌唱といったそれまでの林檎的符牒からの脱却を林檎自身が図っていたはずだった。ところがここでの彼女のブルージー歌唱には、すごく「破礼(バレ)」感がつよく、胃にもたれる。完全に他曲の歌唱水準から不名誉な逸脱をかたどっていると僕はおもいました。バック音という点では、「お願ひ…」以下でピアノ音を中心に多様な楽器が炸裂し、同時にそれが瞬時に消音化されるといったアイディアが繰り広げられていますが、この発想もまた、統御性がつよすぎると感じられて、好きにはなれない。演奏全体には林檎のさまざまな楽器演奏がとっかえひっかえサンプリングされるという遊びもあるんだけど、「音自体」がここにないから、演奏レベルは随分低劣でしょう。で、歌詞もそう。初聴時の「母性」抜きの印象では、この曲の歌詞は「姐御肌の」「弱気を隠した強気の」「時代錯誤的な」「対象への恋情強制」としかとれなかった。しかしこうした女性の感情の価値は、いまは同時代のどこにも共有されてはいないんじゃないか。オレは和田アキ子の鈍さが大嫌いだし。

 で、ちょうどいい機会なので、林檎が既存ジャンル依存のレベルに終始してはなぜマズいのかという話をここでします。ジャンル音楽の蘇生という営みで僕が最初に面白い存在とおもったのは、たとえばライ・クーダーやヴァン・ダイク・パークスみたいな存在だった。あるいはオリジナルだけど、ザ・バンドもまたアメリカのグッド・オールド・ミュージックに「接続」する音楽を演ることで、一音一音に音楽史の厚みを裏打ちさせた。日本ではどうか。ジャンル音楽の参照範囲を沖縄音楽から朝鮮口承歌、さらにはフォルクローレやヨーロッパ・ニューウェイヴ、テクノ歌謡まで広げ、素朴な味わいのなかに絢爛たる音楽地図を書き上げたのが『東京の野蛮』のころの戸川純だった。あるいは浅井健一のギターフレーズの「引用」、またとくに『勝訴ストリップ』のころの林檎までジャンル音楽を実現しようとした音楽的野心はさまざまにある。ポール・マッカートニーや桑田佳祐なんかがその偉大な成功例といえるのかな――まあ、メジャーで絢爛すぎるけどね。ところがたぶん、時間循環/流行循環の逼塞が、これらの音楽そのものを閉塞的に聴えさせはじめるような作用を付与した。(ポピュラー)音楽史そのもののもつ「音楽史的記憶」は、ビギナー的聴き手には既聴感として幸福に作用するだろうけど、耳達者なリスナーには「戦略」の前面化として機能するようになってしまった。しかももっと何かが急がれなければならない――だって、状況は逼塞しているんだから。

 となったとき、「新しい音楽」が待望されるようになったんだとおもいます。これまでの価値基準から逸脱するというより、まったく参照例の基準が異なっている音楽。ところが「引用」はもう創造にとっての抜きがたい習いとなってしまってもいる。そのとき参照例の手近さ・安直さが、自分の引用文脈を笑う「歯止め」として倫理化されることになったんじゃないか。そう、ことは日本では蓮実重彦の評論で誰もが口にするようになった「映画的記憶」にたいし、 89年以降の映画作家がもっと危急の意識からそれを省みなくなった事情ととても似ているんです。じゃ三池崇史にあるような引用例はどう処理すればいいのか。ただ彼は必ず安っぽい引用をするように自身を歯止めしている。引用に高級感を演出する青山真治なんかが嫌いなのはそのためなんですよ。音楽の話にもどすと、チボ・マットやシーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーのガール・ポップスもまた引用の手つきをもっているんだけど、その参照例の領域を手近なものや室内的なものにとどめることで、内海君のいったように、自分の部屋の空気を唄い、「だから儚いんだ」と印象させる「歯止め」がかかっているんだとおもいます。チボ・マットは既存曲、キス・ハー・キス・ハーは日暮愛葉のオリジナル中心という相違はあるんだけど、音の聴えはさほど変らない。どちらもプリクラのように省力的な音楽だということだし、結果、彼女たちの乗っかる楽音が断片化されてきて、泳ぎだし、それが音楽の別文脈と刻々合体してゆくという開かれた位置をも印象づける。このへんは実は初期ザッパともちかい音楽的立脚点といえる気すらする。

 で、「引用」でいちばんマズいのは、ムソルグスキーをロック化させてまるまる演ったELPタイプの音楽でしょう。あるいは、クラシック的構築性とロック的抒情性を結びつけた絶頂期ピンク・フロイドみたいな音楽。引用がそこでは荘厳癖・向上心といった重たいものと癒着してしまっている。そんなポピュラー音楽の引用のあれやこれやを一望してみると、黄金期ジャズ・ボーカルという都会的・ゴージャスなジャンル音楽を、オリジナルであれ再実現してみようという野心は、すごく危ういものという気がしはじめるんだね。むろん林檎は、阿川泰子(古いか)みたいになろうとしているわけではない。自分のオリジナリティを化合させることで、ジャジィな歌曲に、新たな変換を施そうとはしている。ただし、引用が近さ・安直さから離れてしまっているんだ。そして、ともあれ引用に拘泥するかぎり、「新しい未知の音楽」には接近できないという減速ギアがかかってしまっている。

 林檎はバカじゃない。むろんビートだけではロックがロックにならないと知っている。わかりやすい例でいえば(口に出すのもイヤだけど)大黒摩季とストーンズのビートは初心者には同じに聴こえるかもしれないけど、大黒の音楽はまったくロックなんかではない。音楽要素のうちスピードと細分性が危ういと感覚し、林檎がジャズに接近したというのは、わからないではないんだ。もともと少女期にグランジの壊滅状況と直面して、似非歌謡曲を標榜しつつデビューした林檎は、自分を取り巻く封じ手をすごく意識していたとおもう。詩才と音楽的素養が相対的にある女性アーティストの類型だったら大小を問わずいつでも陸続していた。たとえば林檎以前なら川本真琴、以後ならaikoというように。でもそれではミーイズムの殻が破れない。というか、ミーイズムの殻を破るなら、チボ・マットのように、あるいは日暮愛葉のように、自己放棄的な不敵さを身につけて軽くなるか、「新しい音楽」をつくりだすしかないんじゃないか。で、チボ・マットのやったことは、一面でいえばザッパ的営為の、歌曲限定的、あるいはユーロ・ニューウェイヴ経過的な自己文脈化ということでしょう。

 じゃ、ロック史上、誰にもできない歌曲は誰が実現したのか。そのひと独自の身体性によって模倣不能となった音楽ならある――ニール・ヤング、ルー・リード、マーク・ボラン――みな一時期の、という限定つきだけど。けれども曲の組成と唄う声の粒が「同時的に」唯一無二だったのは、サイケデリック・レノンだけじゃないか。そしてサイケ時代以後のレノンすら一曲も往時に匹敵する曲をつくれなかった。で、何度もいうように、僕は林檎にはサイケデリック・レノンに匹敵する存在になってもらいたいんです。閉塞をブチ破る「新しい音楽」を演ってほしい。

 楽器演奏者なら、まだ領域突破は容易かもしれない。ジミヘンが新しい演奏を披露したと同じレベルのことは往々にして起こるんだ。短い閃光だったけど、高柳昌行やジェイムズ・ブラッド・ウルマーや石渡明廣がいた。ギターではなく集団演奏形態まで視野に入れればザッパやさまざまなポリリズムの演奏集団もいる。あるいはハンドメイド・ギターとサンプリングの活用という点なら大友良英がいる。現に、このアルバムに参加している井上雨迩のペースがそうでしょう。JUDEの現在はやや逼塞気味だけど、かつての浅井健一も相当な場所まで行っていた。ということでいうと、「新しさ」という点では演奏よりも歌曲のほうが逼塞しているというのが現状ではないか。そこには歌詞と歌唱という拘束があるんだ。詩が進んでいないというのは、僕は日本の現代詩が吉岡実、吉増剛造と来て、稲川方人いらい完璧に新しい才能・朗誦性と根本的に出会っていない点に顕著だとおもう。林檎の詩の達成度はその意味からすると相当高い。その才能、そしてその抜群の変型的歌唱力をもって、だからジャズというジャンルに依拠してみようという選択肢が彼女に生ずるんだとおもう。ただ、それでは抜本的な変換がない。それが残念だ、ということです。そして今度の林檎の場合は、そういう見切りが厭な澱となって音の表面上に残存してしまったんではないか。やるなら日暮愛葉的なスカスカ感がほしかった――聴き手の耳がその空隙に安息を見出せるような。しかも愛葉の歌唱は伴奏音との関係性においては完璧に相互依存的であることで、弱さの本質的な魅力を湛えているんです。だから愛葉の歌唱に耳が行き、それと分裂することなく、伴奏音に耳がゆく。その双方の儚さの秘密を知ろうとして。

 ということで、『加爾基 精液 栗ノ花』の音の流れの話にもどします。八曲目「おこのみで」。林檎による、表示上は生プリペイド・ピアノでのコード弾き(ここでの「プリペイド・ピアノ」という呼称は、考えたんだけど、「事前に」音を作り変えたピアノという意味だろう――聴覚上はチェンバロとほとんど同じに聴える)。ちょっとポール・マッカートニーのピアノ奏法をおもわせる、「フォー・ノーワン」あたりの。このピアノのうえに展開される林檎の歌はすごくいいよね。「迷彩」とタメ、しかもよさは別の点にある。「迷彩」はスピードだった。一方この歌唱は、発音・発声の区切りがズレていて、それが小節区分概念に上乗せされたときに、破壊的な脱分節性を発揮するということです。部分的に三連符的な印象も生ずる。そういう手法をつかって林檎はエレガンスの組織化を図っている。そこに若干の巻き舌が絡む。で、ここでもバック音のなかの井上雨迩のベースが際立っている。ジャズ風でありつつジャズ以外を指向しているような脱-自己規定性があるということ(ビル・ラズウェル風とはいえるだろうけど)。

 ただ、全体曲調は、他の音楽家でも作曲が可能だろう。ジャンル依拠は、たぶんジャジィ、都会性、エレガンスといった域への参入をもとめているんだけど、僕はたとえば西田佐知子的に60年代的なもの、あるいは初期ジェスロ・タル的な60年代末期UKなものを感じた。どういったらいいんだろう――ブレスレットだらけの腕をひねりながら上方(じょうほう)に差し出して、銀色のセロファンの花束を巻く感じね(笑)。ここで「新横浜…」云々の英語による駅ホーム・アナウンスが入るのは意趣倒れの感じがする。それと、演奏面では途中サンプリング参加、生二胡を弓で弾く林檎の演奏がいい。この曲もオケ部分が林檎の「アレンヂ」だった。ただ、「宗教」と比較すると、こちらはさほどのものではない。なぜそうなったのかといえば、曲に展開がないからだろうという気がします。それと、対になる「おだいじに」との、音の上での対称性の指摘がこれまでの座談会では精確になされてはいなかった。クラシカルなピアノの中心としたモーツァルト風の「おだいじに」と、ピアノを中心に置いたとはいえ、ジャジィなこの曲に、対称となるような要素があるのか。ある――それが林檎の歌唱です。つまりそれは、林檎が少年を歌の主体として唄っていつつ、次第にその声に少女的な亀裂が入ってくるということです。ところがそれは反面でゴージャスさのなかに演出されているから、この少女性は「おだいじに」のように真率には響かないということになる。

 で、ノイズつながりで、九曲目「意識」。ちょっとジャズの風味をまぶした、風抜けのよい、軽快なポップチューンがここでは目指されているとおもう。一瞬出だしで入る渡辺等のベースは井上雨迩のベースを髣髴させるものだったんだけど、曲調がすぐに変ってしまうから。ただ、曲がポップチューン化してのちここで実現される「ジャジィ」には実は「特徴」が稀薄なんだ。対の曲「迷彩」であれだけ圧倒的なギターを披露した「浮雲」もここではありきたりなジャズ・ストロークを刻むだけだし。フルートと中国打楽器のミスマッチな同時使用が若干おもしろいというだけなんじゃないか。で、ここでこのアルバムが終局にいたるまでの壊滅的な弱点が顕在化します。つまり、歌詞が聴き手にその内容・フレーズを打ち込む「力」がなぜか弱体化するんです。ただ林檎の歌唱中、「つく」の低音は、それを母性発露ととったとき、ゾッとさせるのは確かです。

 電車の踏切りの警報音と電車走行音で10曲目「ポルターガイスト」につながる。これは前にいったように、打ち込みアレンジにディズニー音楽へのジャンル依拠があり、散文をそのまま唄ってしまうという歌曲の成立法にはオペラへの依拠があるということになります。ただ森のサンプリングはすごく記号操作的で、しかも打ち込み音の音圧が自己誇示的に高いので、マズいなあ、という気がします。林檎がオペラに依拠しようとした気持はわからないでもない。つまり、そうすることで、「新しい音楽」を模索しようとしたんだということ。ところがそれで彼女はエラく打撃をこうむるマイナス・カードを引き当ててしまった。つまり、このテンポでオペラ(散文を唄うこと)をやると、歌詞が響かなくなってしまうんだね。歌詞カードを精読しなければ、歌詞への興味が湧かないという、一種、秘教的な枠づけは、唄うこと-聴取することという対面性のなかで果たして正当なことなんだろうか。僕自身は、このようにして歌の独立性が減殺されてしまうことにはやはり疑問を感じます。この曲は取り立てていうべきことはない。曲、アレンジともに、グッド・オールド・タイムを比較的優雅に提供しているとはおもうけど。

 曲間なしで、最終曲「葬列」に入ります。ツェッペリンの演るブリティッシュ・トラッドというか、アラブ的な民族音階まで視野に入れた曲調。内海君のいうように、バックの構成音と歌唱上の音が互いを含みあわないという点で壊滅的な分裂をかたどったようにみえながら、その「万物不一致」が「不一致」として一致をみる――そういえば対となる一曲目「宗教」の歌詞と対称が企てられているという見切りもつけられます。ただし、前曲からつながる「散文を唄う試み」は、ここでも歌詞の一つひとつの言葉を粒立たせない。聴き手に「打ち込む」力を欠いているという弱点を露呈させてしまう。ただし、演奏はパターンが異なるけど、前曲に較べ、ずっと高度になるのは確かです。音が稠密性を保ったまま、細部変化を繰り返し、それで全体が速度感をもって流れている。ここでも井上雨迩の貢献度が高い。とくにマンドリンとベース、その双方で。百々和宏のギターも目立たないけど、すごくクレージーという形容にふさわしい気がする。ただ、この演奏パフォーマンスの実現度の高さについては、僕は「宗教」や「ドツペルゲンガー」でしたような大袈裟な言葉はあまり使いたくありません。つまり「新しい音楽」に直面した、というような戦慄を感じないからです。だから、何が新しいのかをしるすため、慎重な言葉遣いをする必要もなくなってくる。ただ、一点、備忘のために特記しておきたいのは、「お造り致しませう」の曲調がわりのところで、アルバム全体が終局を迎える予感の入る点。しかもそこに「狂気」の色彩が上乗せされるのが周到だとおもうんだ。具体的には林檎の声の多重録音、それから即座に生起するコーラスが「彼岸」から聴えてくるような感触になる。で、このコーラス・アレンジは僕らがさんざん文句を垂れてきた森俊之のものだった。やっぱ売れっ子だけあって、才能あるね(笑)。

 で、いまもいったように、この曲の生ギター(12弦みたいな感じがする――これをハーディガーディというのか? ――ともあれ井上雨迩が弾いている)を中心にした冒頭部は鮮烈だけど、あとで入る百々のギターは音場の「裏側」でのたうっている。あるいは、この曲の「対」になる「宗教」でも百々のギターは遠隔化されていた。あるいは「おだいじに」の井上によるe-bowギター、さらには「迷彩」などのジャズ・ギターを別にすれば、ギターは今度のアルバムで相対的に目立たない。むしろ瞬間発想的に、ギミック付与的につかわれているという点が露わになる――そのことをかつて僕は指摘しました。その割に、バイオリン、マンドリン、琴など、弦楽器の使用は多いし、あるいは、様々なタイプの打ち込み音、あるいはそれによるノイズも多様に展開されている。これはあらゆる楽器の、アナーキーな「機会均等性」をこのアルバムでは目指し、同時に、その「さかしま」の使用をも目論んだということなんだろうか。そうすると、ギターはたとえばベースやマンドリンとちがい、奏法がさまざまに追求されているから、その「さかしま」な弾き方を提示しにくく、驚愕が少ないためにその使用頻度が控えられたということなんだろうか。ならば、この点が林檎の相変わらずのギターフリークぶりを逆に問わず語りにするということになります。だからモーサム百々和宏のこのアルバムへの参加もあった。それも林檎が画策したとするなら、相変わらず彼女のアンテナは高感度ということになる。

 ただ、そうだとしても、アルバム全体にギターの音を抑制した理由の積極的説明にはなっていない。で、ここで下世話的にヘンなことを言い出すけど、林檎に胤を植えつけ、林檎に放逐された大工ヨゼフこと前夫とは、実は林檎の以前のアルバムに参加していたギタリストじゃなかった? オレ、最近はジジィになったというか学究の徒になったというかで女性週刊誌的事情に疎いからあまり自信げにいわなかったんだけど(笑)、ソイツって虐待グリコゲンにいた弥吉淳二でしょう? その弥吉淳二と林檎は離婚しちゃった。オレは少女時代から林檎はライヴを観に行って、それがすごい奏者でルックスもそこそこなら、必ずバンドのギタリストに入れあげるという繰り返しをしてきたとおもうのね(笑)。ベンジーへのあられもない賞賛もそれに近い。ところが林檎姫は離婚をけみして、そういう自分の心の尻軽さをすっごく反省したんだとおもう。で、その反作用としてアルバムからギタリストを表面的には放逐してしまったんじゃないか(笑)。何かオレのいってことは、反映論における下種の極みみたいだけど(笑)。ただ、僕は林檎のアルバムに参加したギタリストでは、名越由貴夫がいちばん好きだなあ。「月に負け犬」のジミヘン的なリズムギターの「入り」なんか、ホント、泣けてしまう。このひとはUAの新譜、その後の二枚組ライヴでもすこぐいい仕事をしている。ソロアルバム、出ないかなあ。それともうひとつ、下世話的なことをいわせてもらえば、林檎がもし再婚するとなると相手はこのアルバムの「謎」である井上雨迩が最適だね(笑)。このひととなら林檎は「新しい音楽」を発展できそうな気がするから。ただこの井上さんが男性かつ独身だという条件つきだけどもね。

 話をもどします。「葬列」のラストは僕が「産道通過」と表現したノイズが危機的に高まり、すべてがカットされるようにして、アルバム全体が終了したんでした。ラストのノイズの高鳴り、これで『サージェント・ペパーズ』との構造的類縁性と落差がより鮮明になる。しかもいったように、このアルバムの劈頭もノイズだったから、ここで浅井君のいうニーチェ的「永劫回帰」もしるしづけられることになります。

 という確認をし終わったうえで、アルバムの全体時間についての自分の考えを述べることにします。まず縷々述べてきたように、このアルバムでは「茎」までの曲想と、それよりあとの曲想に、大きな出来不出来の差がある点が否めない。だから聴き手はアルバム聴取体験を充実化させるために、「茎」よりあとのアルバム後半に、作品全体を上昇せしめる「鍵」がないかと探索をしはじめるんだとおもう。それで歌詞カードに注視する――それでアルバム全体の、「茎」を中心線にしたシンメトリー構造に実体的に気づくことになるんだとおもう。その意味でいうと、林檎はたしかにこのアルバムの曲配置に聴き手の誘導を仕掛けているのは間違いない。もともと聴き手は、たぶん歌詞を漫然とみる段階で、ヘンな「遡行要因」「前置性」がちりばめられていると薄ぼんやりと気づいていたはずだし、一曲の指示するものが具体的にどの別の曲かということの解読にも焦れていたんだ。で、たまたま「葬列」が誕生という契機を唄っているかぎり、時制的にはもっとも前に置かれていると気づく。しかも歌の主体は胎児。ここで男児を産み、夫とは別れ子供は引き取った林檎の個人事情についての知識が重なる。となったとき、その後の「葬列」で生み出された「その子」がどこへ行ったかを探ろうとして、そのときにアルバム全体のシンメトリックな曲配置の枠組が解読に利用されることになるんだね。

 ということは、このアルバムをその発見ののち正規順、つまり一曲目から最終曲までを聴くという追体験は、「茎」を中心にした四重の同心円(四つのうち最-内が破線円周だという話も以前しました)を、水平的に横から、中心をも射抜く線分を引く体験に似るということになる。その線分の伸びがアルバム全体のもたらす時間体験となる。そして中心に至るまでの個々の円との接触は曲にちりばめられた「前置要因」「予告要因」との磁力に触れることであり、中心を通過してのちの個々の円との接触は、曲にちりばめられた「遡行要因」との磁力に触れるということでもある。この僕のいった運動と図をぜひ図示してほしいんだけど、そうすると、まず四重の円そのものの図像性が呪術的だということが即座に理解されるとおもうんだ。全体は逼塞感を発散させているということにもなります。そしてその四重の同心円を横からの、刻々伸びる線分で水平に射抜くようなこの特異なアルバム聴取体験は、いわば「魔圏の通過」と位づけされることになる。ところがその逼塞のなかへの突入-そしてそこからの脱出という運動そのものが、時間論的に単調と映らないだろうか。このとき、僕はたとえば「茎」にアルバム全体の魔的な土壌から吸水し、それらを光の上方へ向けて放散するような、導管現象的なアルバム内在運動を発見することで救われたのだという話をしました。ただ、この快楽は実は自明的なものじゃないんです。

 つまりアルバム後半部にいたって聴き手が唆されてゆく「遡行」は、いわば「あるべきだろう」と予感されるアルバム内の既存性に向けての遡行なんだけども、それでは実体への回帰とちがい、安定的な心理作用にはならないということ。じゃ、ジャンル音楽の依存は心理的に「回帰」を喚起するといえるかもしれないけど(林檎はそう読んだかもしれない)、僕の場合にかぎるなら、それはむしろ不快要素にしかならなかった。ということで、もういちど考えてみると、単純に純粋線分を時間軸上に伸ばしてゆくような音楽体験があったとして、その間歇的に配置された、計算不能な任意の刻々で、「回帰」を促がされるときにしか、聴き手は安定に導かれないのではないか。林檎のこのアルバムはそれに類するような運動なら部分的にもっていた。つまり短調から長調に移行したとき、セイクリッドな弦楽音が入るというのがそれです。

 ただ、もっというと、主題回帰といわれるような運動は、実は音楽理論では構造化されているのね。それが「メインテーマ」です。メインテーマは旋律上の主題反復・復帰によって、通常は非親和的に流れる時間を、「人間的」に馴致しようというロマンチックな意図に貫かれている。そういった音楽形式の発見は人間がつくりだした叡智なんですよ。実はコンセプト・アルバム、『サージェント・ペパーズ』にはこのメインテーマ的要素が仕込まれていた。ひとつはいわずと知れた、テーマ曲「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がアルバム終了一曲前で、repriseされる点に明瞭に現れている。もうひとつは声の「回帰」です。その機能を織り出しているのは、僕はまったくジョン・レノンだとおもう。つまり「ルーシー・イン・ザ・スカイ」でのジョンの歌声は、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の歌声に「回帰」してくる。「ミスター・カイト」のジョンの三連符の曲調は、「グッド・モーニング!グッド・モーニング!」の異常拍子に「回帰」してくる。これはむろんバンドが才能ある人間の合体だったという事情による偶然だともいえますが。ともあれ、林檎の新譜の「茎」に当たる位置=中心には、『サージェント・ぺパーズ』ではジョージのつくった「ウィズイン・ユー、ウィザウト・ユー」があるということになります。

 ところがアルバム全体は林檎の今度のアルバムのようには精確な同心円構造をもっていないのも確かだ。「ウィズイン・ユー・ウィザウト・ユー」は全曲順の精確な中心からは一曲後置されているし、たとえばさっき例示したことでいうなら「ルーシー・イン・ザ・スカイ」はアルバム三曲目、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」はアルバム最終曲ということになって、ここでも林檎のこのアルバムのような同心円を引くことができない。構造に「人間的」という意味で正確性を欠く「隙間」がある――だからアルバム後半に起こる運動は、一種、「懐かしさ」の感触をともなう「回帰」として意識されるんだ。つまりそれは、不安感をともなう「遡行」ではない、ということです。

 逆証的にいうと、林檎の『加爾基 精液 栗ノ花』を組織しているのは、親和性ではなく、非親和性――それも構造的に徹底化されたそれ、ということになるでしょう。ただ、この非親和性を林檎は意図して身にまとったのではないか。つまり、ビートルズ時代とはポップスの真の概念が大きく変化したためです。ポップスを親和性と錯覚しているのは、商業主義、ヒットチャート主義に取り憑かれた者たちです。彼らは商品をつくるのであって、作品をつくるわけではない。ただ、非親和性を「新しい音楽」のために単純に実現すればいいのかというと、事態は微妙です。つまり先端的な音楽でも「非親和性をつうじての親和性」あるいは「物欲しげではなく意地悪だが、それでも親和性を前面化すること」にまだポップ音楽の前衛の基準が置かれているのではないか。そして人間が聴く音楽というのは、たぶんその限界を抜けられないだろうと僕もおもいます。シェーンベルクばっかり聴いていれば、オレだって70年代郷ひろみを聴きたくなる(笑)。

 ただ、僕は音楽の非親和化を魅惑的に印象させる手段として、唯一、有効な契機があるのではないかという気もします。それは、「驚愕の付与」です。ショック効果の付与。作曲家は今後、驚愕を作曲することで聴き手を驚愕させ、驚愕を作詞することで聴き手を驚愕に貫けばいいのではないか。ただ、驚愕は追体験をつうじてそれに慣れることで驚愕ではなくなってしまうという反論が出されるかもしれない。それならば、アルバム全体を、乱数表的に組織すればいいのではないか。となると、ある日の驚愕が別の日に納得や安心になるのと同時に、ある日の納得が別の日に驚愕になるという運動が無限回つづくことになる。この僕のイメージする無限性には、おそらくマラルメ的・ボルヘス的「世界書物」の観念が投影されているんじゃないかともおもいますけど。ということでいえば、おそらくジャンル音楽に依拠した時点で、今度の林檎は、驚愕という効果から離れてしまったということにもなります。

 なぜ、こんな壮大なことまでいうのか。こんなに彼女に期待する試練が厳しいのか。それは僕にとっては、林檎を、アヴァンギャルドな音楽家だとする見切りがあるためです。ところが彼女はアヴァンギャルディストなのに、アルバムを200万枚セールスしてしまう。これは浜崎の600万枚などとはまったく異なる、意味のつよい数値です。浜崎の数値は「衆愚」の集合可能性の数値で、何ら驚くべきものではない。ところが林檎の数値は、少数派の臨界が現在の日本では200万まで上昇できるという可能性を表していて、これは真に驚くべきことだとおもうんです。林檎はアヴァンギャルドでありつつ、「売れなければならない」という使命を今後もずっと負っている。しかもより過激なアヴァンギャルドへと少数派をさらに領導しなければならないという苛酷な隘路にもいる。だから僕は彼女の音楽的・詩的才能に向けて、「驚愕」の価値を再考してください、という提案をしたんです。これが将来に期待される「逆倒ポップス」の指標となるのではないか。

 そうなると、「母性」を取扱った今回のアルバムでの彼女の営為にも、留保をつけなければならなくなる。それは歌が体験個人性に閉じる危険があるということではないんです。その危険を突破するために、彼女は「母性」にさまざまな「逆倒」を仕掛けてみせた。ただ、「母性」を主題化したかぎりは、安直な共感がそこに最終的に用意されてしまう危険があるのではないか。母性はある普遍にまつわっている。そこからは、どうしても「みたことのない」「新しい」「抒情(情感)」が紡げないのではないか。ただ、これは僕に子供がいないからだという気もしないではないけど。

 ともあれ、これで僕のいいたいことは全部書き込みました。内海君にはいろいろプレッシャーをあたえることになって済まないけど(これまでも偶然、そういう流れになってしまったことが多かった)、君の「総括」のため、やっと席をあけます。それではフィニッシュ、よろしくお願いします。



◆内海賢朗

  浅井くんの書き込みは本当に素晴らしいものでした。座談会の締めに向け、彼の基調とする方法で深く解釈が降りていったのではないか、とおもいます。『加爾基 精液 栗ノ花』の総括的解釈として、異論を挟む余地がない――そんなしっかりした理念に基づいた評論でした。

 そこで、浅井くんの数多くの指摘を頭に置いた上で、いうべきことがあるとおもいました。それは、まだ余り触れられてこなかった、このアルバムのタイトルの語幹です。これについても浅井くんの指摘によってその意味がさらに深い色を帯びてきたのではないでしょうか。『加爾基 精液 栗ノ花』――耳にした当時に強く匂っていた性的なニュアンスの厭らしさが、ここまでの過程で、見事に取り払われてしまった、とおもいます。最初に捕われたある種の好奇な思惑はもうありません。その「加爾基」という語が、次の「ザーメン」に呼応して、白濁の色、その意味を過剰に意識させる。「ザーメン」は、「栗ノ花」の「クリ」という部分に、とりとめもない妄想を抱かせ、より官能的、猥褻な雰囲気を抱かせる――それが初期段階の印象でした。

 ところが、アルバムの音に触れ、それを咀嚼するうちに、そのような過剰な自意識が薄れていった。このアルバムには、かつて『無罪モラトリアム』の頃には、ひとつの特徴・セールスポイントだった、椎名林檎のエロチックな音声が皆無に近い。何度も述べられてきましたが、彼女の声は少年を内在し、さらにある時には母性を印象づける。ある曲においては、私的に感ずるところでは、人間性すら深淵に忘却したと聴える個所もある。同時に、声は演奏に対しても影響を及ぼし、従来の演奏と比べると艶が無くなっている。

 まず、このアルバムを読み取る上で、中核をなす六曲目の「茎」を分析することが、大変重要な核になります。でもそのことに、僕はあまり意識的ではありませんでした。シンメトリーによって、アルバムを読み解く上で、この意識を持たなかったのは、致命的だったとおもいますが。「茎」は、このアルバムの持つカラーの中で異色な雰囲気を醸し出すものだと感じてはいたんです。むしろ、最初は表層的に音楽雑誌で述べられていた、明治趣味的であるというアルバムの総括評価に、「茎」はぴったり重なっていると聞こえた。そんな各誌の言葉に疑いを持っていた僕は、その時点から、「茎」という曲を拒絶さえした。最もこのアルバムの中で、浮いた作品であると決め付けていたんですね。ところが、アルバムを聴き込むと、自分が執拗に貫いてきた考えが誤まりであったという疑い、自責の念が生まれてきたんです。

 「茎」は、艶やかに重ねられたチェロやヴァイオリンのストリングスが目立つため、受動的に聴くだけなら、懐古的・装飾的に映り、演劇調・ミュージカル調にも聴える。むろんそれも間違った聴き取りではありませんが、その点に力点を置くと、いささか曲と、そこからのアルバム解釈の道が閉ざされてしまう。原因は、「茎」が英語ヴァージョンというフォーマットで、アルバム発売直前にシングルカットされたことにある、とおもいます。それは、アルバムヴァージョンとはアレンジがかなり異なっていて、さらにストリングスの厚みを強調している。そのため、「茎」をアルバムから一歩独立してある存在として、見誤ってしまった感があるんです。同時発売されたDVDの短編映画『百色眼鏡』の主題テーマとしての方が、この頃は印象が強かった。その短編映画もチラッと拝見しただけなので、即断はできませんが、『百色眼鏡』という世界観が近代の明治の日本を舞台にしているため、音源と映像と共に味わうと「茎」のストリングスも自然と情緒的な匂いを強く感じてしまう。

 ところが、『加爾基 精液 栗ノ花』の中核に「茎」があると、曲はまったく違った「馨り」を発する。イントロにおいて、ベースの音と一緒にフェードインしてくる草履の足音は、異世界へと足を踏み入れる者の足音であります。華麗なオープニングです。浅井くんが述べた「茎」の評論には大変感心してしまったのですが、まさに光景的に僕が思い浮かべるのは、植物に包まれた世界へと歩いていく、子供の姿なんです。その過程で地面から、茎が彼の足元を這って来る。それは、彼の体の全身をいつの間にか覆いつしてしまう。植物に取り込まれてしまい、その中で彼は体をどんどん幼少時代へと回帰させていく。アニメーション的な映像で、数々の異音と不協和音に囲まれながら、まだ人間の形をしていない魚のような赤子になる。それが、茎の中をゆっくり水脈の流れと共に移動してゆく――。

 アルバムの中盤に出てくる地面を擦りつけるような足音は、極めて現実に根付いた生活音に聴えるんですが、「現実が夢」という言葉がそこに付加されることによって、日常性に裏返しされる「まやかし」感が増す。現実のすぐ近くには、呆気なく人が取り込まれてしまう、ブラックホールがあるような。前の助詞が異なることで、まったく違う意味をもつ「現実の夢」では、「現実<夢=現実」というような公式が印象されることになる。警告が真実の鏡になる。この公式が渦巻きの輪の連鎖で続くとすれば、「現実<夢=現実<夢=現実<夢=現実…」の連鎖式となって、現実はどんどん卑小化し、次第に枯れた植物のように地面に横たわるというふうなイメージがでてきます。そこには強烈な無常観がある。キルケゴールのいう、現実と理想の絶対的対立の世界を逸脱し、その同化と融合により縮小化する世界は、宇宙の中に存在する人間の細胞の中にさらにあるとする概念、小宇宙の存在を知覚する作用に近い動作なのかもしれない。

 音楽の話に戻ると、サビの部分における楽器の重ね方は、以下のようになっている。[1]ストリングス+ベース。[2]ストリングス+ベース+ドラム。[3]ストリングス+ベース+スネアを強調したドラム。[1]の段階で、音はまさに横に流れている。ベースがリズムを刻んでいるけれど、それは可聴できるギリギリの大きさで鳴らされている。そこに[2]の段階で、軽やかなドラムがブラッシングに近い叩き方で細かい音で、音の細分化をする。[3]の頃になると、ドラムは音を圧縮して、やっと縦に上下するリズムが登場する。つまり、「茎」はあくまでも横揺れに近い流れで展開をしているわけです。茎の中をまさに漂っている感覚に近い。子は茎の中を、母の胎内の中の気分でいる。しかし、ここではそのような物語を捨てることを忘れてはならない。

 一~四聯にあるのは、あくまでも母の思念からの言葉であって、子の言葉であると取ることはできない。閉ざされている場所に、さらに閉じている自分がいる。ここでもイメージされるのは、卑小化した個の姿に他ならない。五聯の「~ても」という語で繰り返されるように、「クレマチス」という存在へ、どんなにも変化することのできないことへの苦悩を呼び起こす。結果、子を産んでも変わることのない猥褻な女の姿を連想させる。そのような女は、自分を保護するように、純真な部分を秘めている。それは「大事な生命」を一輪の花の喩えてしまうような、乙女チックな一面に表われる。そんな強がりの弱さは、「泣いたり惑つたりしない」と、迷宮のように繰り返される自意識の戦いへと運ばれる。

 女性が自分の胎内を「茎」に喩え、子がその中に入り込んで動いているという妄想は気色悪い妄想です。しかも、「茎」で流れるように、鳴らされる音のイメージは、子が水脈の中を動き回るということに留まらない。音の流動は、子と母の性的接触を覗かせるんです。曲全体が横に揺れ、[1]と[2]のサビのストリングスはさらにそれを強調する。茎の内部で行われる運動を、女性の体へと回帰する。植物をそのような隠喩として、植物に多分に含まれる水分は、女性から溢れる体液であり、茎の天辺に咲く花は、女性器が開かれた状態に喩えられる。すると、十~十三聯の「肺」、「顔」、「天」は、どれも性的な部分へと言葉が開かれていく。「肺」は植物の「気孔」であり、その形は女性の性器を形づくる。「顔」は植物の「花」の部分に等しく、そこで思い浮かぶのもそれではないでしょうか。「天」を「茎」の天辺にあるのが「花」だとするのが通常ならば、それは性器が上の方にあり、女性の体を逆転させたシックスティナインの状態へと換言される。子どもと内部、自分の体と様々な体位で交わるという妄想。

 そのような「茎」の強い交わsりが、アルバム全体へと根を下している姿が想像できます。内的イメージと外的イメージが半植物状態ともなっている女性の体の部分から、植物の根っこが伸びていく。「茎」は楽曲の中心部から、全ての曲に根差す作用をもたらす。これがアルバムタイトル、『加爾基 精液 栗ノ花』の意味へとも繋がってくるのではないでしょうか。前述したことにさらに意味を加えていくと、「精液(加爾基)」が「栗(クリトリスとさらに女性器の総体)」に結合することによって生まれる(その)「花」は、「子」を暗示する。その「子」は人間のことを指すだけではなく、ひとつひとつの「楽曲」に重なる。半植物の女性から、繋がっている塊がこのアルバムなのだ――そういうことです。

 「茎」は全ての楽曲を繋ぎとめる役割を果たし、アルバムのテーマを最も純粋に取り出しやすいものだと、僕は考えました。ならば、今まで座談会で投げかけられたものは、そのような「子」と「母」の対話を、それぞれ別の形で受け取ったものなのではないか。

 ということで、話はアルバム全体へと降りていきます。浅井くんが何度も述べているように、まず、多数のゲストセッションミュージシャンが参加と、それが及ぼす作用の可能性について考えねばならない。それはここでは、アルバムの指標――「リズム」を語ることでもある。ルースターズの池畑潤二、元ナンバーガールのアヒト・アイザワ、そして元ナンバーガールの田淵ひさ子とかつて組んでいたという鶴田加奈子。このゲストの存在が何より大事なのは、この起用が極めて自発的であったことに他ならないからです。林檎はリズムになにを求めて、彼らを起用したのか。

 池畑潤ニのドラミングは、「宗教」、「葬列」ともにロック的な8ビート、16ビートの枠を出ていない。けれど、そこには、確実に肉体的な震えがあります。恐怖を覚えるのは、そのビートに内在するのが、「宗教」、「葬列」ともに、詩中の物語や音の構築から含む、死の馨りだという点です。池畑の打ち鳴らすこの一音だけが、生の世界を繋ぎうる道しるべとなっているのではないか。そのビートに心臓の鼓動を確認し、やっと呼吸できるのは、僕だけでしょうか。「宗教」と「葬列」に感じる息苦しさ。そこに十分意識的だった林檎は、彼のドラムによって、ひとつの救いを残しているようにおもいます。胎児、少年、母親、その無言語の対話と誕生、そして、死、あるいは殺人、全ての混乱した世界観――その中に、一筋の光線を差し伸べるのが、彼のドラムです。ごった煮のカオスに、時に祝祭のように鳴り、ある時は胎内を突き破るように、その「壊音」が響き渡る。ビートのごとに、ひとつの細胞、もっと大きく抽象的なものが、死と生を味わい、壊れていく。それは心臓の波音よりも、正確で肉体的に聴える。刻まれる生焼けの安堵感を彼のドラムは良しとしない。冷酷さもそこでは表裏一体です。だから、それは「救われる」ことでもあり、「巣食われる」ことでもある。混沌が混濁に変容しない。チクチク切り刻む。「宗教」、「葬列」はやはり、池端のドラミング無しには、拍子抜けになる。地獄から天上世界に、糸を垂らされないようなものです。「宗教」のサビの部分が強烈なドラムで怒涛の命令語を発し、「葬列」の大量の楽器の不協和音とともに音の壁を形成するドラムの連打で終わること。それは、椎名林檎が、「この音に包まれろ!」「この音に体を委ねろ!」と、我々に対し思惟した結果ではないか。この混乱した二曲に提示した、数少ない「救い」、それは希望、夢と言っていいのかもしれませんけど、死の概念の裏側にこびり付いたものでもあります。すなわち、それが「世界」なんです。

 「宗教」、「ドツペルゲンガー」という二つの、生死者の世界を漂って浮上する「迷彩」は、アルバムの世界をひとつのものに染めない。アヒト・アイザワのドラムは、リズミカルではあるが、単にリズムを刻むに留まらない。彼はリズムを構築してすらいない。そのリズムはひとつの独立したメロディのように聴えるが、メロディ的であるというのは、いささかイージーかもしれません。アイザワのリズムは躍動する。その仕方は、破壊と斬り結ぶ切実な体の動作から出ています。「タイト」であることと、「抜き」であることを同時に完成させる絶妙さ。裏の拍を大きく聴け! と強制する彼のスタイルは、しばしば存在感の強さが目障りなときがある。ナンバーガールにおいては、向井秀徳の何言ってるのかわからないボーカル、ジャリジャリ電子音の冷たさで耳をヒリヒリと興奮させてしまう田淵ひさ子、子宮に響くどころか前立腺をも刺激する中尾憲太郎二十七歳(話は逸れるが、彼は女子高生の象徴セブンティーンではなく、永遠にダサいままのトエンティーセブンを冠にする)――このバラバラの諸要素の中で唯一拮抗を図るのが、アヒト・アイザワのドラムなんじゃないでしょうか。彼のリズムこそがナンバガの演奏の根幹を作っていたと言っても誉め過ぎではないとおもいます。花村萬月をして、「ドラムの皮のたるみ具合がなんとも心地よくて、なんとなく真剣に聴きいってしまった」といわしめた。圧倒的な存在感の恥ずかしさが、バンドの消滅した時に、どこへ向かうのか、それが、僕の頭の隅でずっと起こっていた危惧です。林檎が、彼を今回採用したのは、リアルを求めてのことだとおもう。日常には確実に存在しない音を鳴らすという意味で、彼のドラムは現代的なんです。世界が全て「さかしま」的であるのと似ている。鳴らすべき音は、ただの音でいい。ところが、ただの音というのは、皮でしっかり張った生ドラムという意味になる。「都市の音楽」とも語られるあのバンドは、それをリズムによって演出した。林檎が、このアルバムを巨大なフィクションの産物というふうに利口ぶった聴衆から要約されないために、アイザワを使うのは、都合の良い話かもしれませんが、よく納得できるんです。「宗教」「葬列」の世界を繋ぐ「ドツペルゲンガー」と「ポルターガイスト」。そして、「迷彩」と「意識」による虚構と現実の橋渡し。彼の果たす役目は、聴き手の肩の力を落とし、また林檎が聞かせたい世界に留まらせる。『加爾基 精液 栗ノ花』を一過性のものとして感受すると、曲と曲を個別に分析して語っては判らないことに、耳が届く。「迷彩」の果たす使命はいかに大きいものか。そして、この曲の後、素晴らしい音階の「おだいじに」が、アルバムのテーゼのごとく響き渡ることになります。

 「茎」における、鶴田加奈子のドラムは、二回、変化を辿る。彼女の総演奏時間は、一分にも満たない。彼女は、最初、ブラシングを使っているか、スティックで細かく分散的にスネアを刻む。ところが、ジャジーな演奏には聴えない。むしろ、ブラスバンド隊が行進する時、鳴らすリズムのようでもある。裏拍で右手と左手のテンポをずらし、おそらく右手を波打つように流して叩いている。二回目、「今日から…」の部分では、バスドラムやハイハットを加え、ロックビートで曲の終末を盛り上げる。彼女が田淵ひさ子と組んでいる、というのも納得もできます。他の楽器とは、わざと一拍遅れて入ることで、正当なビートを歪ませているんです。むしろ、正当なリズムを刻んでいるのは、井上雨迩のベースで、鶴田の遅れる(むしろ「縒れる」)ビートを単なる不快音にしないよう、他のパートとは打って変わった単純な同音を繰り返し、曲にリズムを供えるに留まっています。「茎」での鶴田のドラムの意味性というのは、強くない。プロデュース・アレンジはクレジットによると、林檎が手がけたということになっていますが、やはり他の曲と同様に、井上雨迩の役割が大きいだろうと僕はおもいます。林檎は、楽器パートをスコアに起こせないと、インタビューでも語っていたし、アレンジには、雨迩の力を借りていたとも言っている。スコアは森俊之で書きあげたのだろうし、アレンジは雨迩が提案することが多かっただろう。それらに対し総合的な決定権をもつのが、林檎だという想像がつきます。つまり、鶴田加奈子は林檎の友達だったので(笑)、生ドラムとしてアルバムにはクレジットされているけれども、女性上位記念オーケストラの一部に数えられているんじゃないでしょうか。アルバム全体の演奏を占める、オーケストラは、声無き他者で、個人名が記載されず、オーケストラとまとめられてしまう悲しさ(笑)があります。雨迩のアレンジに関しても、鶴田の重要性は少ない。部分的に登場し、自分の演奏が楽曲に響き渡ったあとで消えていく――そのこと自体は、オーケストラの一部に過ぎないと言える。井上雨迩コンダクターの指揮スティックの円周上に、鶴田のドラムスティックが包括されてしまう。

 とはいっても、田淵ひさ子が鶴田を選んだのは、なかなか興味深い事実です。冷静に聴くと彼女のドラムは、それ程上手くない、というか、アヒト・アイザワ的な個性もない。ただ、アイザワ的な直線性がないため、田淵とのコンビで、彼女のギターがどのように歪んでいくのか、ということが重要になるんです。電光ギターが、そこでは雷雨になるような、そんな妄想までしてしまう。もしくは、池畑のように、しっかりと裏打ちされた技術がないので、個性すらないというのは、まさに致命的だろうけれど。

 ここから、ドラマーの三要素が明示されてしまうのが面白い。つまり、[1]技術、[2]個性、[3]ヘタウマ、という具合に(笑)。そういう意味で、この三人にはそれぞれ聴き所がある。三人とも、これとは違う曲でドラムを叩いていたら、チグハグ感は否めない。椎名林檎の耳は確かというか、きちんとそれぞれが異聞ではない、要所に分配されている。アルバムでひとつの命題であったリズムに対する挑戦は、その点で十分に果たせたとおもいます。前の二枚は、ロックビートと、簡単な打ち込み(実験的で、チープなテクノの四つ打ちビート――例・「浴室」)ぐらいなものだった。しかし今回はちがいます。エレクトリックギターの意識的な除去によって、自覚的になるリズムの多様化。「宗教」におけるロックリズムの発展形(僕が一番驚いたのは、二曲目「ドツペルゲンガー」のエレクトロニカの美しいリズムループ導入だった!)。「迷彩」のジャズに対する、林檎の回答。さらに、アイザワを使うことで、いささかか固いビートを刻み、特定のジャズを「緩さ」へと破壊する。「やつつけ仕事」のハイハットの開閉とバスドラムのみによる、チープトニカへの接近。「茎」はオーケストラの中にドラムがいる反則。「とりこし苦労」は、宅録時代に培った様々なリズムループの使用。そして「葬列」には民族的なリズムとサイケディアの達成がある。これらも全て彼女のリズム探求の結果です。

 リズムのばらつきが、散漫に映らないのは、シンメトリー構成での同パートによる演奏が奏効しているとおもいます。リズムの発展が色づけた曲のイメージは、アルバム全体をトリップワールドにし、「逆転」性、「さかしま」感へと繋がった。それにしても救いは、鶴田加奈子が参加する曲がシンメトリーしていないことかな(笑)。
 
 さて、『加爾基 精液 栗ノ花』を、個別に「音楽的」解析をすることで、僕なりに今回の書き込みを終えたい、とおもいます。阿部先生、浅井くんの意味解釈によって、定義づけられたこのアルバムを、単なる音単位で破壊する。僕の技術が及ばず、その解釈はいささか勘違い、単なる聴き取りミスも多いかもしれないが、勘弁してほしいとおもいます。自分が確信を持った事柄にしか触れません。つまり決して楽曲の全解ではない。あくまでも、私的な固執によることを否定しません。僕はギターしか演奏できないので、ピアノやシンセサイザーを何とか聴き取り、ギターで弾いて、音を分析した部分も多々あります。けれどもこのアルバムに関しては、そのようなアバウトさが、致命的な結果をもたらすかもしれない。ギター、ベース、ドラム、とあくまでもバンドメイドな音に、発言が終止することも多くなるでしょう。ひとつの挑戦です。ともあれ以下は、楽譜も起こせない音楽好きのバカ(笑)が、幾度も聴き込みをした果てのアルバムの音分析です。

 「宗教」は、琴の三連符弾きと、オルガンの同音の多重録音によって始まる。多重録音は、おそらく三回ほどのオーヴァーダビングをもってされている。そして推測するに、この辺りのアレンジは、森俊之よりも、井上雨迩の色が強いとおもいます。というのも、森はひとつの楽器による響きを大切にし、重ねによる音の不確かさを良しとしない。それは、山崎まさよしなどのアレンジによく表われています。まさよしのギターは、音を機械の技術によって、特殊な変容を果たすという録音ではなく、ギターの種類とマイクの種類を、言わばトランプの神経衰弱を逆回転にして、ひたすら可能性を試すことにより、示したものが多い。弦の種類を凝ってみたり、チューニングで面白い響きを探求したり、ギターとマイクポジションの距離の差で、違った空気を出そうとする。結果、通常の演奏法では成り立たない音階が生まれる。それは、極めてスタジオワーク的なものですが、ライブ演奏でも、ギターの変則チューニングとマイク位置の選択によって、音の情感が活かされています。そこに、山崎の技術と、森のアレンジが重なる部分があるわけです。

 脱線しましたが、森と井上のアレンジの差異はそういったところで発見される。つまり、森が「探求」による音の変容を行うのなら、井上は「偶発」的な音の誕生を、喜びにするタイプであるということです。

 さて、オープニングに戻ると、琴の三連符弾きとオーヴァーダブのオルガン、さらに、途中から入るアコースティックギターが薄いボリュームで、重ねられているのが分かる。おそらく「B7」のコードによって演奏されている。この「B7」というコードは、林檎が多く使うコードのひとつですが、一般的に転調、または変調をしたい時に使用されることが多い。単なる「B」の物悲しい響きを、7(セブンス)の柔らかな情感を取り入れることでに、ストレンジな世界に作りかえてしまう。僕がこのコードを初めて覚えるきっかけになったのは、ビートルズの初期の名曲「抱きしめたい」でした。このメロディが今でも大好きで、ついつい口笛など吹く。「抱きしめたい」を演奏するときに、必要なコードは、「D7、G、Em、C、D」。そして、「B7」。極めて3コードに近いこの曲で、「B7」を使うのは、曲の流れにアクセントを付けるのに、素晴らしい役割を果たすからです。コードは一番重要な場所で鳴らされる。サビの「I wanna hold your hand」が、「Em→B7」への移行です。ビートルズの解析をしてもしょうがないんですけど、これが「宗教」にも小技的に関連します。「B7」は最初見たときに、「B」のメジャーコードのバーコード的な押さえ方と違いすぎて絶望した。しかし、コードを図形的に観察すると、気づかされるのは、かたち的には、「E」に似ていることだ。つまり、サビを「Em→E」と展開しては生まれなかった音を、指をずらし小指をニ弦の三フラットに乗せることで、「D」的な物悲しさを付加する。この点において、「E」の変容コードという意味ではなく、「B7」とこのコードは規定されます。

 話が巨大になり過ぎたけれど、「宗教」にこのコード解析が重要なのは、不協和音のイントロ「B7」の次に鳴らされる音が、「Em」であるからです。さらに、それは、「B」(純粋な「B」ではないかもしれない)に進行する――「だれかぼくに…」の部分です。小節数は違うものの、「抱きしめたい」の逆ヴァージョンのかたちで成るこのオープング(「B7」の変調について、ビートルズソングでよく理解できるのは、ビートルズ後期、ジョージ・ハリスン作の「ヒア・カムズ・ザ・サン」です――この曲の主旋律となる「Here comes the sun」の部分。このフレーズは、二度繰り返されますが、一度目は「A」、二度目が「D」、そして「D」の後に続く「and I say」の部分に、「B7」が使われます。その後の曲は転調し、「A」を基調にした、コード展開がなされます)。そのオープニングで歌が始まった後の楽器は、エフェクトのかかったシンセサイザーと、琴のやはり「B7」コード的に弾いているとおもわれるフレーズによって構築されます。驚かされるのは、声のエフェクトのかけ方。最初これを機械、コンピューターソフト素材、マイクにエフェクターを通す録音しているのだとおもいました。けれど、耳を近づけて聴いてみると、テープの長さを弛ませて、回転速度を何百分の一単位で落とすことで発生するエフェクトであると推測したんです。そして、これも森的なアレンジの成果ではないかとおもいます。

 「湯呑勘定 蟲歯も厭はない」という語のあとは、かつての林檎の音楽を重厚化させた演奏に突入します。全てのパーツがバンドメイドに等しい演奏。「立て」「撃て」の命令言葉ともに、「スネア」が強く振り落とされる。そこで鳴らされるギターフレーズは、ハードエッジなもので、ファズやディストーションをかけられている。二弦のチョーキングを繰り返し、フレットを高くしていくことによって、音はどんどん高圧化する。演奏法自体は、レッド・ツェッペリンに都合のいい勘違い解釈をした、イージーハードロックの域を出ていないけれど、エフェクターの度合いが、攻撃性を帯びることで、そんなことは気にもならなくなる。ベースは三弦の辺りをモコモコと指弾きで、短音を奏でます。音圧の大きさが、曲に重圧を与える。ドラムはシンバルを勢いよく叩くことによって、曲の変調を促す。それ自体はロックではなく、クラシックの手法に近いとおもいます。

 「丁度良い…」からは、コントラバスの重圧感と多数の管弦楽器の応酬となる。薄くキーボードのコード奏法も重ねられてはいますが、それはあくまでも、刺し身のツマに等しい内容。これからの部分は、森俊之の一人舞台といったかたちで、ある種感動的でさえあります。その演奏は、「茎」の作成に至る過程の一部として捉えた方が良いのかもしれない。「宗教」のストリングスパートは、ティンパニで低音を支えているが、使われ方がテクノのビートのように無機質なのが特徴的なんです。

 森のパートが終わった後は、井上雨迩の世界が始まる。「季節は廻って…」以降。フルート、マンドリン、そしてドラムベース的なプログラミングドラム。小走りに動きまわるという形容がされる小さなリズムに、マンドリンがうねり、ストレンジ感はさらに増す。コード展開は、一番とまったく同じ「Em→B→G7…」という流れにも関わらず、コード進行を直接には予期しない音作りとなる。ここでの音の構築には、触れ合わない音の中で歌を唄う、ビョークが連想されます。ビョークは音から完全に孤立しているが、椎名林檎は幾分の親和性を含んでいる。交差する音の中で、太い幹のような芯をもつ、ビョークの歌とは違って、林檎は感情を無機的にすることで、そこへの同化を果たす。この短いパートで、その結合の成果はそれ程判断できませんが、次回のアルバムが、この方向を推し進める曲があることを期待したい。特に、アルバム後半の曲の出来を考えると、まったく別の方向へ林檎には進んでもらいたい。阿部先生の言う中期ジョン・レノン的とは少し違うのかもしれないけれど。

 二回目のサビ。「待て」「伏せ」の演奏は、さらにギターを歪ませ、チョーキングを速い動作でおこなっています。雨迩のベースが一度目の指弾きから、直線的なパンク奏法へ転ずる。この二点が一回目からの大きな変化です。そして、「めろ(merou)」の転調の後、「長寿の…」へも持続される。曲のクライマックス。ラストは、声の回転数、キーボードのエフェクト、シーケンサーのリズムが相混じる。エフェクトはどれも「コーラス」のような音に空間性を持たせ、圧縮から拡大するものです。音として不確かな帰結と細かいリズムによる規制が、「宗教」の独特の呼吸を生み出しています。そのブレンドは、アルバムの中でも随一実験性が高いし、計算もなされている。演奏する側にも捉えることの出来ないストレンジ感というわけではなく、プログラミングによって練られた音を出すという冷たさをも含んでいる。そこが「葬列」とは相反すると言えるでしょう。

 「ドツペルゲンガー」も始まりは、キーボードです。それがノイズという形式ではなく、細かく通る、オルガンのようなエフェクトを使っている。ニ方向からメロディが奏でられるが、「D」のコードを基調にしているとおもわれます。これをギターで奏でてみると、高音のキーボード・パートの方は、「D」の分解から始まり、一弦のニ~三フレットと二弦の低音部をさ迷う。低音部の方は、三弦の九と七フレット、そして、七~五、ニ、三フレットは辿っていくが、その基調もやはり「D」で、三弦のニフレットを主旋律に漂う。リズムのシーケンサーは、よく録音している時に、ノイズとして発生する「タタタタタ…」という音をサンプリングしているが、それはリズムの解釈をエレクトロニカ音楽のように、メロディの一部として解釈できるからです。低音のベース的リズムもメロディに――俗に「踊れないテクノ(エレクトロニカ)」と呼ばれる音楽に近い。椎名林檎の引出しの広さが見えます。クレジットにはないが、おそらく林檎によるスネアドラムの連打によって曲が始まっています。

 栗ノ花薫オーケストラによるフルートと林檎のキーボードが、敢えて曲名を出すなら、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ」を無意識に意識させる。オーケストラは時に、タンバリンやシンバルを分散させて、ある種、サプライズの要素を与えている。というのも、そうしないことには、「D→E→A」(それぞれマイナーやセブンスなどアレンジはされているだろうが…)的なコード展開は単調になりやすい。しかも、この後のサビは、ニコードの即発的な音の連弾になる。だから、このような緩急をつけているのでしょう。「Dm→A7」のような。サビのベースラインは、十六分に近いフレーズを取ることにより、音の躍動が激しい。ひとつの小節内に詰め込むベースの音数からして、やはりちょっと驚異的に上手いテクニックといえます。さらに、こもったエフェクトをしている。一見波状しているように聴えるが、それはこの曲を単なる暗さから解き放つ機能を担っています。四弦の五フレットをもとにして、そのまわりにフレットを動かすのだろうが、太いラインを鳴らすことで、サビのリズムの単調を補う。キーボードは、導入部の単弾きの部分を、コードに直して、エフェクトも変えている。「ドツペルゲンガー」は、サビが六小節で終わるのにもかかわわらず、それ以外の部分がそのニ倍の十二小節あります。だから、ちょっと尻すぼみにも聴える。けれど、そう感じさせないために、起承転結の「起」のパートを完全独立で作成しているんです。そして、最初と終わりに二回繰り返す(とは言っても、それは厳密には繰り返していません――小節数やリズムの有無があるので)。この曲を三つのパートに分けるなら、間奏を除く、一番目(「D」コードの部分)が四十八小節(最初が十六、最後が三十二)、ニ番目(歌)、三番目(サビ)の部分が、ニ十四小節になる。一番目を独立的に作ることによって、二番と三番の部分を足した小節がいっしょになる。曲の妙な整合感はそれが原因だとおもいます。ギターでやると、いかにもありきたりに聴えてしまうようなことも、最初のエレクトロニックな感じによって、空気は完全に分断される。リズムを躍動させ、その分断がブレない驚異的な曲です。

 今日は、「迷彩」の最初の「ドォ~ン」というフレーズを一生懸命練習しました(笑)。おそらくは、四弦の四フレット、そして、ニフレットを弾き、一フレットからナットの方にグリッサンドすることで、あの「グゥオ~ン」が出ます。ただベースを持ってないから、アコギでやったので、どうしてもショボクなっちゃうんですけど、決まったら、なかなか雰囲気は出ます。ただベースはウッドベースを使っているので、あの響きが出る。渡辺等というベースプレイヤーはなかなか演出が憎い。主役で登場して、最後の方まで自分がどこまでも目立っていく。亀田師匠も目立ちたがりですけど、コイツも負けていません(笑)。

 この曲はずっと反復コードでほとんど進展しないんですが、四小節の最後の「Gb7→F7」のアクセントのつけ方が、曲をリズミカルにしています。このコードは、表記は難しく見えますが、何ら難しいことはなくて、ただ同じ指の形のまま、フレットを低音にズラすだけ。これだけのアクセントで曲が跳ねる。一小節の中で、コード進行をするとこうなります。浮雲のギターはかなりディストーションで歪んでいるんですが、こもっていないので、多分トーンを高めにしているとおもう。フレージング自体はフリースタイルでも、典型的なブルーススケールを取っている。一音を伸ばすときには、「コーラス」系のエフェクトを強めにかけている気がします。ウッドベースのことは全然分からないんですけど、「どうぞさらっていて…」の後の、ベースラインはそれ程複雑ではない。浮雲の単音ギターフレーズに沿って演奏しています。アイザワのドラムは、スネアとバスドラムを叩いているだが、裏拍というか、一小節に刻むリズムが、そのごとに微妙な変え方をしているので、単なる四ビートにはなっていません。このあたりは長年の経験が物を言います。アクセントが通常の人と付ける場所が違う。「ズズン・ズン」ではなくて、「ズン・ズズン」、「ズズズ・ズン」になるような。――まあ、ニュアンスだけでも受け取ってください。

 それぞれのパートがテクニックを披露した後で、歌の部分に入ります。「逃げ延びて…」。浮雲のギターは、バーコードを高音低音にズラしていくっていう、これにディストーションをかけたら、パンクになっちゃうくらい簡単な展開。これもアクセントでジャズっぽいかなって話です。指の重ね方は同じでも、こういう演奏にするのは、独自のタッチとグルーヴがあるからで、音の伸びが違う。ウッドベースもコードに沿った帰結に落ち着く。薄く重なったもう一本のギターが、浮雲とは半音違うフレージングを取る。そこで、ヴォーカルが目立つように、演奏は裏にまわる。職人的な潔さ。アイザワもタッチを軽くして、アクセントの部分を変えている。全ての楽器が抑え目に、グルーヴ作りをしている。ここでの主役は、林檎ですから。

 サビに突入する前の「そのまま…」の手前でいったん完全な休符があり、その語と共に入ってくる最初の高音は、ホーンセッションとおもってずっと聴いていたんですが、この後の流れを考えると大きな勘違いで、浮雲のギターだった。被さるかたちで、ヴァイオリンも同じ旋律を弾いている。ギターはこのあたりでブルージーになる。ゆったりとしたスケールを取る。ヴァイオリンとドラムのスネアが、ボーカルを追いかけるという格好。サビの後半部に迫ると、ヴァイオリンが薄くフェードアウトし、ベースの音が強くなっていきます。演奏者の目線によって行われているのか、レコーディング技術でやっているのかは判断が難しいけれど、おそらく後者であるとおもいます。渡辺のベースラインはおちょくっているのか! とツッコミを入れたくなるような感じです。ずっと音階を下げたり上がったりするだけ(笑)。サビから二番へと繋がる部分もですが、所々でギターの音色そのものを変えてるところも多い。二本のギターを重ねて、音を増幅もさせたりしているもしているし、間奏部は完全にディストーションで、ベースと共闘する。ラストは、「D」コードのアルペジオを「C」的に変容させている。ファズなどで、歪めるというより、音圧をあげて単音弾きをする。演奏を冷静に聞けば、完全に林檎の統率外のものであることが分かります。浮雲という才能を、アレンジに大きく関わっている井上雨迩がまさに楽しんで使ってみたような感じ。林檎はただゲストボーカルで唄いに来ちゃったみたいな(笑)。だから、「迷彩」は一番林檎っぽくない気がします。

 今回もレディオヘッドの名前を出すのを、お許しください(笑)。「おだいじに」の基調のキーは「G」です。で、アクセントで悲しいマイナー系なコードを使うことによって、泣ける曲調にしている。「Am7」とか「Em」や「B7」を使っている。「G」によって唄い始め、「A」のコードへと移行する。基本のフレーズは、キーボードによって出来た曲だとおもいます。「G→A」という時に、彼女の中でメロディが降ってきた。もしかしたら、どちらのコードも最初はもっとマイナー調だったかもしれない。「G♯m→Abm」だとか。指の位置を若干ズラして弾いたオリジナルのコードだった可能性もある。それくらいこの曲のキーは低い。椎名林檎が、「発育ステータス」で見られるような、ピアノ発想した曲を、ベースラインに合わせ構築していくかたちを取るなら、コード感は普通一般の作曲法と亜流になる。だから、曲進行も正統であるとは言えません。

 「気持ちは晴れ…」の間で、「G」からの移行で、「A」を「Am7」に変えるという正当なマイナーコードを当てはめると、次の「…体も」のピアノの音色が半音くらい違う音になっていて、正当な「G」ではないコード感があります。「Am7」のところが、僅かに高くなって、「B7」に変わる。けれど、繊細なピアノだったらなら、別に「Am7」でも聴き分けれないくらいの音色です。林檎は微量な音の響きを図る。「まだ…」とさらに音程は下げ、「Em」か「Em7」のコード感。そして、「だ~…」と伸びるところで、「C」コードを取りますが、これも純粋な「C」ではなく、何らかの音を変えている。「自由が利く」の部分は、前の「晴れ…」とほぼ同じコード感に戻ります。「Am7」になり、ここで重要なのは、余韻のところで、「D7」コードへと帰結することにある。最初のイントロとコード感は一緒です。歌の始まる前の「タラッタン…」のところ。でも、音の数は鍵盤の弾き方がちょっと違うとはおもいます。「レ、ミ」、「レ、ラ」というのを、ピアノの符号では、「b」や「♯」などを付けておこなっているのかもしれない。

 と、まあ音階の分析はこんな感じで、「気持ちは…」の一文も「眼に映る…」の部分もコードのマイナー、セブンスの差はあるにせよ、全部同じスケールで展開しています。僕がそこで思い出したのが、レディオヘッドの「ハイ・アンド・ドライ」(『ザ・ベンズ』収録)でした。この曲も「おだいじに」と同じ、循環コードでまったくと言っていい程、かたちを変えない。ずっと、「F♯m7→Aadd7→E」の曲なんです。カヴァーしようとして、これにはちょっと驚いた経験がある。コードを変えないで、というか、作り手はそれを意識せずに、音を加えていくというか。コードの移動が、単なる空気感に過ぎないものだった。一定の呼吸の中に歌を加えていく――これが新鮮だった。ギターなどのメロディやリズムも音の意識は汲むんだけれども、そこに捕われることはないということを体現している曲だった。ロックというよりも、ミニマル系の音楽に近い作用で、それをロック音楽にトラックダウンした、そんなバンドにやられてしまった。ギターとピアノの差はあるけれど、林檎の「おだいじに」も似たようなところがあって、歌がメロディを完全には辿らないんです。メロディを唄ってしまわない。

 もうひとつ僕がレディオヘッドを意識してしまったのは、「E-bow」というギターパーツの使用に関してでした。この機材は、REMなども使っているということでしたが、レディオヘッドも「ジャスト」という曲で印象的なギターソロとしてそれを使っている。それを、高校生時代の私はそんなことを露知らず、三連符だとおもい、一生懸命早いピッキングでその揺れる音を出そうとしていた(笑)。やり過ぎで指が痙攣して、食事の席で箸を持つ手も震えていました(笑)。当時まわりにはレディオヘッドのギターに憧れている、似非ジョニー・グリーンウッドが全盛で、僕も音楽仲間の友達に負けまいとしてたわけです。いま振り返ると、「アッ! テクニックの問題じゃなかったのか…」とちょっと悲しくなりますけど。セカンドアルバム『ザ・ベンズ』を聴いてみると、他にも「E-bow」によるとおもわれる演奏がある。「ジャスト」の次の曲、「マイ・アイロン・ロング」がそうで、最後の演奏の締めに遊び程度にそれらしい。「E-bow」というエフェクターはインターネットで調べたところによると、磁気で弦を振動させるものらしく、ボトルネック奏法のように直接弦につけるものなんです。写真で見ると、その様子はあんまり格好良くない。それを知って、実際磁石をつけて演奏したら、どうなるんだ? とおもって試してみたんですけど、音は全然震えなかった(笑)。もっと強力な磁力を持ったもので、試そうと密かに誓っているんですが、まだ試みてはいません。

 以前にも触れたとおもいますが、「やつつけ仕事」のオープニングは、以前作った同作品のPVのオマケ映像の音声オケを編集して使っている。最初、バラエティ番組のSEのような音もそこから取られていますが、これは音の悪いスピーカーを通して再録音されたか、壊れた昔のラジオのスピーカーから流れたようにエフェクトをかけられている。

 曲は昔に作られたということもあって、コード進行はとても素直です。メージャーコードからほとんどアレンジをしなくても成り立つ。ヴァースは「B→G→E→C」で、サビは「B→A→G/B→D→(Em→)G」といった、典型的な四ビートがしっくりくる、快活なコード進行。ディストーションの効いたエレクトリックギターでグシャグシャに歪められていたために、判別は難かったけれど、シンセサイザーでコード弾きされると、大変アップテンポでリズミカルな曲調であったことを発見できる。森俊之のアレンジは、さらなるポップ感を根差していて、プログラミングのドラムも、生で叩いていたら、ハイハットとスネアで済むような簡素なものだし、奇妙なくらいずっと一定に刻まれている。ベースもエレクトリックベースを使っているのではなくて、シーケンサーかシンセをベースエフェクトにしている。曲は平面な動きしか見せないが、それをストリングスが演劇的な装飾音になることで、メロディに輝きを与えている。間奏部は、チェンバロ、ハープなどで、ますます曲の装飾が進むことになります。

 この曲でおもったのは、「宗教」の時にも多かった「B」というコードのことです。実際アコースティックギターで弾いてみると分かんですが、「B」は、使い方によって、二つの作用があります。激しく暴力的であり、美しく感傷的でもある側面も持つ。バーコードという側面から、エレキギターでストロークされた時の攻撃性は、何とも言えない魅力を持つ。それは、『絶頂集』の「やっつけ仕事」でも、判断できる。特に「B→A」の移行は、ドラムのシンバルのように飛躍のある音の動きがあって、ガツンと胸に来る。ところが、「B→D」になると、バラード調に聴え、耳を澄まして聴くのが、正解のようになってしまう。それを推し進めた「Bm」コードは「Em」と共に、マイナー系コードを代表するくらいに愛されて使用されています。偶然にも、「やつつけ仕事」は、「B→A」と「B→D」の使い方をされるが、ここでも「B」の特徴が明示的です。「B」は前後のコードに変容やすいということである。「毎日 襲来する…」の「B→A」の展開は、それ以前のコード「C」のために、ダイナミズムを持続するんです。

 「B→D」の場合を考えると、これは「G」のコードに挟まれ、「G→B→D」となる。このため、本来「B→D」の時に起こる感傷性の響きが薄まる。「G」を前に置くことにより、「B」に化学反応が起こるんです。「B→D」は「B→A」に近い音色を発する。つまり、このとき、「B」の後にある「D」コードが純粋な「D」コードではなく、2フレットの一~三弦を押さえる状態に似た響きになる。エレキギターのストロークではさほど違って聴えないんですが、シンセピアノなど、音の粒が重要になってくる楽器では、それが意識される。この曲はひとつの音の粒子が細かいし、それを打ち消すノイズも少ない。だから、無機的、機械的、人形的と言語化されるんでしょう。音の微分化がもっと進めば、ますます面白い音楽だったに違いない。最大の失敗は、目的を安易に練り、オーケストラアレンジをしてしまったことにある。別の音にしたら、新しい地点に音楽を置いていたかもしれない。林檎の楽曲を解体構築するなら、森俊之は、もっと可能性を試す必要があった。何ならボーカルパートごと解体して、エフェクトの実験しても良かったはず。でも、それは森的なやり方ではなくて、やっぱり、雨迩の方法論なんだろうなあ…。

 「茎」はベースラインから見ていくと大変面白い。イントロの不穏な不協和音は、シンセピアノを二台使って、別々の音色を出すことから始まる。音圧の厚いベースラインが入って、高音の弦で高音部のフレットを弾く。フリープレイにも聴えますが、なにかスケールを意識して演奏しているのかもしれない。僕にはそこまでの専門知識がないので割愛します。そこにヴァイオリンをあまり美しくない音色で入れる。高音過ぎない中間のあたりで、音を伸ばす。シンセのエフェクトでない音も聴えるが、これはエレキギターをフィードバックさせている可能性があります。しかし、可能性という点ではこれも低い。この後のパートでギターはまったく使われないからです。とすると、アレンジャーが雨迩であると想定して、これはベースのフィードバックであると仮定できます。何らかのエフェクターをかけて、雨迩は、フィードバックを起こす。よく聴くと、ギターフィードバックほど、音に切れ目が入っていない。むしろ、どっしりとした音の反響がある。このことから、ベースの四弦などの太い弦が、ピックアップと呼応した音であるという気がします。

 そして、「此の扉なら破れない…」で、ベースラインは、三弦低音部のフレット移動に留まる。単純な反復によって、人の耳にベースの音が印象的に捉えられる。実質、この八小節の中で、使われる楽器は目立つもので、ヴァイオリンとキーボードぐらい(それから、シンバルが小さく小さく刻まれているだけです)。それと、雨迩のベース。で、雨迩が三弦の進行のみを繰り返すという単純な演奏法をおこなっている。これは、キーボードのメロディがとても不確かで、あやふやなものだからなんですね。つまり、コード感が感じられない、スカスカの演奏部を、落ち着かせるというか、定着に持ちこむため、ベースが禁制をおこなっているんです。イメージの問題で、この単純な音は、サンプリングされている足音と結合し、人の心臓の心拍音にも聴くえる。徐々に高鳴っていく、血の圧縮される動きというか。それが、サビのストリングスの飛躍を高めるということになる――音の同定化で緊迫を作ったから、という理由ですけれど。サビで鳴るオーケストラパートのコントラバスは、雨迩か判断できないが、このアレンジャーは、自分の作ったパートを、他のベーシストにラインを弾かせないよなぁ(笑)。

 サビから間奏に入って、女性上位記念オーケストラの演奏が転調し、林檎の独学による琴のピッキング演奏になります。この部分は、みんな真剣に弾いているように聴えるけれど、もしかしたら、かなり遊びの要素が強い。手抜きではなく、手の込んだ遊びを真剣にやるといった(笑)、そんな空気です。「茎」に蔓延している重い演奏やそのテーマ感を、真剣に感受している聴き手が無意識に聴きとってしまう「遊び」。前後の演奏に引きずられる、一種、集団心理的に。ところが、耳をそばだてて聴くと、林檎たち作曲者は、ブラックユーモアに近い演奏をしていると想像できる。なにせ琴を無理やりピッキングしてしまうところ――さらに笑えるのは、雨迩のベースがコードを押さえて、アルペジオプレーをしている点です。これは憶測ですが、彼らが真剣に音楽の可能性を探求した結果なのかもしれないけれど、人を食った演奏法だともいえます。ライブでこのプレースタイルを見たら、失笑でしょう。

 このままの演奏で、ニ番へと突入する。サビで鶴田のドラムが入ってくる。このドラムは、ダブル・ストロークを多用して、スネアを叩いている、一聴すると簡素で単純なスタイル。けれど、打つ回数は小節ごとに、微妙に変化して、バスドラムを入れてたりする。なんとか聴き取ろうとすると、なかなか味のある演奏にも聴えてくる。普通のバンド演奏経験者では、こんな細分したアレンジはできません。雨迩のベースは、ほとんど自由にフレージングして、音階的に正しいのかは判断不能です。ホントに好き勝手やね、この人(笑)。アレンジャーの特権かもしれません。格好良ければ、誰も文句は言えない。音階がどうのこうのではなくて、曲を耳障りの良いものにすればいいんです。

 三回目のサビの部分では、ドラムが16ビートになると、ベースラインもそれに合わせて変化します。三弦三フレットを小節の半分弾いて、それを一音下げるロックっぽいベースライン。これも曲のコード感とは無関係なんです。さらには、メロディをも超越しています。まあ、メロディは他の弦楽器で補足していますから、それでいいんでしょう。何にせよ、アレンジャーというのは、ちょっとした大胆さと図太い無神経さが必要なのかな…。ひとつ、勉強になりました(笑)。

 さて、いよいよ。「とりこし苦労」。山の七合目、後半に入ったというところでしょう。そんな気分に照らすと、この曲は力が抜けて、良い感じですね。「茎」という霧の中から、ちょっと休憩所で、水筒を飲みながら、一休みするような(笑)。

 曲の始まりは、エレクトリック・パーカッションによる、「カチカチカチ…」というリズム。あるいは、メトロノームをかなり早いテンポにして、針のブレを録音している。そのまま、口でのリズムがディゾルブ的に入り組んでくる。この音は、「ソ・ソ・ド」。「G」を基調にした曲調であると、ここで分かります。トランペットが「ソ・ソ・ド」を空吹きで奏でる。耳を凝らすと、エレクトロ・パーカッションのビートが、結構歪んでいる。裏打ちというか、半音を下げたりして、コード感をマイナーにしていく。

 「お願い…」以降の、サビの高まりを見せる部分では、生ピアノがコード(「D→E#」系)を連弾し、生ドラムが、両手・両足で、スネア・シンバル・バスドラムを連打する。エレキベースは、一番太い四弦の低音部を打ち鳴らす。このようなピアノ-ベース-ドラムによる、連続の同音的打ち込みは、ハードロックバンドとか、スタジアム系のビッグバンドがよくやる手なんですが、ここでそうは聴えない。むしろ、宅録風味という感じだから、バンドメイドの滑稽感が薄味になる。唐突感がよく、この音の展開は、初聴の時には驚きと感じられるんじゃないでしょうか。

 サビの後の間奏は主に、プログラミングによる変則的なリズム・ループと、シンセベースによって構成されます。シンセベースはウッドベース的なエフェクトをかけていて、それは「迷彩」に対するオマージュとも言えるけれど、ここでは徹底的にチープに根差された自作感があります。

 歌に突入した後は、この間奏部をバックトラックに、順々に様々な楽器が、舞台に上がっては消え、入れ代わり立ち代わりの展開になる。順に挙げていくと、「ええいままよ」の後に"ピアニカ"、「髪 伸びにけり」の後に"琴"、「あんた故の」で"カリンバ"、「乙女心さ」の次は"リコーダー"(「乙女心」の楽器が"リコーダー"というのは、イノセントでもあるし、どこか隠微な余情を煽る)、「如何でも宜し」の後には"エレキギター"(しかも、ここで面白いのは、おそらく「アンプラグド」で直接生弦の音を、マイクに向かって演奏しているということ)、「詰まる処は」、「あんたの眼で」では、もう一度" 琴"と"カリンバ"、「奪われたのさ」は"口笛"で、もう一度、口でのリズムが重なったサビへと接続します。

 この曲で、最も面白いのは、この転調の部分なんです。「どんな科白の効力に…」のフレーズ。「b(フラット)」を意識させるコードで、「D→A→E→Em?→D(G)→A→Bm」みたいなコードへ突入する。このコード感で思い出したのが、ビートルズのサイケデリックな曲調なんです。アコーディオンの摩訶不思議なフレーズがその感を強めている。僕が一番最初に閃いたのが、『サージェント・ペパーズ』の最終曲、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の後半部のオーケストラがカオス化するところでした。ポール・マッカートニーのパートから、ジョン・レノンの「I read the news today oh boy」へと連結する部分です。その連結部分は、ずっとコーラスが「Ah―」と叫び続けるところに、ジョージ・マーティンの巧みな編集によって、オーケストラの編成が組み込まれます。初期のバッキングコーラスの「yeah yeah」とは明らかに異なる。ビーチ・ボーイズのコーラスをサイケ化したといったら、判りやすいかもしれない。で、肝心のこのパートのコードは、「C→G→D→A→E/C→G→D→A→E→D→C→D」。無限連鎖的、螺旋階段のコード循環です。この展開の、後ろの十六小節の展開、「D→A→E」から「D」へと移る部位が、「とりこし苦労」の転調部のコードととても近い。けれど、この場合は、簡単に「D」へと帰結してしまうので、曲は螺旋を描く前に、マイナー調へと変容してしまう。だから、僕の希望としては、このフレーズをもっと練った上で、「とりこし苦労」とは違う曲で、究極のサイケソングを林檎が完成して欲しかったな、と心残りなんです。

 「おこのみで」は、印象深いピアノのパートで始まりますが、まあ、曲のほとんどのパートに、このピアノが鳴っています。そのブリペアド・ピアノは、かなり金属的になるように、調律されている。エレキギターは、特にフェンダーのストロークに近い響きを感じる。最初の雨迩のベースは、ハンマリングやプリングなどで、半音を浮かしたり、刈り取る。韻を踏む部分では、もうひとつの生ピアノが重ねられる。プリペアド・ピアノは、「Gm→D7」のコードを奏で続け、それはメロディやコード感が変わっても同じです。そこで、もうひとつのピアノが、要所でコード奏法に準じている。その巧みさは後半に連れて分かることだとおもいますが、井上雨迩の叩くドラムが、シンバル、バスドラム、スネアを叩き、フットに付けられているハイハットを隙間に刻むことで入ってくる。

 「其処で 鳥渡だけ…」の部分で、ベースは高音部をグリッサンド、スライドやハンブリングでさ迷い、低音部できっちり腰を据えた演奏で、安定感を促す。スライドも非常に早いスピードで散らして、フレットの移動も丁寧で細かい。後に録音されたとおもわれる、雨迩のドラムも一小節ごとに、ループが違う。基盤となるのは、スネアとバスドラムなんですけど、このクラッシュのタイミングが、小節単位で分散させているため、大変フリーフォームなドラミングをしている。そこに、フットハイハットをコンマの単位で被せてくる。

 サビに入る。「ああ―」の部分は、何らかの高いコードで、一端の楽器の休符を作ってからの入りです。特徴的なのは、目立たないが、甘く奏でられるピアノの三連符と、水江洋館のトランペットを始めとする、ヴィオラ・チェロの林檎によるアレンジ。「茎」などで試されている、このオーケストラに対する、林檎の拘りは、モーツァルトを起源とし、今後の開花が最も待望されるものではないでしょうか。ここでは、まだ味付けの供え物に過ぎない導入ですが。大田有美さん(何者? プロのナレーターか何かだろうか)のアナウンスが入る。この意図を、雨迩の立場で考えるなら、この間奏部に、自分のベースソロを入れるだけでは、余りにもおこがましいから、といったところでしょうか。雨迩のベースラインは今度、一、ニ弦でフレージングし、小さなスライドを取り入れたり、指の形をバーコードして、同時に二つの弦をハンマリングさせたり、三連符を刻んだりと、芸が達者です。

 少し割愛します。「お好きな様に…」の後の演奏部は聴き応えがある。チェロとヴァイオリンが交差し、リズム隊は三連符の嵐へと雪崩れ込む。ドラムは、スネア、ハイハットや、スモール・タムとミドル・タムを三連符させ、そこにバス・ドラムを上手く乗せる。ベースも、ひたすら三連符を刻み、半ば強迫観念的な執拗に駆られています。そのジャム方法は、技術と熱気が籠っている。特に隙間を空けることすら拒絶するベースに、バスドラムがすっと落とされる冷静さは、怖いくらいです。井上雨迩の暴走と冷静さの両立が垣間見られる。まったく、ソロミュージシャンでやれよって(笑)。ここまで、あらゆる楽器に精通しているのは、本当はかなり有名なミュージシャンじゃないのか、と疑ってしまう(「おだいじに」でのギタープレイも凄かった)。自分の演奏を、雨迩が編集している姿を想像すると、かなり満足しているのだろうなー。

 短波ラジオのノイズとテープで撮った人の声を、回転速度を変えミキシングした混在ノイズで、「意識」は始まります。それが一様に響き渡ったところで、太いベースの低音が打ち込まれ、全ての音がドラックダウンする。主のパートなる楽器は、浮雲のエレクトリックギター(フェンダー社のテレキャスター)、渡辺等のベース、イナザワのドラム、ということですが、徐々に目立ってくるのは、高桑英世の篠笛です。サビの部分では、メロディ部分における浮雲のギターの主役を奪い取りさえします。

 やはり、「おこのみで」を聴いた後では、渡辺のベースは、やや存在感の薄さを意識せずにはいられない。トーンを上げることによって、低音部が薄くなっていて、フレージングの組み立ても、雨迩のそれと比べると魅力がない。「迷彩」のウッドベースの音色に比べて、エレクトリックな機材では低音が響かないから、そのグルーヴを出すためには、もっとフレーズを組み立てる必要があった、とおもいます。リズムという意味では、アイザワのドラムも今ひとつの迫力に欠ける。ヴァース部では、ハイハットを薄く刻みながら、バス・ドラムを申し訳程度に小出しするだけで、サビに入っても、16ビートの空打ちをして、これはわざとなんだろうけど、この曲に適合しているかというと、ちょっとため息が出る。全てにおける「薄味」感は、浮雲のギターにまで及んでいて、隠し味的なプレーをずっとおこなっているんですね。例えば、単音弾きの後で、「A」コードのかたちで、それを高音のフレットで展開するとか。そのような演奏でも、浮雲の熟練が鳴らす音は味があるけれど、ただそれだけとも言えます。突き抜けるものが全てにおいて足りない。

 と、批判的な見方をしてきたけれど、これをまったく裏返して聴くこともできます。全てが意図的であると鑑賞角度を変えることができるんです。その方向に導いたのが、高桑の"篠笛"の存在です。音色は、か細いのですが、全ての楽器へと影響を与える作用を持っている。直陸不可の音の伸びは、リズムに対しての不安を与える。この曲のコード展開は複雑で、解読は難しいのですが、それをもたらす原因もここにあるとおもうんです。全ての楽器が独立しているというか、全て一方通行のディスコミュニティを築いている。篠笛とギターのメロディは噛み合うことはなく、その作用が、リズムに関しても同時起因していて、ベースは比較的正当なループを辿るんだけど、ドラムは半拍か一拍遅れて聴える。ヴァースの時点で、それはまだ過程に過ぎない、どっちつかずの状態なんですけど、サビにいくと、まずドラムが演奏の主体から徐々にずれてくる。ベースがラインをコード感に求めなかったら、この曲は本当の意味で破綻します。

 だから、この曲は躍動がない代わりに、「緊迫」を用いている――実はそう想定すると大変に驚かされるんです。どこかで、演奏者は精神をやられてしまうのではないか。そんな瞬間を待つことに、演奏は、聴き手を追いこんでいくわけです。同時に演奏者もその不安状態を楽しみさえする。そうなると、とても恐ろしい曲であることに気づきます。まさしく、「迷彩」のシンメトリーにあって、それと演奏する側が目指した場所と方法論は、まったくの真逆、別のところにある。だから、この曲はジャズっぽいけど、方法論自体は、ニューウェイヴをさらに解体に推し進めたノー・ウェーヴに近い。演奏は音楽を構築することになく、音楽を聴くということは、複合する音を聴かないことだ――というような音楽に対する姿勢です。

 「ポルターガイスト」の構成は、森俊之による美しいアレンジによって、ほとんどなされている。栗ノ花薫オーケストラによる、アルバムのラストシーン。これを『サージェント・ペパー』的に考えるなら、次の「葬列」はアンコールということになる(以前、浅井くんが、「レクイエム」と言ってたような気がする)。事実、余韻を残すこの曲は、アルバムの終末に等しいオーケストラによって、壮大に装飾されます。森のオーケストラアレンジと林檎のそれは明らかに異なっていて、林檎が曲にさらなる攻撃性を与えるものだとすれば、森のものは、曲の美意識に根差したものだとも言える。となると、デモやオケ段階の原曲の雰囲気を忠実に昇華していきたいとする、林檎の狙いとも合致していて、この曲はそのひとつの達成ではないか。

 曲は、聞きなれた踏み切りの遮断機の音、「シ・シ・シ・シ…」の反復音で始まる。電車の車輪と線路が重なり、それが遮断機の前を通りすぎると、「シ」の警告音はさらに高まる。そこで、メトロノームが「カチカチ」と一小節に六回刻まれる単位で入ってくる。これが、曲の主律となるリズムです。同時に、オルガンが三個くらい重ねられる。「F」や「B」を意識した押さえ方で。さらに、キーボードが生ピアノに近いかたちで薄く録音されていて、ベースラインの部分を弾く。ボーカルのパートになると、オルガンは休符し、二つのキーボードによる伴奏でメロは展開する。キーボードはメジャーコードでなく、マイナー系のコードによって構成されて、「#」や「b」を一音かニ音重ねている。それは、「ドミソ」から「レミファ」のように、あくまで和音に近い。二番目のヴァース「斯くて、麗しき君の…」の部分からは、またオルガンによるパートが参加して、「ソ・ソ・ファ・ソ・ファ・ソ・ソ」といった風に弾く。「…ことに気づき始めました…」の後は、オーケストラレーションに主律をバトンタッチして、フルートやチェロが美しいコラージュをする。雨迩とおもわれるコントラバスも単純な弾き方ながら、ポップな色調を出し、バランスを取る。曲が二番になると、キーボードやオルガンは一旦影を潜めて、フルートなどの管弦楽器が美しい。「君を笑はす為に…」のところでは、しばらく休符したリズムパートに、シーケンサーによる低いデジタルビートが加わる。栗ノ花薫オーケストラと混合して、この部分では奇妙な調和が図られるんです。その後の間奏部では、先ほどのオルガンの「ソ・ソ・ファ・ソ・ファ・ソ・ソ」と、キーボードのよる「F」「B」コードによって、もう一度、メロディは、テーマへと帰ってくる。その中でも、キーボードコラージュは、お互いの音を殺し合わない。このような細かい枠組みに、森俊之の指導が活かされているのが、よく分かります。そのまま、曲はサビへと雪崩れ込み、ストリングの絡みになって終わる。帰結させる際に、もう四小節分演奏を増やした方がいいとおもいましたが、これは好みの問題でしょう。

 いよいよ、長かった、『加爾基 精液 栗ノ花』の漂流生活もここで終わります。「葬列」の後には、アルバムをもう一度振り返ることなどはよして、スパッと終結した方がいいでしょう。ラストの演奏中断にオマージュを捧げて。

 イントロになっているのは、ニ本のシタールとパイプオルガン、コードは「Bm7」的マイナーコード。シタールは、「レ」~「ソ」の音を循環します。パイプオルガンはコードを色調にした、イマジネーションに溢れたプレイをしている。シーケンサーにプログラミングされた民族楽器のパーカッションを取り込んで、ミドルのタムドラムや、スモールタムやバスドラムを叩いている。このことから西洋のクラシック音階を逸脱した複合がなされると感じますが、まだあくまでも、西洋が民族性を取り入れた次元の演奏に留まる。それを証明するのがパイプオルガンのコードで、このマイナーの調は、リズミカルな民族楽器と調和をし難い。そのため、ここでのサイケデリック感は、バットトリップをしてしまった時のような、冷たいサイケ感を伴うんです。

 歌も基調はあくまでも「Bm7」からのコード進行で、「Fm」や「E(Em)」などの暗いコードを使っています。興味深いのは、小節が進み、サビの方に近づくに連れて、雨迩のシタールが高音部の「ラ」を何度も取り入れて、耳に響いてくるところ。パーカッションと呼応して、演奏の高まりはヴォルテージを上げていく。歌が終わった間奏部では、シタールがハンマリングやスライドをしていて、これはヴァイオリンの奏法に近い指の動きをしている。シタールの演奏風景は見たことがないけど、雨迩は忠実な奏法をしていないと想像してしまう。パイプオルガンがフェードインしてきて、「ファ~・ミ・ファ・ミ・ミ・レ・ド・ファ・ミ・ファ」と「B」コードを巡回する。

 二度目の「僕は、両の肢から…」のところで、琴が生田流(?)に演奏される、これはアコギのアルペジオよりも和音の強調を図ったのでしょうか。ベースがここでインしてきて、フレットの中間を三連符気味に弾く。プログラミングのシーケンサーが、電子的なベース音を弾いて、徐々にボリュームアップする。回転数もミキサーの方(森俊之)が上げていて、生のドラムでスネアとハイハットも加わっきます。「酸素を吸ひ切って…」からのベースは、高い弦の方に移行して、ハンマリングなどを駆使して、音に伸びをつけていく。この辺りから、百々和宏のエレクトリックギターも低音部を、追走し始める。そうなると、生ドラムのスネアとハイハットを、16ビートにしていく。このフェードイン、フェードアウトによって、演奏はバンドメイドの感を帯びてくる。サイケ感はここで有機性へと喚起する。「あ― あ―」と林檎の声が喉を鳴らすと、百々和宏はディストーションをかけて、バーコードを連弾する。この転調では、生オルガンが、低音の「ラ・ファ・ラ~・レ・ファ」を弾き、そこから、高音部から低音へ「シ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・シ・ファ」へと下っていく。このスケール感が演奏と独立する。そのことで、ハードエッジな演奏の中にも、サイケ感が生まれている。「ひとりぼっちだから…」以降の演奏を畳み掛けるところは、電気ベースにエフェクトをかけて音を太くして、ドラムによるハイハットとシンバルのクラッシュを大きめにミキシングしていることによります。

 「さては…」から、バッキングコーラスをオーヴァーダビングし、タムを強調したリズムリープを展開します。そして、「何の『建設も…』」で登場するパイプオルガンは、何度かのオーヴァーダビングを重ねることで、迫力を出しています。ここのあたりで、怒涛のラストへ突入する。百々のギターはずっと五・六弦をバーコードで掻き鳴らし、雨迩のベースはアンプに近づきながら演奏することで、フィードバックを起こす。池畑潤二のドラムは、ハイハットを叩く数がどんどん増える。ミキシングルームで卓を弄っている森俊之の手によってボリュームアップがなされる。各楽器のバランスが乱れていき、音圧の中に林檎も包まれる。次第に、エレクトリックギターもアンプに近づいて、エフェクトの深さを上げて、コーラスのかかった高音が人差し指にチョーキングされ、音速にグリッサンドされる。ドラマーの手の動きがピッチアップして、スネアの膜が悲鳴を上げる。森の指が、ミュートボタンを押す。静寂。



◆ 僕が総括を行なうに当たって、インスピレーションを多分に受けたのは、二人のしっかりと理論に裏打ちされた賢明な追求でした。しかし、同時に、この事態に僕は内部で危惧を起こし、自身の総括を行なう術を破壊することにもなりました。アルバムの意味定義は存分に行なわれ、しゃぶり尽くされ、骨だけになって見えました。何がまだ語られていないか。それだけを時間をかけ、穴を掘って探していたとおもいます。そして、ようやく僕の目に映ったのは、阿部先生の総括の中に明示された、井上雨迩への追求でした。最初、僕はアルバム全体に漂う、オーバープロデュースの趣に些か閉口し、批判的でした。けれど、ここで、まだ細部の分析には至っていなかった、楽器の音楽的な段階へと話を進めることの決心をしました。楽器の役割、為す達成について。その理由は、井上雨迩の「脱」演奏構成の可能性に耳を傾けると、アルバムへの理解が以前とかなり異なったことによります。アレンジを、音の連想を、組み立て、その経緯に対する思考を実際に頭の中で夢想実演することで、音の接合に迫ることにしました。

 音楽を音へと分離分解し、意図とダイナミズムを予想し、もう一度ひとつに委ねることで、音の作りの雰囲気を体現できたとおもいます。それは、アルバムのテーマ、精神的母子相姦のイメージを、エレクトリックギターではなくピアノという楽器で、林檎が音を塗り固めた理由からも生じています。方法論によって、音の重なりによって、アルバムを体験することで、最終的にこの作品は作られているものではなく、演奏されているのだという結論に至りました。打ち込み的だという単純な束縛から逃れていく、歌唱とストロークとラインとリズムは、有機的でその複合性は、滲み出した不安があった。この不安感を演出するための計算を、僕は逆算することから、それを生み出す源流に迫ることができた。それが新たな達成であったと信じています。阿部先生、浅井くん、大変お疲れ様でした。このような形で、解析を試みたことは、有意義な挑戦でした。莫大な月日と時間を費やしたのみでない。私たちの複合による昇華を見ることができるとおもいます。

(内海)



★ ということで、内海君が半ば強引にフィニッシュをキメてくれたので、一種の不思議感のうちにこのメール座談会を終えたいとおもいます。実際、この「パート4」は、終結部に入っての個々人の長大総括が単純に浅井-阿部-内海、と、連続されてゆく前代未聞、異様な展開で(こんな座談会記事、あったら教えてほしい)、ここまでつきあってこられた読者には、実はフィニッシュ感覚すらないのかもしれない。とくに「ギタリスト」内海君の、ラストの莫大な書き込みに散見される楽理性は、もうフォーキー/ブルージーな趣味ギター弾きの僕の理解の域をまったく超える幻惑性に富んでいました。これは無批判にサイトアップしてもらうしかないとおもいます。とくに「絶対音感」のない僕は、コード進展ではなくコード単独がある意味や感情を導くという点が理解できないのです。

 最後に、あらずもがなの感想を蛇足すると、林檎の今度の『加爾基 精液 栗ノ花』の個々の曲解析は、僕にとっては露伴の芭蕉七部集の注記と似たような感触がありました。ところが、もう一方では、座談会=「座」が進行されていて、ここでは僕は次第に現実的連句における芭蕉的な宗匠の役割を担っているという錯覚が生じました。この錯覚がとてもおもしろかったです。

 で、内海君の発言中、アルバムタイトル『加爾基 精液 栗ノ花』の解釈があったんだけど、これに言及するのを僕が忘れていた点を憶いだしました。このタイトル、実は僕はいまだに買わない。「カルキ」がプールに入れる消毒剤だとすると、精液も殺菌されるんでしょう。しかし精液は、殺菌されても、いまだに栗ノ花の匂いを保っている――タイトルはそんな「残花余韻」の状態を、すこぶるエキセントリックな語彙でしめしたものだと僕はおもっています。ただ、それをいうなら、タイトルはそのまま「残花余韻」であっていい。ここで「精液」の語句が導入されたことが不満なんです。むろんそれはこのアルバムのトータルの主題が「母性」あるいは「母子相姦」にかかわるからで、タイトルはその主題と化合し、むしろ主題の普遍性を猟奇性へと貶めてしまう危険をやはり演出するのではないか。不用意だし、語感が悪い。併記の機微も感じられない。それにこのタイトルをキーボードで打つとき、実際の操作が煩雑で、反感を極めた面もありました。――言及し忘れていたアルバムタイトルの所感については、大体以上のようなところです。

 しっかし、内海君、僕の「茎」解釈を完全に無視したなー。むしろ小気味いいくらいだった。

 浅井君も「座談会を終えて」感想がありましたら、いまの僕程度の字数で、書き込みをどうぞ。

(阿部)



● 阿部先生、内海君、お忙しい中、長期に渡り大変ご苦労様でした。座談会開始の合図が五月十日です。それから三ヶ月あまりの意見交換をしました。パート1~4までで、読み返してみると、これも、一種の永遠の循環を示すような形に偶然なっているなとおもいました。先生は芭蕉のことを言われたので、僕は西洋に行き、ソクラテスの対話編を思い出します。ソクラテスは、もちろん林檎です(笑い)。それにつけても、いろいろ議論し、その追いかけようも無い永遠の理想像を思い浮べておりました。また、パート4は、それまでのパート1~3のエネルギーを起爆剤にして、一気に新譜の林檎の像に近づいたようにおもいます。また、現在の林檎は髪の毛を金色にして、フランス語で歌っているようですが、彼女は、今後も変化をしつづけ、その課程で斬新な発見をしていくのでしょう。

 それから、阿部先生が冒頭の「解題」に予想されたとおり、この座談会は、Jポップ批評の枠組みを超えてしまったものだとおもっています。つまり座談会の前提ともなっていた、ユリイカのJポップ批評のことを含めてです。日本の詩ということでは、やはり、Jポップ詩というものは外せないものだとおもいます。純文学的とか、そういう枠組みさえ超えて、これからもっと精密に批評されていく媒体でしょう。

 そして最後に、いろいろ、この座談会を影で支えてくださったサイトの管理者大月さんの功績も大きいとおもいます。このサイトでの、様々なコラボレーションや、投稿者の意欲的作品の掲載を支えるというのは、かなり大変な作業だとおもいます。どうもありがとうございました。

 それでは、皆様。それぞれのご活躍とご健康を祈りつつ、この感想を締めさせていただきます。

(浅井)


*椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』をめぐって Part 1 >>
*椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』をめぐって Part 2 >>
*椎名林檎『加爾基 精液 栗ノ花』をめぐって Part 3 >>

●同じカテゴリー「コラボレーション」: リンク一覧

up